第55話 逃奔
「董本様。もう間もなく国境です」
老人の言葉に、少年は反応を示さない。いや──、応じる余裕がないのだ。山道、それも人が踏み固めたものでなく、獣のそれを歩いているからだ。
「辛国に入ったら、一旦休憩しましょうぞ」
返答がなくとも老人は言葉を掛ける。少しでも励まさんとしているのだろう。
「百栽殿。国境など地図上の線に過ぎません。それで追っ手が足を止めるとお思いか?」
二人を先導する女が言う。
「追っ手が足を止めずとも、こちらの足が止まれば同じことではないか。休憩は必要だ」
「既に幾分か楽になっているでしょう。身を隠せる場所までは移動するべきです」
百栽の言葉にも女は折れない。
ここで少年が。
「高勉、すまない。私も休みたい・・」
口を開いた。
これに高勉は。
「仕方ありません。ですが、場所は私が決めさせていただきます」
「それでいい・・」
少年は弱く言った。
三人は梟国の西の山中から、辛国の東へ抜けようとしている。
彼らは、お尋ね者ではあるが、犯罪者ではない。むしろ追っ手の方が、三人からしたら罪業の徒と言えた。
梟国では政変が起きた。言い換えれば乱。所謂、クーデターである。
が──、すぐにそれは鎮圧された。
しかしながら、梟国の王を始めとする王族たちは殺された後だった。
当然、後継はどうするのかという話になるが、ごく自然な流れで、この乱を鎮めた中心人物である董彬公爵を多くの者が推挙した。
理由は、かの家が二代前の王から新たに作られた、王族に極めて近い血族であること。乱に対して、地方の軍営を中心に有志を募り、素早く討伐軍を組織した手腕があること。そしてなにより、政変を為した者たちを打ち倒したこと、である。
董彬自身も玉座に座る決意を表明したことで、彼を後継とする形で話が進んだ。クーデターにより瞬間的混乱はあったが、梟国は新たな王を迎えて収束する──、かに思えた。
ところが、王の孫の一人である、董本が生きているという話が出てきた。
これにより梟国内の意見は割れた。
議員を中心とした。正当な継承者である董本以外にありえないという意見。
軍人を中心とした。乱によって国體は壊れ、董彬により新生したという考え。
乱に関しては電光石火の解決を見せた梟国であったが、この後継問題は混迷を深め、他国にも話が伝わっていった。
時期的には汐径と東錬、辛、後翼の戦いが起こっていた頃である。
しかしまたぞろ事態は急変する。
董本を保護していた貴族の屋敷が何者かに襲撃された。貴族は殺され、董本の行方はわからなくなった。
これを受けて、董本を推す意見は急速に縮小した──。
話を冒頭の三人に戻すと。
先頭を行く高勉は、元は董本の母親を護衛していた女だ。息子への使いで出ている間に政変が起き、以降、董本を仮の主君として守っている。
続く百栽は、董本の教育係だった者だ。元は学者で引退して長い。政変時は身代わりを立てて董本を隠した。その後、彼の伝手で董本たちは貴族に匿われた。
そして、二人に連れられる形で歩いている少年が、董本その人である。
詰まるところ。
命の危険を感じた彼らは、国外に逃れようとしているのだ。
「高勉よ。もう国境なのではないか? そろそろ休む場所を探したらどうか」
百栽が言うが。
「国境なら先ほど越えました。もうここは辛国領内です」
事も無げに高勉は返す。
「な!? いつの話だ。なぜ言わん」
「休憩の話が出たときが、おそらく国境でしょう。勘が良いと思ったものです」
「なにを? ふざけているのか!」
百栽は怒りを見せる。
「至って真面目です。休憩は取りますので、ご安心を──」
高勉が調子を変えずに言ったときだった。
──!
彼女は急に足を止めた。
百栽と董本にも、その理由はすぐにわかった。
騎馬が三騎、進路を塞ぐように立ちはだかったのだ。
「よく見つけたな!」
高勉は相手に対して声を張った。
向こうも実質三対一の構図に余裕があるのか。
「爺さんの白髪頭が、わかり易かったからな」
そのように返した。
「百栽殿。今度から、ほっかむりでもして下さい」
高勉は言いながら、背嚢から金属の棒を引き抜く。彼女が愛用する武器、硬鞭だ。
「二人は木の陰に──」
言うや否や、脱兎の如く走り出した。
騎兵たちは慌てた。別段、油断していたわけではない。
彼らは高勉の動きあわせて馬腹を蹴ったが、思ったよりずっと早く間合いが縮まってしまったため、攻撃のタイミングに狂いが生じた。
それだけ彼女が素早かったのだ。
高勉が速いのは足ばかりではない。突き出された槍の力が十割になる前に、それを弾き、すぐさま肉薄し、あばらをへし折る強烈な叩きつけで相手を突っ伏させた。そこから振り返った勢いのまま、今度は硬鞭を投げやって一人の顔面に当て、落馬させた。
その寸劇に、最後の一騎は方向を変えて駆け去った。
高勉は残った敵にトドメを刺し、戦闘は僅かの間に終わった。
「董本様。申し訳ないですが休憩はなしです」
高勉は言うと空馬から、軍の意匠を剥ぎ取りだした。
「何をしてるのだ?」
董本が聞く。
「軍馬に乗っていたのでは辛軍に発見されたとき誤魔化しがききません。百栽殿。もう一頭の方をやって下さい。あと、ほっかむりして下さい」
高勉は作業しながら語り、百栽にも指示を出していた。
死んだ兵から剣を外して、それを背嚢に突っ込むと。
「百栽殿は董本様と馬に乗って下さい。いざというときは、身を挺してお守りしてください」
言って、高勉は自身も馬に乗った。
二人が馬に乗る間、彼女は周囲を見渡しながら。
「くれぐれも落ちぬように──。小さくとも軍馬は力があります。何かの拍子に振り落とされたりされますな」
さながら教師か何かのように語った。
高勉は二人が乗ったのを確認すると。
「いいですね──」
と、言った。
「なにがいいのか?」
百栽が問うと。
「百栽殿は見るからに、お爺ちゃんになりました。孫を連れた感で自然です」
髪を隠した彼と、董本を斯様に表した。
これに百栽はリアクションを取ろうとしたが。
「急ぎましょう」
高勉は構わず馬を動かした。
百栽も慌てて馬腹を蹴り、三人はそのまま山を下った。




