第103話 南進の軍
進軍は順調だった──。
それこそ、汐径軍は此方の動きに対応出来ていないと思えるほど、何の障害もなく国境を越え、敵の斥候と思しき影も見当たらなかった。
途中、前回侵攻した際に布陣した地点で、一端、休憩となったが。
「このまま恂門まで行けるんじゃないか?」
将校たちの中には、冗談の音で語る者もいた。
皆、楽観とまではゆかずとも、円滑さは感じており、幸先の良さとして認識されていた。
そのまま恂門近くまで南進した後翼軍は、この行軍の勢いのまま攻め掛けるのも、ありではないかと考え始めてもいた。
しかるに、その算用は無駄になった──。
汐径軍が、恂門を通り過ぎるように、その後方からあらわれたのだ。
それは極めて奇妙な話であった。
守るべき拠点たる街の前に布陣していたなら自然であるが、敵はあえて街に隠れるようにしていた。そして後翼軍の接近と共に姿を見せた。
ここから推考するに。
──誘い込まれた!?
そう考えざるを得ない。
仮に、国境の近くや街の手前側に布陣していたならば、斥候によって発見され、後翼軍はそのずっと手前に陣を構えることになるだろう。
汐径軍がそうさせなかった能動的理由を考えると、国内に引き込む狙いがあったと推察できる。
後翼軍は敵と対峙したのち、取り急ぎ軍議を開いた。
「汐径軍の数は、ほぼ此方と同数と思われます」
報告に、天幕では唸るような声が上がった──。
指揮者たちの困惑は当然だ。
事前情報では、汐径軍は八角国に二千の軍を派兵しているはずだった。後翼軍はその前提に基づき、国の北面に対処する兵も動員して三千の軍を用意。千載一遇の機会と見て、乾坤一擲の勝負を仕掛けた形だ。
ところが、敵は中央軍だけで二千五百ほどあり、恂門の兵も合わせれば、こっちも三千弱の兵力となり、戦力は拮抗している。
「いったいどうした事か──、とは言うまい。残存は二千と地方軍という話は誤りで、汐径としては我らを待ち構えていた格好だろう」
全軍の大将を務める、裴植准将が言った。
「それもそうですが、敵は全て此方に戦力を投入してきているのでは? 雁去病大佐の話では、東錬が動くとの噂を流す算段だったはずです」
一人の大佐の女が言った。
これに雁去病は。
「確かにそのはずだったし、それで戦力が分散するとの見立てだった。しかし結果は大ハズレだ。敵が噂を看破したか、地方軍だけで対処可能と考えたかわからぬが、この引き込みとあわせて相手の狙いの一環なのだろうよ」
淡々と応えた。
後翼軍の次期将軍は裴植准将で確定した。また臧勤が引退したため、席が二つ空くことになり、今度は准将を巡っての大佐たちのレースが始まっていた。
大佐の女の言葉には、雁去病を競争相手と見ての牽制の意図があったかも知れない。
また、雁去病としても変に突かれても面倒なので、感情の色のない音を意識した。
「そこはいい──。元は東錬を動かせぬかの提案だったのだ。期待は端からしていない」
裴植は、責任論に流れそうになった空気を切った。
彼は、最初から臧勤が絡んだ策が気に入らなかったのもあるが、次なる将軍として、全軍の頂点の自覚を以て言葉を発した。
皆も准将の意向を汲み、それ以上の言及は控えた。
なんにせよ、これより軍議は建設的な方向に行くかと思われた。
しかしながら・・
「私は撤退を進言する──」
言ったのは雁去病だ。彼は続ける。
「今、汐径軍はこちらの出方を窺っている段階だろう。どのように動くか、こっちが定まっていないように、向こうの予測もついてはいない。この状況ならば、徐々に間合いをとった後に、夜陰に紛れて後退することも可能だ。加えて、この機を逃せば、退却は困難を極めるだろうというのが、私の見立てだ」
淀みなく語った。
これに他の大佐や中佐たちは色をなした。彼らは口々に、撤退を否定する言葉を吐いた。中には「臆病風」などという単語も聞こえたりした。
軍議が紛糾の気配を漂わせたとき──。
「やめろ──」
裴植の声で静寂が訪れる。
「雁去病大佐。貴君のことだ──、ダメ元でも試しに言ってみようというのであろう。まぁ、それはいいとして、撤退はせん。戦う、恂門を攻め取る、その前提で意見を出せ」
「はい──」
准将から基本方針が示され、雁去病も納得したように頷いた。
裴植も現状が良いとは思っていない。汐径軍は自分の土俵で勝負するつもりで、後翼軍の進軍を是認したのだろう。それは広い意味で罠とも解釈でき、雁去病が撤退を言うのも一理あるとも思った。
さはさりながら、敵は八角に遠征軍を送っている──。
「情報通りではなかったが、汐径の中央軍の残存がこれ以上あるとも考えにくい。必然、あとは地方軍になるだろうが、東錬に対して無防備になる真似はするまい。よって、眼前の敵が、その全戦力であると考えれば、これを打ち破ることは即ち、汐径の防衛線の崩壊に他ならない。皮算用するつもりはないが──、恂門を取った暁には、国境を大きく南下させるに繋がると見ている」
裴植准将は自らの見立てと、方針への思惟を説示した。
ともあれ──。
このあと軍議では指揮系統や、大まかな役割分担と持ち回り、作戦指揮に於ける決め事など機能的な部分から、攻め筋、連携の段取りまで幅広く確認と決定がなされた。
後翼軍と汐径軍、互いに一触即発の間合いで陣を張り、そのまま夜を迎えた──。




