第10話 すれ違う二人
翌日、アテナは久しぶりに研究施設へ向かった。
昨日、ゼウスと話したことが、胸に残っていた。
友人との時間も、大切にする。
その言葉を聞いて、自分もまた会いに行きたいと答えた。
今回は、そのための時間を、先に作っておいた。
急いで仕事へ戻らなければならない状態ではない。彼と会えれば、少し落ち着いて話せるだろう。
アテナは、手元を確かめながら歩いた。
研究施設へ向かう道は、よく知っている。
それでも、今日は、もうすぐ顔を合わせられると思うと、少し気持ちが明るくなった。
挨拶をしたら、彼は、どんなことから話し始めるだろう。
彼女は、その声を思い浮かべていた。
仕事を先に済ませたことで、いつもより落ち着いて周囲を見られた。
途中で呼び戻されるかもしれないと気にせず、友人のところへ向かえる。
その小さな余裕が、今日は嬉しかった。
アテナは、用意した話題を思い返した。
前の資料について尋ねたい箇所がある。新しく調べていて、彼にも見てもらいたい一節があった。
けれど、最初の言葉は、研究の説明ではないだろう。
久しぶりに会えましたね。
そう言って、彼の顔を見たかった。
廊下で顔を合わせる誰かへ挨拶を返しながら、研究室のある方へ進む。
近づくにつれ、これまでに交わした会話が、また思い出された。
相手の話を聞いて、自分の言葉を返す。
その当たり前の時間を、もう一度持ちたいと思っていた。
「……今度こそ、お会いできますね」
手には、直接渡そうと思って用意した小さな包みがある。仕事もあらかじめ片づけておいた。
包みの中には、見てもらいたい資料があった。
読んでいて気になった箇所を、忘れないようにしてある。
ただ渡すだけでなく、どこが面白いと思ったのかを話したかった。
以前、届けてもらった資料についても、彼の意見を聞いてみたい。
手紙に書いたお茶への誘いも、また、都合を尋ねられたらと思った。
それらを全て、順番に話そうと決めていたわけではない。
彼の話を聞けば、その場で気になることが増えるだろう。
また図面を広げ、二人で考え始めるかもしれない。
アテナは、包みを持ち直した。
今度は、自分の手から渡せる。
包む前に、紙の順番を確かめていた。
こちらから見せた方が、話が分かりやすいだろうか。
彼が興味を持ちそうなところを思い浮かべ、資料を一度並べ直した。
その準備をしている時間も、楽しかった。
出来上がったものを使ってもらえると、また考えたくなる。ヘルカイザーが、屋台について話した言葉を覚えている。
自分も、調べたものを一緒に見てもらうと、その先を考えたくなった。
違う問いが返ってくれば、読み直す場所が見つかる。
その時間へ繋げるために、今日は資料を選んだ。
アテナは、歩きながら包みへ目を落とした。
紙の中には、まだ、答えの出ていない問いもある。
それを、彼の前で広げてよいと思えることが、嬉しかった。
そのつもりで、研究室へ向かう廊下を進んだ。
しかし、研究室の近くまで来たところで、一人の神に呼び止められた。
アテナは足を止め、声の方へ顔を向けた。
研究室は、もうすぐそこだった。
挨拶をしようとした彼女へ、神は、少し申し訳なさそうな表情を見せる。
アテナは、その顔を見た瞬間、以前ここへ来たときのことを思い出した。
重要な研究に集中している。
しばらく面会を控えてほしい。
その言葉を受け取り、彼のために引き返した。
今日は、どうなのだろう。
手にした包みを軽く押さえ、相手の言葉を待った。
「アテナ様。申し訳ありません。ヘルカイザーは、重要な研究の最中だそうで……」
「……そうですか」
返事は、小さくなった。
アテナは、一度、研究室の方へ目を向けた。
前と同じように、手を離しにくいところなのだろうか。
「……まだ、しばらく、お時間が必要なのでしょうか」
神は、穏やかに頷いた。
「研究のことですから、今は、なかなか……」
その曖昧な答えを、アテナは、本人の集中を気遣う言葉として聞いた。
自分が時間を作れたからといって、相手の都合まで変わるわけではない。
そう分かっていても、すぐに気持ちを切り替えることはできなかった。
「……こちらも、研究に関係する資料なのですが」
アテナは、包みを少し持ち上げた。
神の視線が、そこへ向く。
「ただ、説明しながらお見せしたいものですので……」
彼女は、言葉を選んだ。
資料を渡すことを理由に、無理に面会を求めたいわけではなかった。
けれど、また会えないのなら、何をどう残しておけばよいのか、少し迷った。
以前、預けた資料は届いたと聞いている。
今度のものは、自分で説明しようと思って持ってきた。
アテナは、その重さを確かめるように、包みを手元へ戻した。
神は、急かさず、穏やかな顔で立っている。
本人の都合を伝えているだけに見える、その表情へ、彼女は頷いた。
せっかく時間を作ったのに、残念だった。
包みの中の資料が、気になった。
これを開いて、彼の反応を見ながら話すつもりだった。
久しぶりですねと、顔を見て挨拶したかった。
けれど、研究の最中だと聞いて、それでも会わせてほしいと迫る気にはなれなかった。
彼が考え込んでいるときの顔を知っている。
途中で声をかけられることが、気になる瞬間もあるだろうと思った。
アテナは、包みを抱え直した。
今日は会えなくても、話を楽しみにしていることは伝えたい。
相手も、落ち着いたときに、そのことを思い出してくれたらよいと思った。
彼女は、神へ顔を戻した。
「では、また日を改めます。新しい研究の話を楽しみにしていると、お伝えください」
「承知いたしました」
その返事を聞き、アテナは頷いた。
「よろしくお願いいたします」
言葉を託してから、もう一度、研究室のある方を見た。
扉の向こうで、彼が顔を上げるところを思い描く。
新しい研究の話を楽しみにしていると伝われば、何を見せようかと考えてくれるかもしれない。
それだけでも、今は伝わってほしかった。
アテナは、小さく礼をして、来た方へ向き直った。
渡すはずだった包みは、自分の手に残っている。
今日は、これを置いていくよりも、次に会えたときに説明したかった。
中にある紙を思い返す。
自分が面白いと思った箇所を、彼も同じように面白がるだろうか。
それとも、別のところを示して、こちらも考えてみたいと話すだろうか。
その違いを聞くことが、アテナには楽しみだった。
完成した答えを持っていなければ会えない相手ではなかった。
考えかけのことを話せば、彼も、まだ分からないことを見せてくれる。
そうして、同じ問いへ向き合う時間を持てた。
今日、伝えきれなかったのは、資料に書いた内容だけではない。
また、その時間を一緒に過ごしたいという気持ちもあった。
アテナは、それを口にする代わりに、丁寧に包みを抱え直した。
彼女は、そのつもりで、廊下を戻っていった。
足音が、来たときと同じ廊下へ響いた。
ここへ向かう間には、返事を聞けるつもりでいた。
研究の話が長くなったら、その続きをどこまで聞けるだろうと考えていた。
今は、用意した時間だけが残っている。
仕事へ急いで戻らなければならないわけでもない。
だからこそ、会えなかったことが、いつもより少し寂しかった。
アテナは、歩調を緩めた。
それでも、研究が重要なところへ来ているなら、彼を急かしたくはない。
落ち着いたときに、話してもらおう。
残念な気持ちと、相手の時間を大切にしたい気持ちを、そのまま抱えて歩いていた。
包みの端を、指で押さえ直した。
次は渡せるとよいと思った。
神は丁寧に頭を下げた。
けれど、その伝言は届けられなかった。
アテナの足音が遠ざかった後、神は、研究室の方へ顔を向けた。
託された言葉は、短いものだった。
新しい研究の話を楽しみにしている。
そのまま伝えれば、ヘルカイザーにも、彼女が来たことが分かる。
今どこにいるのかと尋ねるかもしれない。まだ近くにいれば、会おうとするかもしれない。
神は、その機会を作らなかった。
頭を下げて受け取った言葉を、口にしない。
アテナは、頼んだことが伝わると思って立ち去った。
その思いまで、神は、本人へ渡さずに留めた。
研究室では、ヘルカイザーが窓の外の庭園を眺めていた。
机の上には、書きかけの案がある。
一度顔を上げ、庭園へ目を向けたところだった。
噴水のそばで、初めてアテナと話したことを覚えている。
仕組みを尋ねると、彼女は、順に説明してくれた。
案を描けば、気になった箇所を教えてくれる。そこを直すと、また別のことを一緒に考える。
あの日のように、今も、話してみたいことはあった。
ヘルカイザーは、机へ目を戻した。
新しい構想を見せたら、彼女は何と言うだろう。
そんなことを考えながら、窓の外へ、もう一度視線を向けた。
「……そういえば、アテナさんとも随分とお会いしていませんねぇ♪」
ちょうどそこへ、先ほどの神が入ってくる。
ヘルカイザーは、窓から顔を戻した。
神は、部屋の中へ入ってきた。
廊下でアテナと交わした言葉も、彼女が手に持っていた包みも、そこからは見えない。
神は、来訪を知らせるような口調を使わなかった。
ヘルカイザーの呟きへ答えるように、相手の近況を話し始めた。
彼は、その声へ顔を向けていた。
「アテナ様も大変お忙しいようですよ」
「おやおや♪ それは大変ですねぇ」
「しばらく訪ねる余裕もないでしょう」
ヘルカイザーは、小さく頷いた。
仕事が忙しいと聞くのは、初めてではない。
彼女が、執務の合間に研究室へ来ていたことも知っている。
だから、最近会えていないことも、その話と繋がった。
今、自分に会うために時間を作り、すぐ近くまで来ていたとは思わなかった。
ヘルカイザーは、机の上の資料へ目を落とした。
アテナの意見を聞きたい箇所がある。
けれど、それを今すぐ聞かせてほしいと、仕事で忙しい相手へ求めるつもりはなかった。
また話せるときに、広げればよいと思っていた。
ヘルカイザーは、手元の紙へ目を向けた。
アテナの意見を聞きたいところを、一つ残してある。
前に彼女が指し示した箇所と、今の案を比べたいと思っていた。
資料を読み直せば、自分で調べられることもある。それでも、彼女が何を気にしたのかは、直接聞きたかった。
彼は、そこへ短い言葉を書き添えた。
次に会えたとき、思い出せるようにしておく。
今、自分にできることは、そのように話を残しながら、研究を進めることだと思った。
神は、まだ、来訪を告げていない。
机のそばで、ヘルカイザーは、友人との次の会話を準備していた。
その友人が、同じ建物の中で、自分に会うのを諦めて戻っていったことを、知らないままだった。
「では、お仕事が落ち着いたときに、またお話しできれば良いですねぇ♪」
ヘルカイザーは、穏やかにそう答えた。
神は、その顔を見た。
新しい研究の話を楽しみにしていると、アテナは言った。
彼も、彼女とまた話したいと言っている。
同じ方向へ向いた言葉が、神のところで止められていた。
神は、彼女の伝言を思い出しても、付け加えなかった。
ヘルカイザーは、相手が忙しいと聞いたまま、自分の図面へ向き直る。
次に会ったときに見せるため、気になったところを書き残そうとした。
彼の手元に、来訪を伝える言葉は届いていなかった。
ヘルカイザーは、前の記録へ指を置いた。
この箇所は、アテナと説明を確かめ合ったところだった。
彼女が資料を読み、自分が図を描いた。途中で話が止まり、別の見方を試した。
今の構想についても、そのように話せるだろうと思っている。
しかし、今は、忙しいのだと聞いたばかりだった。
待っていれば、落ち着いた頃に会えるだろう。
そう考えると、すぐに部屋を出て、本人へ会いに行こうとはしなかった。
聞きたいことは、紙へ残しておく。
その間、自分が考えられるところを進める。
ヘルカイザーにとって、それは、友人との続きをなくさないための、ごく自然な選択だった。
その選択へ至る事情の中に、偽りが一つ混じっていることを、彼は知らなかった。
二人とも、同じ建物にいた。
会おうと思えば会えたはずだった。
しかし、ひとつの嘘がその機会を奪った。
アテナは、研究施設を離れるまで、包みを手放さなかった。
中にある資料は、彼へ見せるために選んだものだった。
今日は渡せなかったが、話したいことがなくなったわけではない。
ヘルカイザーも、同じように、机へ案を残していた。
彼女が来たら話すつもりだった。
互いの都合を大切にしようとして、次の機会へ言葉を置く。
その機会が、今、すぐ近くにあったことを、どちらも知らない。
アテナは、研究の邪魔をしないように引き返した。
ヘルカイザーは、彼女の仕事が落ち着くまで待とうと思った。
拒んだ本人は、どこにもいない。
それでも、会話は始まらなかった。
◇
ヘルカイザーの研究は進み続けた。
図面の余白へ、言葉が増えていく。
前に考えたところを直し、別の案へ繋げる。
今までと同じように記録を読み返しながら、彼は、次に調べたい箇所を選んでいた。
貯蔵庫は動いている。
苦しみが和らいだ魂の記録も、残っている。
ヘルカイザーは、その成果を忘れたわけではなかった。
もっと多く扱える方法を考えたいと思うのも、彼には、その研究を続けるためだった。
新しい問いへ向かうときの笑顔は、変わっていなかった。
けれど、机に並ぶ案の中では、次第に、回収量や範囲を示す言葉が目立つようになっていた。
装置に救われた魂が、感謝を伝えに来る。
ヘルカイザーは、顔を上げた。
図面へ置いていた前脚を止め、訪れた魂へ向き直る。
相手の声が聞こえると、穏やかに耳を傾けた。
苦しみが和らいだことを伝えてくれる。
その言葉を、彼は、今も嬉しく聞いていた。
装置が動いたという記録だけではなく、目の前の相手が、安らぎを得ている。
研究を始めたときに願ったことだった。
ヘルカイザーは、少し目を細め、返事を待った。
『……本当に、ありがとうございました……』
「おやおや♪ それは何よりです♪」
彼は心から嬉しそうに笑った。
その笑顔に、作りものの優しさはなかった。
苦しみが和らいだと聞いて、本当に喜んでいた。
研究して、試し、考え直したことが、誰かの安らぎへ繋がっている。
ヘルカイザーは、そのことを嬉しく思っていた。
「お話を聞かせてくださって、ありがとうございます♪」
彼は、丁寧に頭を下げた。
魂の言葉へ耳を傾け、穏やかに返事をする。
その間、相手を疎ましく思ったり、早く研究へ戻りたいと追い立てたりはしなかった。
相手の言葉が途切れると、ヘルカイザーは、静かに続きを待った。
苦しみが和らいだことを伝えに来てくれた。
そのことを、丁寧に受け止めたかった。
「安らげたと伺えて、自分も嬉しいですよ♪」
穏やかな声で、そう返した。
以前、装置を作るために考えていたときには、まだ、その結果を知ることはできなかった。
今は、感謝の言葉を聞くことができる。
彼は、作ったものが役立った喜びを、確かに感じていた。
その場の笑顔だけを見れば、以前と違うところを探すのは難しかっただろう。
魂へ向けた返事も、丁寧な仕草も、変わっていない。
ただ、その時間の後に、何へ最初に目を向けるかが変わっていた。
やがて、感謝を伝えた魂が、その場を去る。
ヘルカイザーは、それを見送り、机へ向き直った。
だが、魂が去ると、真っ先に確認したのは貯蔵庫へ回収されたエネルギー量だった。
記録を開く。
目が向いた先には、分離し、貯蔵された量が書かれている。
ヘルカイザーは、前の結果と比べた。
今、聞いた感謝の言葉を否定する気持ちは、どこにもない。
けれど、次の案へ繋げるための手がかりとして、先に選んだのは、その数字だった。
紙へ書き出し、別の記録を隣へ置く。
どれほど扱えたかが、彼の関心を引いていた。
何を最初に見ているかを、自分へ説明することはなかった。
研究の結果を確認しているだけだと、彼には思えていた。
感謝の声が聞こえた時間と、今、数字を比べている時間は、彼の中で繋がっている。
どちらかを捨てたという意識はなかった。
役に立ったことを喜ぶ。それなら、もっと役に立つものへ改良する。
以前から、発明を続けるときに考えてきたことだった。
だからこそ、今、自分の目が向かう先について、違いを感じにくかった。
同じ言葉で説明できる。
魂を救うための研究だと、ためらわず言うことができる。
けれど、感謝を聞いた後、最初に開く紙が変わっている。
その小さな順番の違いは、彼自身の中では、まだ問題になっていなかった。
ヘルカイザーは、新しい計算の隣へ、今回の数字を書き添えた。
「……ふむふむ。今回の回収量は、なかなか良いですねぇ♪」
魂を助けることを忘れたわけではない。むしろ、もっと多く救いたいと思っている。
その願いを実現する方法として、膨大なエネルギーを回収すること自体が、いつの間にか中心になっていた。
ヘルカイザーは、手元の計算へ目を移した。
苦しむ魂がいる。
負のエネルギーを取り除くと、その苦しみが和らぐ。
ならば、もっと多く取り除けるようにすればよい。
その順番で、考えは繋がっていた。
彼には、目的を変えたつもりがなかった。
むしろ、今までの成果を、さらに広げたいと思っている。
そのために、扱える範囲を増やす案を選び、回収する量を比べる。
魂のためだと考えることと、数字へ注意を向けることの間に、彼は違和感を覚えなかった。
図面の中で、変えたい箇所へ印をつけた。
そこを調べれば、もっと先まで見える気がしていた。
ヘルカイザーは、考えたことを図へ戻した。
今の装置で分かったことを、その先へ広げる。
違いが大きくなれば、その分、調べることも増えるだろう。
だから、どこから考えるかを決めておきたい。
彼は、回収できる量を記したところへ、また視線を向けた。
増やせる部分が見つかれば、案を進める手がかりになる。
その手がかりを、先に探していた。
魂の苦しみについての記述は、別の紙に残っている。
それを軽んじているとは、自分では感じていなかった。
目的を実現するために、今は、この数字を調べている。
その説明が、彼の中では、自然に成り立っていた。
何が先に目へ入るようになったかを、本人が問うことはなかった。
そして、研究室の机には新しい構想が生まれた。
『広域回収』
『エネルギー集約』
『世界規模のマイナスエネルギー集約構想』
ヘルカイザーは、書いた言葉を見つめた。
前に浮かんだ着想が、いくつかの見出しへ分かれている。
広い範囲から回収する。
分かれたところにあるものを、集める。
それを、世界規模で考える。
まだ構想だった。
その言葉を書いたからといって、全ての方法が分かったわけではない。
彼は、考える必要がある箇所へ、問いを加えた。
どう広げ、どこへ移し、どのように蓄えるか。
線を引けば、その先に、また分からないところが見つかる。
ヘルカイザーは、それを嫌がらなかった。
研究するところが残っている。
書き始めたばかりの構想には、決められないところも多かった。
今までに確かめた結果から、すぐに広げられる部分ばかりではない。
ヘルカイザーは、仮に考えているところを、そのまま確かめたこととしては書かなかった。
分からない箇所には印をつけ、調べたいことを残す。
その慎重さは、続いている。
けれど、案の中で大きく書かれているのは、回収する範囲と、集める先だった。
その図を見ていると、さらに広げた形を思い浮かべたくなる。
ヘルカイザーは、別の紙を隣へ置いた。
違う案も描けば、比べられる。
その比較で、何を最もよい結果と感じるかまでは、まだ言葉にしていなかった。
そのことは、彼にとって、以前と同じように楽しみだった。
「……これなら、もっと多くの魂を救えそうですねぇ♪」
その笑顔は、いつもどおり穏やかだった。
机の近くには、アテナと話したときの紙もあった。
彼女が気になったところを示し、自分が説明を書き添えたものだった。
ヘルカイザーは、その紙を手元へ戻した。
今の構想を見せるときにも、前の案との違いを話せるだろう。
彼女は、どこを気にするだろうか。
範囲が広がったことについて、尋ねるかもしれない。どの記録から考えたのかを知りたがるかもしれない。
ヘルカイザーは、説明へ使えそうな資料を揃えた。
友人の問いを聞くつもりは、今もある。
新しい案を、また一緒に見たいと思っていた。
ただ、その案を作る間に、何を重く見ているかが変わってきたことまでは、本人にも見えていなかった。
アテナは、その変化を知らなかった。
彼女は庭園で、渡せなかった資料を眺めていた。
包みを膝の上へ置き、そっと開く。
研究室で見せるつもりだった紙が、そこにある。
アテナは、書き留めていた箇所へ目を向けた。
説明の順番を考えていた。彼から問いが返ってきたら、その前の記述も一緒に読もうと思っていた。
けれど、その話は、今日もできなかった。
庭園には、水音が響いている。
顔を上げると、初めて出会った噴水が見えた。
ヘルカイザーが立っていた場所へ、自然と視線が向く。
今は、そこに彼はいない。
アテナは、しばらく噴水を見つめていた。
初めて声をかけたとき、彼は、水の高さを揃える仕組みに興味を持っていた。
説明すると、熱心に頷いた。そこから別の動きを考え、地面に図を描き始めた。
アテナも、その隣へ線を加えた。
また話したいと、自分から尋ねたことを覚えている。
返事は、すぐに返ってきた。
もちろんですよ、と、彼は明るく頷いた。
その後、本当に何度も話す時間ができた。
庭園でも、研究室でも、次に会うのが楽しみになっていった。
今も、その気持ちは残っている。
会えていないからといって、あの時間が遠いものになってしまったとは思いたくなかった。
アテナは、膝の上へ目を戻した。
新しく渡したい資料を、今日も持ってきている自分がいた。
アテナは、もう一度、膝の上の資料を見た。
紙に書いた問いは、そのままだった。
「……次こそ、ゆっくりお話ししたいですね」
声は、水音の中へ落ちた。
新しい研究の話を、楽しみにしている。
そう伝えてほしいと頼んだことを思い出す。
その言葉が届けば、彼も、次に話すことを考えてくれるだろう。
アテナは、まだ、そう信じていた。
資料の端を押さえ、読みかけの箇所へ目を戻す。
研究が忙しいなら、落ち着いたときに聞こう。そのとき、今の話をしてもらえばよい。
彼が何を考えたのかを知りたい気持ちは、変わっていなかった。
その楽しみを残したまま、彼女は、紙を丁寧に揃えた。
また持っていけるように、包みへ戻す。
今日は渡せなかったものを、次のために手元へ残した。
アテナは、包みを膝の上へ置いたまま、顔を上げた。
水音は、変わらず聞こえている。
ここで彼と話したときには、時間が過ぎたことに気づかず、顔を見合わせたことがあった。
今日、先に用意した時間は、二人で話す時間にはならなかった。
それでも、また来たいと思っている。
仕事を片づけ、資料を揃え、友人の返事を楽しみにしながら。
その気持ちを、手放したくはなかった。
研究室でも、ヘルカイザーは、彼女に見せたいものを手元へ残していた。
互いが用意している続きを、今、相手は知らない。
アテナは、包みの端を静かに押さえた。
彼へ向けた言葉は、まだ、自分の中にあった。
二人の想いは変わらない。それなのに、会う機会だけが遠ざかっていく。
白い布の黒い染みは、もう小さな点ではなくなっていた。




