第9話 静かなる侵食
ヘルカイザーは、貯蔵庫の記録を何度も読み返していた。
机の上には、以前の結果も並べられていた。
一枚を開き、次の記録へ目を移す。気になったところへ印をつけ、もう一度、最初の紙へ戻る。
資料を読む仕草は、今までと変わらなかった。
分からないことがあれば、比べてみる。違いが見つかれば、その理由を考える。
ヘルカイザーは、そうして研究を続けていた。
記録の中には、魂の状態について書いたところもある。苦しみが和らいだことを確かめた結果も、残っている。
それらを捨てたわけではなかった。
けれど、今、何度も視線が戻るのは、回収された負のエネルギーの量だった。
彼は、その数字を別の紙へ書き出した。
以前の紙には、アテナの文字が残っているものもあった。
彼女がどこで問いを向けたのかが、書き込みから分かる。
ヘルカイザーは、一度、その箇所へ目を留めた。
説明したときのことを、覚えていた。
ここで少し考え込み、別の案を二人で比べた。彼女が資料を開き直したので、自分も、もう一度最初から話した。
同じものを見ながらでも、気になるところが違っていた。
その違いから、新しい考えが浮かぶこともある。
今の研究についても、会えば話せるだろうと思った。
アテナは忙しいと聞いている。
来られるようになったとき、広げるものがあればよい。
ヘルカイザーは、読み返した紙を丁寧に脇へ置いた。
友人の考えを遠ざけるつもりで、そうしたのではなかった。
その続きへ進もうとして、新しい数字を手元へ並べていた。
並べて見れば、もう少し分かることがあるかもしれない。
そう考えながら、次の記録を手に取った。
「……ふむふむ」
救済された魂の数は増えている。しかし、世界全体に存在するマイナスエネルギーの推定量と比べれば、わずかなものだった。
装置が働いたことは、記録から分かる。
研究を始めた頃、見たいと願った変化は、確かに起きていた。
その成果を否定するつもりはない。
ヘルカイザーは、紙の上の数字を見比べた。
今までに取り除けたものと、まだ存在していると考えられるもの。その間には、大きな隔たりがある。
新しく分かったことが増えるほど、その違いも気になるようになっていた。
この方法で続けたら、どこまで届くだろうか。
同じ仕組みを、どれほどの範囲に使えるだろうか。
彼は、前に書いた計算へ視線を移した。
今のままで続ける場合を考えてみる。途中で、もう少し多く扱えないかという問いへ戻る。
紙の上で比べるものが増えると、違いも見つけやすくなる。
ヘルカイザーは、一つの案へ印をつけた。
今よりも広く扱えるかもしれない。
そう思えるところを、次に調べたい箇所として残しておく。
別の紙には、魂の状態についての記録があった。
初めて安らぎが得られたとき、何を見て、どのように確かめたか。アテナと一緒に言葉を選んだ部分だった。
その記録も、研究の中から消えてはいない。
けれど、新しい案を選ぶときの手がかりは、今、回収できる量へ集まっていた。
先にそこを考え、ほかの部分は、その後で見直す。
その順番になっていることを、彼は特に意識しなかった。
まだ分からないところを調べる。
同じ言葉で言い表せる作業の中で、何を先に知りたがるかが変わっていた。
その繰り返しの中で、一つの結果を喜ぶ時間より、次に増やせる量を考える時間が長くなっていた。
「……一つずつでは、なかなか追いつきませんねぇ♪」
声は、穏やかだった。
研究室で新しい課題を見つけるときと同じように、ヘルカイザーは首を傾げた。
救われた魂がいることも、まだ苦しむ魂がいることも、彼は知っている。
だから、もっと多く扱える方法を考えたくなる。
自分が何を見ているのかについて、立ち止まって問い直す気持ちはなかった。
量を増やせれば、苦しみを取り除く機会も増える。
その繋がりは、彼には、自然なものに思えた。
ヘルカイザーは、以前の図面を机の端へ寄せた。
新しい案を描く場所を空ける。
何かを諦めるためではなく、次へ進むための仕草だった。
彼は新しい紙を広げる。
最初は、今の装置について考えた。
分離し、移し、蓄える。
その流れを示す線を引き、どこから変えられるかを眺める。
前には、魂にどのような変化があるかを確かめるために、その図を何度も読み返した。
今は、同じ図から、扱う範囲を広げる道筋を探している。
ヘルカイザーは、一つの箇所へ前脚を置いた。
ここだけを直しても、別のところが追いつかないかもしれない。
そう考えると、もっと先まで見直したくなった。
線が増える。書き添える言葉も増えていく。
紙の上には、まだ、どのように実現するか分からないところも残っていた。
彼は、その余白を、次に考える場所として見ていた。
魂を傷つけずに負のエネルギーを分離する。その原則は変わらない。けれど研究の中心には、いつの間にか「魂」よりも「回収量」が置かれ始めていた。
ヘルカイザーは、以前に書いた注意点も読み返した。
その魂にとって大切なものまで、失わせてはいけない。
アテナと話し、何度も確かめたことだった。
その言葉を取り消したつもりはない。傷つけて構わないと考えたわけでもなかった。
ただ、今の問いへ戻ると、視線は量や範囲へ向かう。
どれほど多く、どれほど広く取り除けるか。
そこを変える案が見つかると、その続きを知りたくなる。
ヘルカイザーは、新しい紙へ、比較するための数字を記した。
自分が大切にしていたものを失ったとは感じていなかった。
魂を救う研究を、もっと進めようとしている。
そのつもりで、次の計算へ手を進めていた。
「……より広い範囲を、一度に処理できれば……」
ヘルカイザーは、書きかけの線を伸ばした。
今の仕組みをそのまま大きくすればよいのか。それとも、違う考え方が必要なのか。
すぐに答えが出る話ではなかった。
彼は、分かっているところと、これから調べたいところを分けた。
仮に、扱える範囲が広がったとしたら。
その先に何が必要になるかを、紙の上で考えてみる。
途中で、前の図面へ戻る。別の案を隣へ描いて、違いを見比べる。
研究の進め方そのものは、よく馴染んだものだった。
分からないところへ問いを向ける楽しさも、残っている。
ヘルカイザーは、少し目を細めた。
思いついたことの先へ、また、考えたいことが増えていた。
複雑な数式を書き加える。
紙の端へ、計算の途中を残す。
その数字だけでは決められないことがあれば、脇へ言葉を書き添えた。
何を見込んで、どこまで考えたのか。後で読み返すための記録も取っていた。
ヘルカイザーは、全て分かったつもりになっているわけではなかった。
分からないところがあるからこそ、続きを考える。
けれど、その続きを選ぶとき、最初に心を引かれるものは、少しずつ偏っていた。
回収できる量が増えそうな案へ、先に注意が向く。
広い範囲に届くかもしれない線を、もう一度辿る。
本人には、そこへ目を向ける理由が、十分にあると思えていた。
マイナスエネルギーを集める。それを安全な場所へ貯蔵する。もっと効率的な装置を作る。
その積み重ねの中で、彼はふと思った。
「……世界中の負のエネルギーを、一つの場所へ集められたなら……」
それ以外の場所には、負のエネルギーが存在しなくなるのではないか。
ヘルカイザーは、しばらく手を止めた。
今まで描いていた線を、もう一度眺める。
あちらから、こちらへ移す。
取り除いたものを、別の場所へ蓄える。
研究の初めから考えてきた働きだった。
それを、もっと広い範囲で行えたとしたら、どうなるだろう。
彼は、中心に置いた印を見た。
周囲からそこへ向かう線を、試しに書き添える。
まだ、それだけでは実際に動かす方法にならない。
けれど、その図を見ていると、考えてみたいことが次々と浮かんだ。
負のエネルギーが存在している場所と、それを蓄える場所。
移す前と後を、紙の上で分けてみる。
ヘルカイザーは、描いた線を辿った。
今までの研究では、魂のそばにあるものを分離して、別の空間へ移していた。
その結果、苦しみが和らいだ。
ならば、もっと広い範囲から移した場合にも、考えられることがあるのではないか。
問いは、そこから広がっていた。
まだ、自分で確かめていない部分が多い。
彼は、そのために、仮に置いている考えを記した。
その印があるからこそ、今は、先の形も描いてみることができる。
描いた先で、また手が止まる。
集めたものを、どのように扱うのか。その場所へ蓄える仕組みは、今の考え方だけで足りるのか。
ヘルカイザーは、問いを脇へ残した。
都合のよい結果だけを、確かめたことにするつもりはなかった。
仮説だからこそ、調べるところがある。
彼は、資料の一節を開き直した。
今の案を支えるものになるのか、それとも、違うところが見つかるのか。
読みながら、もう一度図を見直す。
その慎重さも、彼の中に残っていた。
けれど、調べるための資料を選ぶとき、また集める量や範囲へ目が向く。
まだ分からないと認めることと、自分の関心の偏りに気づくことは、同じではなかった。
ヘルカイザーは、必要だと思った問いを、さらに一つ書き加えた。
実際にどうなるのかを知りたい。
その好奇心が、紙の上へ次の線を引かせた。
ヘルカイザーは、集める先へ、もう一度目を向けた。
ヘルカイザーは、紙を少し引き寄せた。
散らばっているものを、一か所へ。
その考えが、今までとは違うまとまり方で、彼の中へ残り始めていた。
「……面白い発想ですねぇ♪」
まだ研究上の仮説にすぎない。しかし、一度浮かんだその考えは、彼の中に残り続けた。
ヘルカイザーは、いったん、別の資料へ目を移した。
ところが、読んでいるうちに、その内容を、先ほどの図へ結びつけて考えたくなる。
今の案に使えるだろうか。
この部分が分かれば、少し先まで見えるかもしれない。
彼は、また紙を手元へ戻した。
仮説を確かめるために、何を調べるかを書いておく。
実現したと思い込んだわけではない。すぐに動かせる装置ができたわけでもなかった。
それでも、次に資料を開くときの問いが、ひとつ変わっていた。
ヘルカイザーは、その変化を、新しい着想が生まれた喜びとして受け止めていた。
◇
ゼウスの宮殿。
アテナは、手元の資料を揃えていた。
話し終えた内容を思い返し、説明し忘れたところがないかを考える。
ゼウスは、その様子を見ながら、少し間を置いた。
それから、思い出したように彼女へ目を向けた。
アテナは、次の話を待って顔を上げる。
仕事についての問いが続くのだろうと思っていた。
「……アテナよ。最近、ヘルカイザーの話をあまり聞かぬな」
アテナは、少し驚いて顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「以前は、あの者が新しい発明を完成させるたび、嬉しそうに報告しておったではないか」
アテナは、資料を持つ手を止めた。
模型の図面を広げて、どの箇所を変えたのかを説明したことがある。
魂の苦しみが和らいだと分かったときには、記録を持って報告した。
いずれのときも、話すことが幾つもあった。
初めはどう考えていたのか。どこで難しいところが見つかったのか。ヘルカイザーが、どのように案を直したのか。
その話をしているうちに、自分でも声が明るくなるのが分かった。
ゼウスも、それを覚えていてくれたのだ。
アテナは、少しだけ微笑んだ。
けれど、最近の研究について、今すぐ話せることは少なかった。
聞いてみたいことは残っているのに、その答えを、まだ本人から聞けていない。
彼女は、揃えた紙へ視線を落とした。
「……実は、最近あまりお会いできていないのです」
口にすると、会えていない時間が、改めて感じられた。
訪ねたいと思ったことは、何度もある。
手紙も書いた。時間を見つけて研究施設へ向かったこともあった。
けれど、顔を合わせるところへは繋がらなかった。
アテナは、どこから説明すればよいのか、少し考えた。
「仕事の都合もありまして……。研究の方も、今はお忙しいようなのです」
ゼウスは、静かに聞いていた。
「あの者は、何か考え始めると、熱心に取り組むのであろうな」
「はい。新しい案があると、どこまでできるのかを調べたくなる方ですから」
その顔を思い浮かべると、アテナの声は、また少し柔らかくなった。
会えないことが、相手への不満に変わっていたわけではない。
研究が進んでいるなら、その話を聞きたかった。
ゼウスは、彼女が持つ資料へ目を向けた。
「話したいことは、残っておるようだな」
「……はい」
アテナは、少し微笑んだ。
「前のお話から、調べてみたこともあります。ですが、今の案がどのようになっているのかは、まだ伺えていなくて」
そこで言葉を切った。
いつもなら、自分が読んだことを持っていけば、彼も図面を広げてくれる。
並べて見ながら話すうちに、次の問いが出てきた。
今は、その時間を思い浮かべることしかできていない。
「あの者へ聞いてみたいことがあるのだな」
「ええ。新しい発明だけではなく、研究の途中で、どんなことを考えていらっしゃるのかも気になります」
アテナは、自然にそう答えていた。
言葉にしてみると、自分が会いたいと思っている理由が、また少しはっきりした。
完成したものを見せてもらうだけでなく、その途中にある考えも聞きたかった。
忙しいのは事実だった。彼も研究に夢中らしいと聞いていた。
アテナには、自分の仕事がある。
ヘルカイザーにも、途中で止めたくない研究があるのだろう。
以前から、その両方がなかったわけではない。それでも、合間を見つけて図面を囲むことができていた。
今は、その合間がうまく重ならないのだと、彼女は思っていた。
「……前に伺ったときにも、面会は控えてほしいと聞きました」
アテナは、静かに説明した。
「ですから、落ち着くまで待った方がよいのだと思っていたのです」
その言葉を伝えた者が嘘をついたとは、考えていなかった。
自分が受け取った伝言を、そのまま、友人の都合として受け止めている。
ゼウスも、彼女が話す事情を聞き、二人の予定が合わないのだと考えた。
ゼウスは穏やかに頷く。
「友人との時間も、大切にするのだぞ」
アテナは、顔を上げた。
研究室で話す時間を、大切に思っていなかったわけではない。
むしろ、また話したいから、相手の都合を乱したくなかった。
けれど、落ち着いたらと待つだけで、時間は過ぎていた。
そのことを、今、改めて考えた。
アテナは、以前の報告のことを思い返した。
うまく動かなかった模型について話したときにも、直したところを説明しているうちに、声が明るくなった。
苦しむ魂を救えたと報告したときには、ゼウスも、その成果を喜んでくれた。
今は、しばらく会えていないと話している。
その違いが、自分にも寂しかった。
アテナは、揃えていた紙を机へ置いた。
「……お仕事が落ち着いたら、と考えているうちに、日が過ぎてしまったのですね」
ゼウスは、静かに頷いた。
彼女は、誰かを責めようとしているのではなかった。
自分から、できることを考え直していた。
忙しさがなくなるまで待つのでは、なかなか機会が重ならないかもしれない。
少しでも時間を取って、顔を見て話したい。
そう思うと、次に何を片づければよいかが、具体的に浮かんできた。
自分の仕事が一段落する日を、もう一度見てみよう。
ただ、時間ができるのを待つのではなく、会いに行けるように準備してみたい。
アテナは、机の上の紙を見た。
次に話すために残した問いが、まだ自分のところにある。
会えたら、あれを広げよう。
その思いが、少し具体的になっていった。
「……はい」
アテナは微笑んだ。
「近いうちに、会いに行こうと思います」
言葉にすると、胸の中に、次の時間へ向かう気持ちが生まれた。
ゼウスは、穏やかに彼女を見た。
「また、面白い話が聞けるとよいな」
「はい。私も、それを楽しみにしています」
アテナは、自然に答えていた。
彼が図面を示すところを思い浮かべる。
少し考えてみたのですよ、と言いながら、紙いっぱいに描いた案を広げるかもしれない。
説明を聞けば、また、いくつも尋ねたいことが出てくるだろう。
そうしたやり取りが、懐かしく感じられるほど、間が空いていた。
アテナは、資料を揃え直した。
今度は、仕事を片づけて、少し落ち着いて訪ねられるようにしたかった。
ゼウスは、二人が会えない本当の理由を知らなかった。一部の神々が抱く不満の噂は聞いていても、手紙を捨てたり伝言を偽ったりしていることまでは思いもよらなかったのだ。
アテナの話にも、誰かに妨害されているという訴えはなかった。
忙しい友人を気遣い、また会いに行きたいと話している。
それは、ゼウスが知っている彼女の姿とも、矛盾しなかった。
ヘルカイザーも、研究へ熱心に向かっているのだろう。
そのように受け止めていた。
同じ伝言を、本人へ確かめれば分かることがあった。けれど、その伝言自体を疑うきっかけが、二人の話には現れていなかった。
アテナは、再会へ向かうつもりで、宮殿を後にする。
仕事をする場所へ戻る途中、彼女は、次の訪問について考えた。
まだ済ませていないことを、先に片づけておこう。
会いに行けたのに、すぐ戻らなければならなくなるのは惜しかった。
直接渡して、説明したいものもある。
アテナは、手元の紙を持ち直した。
最近、書き留めていたことが、幾つも思い出される。
順番に全て話そうとしなくてもよい。彼の話を聞けば、そこでまた、違う問いが生まれるだろう。
そういう時間を、今度こそ持ちたかった。
机へ戻ってから、彼女は、仕事の続きへ向かった。
今日のうちに進めておけることを見て、紙を一枚ずつ開く。
その先に、友人と話す時間があると思うと、気持ちにも少し張りが戻っていた。
アテナは、途中で、机の端へ視線を向けた。
友人へ見せたかった書き留めが、まだ置かれている。
読み返せば、どの話から繋がっていたのかを思い出せる。
ヘルカイザーにも、今なら違う考えがあるかもしれない。
それを聞けたら、この紙にも、また新しい言葉が加わるだろう。
アテナは、そっと紙を揃えた。
前に会えなかったことを責めるために、行きたいのではなかった。
会えたことを喜んで、今の話を聞きたい。
自分も、調べたことを伝えたい。
そう考えると、手紙に書いた短い誘いも思い出された。
お茶を飲みながら、また話したかった。
今度、顔を合わせたときには、そのことも直接伝えようと思った。
また、あの声を聞けるだろう。
アテナは、そのつもりで、目の前の仕事に取り組み始めた。
ゼウスは、その後ろ姿を、友人との時間を楽しみにする者として見送った。
その間に差し込まれた嘘は、まだ、誰の説明にも本当の姿を見せていなかった。
◇
その夜、研究室。
机の上には、昼間に考えた図が残っていた。
ヘルカイザーは、それを読み返していた。
いったん別のことを考えても、また同じ着想へ戻ってくる。
散らばった負のエネルギーを、一か所へ集める。
その図を眺めていると、次に調べることを、一枚へまとめておきたくなった。
彼は、新しい紙を選んだ。
書きかけの計算を隣へ置き、最初に考えた流れを、もう一度頭の中で辿る。
今の案を、どのような言葉で呼べばよいだろう。
ヘルカイザーは、昼間に書いた言葉を並べてみた。
分離する。移す。蓄える。
それぞれの働きについて考えるだけでは、今、自分が描いている範囲をまとめにくい。
離れたところにあるものを、一つへ。
その考え方を表す言葉を選びたいと思った。
彼は、新しい紙の上部を見た。
表題は、まだ結果を保証するものではない。
何を調べようとしているかを、自分で読み返すためにも必要だった。
後で資料が増えたときにも、どの考えから始まったのかを辿れるようにしておきたい。
ヘルカイザーは、少し首を傾げた。
今までの図面を見て、また、新しい紙へ目を戻す。
考えていることを言葉へ置く作業も、彼には研究の一部だった。
ヘルカイザーは、少し考えてから、手を動かした。
ヘルカイザーは、新しい表題を書いた。
『マイナスエネルギーの集約』
書き終えて、その言葉を見た。
今まで、幾つもの図や計算の中へ分かれていた着想が、一つの表題の下へ置かれた。
これで実現できると決まったわけではない。
それでも、何について調べるのかを、前より明確にできた気がした。
ヘルカイザーは、表題の下へ、考えたいことを書き始めた。
範囲を広げること。
移した先で、蓄えること。
その間に、まだ分かっていないこと。
言葉を並べると、資料のどこへ目を向けたいのかも見えてきた。
彼は、次に読みたい紙を、手元へ引き寄せた。
世界に散らばった負のエネルギーを、より広い範囲から、一か所へ集める。
最初は、魂のそばから分離したものを、別の場所へ移すと考えた。
その方法で、安らぎを得た魂がいる。
今度は、その仕組みを、どこまで広げられるかを考えている。
ヘルカイザーは、図を描いた。
広いところから、中心へ向かう線を引く。
途中で手を止め、移す側と蓄える側を見比べた。
線を繋いだだけでは、分からないことが多い。
どう扱うか、どこまで届くか、どのように貯蔵するか。問いを加えるたびに、余白へ書き込みが増えた。
その量を見ても、彼は嫌にならなかった。
まだ調べたいことが、これほどある。
その先に何が分かるのかを、楽しみにしていた。
「……まだ考えることは多いですがねぇ♪」
彼は楽しそうに笑った。
研究への愛情も、人を救いたいという願いも、残っている。
苦しみが和らげばよいと、今も思っていた。
誰かが安らげるようになったことを、嬉しく思う気持ちも失っていなかった。
だから、彼には、自分が違うところへ向かっているとは感じられない。
回収できる量を増やすことは、その願いに繋がるはずだった。
ヘルカイザーは、書いた表題を見直した。
この研究で、どこまでできるだろう。
その問いが、彼を次の紙へ向かわせていた。
アテナへ見せたいものも、また増えたと思った。
彼女が来たら、どこから説明しようか。そのことを考える間にも、図へ新しい線を加えていた。
アテナが、最初にどこを気にするかを想像する。
今までの案との違いを尋ねるかもしれない。
何をもとに考えたのかを知りたがるかもしれない。
ヘルカイザーは、その説明に使えそうな記録を近くへ置いた。
友人と話すつもりは、今もある。
そのときに、自分が今の考えへ至った順番を話せばよいと思った。
ただ、その順番の中で、何を優先するようになったのかは、彼自身にも、まだ見えていなかった。
新しい案の脇へ、気になる点を一つ書き添える。
研究室の机は、紙で埋まりつつあった。
古い記録と、新しい着想が、同じ机の上にある。
初めて魂を救えた日の記述も、回収量を並べた計算も、彼にとっては、一続きの研究だった。
ヘルカイザーは、手元を少し片づけた。
読む順番に置き直すと、これから開く資料が見える。
何を残し、何を先に見るかを選びながら、彼は、作業を続けていた。
その選び方まで含めて変わりつつあることを、誰かと話して確かめる時間は、今はない。
隣で図面を覗き込むはずの友人は、別の場所で、再会のために仕事を進めていた。
二人とも、次の会話を思い描いている。
けれど、その会話が始まる前にも、紙へ残る言葉は増えていった。
表題をつけた一枚も、その中に置かれる。
ヘルカイザーは、もう一度そこへ顔を向け、続きを考え始めた。
研究を続けることと、変わらずにいることは、今、彼の中で、同じように感じられていた。
ただ、何が最も大切なのかという判断が、気づかれないほどゆっくりと変わっていた。




