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転生した主人公が次元神になる外伝  作者: ヘルカイザー
知恵の女神と偽りの次元神

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第7話 作られた神



 マイナスエネルギー貯蔵庫が完成した頃、神々は口々にヘルカイザーを称賛した。


 苦しみを抱えた魂から、負のエネルギーを分離する。


 その発明が実際に魂へ安らぎをもたらしたことは、神界でも驚きをもって受け止められた。


 記録へ目を通した者が、動きについて尋ねる。説明を聞いた者が、別の箇所へ問いを向ける。


 ヘルカイザーは、そのたびに顔を上げた。


 何を知りたいのかを確かめ、分かっていることから話す。まだ研究を続けているところについては、そのように答えた。


 アテナは、その隣で説明を聞いていた。


 何度も囲んだ図面のことが、今は、ほかの神々の前で語られている。


 研究室で二人が見た成果を、皆にも知ってもらえることが嬉しかった。


 あの日、魂の声を聞いたときのことを思い出す。


 苦しくないと、確かに言葉が聞こえた。


 記録を持つ手に力が入り、ヘルカイザーの確認が終わるのを待った。成功だという返事を聞いて、ようやく喜びを言葉にできた。


 その時間を、彼女は忘れていない。


 だから、発明を褒める声を聞くと、その向こうに、救われた魂の姿も浮かんだ。


「苦しみが和らいだことを、確かめられたのですね」


 尋ねられると、アテナは頷いた。


「はい。記録と、魂の様子の両方を見ていました」


 説明しながら、手元の資料を示す。


 何を大切にして研究したのかも、伝わってほしかった。


 ヘルカイザーが隣から補足し、アテナも、その言葉を聞いて別の箇所を示した。


 互いの説明を繋ぎながら、一つの研究について話していた。


「素晴らしい発明だ!」


「人間だった者が、これほどの技術を……!」


 感嘆の声に、アテナも小さく頷いた。


 彼が人間だったと聞いたとき、自分も驚いた。神に近い力を、自分で研究して作ったと知り、どのように考えたのかを尋ねた。


 その答えから始まった交流が、今の発明へ繋がっている。


 ヘルカイザーは、褒める声を聞いて、穏やかに笑っていた。


 見知らぬ仕組みへ興味を向けられることも、作ったものについて尋ねられることも、彼には馴染んだ喜びのようだった。


 アテナは、屋台の昔話を思い出した。


 作ったものを使ってもらえると、また考えたくなる。


 あの言葉のとおり、彼は、今も次に考えたい箇所へ目を向けていた。


 彼は丁寧に頭を下げ、いつものように笑った。


「ありがとうございます♪ ですが、まだまだ改良の余地がありますからねぇ♪」


 その傍らで、アテナも嬉しそうに微笑んでいた。


 称賛の声が落ち着いた後、彼女はヘルカイザーへ顔を向けた。


「皆様にも、興味を持っていただけたようですね」


「ええ♪ いろいろ、お尋ねいただきましたねぇ♪」


「ご説明を聞いて、私も、改めて気になったところがあります」


「おや♪ どちらでしょうか?」


 彼は、すぐに図面の方を見た。


 アテナは、その反応に笑みを深めた。


 褒められた後にも、二人の間では研究の話が始まる。今日、尋ねられたことも、次に考える題材になりそうだった。


 その続きを、彼女は楽しみにしていた。


 ヘルカイザーは、図面の端へ短い言葉を書き添えた。


「後で見ますと、また違うところが気になるかもしれませんねぇ♪」


「ええ。私も、資料を読み直してみます」


 アテナは頷いた。


 貯蔵庫の研究は、今も続いている。今回の記録から考えたことを、次の改良へ繋げたい。


 彼女がその話を始めると、ヘルカイザーも、すぐに耳を傾けた。


 褒められたことは嬉しい。それでも、二人が顔を寄せる先には、まだ答えのない問いも並んでいた。


 どこから話すかを考え、自分の資料を隣へ置く。


 相手が何を見ているのか分かる距離で、言葉を交わせる。


 そのときのアテナには、いつもの時間が、そのまま続いていくように思えていた。


 同じ場にいた者たちが、そのやり取りを眺めていた。


 しかし、時が経つにつれて、一部の神々の視線は変わっていった。


 初めは、発明について交わされていた言葉だった。


 どのような仕組みで、何ができるのか。研究の成果へ向けられていた話題が、ある者たちの間では、少しずつ別のところへ移った。


 誰がそれを作ったのか。


 研究そのものに関心を向ける者も、もちろんいた。記録を読み、以前の説明と比べ、分からないところを尋ねる。


 そうした問いには、ヘルカイザーも丁寧に答えていた。


 ところが、一部の者は、そのやり取りまで不満そうに眺めた。


 知りたいことを尋ねる声と、彼が認められることを嫌う声が、神界の中にあった。


 なぜ、その者が褒められているのか。


 ヘルカイザーの説明を聞こうともせず、離れた場所から眺める神がいた。


 近くで話す声は、以前よりも低くなる。彼の名が出ると、短く笑う者もあった。


 その者たちは、救われた魂についてではなく、彼が人間だったことについて話し始めた。


 同じ記録を前にしても、見る場所は変わっていった。


 成果を認める言葉が出ると、不満そうに顔を背ける者がいる。


 アテナが研究の続きを楽しみにしていると聞けば、なぜあの者ばかりと呟く者もいた。


 本人たちが何を話しているのかを聞きに行くのではなく、離れた場所から、その親しさを数えた。


 ヘルカイザーが新しい図面を見せる。


 アテナが、興味深そうに覗き込む。


 そのたびに、互いの不満を言い合う声が重なった。


 誰かが口にした見下す言葉へ、別の者が同じような言葉を返す。


 そうして、発明を語るための名が、彼らの間では、悪意を交わすために使われるようになっていた。


「……所詮、人間だった者ではないか」


「自分で神の力を作っただけの、作られた神だ」


「偽物の神を、なぜあれほど持ち上げる?」


 その言葉へ、誰かが頷いた。


 人間だったという同じ事実が、今度は、彼を貶めるために口にされる。


 自分で力を作ったことも、研究を重ねたことも、称賛する理由としては扱われなかった。


 彼らが知りたいのは、どのように実現したかではない。


 その成果を、なぜ認めなければならないのか。


 答えを探す代わりに、偽物という呼び方を重ねた。


「……本人も、随分と楽しそうにしているではないか」


 一人の神が、離れた場所からヘルカイザーを見た。


 彼は、アテナへ何かを説明していた。彼女が図を示すと、頷いて別の線を加えている。


 その様子に、神の表情が歪んだ。


 笑顔まで、気に障るようになっていた。


 最初は小さな陰口だった。やがて、その言葉は本人へも向けられるようになった。


「貴様のような偽物に、神界は相応しくない!」


 研究室の中へ、荒い声が響いた。


 ヘルカイザーは、机から顔を上げた。


 広げていたのは、改良について考えている図面だった。隣には、その前に見ていた記録がある。


 彼は、声の主へ視線を向けた。


 神は、その反応を待つように立っていた。言葉が届いたかを確かめるように、彼の顔を睨んでいる。


 ヘルカイザーは、小さく首を傾げた。


 それから、机の上で重なっていた紙を整えた。


 研究室へ押しかけた神が怒鳴っても、ヘルカイザーは楽しそうに図面を整理していた。


「おやおや♪ そうなのですかぁ♪」


 返事は、明るかった。


 神は、眉を寄せた。


 怯える様子も、怒鳴り返す気配もない。ヘルカイザーは、その場にいる相手へ返事をした後、また図面へ目を落としていた。


「……聞いているのか」


「ええ♪ 聞こえておりますよ♪」


 彼は顔を上げ、そう答えた。


 神は、その表情を見つめた。


 言葉を返せずに黙っているのではなかった。気丈に振る舞おうと、無理に笑っている様子でもない。


 彼の注意は、机の上にも向いたままだった。


 神は、もう一度、声を強めた。


「……なぜ怒らん!」


「ふむ? 自分が人間だったことも、自分で力を作ったことも事実ですので♪」


 ヘルカイザーは、自分の答えで説明がついたと思ったようだった。


 神は、まだ彼を睨んでいる。


「神々とは違うと言っているのだぞ」


「ええ♪ 作ったものですからねぇ♪」


 そこに、言い訳を探す間はなかった。


 彼は、人間だったことを隠していない。力を自分で作ったことも、聞かれれば、そのとおりに答える。


 神にとっては、相手を傷つけるはずの言葉だった。


 けれど、ヘルカイザーには、その来歴を否定する理由がなかった。


 机の上の記録へ目を戻し、彼は、先ほど考えていた箇所を探した。


 神は、その仕草を見て、唇を歪めた。


 机の上には、描き直した跡のある紙があった。


 ヘルカイザーは、先ほどまで見ていた箇所を見つけ、前脚で押さえた。


 神は、その紙へ視線を落とした。


 何が書いてあるのかを尋ねるつもりはない。どこを直そうとしているのかにも、関心を向けなかった。


 その図面へ戻る態度自体が、気に入らなかった。


「……まだ、それを続けるのか」


「ええ♪ 考えておきたいところがありますので♪」


 ヘルカイザーは、当たり前のように答えた。


 研究室へ来た者の顔色を見て、案を捨てる理由はなかった。


 神は言葉を切った。


 強く言えば、相手が反応を変えると思っていた。ところが、彼は、同じ調子で返事をして、同じ紙へ向き直る。


 押しかけた側の苛立ちだけが、その場に残っていた。


 ヘルカイザーは、心の底から気にしていなかった。


 神々の評価を得るために発明しているわけではない。偽物と呼ばれても何とも思わない。目の前にある研究の方が、はるかに面白かった。


 何を褒められたのかは、聞けば分かる。


 どこを面白いと思ったのかを話してもらえば、次の考えに繋がることもある。


 けれど、今の神の言葉には、図面について尋ねたいことがない。


 ヘルカイザーは、改良案の一角を見た。


 こちらを変えたら、どう動くのか。


 前の結果と比べるために、何を確かめればよいのか。


 彼にとって、考えたいことは、そちらにあった。


 小さな前脚が、図面へ向かう。


 神から見れば、その落ち着きが、ますます腹立たしかった。


 ヘルカイザーは、怒りを押し隠しているのではなかった。何度言われても気に留めないことが、侮辱する側には、かえって耐えがたくなっていた。


 そのことを知ったアテナは、静かに怒った。


「……酷いことを言う方もいるのですね」


 アテナは、研究室でヘルカイザーへ向き合っていた。


 最初にその言葉を聞いたとき、何について言っているのかを、もう一度確かめた。


 発明の問題を指摘されたのではない。魂にどのような変化があったかを、問い直されたわけでもない。


 人間だったことや、自分で力を作ったことを理由に、彼が侮辱されていた。


 アテナは、ゆっくりと息をついた。


 図面を囲んだ日々を知っている。資料を読み返し、うまくいかなかったところを調べた時間も、隣で過ごした。


 その努力に目を向けず、彼の来歴を貶める言い方が、胸に引っかかっていた。


「おや? 自分は気にしていませんよ♪」


「……本当に?」


 アテナは、彼の顔を見た。


 礼儀正しい彼が、こちらを心配させないように返事をしたのだろうかとも思った。


 けれど、ヘルカイザーは、困った顔も、沈んだ顔もしていない。


 彼女が問い返したことに、少し首を傾げているだけだった。


「自分で作った力だというお話でしたら、そのとおりですしねぇ♪」


「……それを、あなたを貶めるために言う方がいるのですよ」


「おやおや♪ そうでしたかぁ♪」


 彼は、その意味を聞いても、表情を変えなかった。


 アテナは、隣に広げられた図面へ目を向けた。


 どうやら彼の関心は、もう、そちらへ戻りかけている。


「ええ♪ それより、アテナさん。こちらの改良案を見ていただけますか?♪」


 アテナは呆れたように笑い、設計図を覗き込んだ。彼が平気だとしても、侮辱が正しいことにはならない。それでも、今日の彼の楽しさを遮りたくはなかった。


「……どちらを変えたのですか?」


 問いかけると、ヘルカイザーは嬉しそうに一角を示した。


「こちらですよ♪ 前にお話ししたところも、少々、考え直してみましてねぇ♪」


 アテナは、線を辿った。


 前の案との違いが見える。その先を考えると、別の箇所も気になった。


「この形ですと、こちらへの影響も見たいところですね」


「ええ♪ そこも、聞いていただきたかったのですよ♪」


 彼は、すぐに説明を始めた。


 アテナは、その声に耳を傾けた。


 侮辱されたことを気にしない彼の態度には、まだ少し呆れている。


 けれど、見せたいものがあると話す顔は、よく知っているものだった。


 彼女は資料を引き寄せ、気になった箇所を書き留めた。


 ここで二人が楽しみにしている時間まで、誰かの悪意で変えてしまいたくなかった。


 アテナは、改良案の説明を聞き終えたところで、顔を上げた。


「……研究について気になるところをお伝えするのは、これからも続けさせてくださいね」


「もちろんですよ♪ そちらは、ぜひ伺いたいところです♪」


 ヘルカイザーは、嬉しそうに答えた。


 アテナも頷いた。


 何かが危ういと思えば、その点を尋ねる。説明が足りなければ、もう一度教えてほしいと伝える。


 そのやり取りと、彼を貶める言葉を、同じものとして扱う気にはなれなかった。


 彼女が尊敬しているのは、人間だったことを隠さず、自分で調べ、作り、考え直す発明家だった。


 本人が平気でも、その来歴を侮る言葉へ、同意するつもりはない。


 アテナは、その思いを抱いたまま、図面へ視線を戻した。


 今の説明には、自分の知っている資料と比べたいところがあった。


 そちらを示すと、ヘルカイザーも、また興味深そうに顔を寄せた。


     ◇


 しかし、侮辱しても傷つかないヘルカイザーを見て、神々の不満は別の方向へ向かい始めた。


「……本人に何を言っても無駄だな」


「ならば、アテナ様との交流を減らせば良い」


 その言葉に、そばの神が顔を向けた。


 ヘルカイザーは、侮辱しても図面へ戻ってしまう。


 怒らせることも、思いどおりに落ち込ませることもできない。


 けれど、アテナと話しているときには、楽しそうだった。彼女が何かを示せば、熱心に耳を傾ける。新しい案があれば、真っ先に見せたがる。


 その姿へ向いていた妬みが、別の考えに結びついた。


「あの者に、そこまで構われる必要はない」


 誰かが言った。


 研究のために必要かどうかを、本人たちへ尋ねるつもりはなかった。


 ただ、二人が会う機会を減らしたい。


 その欲求を、もっともらしい言葉で包もうとしていた。


 嫉妬に歪んだ神々は、正面から対立する代わりに、小さな嘘を重ねることを思いついた。


 アテナに直接、友人との交流をやめるよう求めれば、理由を尋ねられるだろう。


 ヘルカイザーへ言っても、彼は、なぜそうする必要があるのかと首を傾げるだろう。


 そのどちらとも、言葉を尽くして話す気はなかった。


 届けるものが、届かない。


 伝えるはずのことが、伝わらない。


 そうした小さな断絶なら、忙しさや行き違いに紛れるかもしれない。


 彼らは、二人が互いを信じていることまで、妨害に利用しようとしていた。


 何かが届かなくても、相手をすぐに責めることはしない。その穏やかさが、嘘の入り込む隙になると考えた。


 ある日、忙しいアテナは、ヘルカイザーへ届ける研究資料を包んでいた。


 机の端には、先に片づけなければならない書類が残っていた。


 アテナは、それを見てから、手元の資料へ目を戻した。


 直接持っていければ、気になったところを、その場で説明できる。


 けれど、今は、研究室へ向かう時間が取れそうになかった。


 彼女は、資料の順番を整えた。


 どこから読めば話が繋がるかを考え、もう一度、挟んだ紙の位置を確かめる。


 先に目を通しておいてもらえれば、次に会ったとき、その続きから話せるだろう。


 資料には、彼と話していたことに関係する箇所があった。


 読んでいる途中で気づき、研究室へ持っていこうと思ったものだった。


 アテナは、もう一度そこを開いた。


 この部分を読んだら、ヘルカイザーは、前の案を思い出すだろうか。


 自分とは違うところが気になって、別の問いを向けてくるかもしれない。


 そうなれば、二人で、また調べ直すことになる。


 アテナは、少し微笑んだ。


 直接説明したかった理由は、資料の意味を正確に伝えるためだけではなかった。


 彼の返事を聞いて、その場で続きを考える時間も楽しみだった。


 けれど、今日は、その楽しみを少し先へ置くことになる。


 彼女は、開いていた箇所を閉じ、包みに戻した。


 そう思いながら、包みの端を丁寧に揃えた。


「……直接お渡ししたかったのですが……」


 そこへ一人の神が現れ、親切そうに申し出た。


「私がお届けしましょうか? ちょうど近くへ参りますので」


 アテナは顔を上げた。


 神は、穏やかな表情で立っていた。


 手元の包みへ目を向け、急かすこともなく返事を待っている。


 親切な申し出に思えた。


 アテナは、残っている書類を一度見た。資料を届けてもらえるなら、こちらの仕事を終えることができる。


 その後で研究室へ行ける機会を考えればよい。


 彼女は、包みを持ち上げた。


「まあ、助かります。よろしくお願いしますね」


 アテナは何の疑いもなく包みを託した。


「研究の続きに関係する資料です。お時間のあるときにご覧になっていただければ、とお伝えください」


 アテナは、そう添えた。


 神は、微笑んで頷いた。


「承知しました」


 アテナは、もう一度礼を言った。


 神の手へ渡った包みから、自分の手を離す。


 頼んだことは、難しいことではないはずだった。研究室へ資料を届け、時間のあるときに読んでほしいと伝えてもらう。


 引き受けてくれた相手へ、それ以上の確認を重ねようとは思わなかった。


 神も、包みを確かめるように持ち直していた。


 手を滑らせたり、ぞんざいに扱ったりする様子はない。


 アテナには、その丁寧さが、気遣いに見えた。


 部屋を出る神を見送って、彼女は椅子へ戻った。


 次に目を向けた書類の行を、読み始める。


 預けた包みを持つ者は、彼女の見える場所からいなくなった。


 その返事に、彼女は安心した。


 ヘルカイザーが紙を広げる姿を思い浮かべる。読めば、気になるところが見つかるかもしれない。


 次に会ったとき、どんな問いが返ってくるだろう。


 アテナは、少しだけ笑みを浮かべてから、机の書類へ向き直った。


 資料は、これから友人へ届く。


 彼女は、そのつもりで、目の前の仕事へ意識を戻していた。


 神は丁寧に受け取り、部屋を出る。


 そして、誰もいない回廊で足を止めた。


 部屋を出たときまで浮かべていた微笑みが、消えた。


 神は、手の中の包みへ目を落とした。


 順番を整え、丁寧に包まれた資料だった。


 アテナが何を話したがっているかは、先ほどの言葉からも分かる。届ければ、ヘルカイザーは、それを読んで次の会話を楽しみにするだろう。


 そのことが、神には気に入らなかった。


 回廊の先へ視線を向ける。


 今、自分の手元を見ている者はいない。


 神は、包みを持ち直した。


「……ふん。あの偽物に渡す価値などない」


 神は、その包みを捨てた。


 届けもしなければ、返しもしない。ただ、アテナの信頼を踏みにじった。


 資料の内容が間違っていたからではない。


 読んで、役に立たないと判断したわけでもなかった。


 神は、二人がその資料を挟んで話すこと自体を、妨げたかった。


 包みを手放すと、何事もなかったように歩き始める。


 アテナの部屋へ戻って、届けなかったと告げるつもりはない。ヘルカイザーへ、預かったものがあると伝える気もなかった。


 頼まれたときの穏やかな声だけが、相手の記憶に残る。


 その信頼の上へ、嘘を置こうとしていた。


 数日後、アテナが無事に届いたか尋ねると、神は微笑んで嘘をついた。


「ええ。確かにお渡ししました」


 返事は、滑らかだった。


 アテナは、その言葉を受けて頷いた。


「ありがとうございます。助かりました」


 神は、礼を受けて微笑んだ。


 彼女は、その顔に嘘を見つけなかった。


 頼んだ資料が無事に届いた。それなら、次に会えるとき、その話をすればよい。


 アテナは、手元に残していた書き留めへ目を向けた。


 届けてもらった資料の、どこが気になったのかを記したものだった。


 次に話すときには、これを見ながら説明しようと思っている。


 ヘルカイザーなら、その前後についても尋ねるかもしれない。自分とは違う一節を示して、ここも面白いと話すかもしれない。


 そうした反応を思い浮かべると、少し笑みが浮かんだ。


 彼女は、その紙を、大切に置き直した。


 今すぐ会えなくても、話題は、二人の間に残っているはずだった。


 相手の手元に届いていると思うからこそ、もう一度届けなければならないとは考えない。


 嘘の返事は、その自然な判断の中へ入り込んでいた。


 忙しい合間に気になっていたことが一つ片づいたと思い、アテナは、また仕事の続きへ意識を向けた。


 その背を、神は見送った。


 届けなかったことを咎められることも、包みの行方を尋ねられることもなかった。


 アテナからの礼を聞きながら、神は、最後まで本当のことを口にしなかった。


 一方、ヘルカイザーはその包みの存在さえ知らなかった。


 研究室の机には、彼自身の図面と記録が広がっていた。


 ヘルカイザーは、一枚を持ち上げて、前にアテナと話した箇所を見た。


 そのときの意見が、余白に残っている。


 彼女が次に来たら、こちらを見てもらおうと思った。


 別の紙にも、尋ねたいことがある。調べたことを聞けば、今の案と比べられるかもしれない。


 彼は、その二枚を、後で取り出しやすい位置へ揃えた。


 届くはずだった資料のために、場所を空けて待っていたわけではない。


 その資料があることも、彼へ届けたいとアテナが考えていたことも、知らされていなかった。


 ヘルカイザーは、何かが失われたとは思わず、次の図面へ目を向けた。


 アテナの文字が残った紙も、近くに置かれていた。


 以前、彼女が気になると伝えた箇所を読み返す。


 ヘルカイザーは、それを、今考えている案と見比べた。


「……こちらも、お話ししてみたいところですねぇ♪」


 小さく呟き、書き込みを加える。


 彼にとって、友人が来ない時間は、研究を続けながら、次の話を用意する時間でもあった。


 仕事が忙しいのであれば、落ち着いてから来るだろう。そのときに、見てほしいものを広げればよい。


 何も知らされていない彼は、そう考えていた。


 アテナもまた、資料を読んだ友人から、次の問いが返ってくることを思い描いていた。


 どちらも、相手との会話を終えたつもりはなかった。


 けれど、片方が渡したと思っているものを、もう片方は受け取っていない。


 その違いを、二人が同じ机で確かめる機会が、まだなかった。


「アテナさんも、お忙しいのでしょうねぇ♪ 次にお会いしたら、新しい研究をご紹介しましょう♪」


 彼は、明るくそう言った。


 アテナへ、何かを渡したのに返事がないと不満を抱く理由もない。彼女が送ったものを無視したつもりもなかった。


 机の上へ、また一つ、新しい書き込みを加える。


 気になる箇所が増えたので、次に話したいことも増えた。


 ヘルカイザーは、その続きを考えた。


 アテナも、離れた机で、自分が送った資料のことを覚えていた。


 彼が読んで、どのように考えたのかを聞いてみたい。


 互いに、次の会話を待っていた。


 けれど、その話を繋ぐはずだった包みは、どちらの手元にもなかった。


 互いを嫌いになったわけではない。ただ、会うための小さな橋が、誰にも知られず取り除かれていった。


 アテナの机には、次に話すための書き留めがある。


 ヘルカイザーの机にも、彼女に見てもらいたい案が残っている。


 その紙を、同じ場所へ並べれば、いつものように会話が始まったかもしれない。


 けれど、今は、別々の机に置かれたままだった。


 資料を託したときの礼も、受け取ったという返事を聞いたときの安心も、アテナには本当の気持ちだった。


 次に会うのを待つヘルカイザーの楽しみも、変わっていなかった。


 その間へ差し込まれた嘘だけが、二人の知っている出来事を違うものにしていた。


 貯蔵庫は、今日も動いていた。


 研究を続けるために読み返される記録の傍らで、負のエネルギーは、彼自身へも流れていた。


 それが考え方へ何をもたらすのかを、彼はまだ知らなかった。


 その間にも、貯蔵庫からのマイナスエネルギーは、静かにヘルカイザーへ流れ込み続けていた。

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