第94話 蜻蛉返り
「あいかわらず橋だけは立派よのー」
八角国と河晏国の境となっている大橋を渡り終え、使者の男は言った。彼は西漣こと漣国から、河晏、汐径に酉国の八角への侵攻を伝え、八角領土奪還のための出兵を促す檄文を届けることが任務である。
「それに比べて、市中の惨めなことよー」
使者は、あきれの音で評した。
河晏国の建築物は、おしなべて簡素である。
それには古来、洪水の被害に苦しんできた土地であったため、という理由がある。川が氾濫すれば、どんな豪邸もたちまちに駄目になってしまうからだ。
治水と都市整備が発展した今日に於いては、街中が水没することは殆どなくなった。さりとて、河晏の人々に刻み込まれた水害への受容的対処は消えることなく、建物は『壊れてもよい』という価値観が形成されていた。
一方、橋に関しては、これも古くから流されてきた歴史があるが、こちらは建物とは逆に、壊れないよう予防的対処が試みられてきた。橋がなくなるのは、道がなくなるのと同義で、災害後の復旧もままならなくなるからだ。
これは結果的に金属加工などの技術向上につながり、河晏国の工業の発展に寄与した。
畢竟、堅牢な橋梁を前にすると、河晏の建築は簡素を超え、貧相すら思える不思議なコントラストを生み出していた。
使者の男は官庁に到着したが。
──やはり、つまらぬ箱よ。
流石に声に出すことは憚ったが、大きな平屋にしか見えぬ庁舎のつくりに、表情は軽んじを雄弁に語っていた。
檄文を携えた使者ならば、議会の場にて、弁を以て主張することになるだろう。
さはさりながら、事前に発言の趣旨は、関係官吏に伝えておかねばならん。また、議場での段取り等、細細した確認などもある。
担当官を前にした使者は、酉国の八角侵攻について語り出した。
彼は語り始めたとき。
──さぞ、驚くだろうよ。
という期待を持っていたが、どうにも担当官のリアクションが薄く、男は何とも言えないもどかしさのようなもの感じた。
──ならば、これでどうよ。
使者の声にはいっそう力が入り、身振り手振りを駆使して、八角の惨状と酉の非道を訴えた。
しかるに反応は弱く。
──何だ、こいつらは? 焚琴煮鶴の徒か?
窮状の説明にも眉一つ動かさぬ担当官に、簡素な建築物の印象も相俟って、情緒、風情を解せぬ、心なき人形を相手にしているような気分になった。
使者の困惑が、担当官にも伝わったのだろう。
「すみません。誤解をさせてしまったようです──。お話は、確と聞かせていただきました。実は酉国の侵攻については、こちらにも情報が入っていたので、既知のそれと違いがないかの確認に集中していた次第です」
無反応は、冷たくあしらった訳ではないとして、内情を説明した。
「そ、そうでしたか──」
男は、心中を見透かされた焦りと共に。
──まぁ、隣国の話であるからの。
噂ぐらい伝え聞くこともあるだろうと、一定の納得を持った。
「酉と八角に関する話は、こちらの認識と同じかと思います。ですので議場に於いては、その辺りは存知の事として話をしてもらえればと思います」
「なるほど──。よくわかりました」
──それなら話が早くて助かることよ。
使者は、早早と檄文を読み上げる展開を頭に思い描いた。
「ほぉ──。果たして西漣も動きが早い」
西漣からの使者が議場にて話をすると聞いて、姜彧はそのように評した。
汐径国は酉国の八角侵攻を『団匪による蛮行』と定めた。そしてその前提に基づき、海路酉国へ外交特使を送った。
その内容は──。
『八角に侵攻している全軍を賊と定めて、一切の関係を断て』
というもので、それこそが酉国が生き残る唯一の方法であると明言した。言い換えれば『同胞を切り捨てろ』という指図めいた警告を行ったのだ。
同時に、隣国、河晏との情報共有と、予測される西漣主導の奪還、討伐作戦への参加の準備が着々となされた。
姜彧は汐径軍を代表して、河晏との様々な摺り合わせをするため来ていたが、急遽、議会にオブザーバーとして参加してほしいと言われた。
基本的には傍聴するだけだが、議員が何か意見を求めるかも知れず、そのときは参考人として応えるといった話であった。
姜彧としても一向に構わないことであったため、これを了承した。
「──しかるに、河晏国には千軍を以て、八角奪還に参加いただきたい!」
漣国からの使者の男は、檄文を読み上げ、最後にこう言い放った。
一応の役目を終えた男だったが。
──これは河晏の性情なのか?
議員たちの表情や仕草は男にとって歯応えがなく、官吏たちのそれとあわせて、河晏人特有の気質ではないかと考えた。
「さて──。我々としても八角を助けるに吝かでないのは、先日も話し合ったことである。漣国の呼びかけに参加することは、基本的に問題ないと思うが如何か?」
壇上に立った役職議員が皆に語りかける。
一同はめいめいに頷きを見せた。
──これはすんなりよ。
使者は思いのほか早い結論に、やや驚いた。
この手の案件は答えが見えていても、それなりに侃侃諤諤のやり取りが発生するものであったから、意外な展開ともいえた。
しかしながら、使者にとってより慮外な方向へ話は進んだ。
「ここで、汐径から来られている姜彧中佐に、あらためて状況説明をいただきたいと思うがどうであろう。漣国とも共有しておく必要があるとも考えるが」
斯様な意見が出て、壇上には汐径の軍人が立った。
「まず、酉、八角の状況は漣国の使者殿の通りである。そして汐径としても八角奪還に向けて千五百の軍の調整に入っている。その上で申し上げることは、汐径としては今現在八角を侵攻している軍は、匪賊の集団、団匪であると定めているという事だ」
──なんだと!?
姜彧という軍人の言葉に、使者の男は困惑した。
河晏ばかりでなく、汐径も、酉と八角の事を把握していた。更に、既に軍の準備もしているという。ここまでで、もう一驚であるが、酉国の軍勢を賊と位置付けるという話は、男の理解の範囲を超えていた。
姜彧は続ける。
「言わずもがな、これは建て前、名分、物語の類いである。漣を盟主として酉国軍と戦えば、おそらく勝利することになるであろう。さりとて、その後に来るのは八角の報復か、そこまでゆかずとも、経済封鎖のような形を酉に対して敷くことになるはずだ。それは即ち、酉国の死を意味する。そうなれば、最早作り話では済まされぬ。本物の匪賊、団匪の土壌を育てることになりかねない」
ここで姜彧はトーンを変えて。
「河晏にも聞こえているだろうか? 汐径には軍神と呼ばれる魔女がいる。百手を見通すと謂われる知謀は、先の梟国、董公の乱をも鎮めた。私たちが酉の事を知ったのは、彼女が独自に持つ伝手より情報を得たからだ」
と語り、一拍開けて。
「この度、魔女は百里先の景色を睨んで言った『膿を出す』と──。酉国に巣くう怨嗟に侵された狂痴の徒、彼らを滅することで酉の地に正常を取り戻すという事である。その為に汐径は、酉国に対して特使を送った。酉に、侵攻軍を賊として切り捨てよと呼びかけた。私が出た時には、まだ返答がなかったが、一致百慮、この提案に乗るしかないと見ている。無論、酉国に理知が残されていればの話だが・・」
淡々と言葉にした。
使者は衝撃を受けた。
──敵を退けた後の算段まで考えているのか!
いや、どちらかと言えば、戦後から溯って逆説的に手立てを組んだといえよう。
「い、如何にして!?」
男は思わず問うていた。
「特使の事であるかな? 酉国出身の船便を商った者がいて、その者の兄弟が酉にて官吏をしている。今回は、このコネを利用し、酉国の中枢に接触を図った」
「そ、そのような事が──」
「余談であるが──。この商賈の協力は、魔女が梟の豪商との取引の斡旋をすることで取り付けた。汐径は、東は梟から西は貴国、漣。そして酉までも経済の流れとして視野に入れている。これもその一端かも知れぬ。尤も、軍人の領分ではないので粗雑なことしかわからぬが・・」
姜彧は、もう語ることもなくなったのか。
「私からは以上だ」
と、言った。
ここまで来ると驚駭を禁じ得ない。
──これが成れば、汐径は一躍盟主ではあるまいか?
天下に号令するは、世界に冠たる大国漣の役目であったはず。しかし、このままでは汐径が経済と、その舵取りで覇を唱えることになりかねない。
──これは忌忌しき問題よ。
使者の男はそう判断した。
使者は河晏のあと汐径に向かう予定であったが、檄文を姜彧中佐に委ね、自身は急ぎ帰国することに決めた。




