第8話 届かない想い
「……最近、お会いできていませんね」
アテナは、机に置かれた古い設計図を眺めていた。噴水の試作品について二人で書き込んだものである。
別の資料を探しているとき、目に入った紙だった。
端を持ち上げ、開いてみる。
線を引き直した跡があった。自分の文字のすぐ隣に、ヘルカイザーが加えた説明がある。
アテナは、指先で紙を押さえた。
ここを描いたときには、どちらの案がよいか、すぐには決められなかった。彼が説明して、自分が問いを返す。考え直した線の先へ、また別の書き込みが増えた。
見覚えのある文字を追うだけで、そのときの声が思い出された。
最近、机に向かっている間にも、彼に伝えたいことが浮かぶことはある。
けれど、その話を、まだ直接できていなかった。
ヘルカイザーが新しい案を思いついて目を輝かせていたこと。水が思いがけず跳ね、二人で笑ったこと。
模型へ顔を近づけると、水が予想とは違う方向へ跳ねた。
目を閉じた瞬間の冷たさまで、覚えている。
ヘルカイザーは慌てて装置を止め、布を差し出してくれた。心配そうな顔を見ているうちに、自分の方が先に笑ってしまった。
次は少し離れて見ていようと話し、二人で図面へ向き直った。
翌日には、直した模型があった。
予定していた方へ水が流れるところを見て、顔を見合わせた。
アテナは、図面のその箇所へ目を向けた。
完成した形だけを見ても分からない時間が、この紙には残っている。
彼と話すと、いつも、そのような時間が増えていった。
思い出すたび、自然と頬が緩んだ。
ヘルカイザーは、今、何を考えているだろう。
前に話した改良の続きか、それとも、また別の案が浮かんだのか。
彼女が届けてもらった研究資料にも、目を通してくれただろうか。
読んだなら、気になる箇所を示して、問いを向けてきそうだった。
アテナは、机の端へ置いていた書き留めを引き寄せた。
自分から伝えたいことも、そこに残してある。
ただ、研究のことだけでなく、顔を見て、いつもの声を聞きたかった。
また図面を広げれば、話したいことは幾つも出てくるだろう。
けれど、その前に、ゆっくり言葉を交わせたらと思った。
「……たまには、お誘いしてみましょうか」
アテナは短い手紙を書いた。研究の近況を尋ね、時間が合えば一緒にお茶を飲みたいと記した。
最初に名前を書き、少し考えてから、続きを記す。
最近の研究は、どのように進んでいるのか。
また話を聞かせてほしいこと。
それから、都合がよければ、お茶を飲みながら少し話したいこと。
書き終えると、アテナは、一度読み返した。
長い説明にはしなかった。直接会えれば、そのときに話せる。
彼が研究で忙しいのなら、その時間も大切にしたかった。無理に今すぐと求めるつもりはない。
手紙を置き、古い図面を見る。
お茶の席でも、結局、図を描き始めるのかもしれない。
そう思うと、また小さく笑みが浮かんだ。
アテナは、丁寧に紙を折り畳んだ。
折る前に読んだ一節が、頭に残っていた。
『お時間が合いましたら、またお話しできると嬉しいです。』
何を伝えたいか考えると、最後には、その言葉へ戻ってきた。
研究の結果も気になる。前に渡した資料について、感想を聞きたい。
けれど、まだ結果が出ていなくても、話すことはできる。考えかけのものを挟んで、二人で悩んだ時間も楽しかった。
何もかもを手紙へ書く必要はない。
会えたときに、挨拶をして、相手の返事を聞く。そこから、きっと話したいことが出てくる。
アテナは、折り目をそっと押さえた。
誘いを受け取った彼が、どのように笑うかを思い浮かべる。
顔を合わせるための短い言葉を、自分から書けたことが、少し嬉しかった。
ところが、仕事に追われて直接届けられない。そこで、通りかかった神へ預けた。
机には、まだ目を通さなければならないものがあった。
アテナは、手紙を持ったまま、それらへ視線を向けた。
少しだけでも研究室へ行ければよいのだけれど。
そう思いながらも、今すぐ席を離れることは難しかった。
通りかかった神に声をかけ、ヘルカイザーへ渡してもらえないかと頼む。
相手は、穏やかに顔を向けた。
「お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
アテナは、手紙を差し出した。
自分の言葉が、そこから友人の手へ届くと思っていた。
「お任せください」
その神は穏やかに微笑み、手紙を持ち去った。
アテナは、相手の姿を見送り、机へ戻った。
手紙を託したことで、少し気持ちが落ち着いた。
すぐ会えなくても、誘いたいと思っていることは伝わる。彼も、都合を考えてくれるだろう。
アテナは、書類の続きを読み始めた。
仕事の合間に、ヘルカイザーが手紙を開く姿が浮かぶ。
どのような返事をするだろう。
次に会ったときには、まず何から話そうか。
そんなことを思いながら、手元の紙へ目を戻していた。
しかし、手紙はヘルカイザーへ届かなかった。
彼の机には、その日も、図面と記録が並んでいた。
ヘルカイザーは、前にアテナと話した箇所を読み返し、別の紙へ書き込みを加えた。
新しく聞いてみたいことがあった。
調べたことを話せば、彼女も、何か気になるところを見つけるかもしれない。
けれど、彼を誘うために書かれた言葉は、その机へ置かれなかった。
お茶を飲みながら話したいと思っていることも、近況を知りたがっていることも、彼には分からない。
アテナが手紙に返事を待っている一方で、ヘルカイザーには、返事をする手紙そのものがなかった。
互いへ向けた気持ちは、まだ変わっていない。
ただ、その気持ちを伝えるために差し出した紙が、途中で止められていた。
◇
数日後、返事がないことにアテナは少し寂しさを覚えた。
仕事を一区切りつけたとき、ふと手紙のことを思い出す。
届いた返事は、まだない。
アテナは、机の一角へ視線を向けた。
急いで返事をしてほしいと書いたわけではない。都合が合えばと誘ったのだから、相手にも考える時間があるだろう。
それでも、いつもの声を聞けない日が続くと、会って話したい気持ちは残った。
古い設計図へ、もう一度目を向ける。
前には、気になることがあれば、そのまま研究室で尋ねられた。
答えを聞くと、今度は別の話をしたくなる。その時間が、今は少し遠く感じられた。
アテナは、静かに息をついた。
彼を責めたいわけではなかった。ただ、少し寂しかった。
アテナは、設計図を閉じかけて、もう一度開いた。
紙の上へ、ヘルカイザーの声を重ねる。
『では、こちらを変えてみましょうかねぇ♪』
そんなふうに話していた場所があった。
聞いていると、自分も考えたくなる。ひとつ指摘すれば、それを面白がって、また線を引いてくれる。
相手が知っている答えを、一方的に聞いている時間ではなかった。
自分の問いも、次の案を作る一部になっていた。
そのやり取りを、またしたい。
アテナは、書き留めを机の手前へ置いた。
返事がないことから、勝手に相手の気持ちを決めるつもりはなかった。話してみれば、分かることもあるだろう。
そう考えると、研究室へ向かいたい気持ちが、少しはっきりしてきた。
「……研究に夢中なのかもしれませんね」
彼の性格を思えば、不思議ではない。だから、直接訪ねてみることにした。
図面へ向かっているときの彼の顔が浮かんだ。
説明を始めれば、次に考えたいことが見つかる。新しい案ができれば、その動きを知りたくなる。
そうして研究に没頭しているのなら、返事を書くのが後になっていても、おかしくないと思った。
けれど、直接会えれば、今の様子は分かる。
忙しいなら、顔を見て短く挨拶するだけでもよい。
アテナは、仕事の合間に時間を取り、研究施設へ向かった。
廊下を歩くと、研究室で交わした会話が思い出される。
扉の向こうで、ヘルカイザーが顔を上げる。あの明るい挨拶が返ってくる。
アテナは、その瞬間を思い描きながら歩いていた。
研究施設の廊下で、一人の神が声をかける。
「アテナ様。ヘルカイザーは、ただいま重要な研究に集中しているようです」
呼び止められ、アテナは足を止めた。
神は、研究室の方から来たかのように、落ち着いて立っていた。
彼女は、そちらへ向けていた顔を戻す。
重要な研究。
その言葉を聞くと、ヘルカイザーが図面へ身を寄せて考える姿が、すぐに浮かんだ。
話がまとまりかけているのかもしれない。今、手を止めてほしくない箇所があるのかもしれない。
アテナは、相手の続きを待った。
「……今、手を離せないところなのでしょうか」
問いかけると、神は落ち着いた顔で頷いた。
「研究に集中しているようですので」
アテナは、聞いた言葉を、もう一度受け止めた。
重要な話がまとまりかけているのなら、途中で声をかけない方がよいのかもしれない。
彼も、いつもなら顔を上げて挨拶をしてくれる。
その彼が、今は面会を控えてほしいと伝えているのだという。
アテナは、その理由を、彼の研究への熱心さと結びつけた。
目の前の神が本当に彼から話を聞いたのか、その場では疑っていなかった。
それまで一緒に過ごしてきた時間を思い返すほど、彼が考え込んでいる姿は想像できた。
会いたい気持ちが、そのまま扉へ進む理由にはならなかった。
「……そうなのですか?」
「しばらく面会は控えてほしいとのことでした」
アテナは、もう一度、研究室のある方へ目を向けた。
そこまで来ているのに、会えない。
ほんの少し、挨拶だけでもしたかった。
けれど、彼が面会を控えてほしいと言っているのなら、その言葉を大切にしたかった。
自分も、途中で止めたくない考えがあることを知っている。
ヘルカイザーが長く取り組んでいた研究について話すときの、熱心な顔も知っている。
アテナは、手を軽く重ねた。
今は、自分が会いたいという気持ちだけで、扉を叩くときではないのだろう。
そう受け取った。
残念だったが、研究の邪魔はしたくない。
「……分かりました。また日を改めますね」
返事をしてからも、アテナは、すぐには足を動かせなかった。
来れば会えると思っていた。顔を見たら、どんな話から始めようかと考えていた。
その言葉を、いったん胸の中へ戻す。
落ち着いたら、また会いに来よう。
そのときには、新しい研究のことも聞けるだろう。
アテナは、神へ静かに頷き、向きを変えた。
研究室へ向かうために歩いてきた廊下を、今度は戻っていく。
歩きながら、先ほど聞いた言葉を思い返していた。
しばらく、面会を控えてほしい。
彼のために待つことなのだと、自分へ言い聞かせるように受け止めていた。
廊下の先で、一度だけ歩調を緩めた。
声をかけたら、返事が聞こえるだろうか。
その思いは浮かんだが、アテナは振り返らなかった。
控えてほしいと言われたばかりなのに、呼びかけてしまっては、その言葉を受け止めたことにならない。
彼の都合も尊重したかった。
アテナは、また足を進めた。
ここへ来るときには、帰り道で研究の続きを考えることになると思っていた。
彼から聞いた案を思い返し、どの資料を読もうかと考えるつもりだった。
今、頭の中に残っているのは、会えなかったということだった。
それでも、忙しいと知れただけ、今日はよかったのだろうか。
アテナは、そのように考えながら、仕事をする場所へ戻っていった。
机へ戻ると、さっきまで考えていた挨拶が、ふと浮かんだ。
久しぶりに会えましたね、と言うつもりだった。
それから、研究のことを聞こうとしていた。お茶への誘いも、都合がよいときで構わないと、改めて伝えたかった。
そのどれも、今日は口にしなかった。
アテナは、紙を一枚整えた。
言えなかったことを残しておけば、また話せるだろう。
そう思って、短い書き留めへ目を戻した。
相手が面会を控えてほしいと言ったのだと信じているから、別の日を待とうとする。
会いに行くことを諦めたのではない。
次の機会を大切にしたい気持ちが、その日、もう一度足を運ぶことを止めていた。
そう言って立ち去ったアテナの背中を、神は黙って見送った。
実際には、ヘルカイザーから面会を断る言葉など聞いていなかった。
神は、立ち去る彼女の背を見ていた。
呼び止めなければ、彼女は研究室へ行っただろう。扉を叩き、いつものように声をかけただろう。
そこで、ヘルカイザーと顔を合わせる。
それを、神は妨げた。
怒鳴ったわけでも、道を塞いで追い払ったわけでもない。
本人からの言葉だと偽って、彼女が引き返す理由を作った。
アテナは、友人の研究を大切にしたいからこそ、その言葉を信じて立ち去った。
神は、その姿が遠ざかるのを見届けてから、研究室へ向き直った。
その直後、神は研究室へ入る。
ヘルカイザーが、机から顔を上げた。
いつもの図面が広がっている。彼は、その端を押さえたまま、入ってきた相手へ視線を向けた。
神は、つい先ほど廊下で何を言ったかを、口にしなかった。
アテナがここまで来ていたことも、その方へ戻っていったことも、伝えない。
ただ、何気ない近況を話すように、穏やかな声を出した。
「アテナ様も最近は、大変お忙しいようですね」
「おや、そうなのですかぁ♪」
「しばらく訪ねる余裕もないでしょう」
ヘルカイザーは、少し首を傾げた。
アテナに尋ねたいことはあった。
前に彼女が示した箇所について、少し考えたことがある。
説明を聞いたときには、そのまま頷いた。けれど、今の案へ繋げようとすると、もう一度、確かめておきたいところが見つかった。
ヘルカイザーは、その印へ目を向けた。
「……お仕事が、多くなっているのですかねぇ」
神は、穏やかに答えた。
「お忙しいようです」
その短い返事の中に、先ほどの来訪は含まれていない。
彼女が仕事の合間にここへ足を運んだことも、部屋の近くまで来たことも、伏せられたままだった。
ヘルカイザーは、受け取れた言葉だけをもとに考えた。
時間ができたときに、続きを話せばよい。
そう思えば、今すぐ何かをしなければならないとは感じなかった。
机の上の図面にも、彼女が見れば気になるだろうと思う箇所がある。
けれど、仕事で忙しいのであれば、すぐには来られないだろう。
彼女が、資料を調べ、仕事の合間に研究室へ来ていたことを知っている。
最近会っていないのも、そのためなのだと、ヘルカイザーは受け取った。
図面へ視線を落とし、それから神へ顔を戻した。
「それは大変ですねぇ。では、お仕事が落ち着くまでお待ちしましょうかねぇ♪」
返事は、普段と変わらず穏やかだった。
彼は、机の上へ置いていた紙を揃えた。
次に会ったときに見せるものは、なくならない。自分が考えたところを残しておけば、後で話せる。
アテナの意見を聞きたい箇所へ、短い言葉を書き添える。
神は、その動きを見ていた。
廊下で彼女へ伝えたことと、今、彼へ伝えたことは違っている。
けれど、どちらも、相手を思って待つ理由として受け取られた。
神は、その違いを説明しなかった。
アテナには、ヘルカイザーからの希望だと伝えた。
ヘルカイザーには、アテナの忙しさを伝えた。
二人が直接話せば、どちらの言葉も、そのままでは成り立たなくなる。
けれど、直接話す機会こそが、今、奪われていた。
神は、彼が図面へ戻るのを見た。
仕事が落ち着くまで待つという返事は、穏やかだった。
アテナが引き返したときにも、荒い言葉はなかった。
どちらかが相手を責め始めたわけではない。だからこそ、言い争いから事情が表へ出ることもなかった。
神は、来訪について何も語らないまま、その場の会話を終えた。
残されたヘルカイザーは、彼女に見てもらいたい箇所へ、また一つ印をつけた。
ヘルカイザーは、何の疑いも抱かなかった。嘘だと気づく理由がなかったからだ。
手紙を受け取っていれば、別の問いが生まれたかもしれない。
会いに来たと知らされれば、今どこにいるのかを尋ねたかもしれない。
けれど、そのどちらも、彼の知っている出来事にはなっていなかった。
アテナは忙しい。
今、伝えられたのは、それだけだった。
ヘルカイザーは、彼女が落ち着いたときに会えればよいと思い、再び机へ向き直った。
廊下で足を止めたアテナが、どのような顔で戻っていったのかを、彼は見ていない。
会うのを待ちたいと思っている彼の顔も、彼女には見えなかった。
ほんのわずかな距離に、二人はいた。互いに会いたいと思っていた。
それなのに、顔を合わせることはなかった。
アテナは、戻った机で、手元の書き留めへ目を向けた。
会えば話したかったことが、まだそこにある。
今日は伝えられなかった。
紙を見つめてから、彼女は、それを大切に置き直した。
研究が落ち着いた頃に、また訪ねようと思った。
ヘルカイザーも、研究室で、見てもらいたい図面を残していた。
相手へ向けた問いを、一方的に終わらせるつもりはない。
それでも、同じ紙を見ながら返事を聞く時間は、今日も生まれなかった。
彼女は、友人から待ってほしいと言われたと思っている。
彼は、友人の仕事が忙しいのだと思っている。
思いやりから選んだ待ち時間が、二人の間へ積み重なっていた。
アテナは、手紙に書いた誘いを思い出した。
時間が合えば、お茶を飲みながら話したい。
今は、まだその時間が合わないのだろう。
彼の研究も、自分の仕事も落ち着けば、また向かい合って話せる。
彼女は、そのつもりで、今日片づけるべき書類を開いた。
ヘルカイザーも、机の上で紙を動かしていた。
アテナの文字がある資料を脇へ置き、自分が書いた図面を開く。
次に会ったときには、どこから説明しようかと考えた。
そのことを、今、相手へ伝える声はない。
会いたいという短い言葉を届けるはずだった手紙も、彼の机にはない。
アテナが書き足していた問いと、ヘルカイザーが残していた印は、離れた場所で、別々に増えていった。
同じ机へ並べる時間だけが、先へ延ばされていた。
◇
研究室の奥では、マイナスエネルギー貯蔵庫が稼働を続けていた。
「……ふむ」
ヘルカイザーは、救われた魂の記録を眺めていた。成果は確かに増えている。だが、別の場所では新たな苦しみが生まれ続けている。
新しい結果が、前の記録の隣へ並ぶ。
負のエネルギーを分離できたこと。苦しみが和らいだ魂の状態。
そこには、装置を作った成果が残っていた。
ヘルカイザーは、一つずつ目を通した。
初めて成功した日のことも、覚えている。アテナが嬉しそうに声を上げ、二人で記録を残した。
その後にも、救われた魂がいる。
けれど、取り除いた量を見ていると、それだけでは終わらないことも分かる。
彼は、次の紙を引き寄せた。
新たに生まれる負のエネルギーのことが、気になっていた。
「……どれだけ取り除いても、また増えるのですねぇ」
ヘルカイザーは、前の結果と見比べた。
装置が働いたことは、記録から分かる。
それでも、新しい苦しみが生まれるなら、また取り除かなければならない。
彼は、回収された量へ目を向けた。
同じ時間で、もう少し多く扱えないだろうか。
今の仕組みを、どこまで変えられるだろうか。
問いが浮かぶと、その答えを探すために図面を開いた。
彼の手は、以前と同じように動いていた。
資料を読み、気になったところへ印をつけ、次の案を書く。
けれど、そのとき最初に見直す場所は、少しずつ変わっていた。
ヘルカイザーは、分離した量を、もう一度書き出した。
前の記録にも、救われた魂についての記述はある。
それを消したわけではなかった。苦しみが和らいだことも、記憶されていた。
ただ、今の問いに必要だと思う箇所へ、先に目が向く。
もっと多く扱うには、何を変えればよいか。
考え始めると、量や時間の違いが、手がかりとして浮かび上がった。
彼は、それらを比べた。
研究を始めたときには、ひとつの魂に、何が起きるかを繰り返し見ていた。
初めて聞いた、苦しくないという声は、記録にも残っている。
その言葉が大切でなくなったわけではなかった。
けれど、同じ記録を開いても、今回の計算に使いたい数字へ先に目が向く。
前の結果より増やせるか。
時間を変えたら、どこまで扱えるか。
図面の余白には、その問いが並び始めていた。
ヘルカイザーは、数字の隣へ、比較するための言葉を書いた。
誰かに見せるためにも、自分で読み返すためにも、残しておくことにした。
丁寧に記録を取る習慣は、続いている。
その記録の中で、何を最も気にしているかだけが、静かに移り変わっていた。
今も、魂を救うつもりでいる。
そのつもりのまま、紙の上で、回収できる量へ問いを向け続けていた。
新しい答えが見つかりそうになると、さらに計算を進めたくなる。
彼には、それが、改良へ近づいている感覚だった。
以前は、次にどの魂を救えるだろうかと考えていた。今は、どうすればもっと大量にマイナスエネルギーを回収できるだろうかという疑問が、頭から離れなかった。
本人には、その違いが研究の進歩に思えた。
魂の苦しみを減らすために、より多くの負のエネルギーを取り除く。
その考え方は、彼の中で自然に繋がっていた。
何かをやめたつもりも、大切な目的を変えたつもりもない。
装置を改良し、結果を増やしていきたい。
以前から行ってきた研究の続きとして、新しい問いに目を向けていた。
ヘルカイザーは、紙に書いた量を見た。
ここを変えれば、今より多く扱えるかもしれない。
その先を考え始めると、しばらく、ほかの箇所へ視線が戻らなかった。
何を最初に見ているのかを、彼自身が問い直すことはなかった。
「……もう少し、効率を上げたいところですねぇ♪」
机へ戻ると、早速新しい計算を始めた。
以前の図面を隣へ置き、変えたい箇所へ線を加える。
数字を比べ、書き直し、別の案も試しに記した。
ヘルカイザーは、楽しそうに紙を眺めていた。
まだ考えるところがある。
そのことは、以前と同じように、彼の興味を引いていた。
机の近くには、アテナの意見を聞きたいと思って残した紙もある。
けれど、今は、新しい計算へ注意が向いていた。
一つを書き終えると、次の箇所へ進む。
誰かへ説明するために言葉へ直す前に、また次の問いが浮かんでいた。
アテナと話すときなら、どこから考えたのかを説明しただろう。
彼女は、途中で問いを向けたかもしれない。
何を比べたのか。なぜ、その箇所から変えたいと思ったのか。
いつも、そうして図面を覗き込み、気になったことを伝えていた。
今は、彼の言葉を待つ相手が、隣にいない。
ヘルカイザーは、まだ書けるところへ線を加えた。
友人が必要なくなったのではない。彼女が来たら、また話すつもりだった。
けれど、その会話が始まらないまま、自分の考えだけが、その日の図面を埋めていく。
彼は、一つの数字を直した。
そこを変えると、次に考える箇所も変わる。
その続きを追ううちに、また別の紙を引き寄せた。
貯蔵庫からごくわずかにエネルギーが流入する。ヘルカイザーは数値を確認し、装置に異常がないことを確かめた。
流入があることは、すでに知っていた。
そのことも記録へ残し、動きに目を通す。
装置は、負のエネルギーを分離している。貯蔵の仕組みも働いている。
見た範囲の状態を確かめ、ヘルカイザーは、先ほどの計算へ視線を戻した。
自分の考える順番が変わりつつあることは、そこで見ている計測値とは違うところにあった。
彼は、流れ込みと、自分の疑問の変化を結びつけてはいなかった。
研究が進めば、知りたいことも変わる。
今の彼には、そのように感じられていた。
そして、再び研究へ戻った。
白い布は、端から黒く染まり続けていた。
その変化に気づけたかもしれない友人は、誰かの嘘によって遠ざけられている。
まだ、間に合う可能性はあった。
けれど、残された時間は少しずつ短くなっていた。




