第6話 魂を救う発明
新しい研究は、すぐに形になったわけではなかった。
アテナが資料を調べ、ヘルカイザーが仕組みを考える。
最初の一枚には、答えよりも問いの方が多かった。
魂を傷つけずに、苦しみのもとになるものを分ける。そのために、何を調べればよいのか。
アテナは、資料を読み、関係すると思った箇所を書き留めた。次に研究室を訪れたときには、それをヘルカイザーへ説明した。
「こちらは、今の考え方と比べられるかもしれません」
「ふむふむ♪ では、その前のお話から伺っても?」
質問を受けて資料を開き直すと、自分でも、まだ説明できていないところが見つかった。
ヘルカイザーも、考えてきた案を広げた。
その二つを机に並べて、どこまでを結びつけて考えられるのかを話す。
前に描いた図へ戻ることもあった。線を一つ変えたために、その先の案まで見直す必要が出ることもある。
アテナは、そのたびに、初めに話した願いを思い出した。
苦しむ魂が、安らげるように。
調べる場所が増えても、その目的へ戻って、今の案を見つめ直していた。
仮説を立て、試作を重ね、結果を確かめる。
うまくいかなかったところを調べ直し、二人で図面へ書き込みを加える。
「こちらは、考えていたとおりにはなりませんでしたねぇ」
ヘルカイザーが記録を示す。
アテナは、図面の同じ箇所へ目を向けた。
「この違いが、その先にも影響しているのでしょうか」
「ええ。その辺りから、もう一度見たいところですねぇ」
二人は、何を見込んでその案を描いたのかを読み返した。
考え方を変える必要があるのか。それとも、今の試作では分からない部分があるのか。
すぐに一つを選ばず、分かったことと、まだ確かめたいことを並べた。
その日のうちに答えが出なければ、次に調べる箇所を残しておく。
アテナは、自分の資料へも同じ印をつけた。
次に会ったとき、その印から続きを話せるようにしていた。
あるとき、アテナは、持ってきた説明を途中で止めた。
「……こちらは、まだ、今の案へ結びつけられそうにありません」
もう一度読み直した箇所だった。
参考になると思ったことも、比べる範囲を変えると、そのままでは使えなくなる。
ヘルカイザーは、彼女が示す資料を見た。
「ええ。でしたら、どこが違うのかを、聞かせていただけますか」
「それでも、お役に立つでしょうか」
「もちろんですよ♪ そのまま使えないと分かったところも、大切ですからねぇ♪」
アテナは、少し考えてから、説明を再開した。
分かった範囲と、その先へ進めない理由を伝える。
ヘルカイザーは、今の図面へ書き込みを加えた。
資料から何も得られなかったと思いかけた時間も、案を見直すところへ繋がっていた。
アテナは、その紙を見て、次に読みたい資料を思い浮かべた。
役に立ちそうな答えがない日にも、ここで話せることがある。
そのことが分かると、調べ直す時間にも、もう一度、気持ちを向けられた。
研究室の机には、幾つもの記録が積み重なっていった。
新しい紙だけを広げていては、分からなくなることもあった。
アテナは、前の図面を隣へ置いた。
「こちらを変えたのは、この理由でしたね」
「はい♪ そちらで気になったところを、直そうと考えたのですよ♪」
ヘルカイザーの返事を聞き、書き込みを辿る。
今の形になるまでに、何を選び直したのかが見えてくる。
初めて紙へ描かれた簡単な線は、もう、そのままでは残っていなかった。それでも、最初に挙げた課題の中には、何度も読み返すものがある。
研究室で、時間が過ぎていたことに気づく日もあった。
「……今日も、随分と話してしまいましたね」
アテナが顔を上げると、ヘルカイザーも周囲を見た。
「おや♪ 本当ですねぇ♪」
二人で資料へ目を戻す。
初めに開いたところから、何枚も紙が増えていた。
「こちらは、次にお話ししましょうか」
「ええ♪ 自分も、それまでに考えておきますよ♪」
アテナは、途中まで話した箇所へ印をつけた。
紙を揃える間にも、ヘルカイザーから、もう一つ問いが返ってくる。
彼女は少し笑い、忘れないように書き添えた。
難しいことを考えている間にも、そのやり取りには、馴染んだ楽しさがあった。
同じ目的を持って、次の話を待てる。
その時間を重ねながら、二人は研究を続けていた。
アテナは、その一つへ視線を留めた。
魂は、機械の部品とは違う。
苦しみの原因を取り除こうとして、大切なものまで失わせてしまってはならない。
二人は、その点を何度も確認した。
「苦しみが減ったように見えても、ほかに失われたものがあれば、そのままではいけませんね」
「ええ。何が変わったのかを、よく見ていかなければなりませんからねぇ」
ヘルカイザーは、図面の中で魂を示す箇所を見た。
アテナも、同じ場所を見つめた。
機械の動きだけを考えていると、働きかける相手のことが、図の中の小さな印になってしまう。
その向こうには、彼女が苦しみを聞いてきた魂がいる。
大切なものを覚えているまま、安らげる方法を考えたい。その言葉を、研究の途中でも互いに伝えていた。
ヘルカイザーは頷き、説明を続けた。
アテナは、気になったところを、遠慮せずに尋ねた。
そして、幾度もの検討を経て、初期の装置が実際に動かせる段階へ近づいていた。
その日が近づくにつれ、アテナは、同じ記録を何度も開いた。
読み落としたところはないだろうか。
説明を聞いたときには分かったつもりでも、改めて図を辿ると、もう一度尋ねたいことが見つかる。
研究室で伝えると、ヘルカイザーは、その箇所へ顔を近づけた。
「ええ。そこも、今のうちに話しておきましょう」
答えを聞き、自分の言葉でも確かめ直す。
アテナは、一つずつ確認しながら、いよいよ目の前で何が起こるのかを考えた。
願ってきたことが、実際の変化になるかもしれない。
その期待と、慎重に見届けなければならないという思いが、胸の中にあった。
「……さてさて♪」
ヘルカイザーは、研究室で最後の確認をしていた。
「アテナさん、こちらをお願いします♪」
「はい」
アテナは、手元の記録と装置の状態を照らし合わせる。
指先で一行を辿り、装置へ目を移す。
これまで、図面を使って何度も話してきた箇所だった。
アテナは、見たことを順に伝えた。ヘルカイザーも、自分の側から確認したことを答える。
話しながら、記録の次の行へ目を向ける。
いつもの研究室だった。
机も、資料も、隣で答える声も、よく知っている。
けれど、その日は、胸の奥が少し張り詰めていた。
アテナは、一度、静かに息をついた。
ヘルカイザーが、こちらを見た。
「……何か、気になるところがありますか?」
アテナは、手元の記録へ視線を落とした。
「確認したことは、こちらへ書いてあります。ただ、いよいよだと思うと……」
言葉を探し、彼へ顔を向ける。
「願っていた変化を、本当に見られるかもしれないのですね」
ヘルカイザーは、静かに頷いた。
「ええ。そのために、ここまで考えてまいりましたからねぇ」
彼も装置へ目を戻した。
「だからこそ、見たことを、一つずつ確かめていきましょう」
「……はい」
アテナは、頷き返した。
気持ちをなくして、ただ数字を見ることはできない。
けれど、願いが強いからこそ、分かったことを大切に受け止めたいと思った。
彼女は、記録を持つ手の位置を直した。
ここで自分が見るべきことがある。そのために、隣に立っている。
そう考えると、装置の状態へ、また落ち着いて目を向けることができた。
装置の名は、マイナスエネルギー貯蔵庫。
魂が抱える恨みや憎しみなどから生じる負のエネルギーを分離し、別の空間へ蓄えるための発明だった。
その空間を扱う仕組みは、ヘルカイザー自身の次元神の力と直接繋がっていた。
負のエネルギーを分け、別の空間へ移して蓄える。
初めてその案を聞いたとき、アテナは、何をどのように分けられるのかと考えた。
今、目の前にある装置には、その後、二人で重ねた検討が繋がっている。
彼女は、ヘルカイザーへ視線を向けた。
彼も、最後まで装置の状態を見ていた。
説明したいことがあるときの明るさとは、少し違っている。確かめた箇所へもう一度目を戻し、記録と見比べている顔だった。
アテナは、自分が受け持った確認へ意識を戻した。
「……準備はできました」
「ありがとうございます♪」
ヘルカイザーは、処置を受ける魂へ向き直った。
長く苦しみを抱えていた魂だった。
アテナは、その存在へ目を向けた。
研究の途中、何度も図の中の印を見ながら考えてきた相手が、今、そこにいる。
ただ、装置が動けばよいわけではなかった。
この魂が、どうなるのかを見届けなければならない。
彼女は、手元の記録を持ち直した。
長く苦しんでいると話した日のことを思い出す。知っていることを伝えても、苦しみが和らがないことがあった。
その先を考えたくて、二人でここまで研究を続けてきた。
アテナは、装置と魂の両方が見えるように、視線を移した。
アテナは、装置の記録だけでなく、その魂の様子も見守っていた。
数値の上で問題がなくても、苦しみが増しているなら、続けるわけにはいかない。
ヘルカイザーも、慎重に状態を確かめた。
アテナは、彼が顔を上げるのを待った。
ヘルカイザーが、こちらを見る。
「……見ていてくださいねぇ」
「はい。変わったことがあれば、お伝えします」
短く言葉を交わした。
いつも図面を囲むときには、その後に、別の案や疑問が続く。
今は、二人とも、次に起こることへ注意を向けていた。
アテナは、魂から目を離さないようにした。
そして、装置へ力を送った。
静かな光が広がる。
魂のそばに、黒い靄のようなエネルギーが現れた。
それは少しずつ分離され、貯蔵のために用意された漆黒の空間へと移されていく。
黒い靄の動きが、目に見えた。
アテナは、その流れを追いかけ、それから、魂へ目を戻した。
装置の中で何かが動いていることは分かる。
けれど、それが望んだ変化なのかを、まだ言葉にはできなかった。
隣で、ヘルカイザーが計測値を見ている。
彼女は、今、魂に何が起きているのかを見ようとした。
机の上で交わした言葉が、幾つも頭をよぎった。
大切な思いまで失わせてはいけない。
何を分離できたのかだけではなく、魂がどうなったのかを見なければならない。
そのことを話したとき、ヘルカイザーは、図の脇へ書き留めていた。
アテナも、その文字を何度も読み返してきた。
今は、紙の上から目を上げ、その魂を見ている。
黒い靄は、少しずつ移されていった。
変化を見逃したくなくて、瞬きをする間にも意識が向く。
アテナは、ゆっくりと息を吸った。
隣から聞こえる声や動きにも耳を澄ませながら、自分の見ている様子を、言葉にできるようにしていた。
まだ、結果を決めるときではない。
その一瞬を、彼女は、長く感じていた。
早く分かりたいという気持ちがある。それでも、期待だけで受け取らないように、目の前の様子へ意識を戻した。
アテナは息を詰めて、その流れを見つめた。
ヘルカイザーは、計測値から目を離さない。
やがて、魂から、かすかな声が聞こえた。
『……あ……』
アテナは顔を上げた。
『……苦しく……ない……』
アテナは、記録を持っていた指に、思わず力を込めた。
声が、聞こえた。
ずっと聞きたかった言葉だった。
その意味を理解した瞬間、胸の中で、何かが緩みかけた。
けれど、アテナは、すぐにヘルカイザーへ言葉を投げかけず、もう一度魂を見た。
今、起きている変化を、きちんと見ておきたかった。
彼女の願いではなく、その魂から聞こえた声だった。
その声は、先ほどまでと違っていた。
苦しみの中から絞り出す声ではない。
自分に起きた変化を確かめるような、静かな声だった。
「……ヘルカイザーさん……!」
「ふむふむ……」
彼はすぐには顔を上げず、記録を確かめ続けた。
分離されたエネルギーの動き。
魂の状態。
処置の前後に見られた違い。
アテナは、その確認が終わるのを待った。
もう一度、魂の様子を見て、自分が分かったことを伝える。
ヘルカイザーは頷き、記録へ目を戻した。
すぐに答えが欲しかった。それでも、彼が確かめていることは、二人で大切にしてきたところだった。
負のエネルギーが移ったことだけでは、まだ十分ではない。
何のために、その装置を作ったのか。
アテナは、初めて紙へ書いた問いを思い出しながら、隣の返事を待っていた。
確認を終えてから、ようやくアテナへ向き直る。
「……成功ですねぇ♪」
アテナの瞳に、喜びが満ちた。
「本当に……できたのですね……!」
言葉にすると、実感が少しずつ追いついてきた。
机に広げた最初の紙。調べ直した資料。案を変え、もう一度考えた時間。
その先に、今、魂がいる。
苦しみが和らいだという声を、聞くことができた。
アテナは、嬉しさのあまり、すぐには次の言葉を選べなかった。
ヘルカイザーの顔を見て、それから、もう一度魂へ視線を戻す。
彼女が思い描いてきた安らぎが、今、目の前の変化になっていた。
魂が、安らぎを得ていた。
出来事の記憶を、無理に消したわけではない。
その魂を苦しめ続けていた負のエネルギーを、分離することができたのだ。
アテナは、記録へ目を落とした。
研究の間、何度も書き、読み返したことがあった。
大切な記憶まで失わせてはならない。
苦しむ理由を理解することと、苦しみを和らげることの違いを考えた。何を変えたいのかを、二人で話した。
その問いへ、今、一つの結果が返ってきている。
アテナは、静かに息を吐いた。
胸の中にあった緊張が、ようやく喜びへ変わっていった。
アテナは、魂の安らいだ様子を見つめた。
ずっと苦しみを聞きながら、どうすればよいのかと考えていた。
その気持ちを、研究室で話した日があった。
ヘルカイザーが紙を取り出し、負のエネルギーを移せないかと話した。彼女は驚き、次々と問いを向けた。
あのときには、一つの案だった。
今、その案から始まった研究が、魂の苦しみを和らげた。
アテナは、自分の手元へ目を落とした。
記録を持っている手が、少し震えていた。
彼女は、それを持ち直し、もう一度顔を上げた。
ヘルカイザーが、こちらを見ている。
伝えたい言葉が、ようやく一つにまとまった。
研究が面白かったことだけでも、装置が予定どおりに動いたことだけでもない。
苦しんでいた相手が、安らぎを得た。
それを見られたことが、何より嬉しかった。
「素晴らしい発明です、ヘルカイザーさん!」
「おやおや♪ ありがとうございます♪」
ヘルカイザーは、嬉しそうに笑った。
アテナも、その笑顔を見て微笑んだ。
机を囲んで考えていた願いが、今、目の前で一つの成果になっていた。
「……ありがとうございます」
アテナは、もう一度、ヘルカイザーへ言った。
「おやおや♪ アテナさんも、ずっと一緒に調べてくださったではありませんか♪」
「ええ。でも、私の話から、あの案を考えてくださって……」
言いかけて、彼女は少し笑った。
伝えたいことが多くて、一度には言葉にならなかった。
ヘルカイザーも、嬉しそうに記録を眺めた。
「二人で考えてきたことが、ここまで繋がりましたねぇ♪」
「……はい」
アテナは頷いた。
魂の声も、隣の声も、忘れずに覚えておきたいと思った。
それから、二人は、今日分かったことを記録へ残し始めた。
喜びの中でも、見たことを曖昧にしたくはなかった。
後で読み返したときに、何が起こったのかを辿れるように、一つずつ言葉を選んだ。
「……こちらの声も、残しておきたいと思います」
アテナが記録を示すと、ヘルカイザーは頷いた。
「ええ。大切な変化でしたからねぇ」
彼女は、聞こえた言葉を、丁寧に書き留めた。
苦しくない。
短い言葉だったが、何度見直しても、その意味が胸へ届いた。
ヘルカイザーも、自分が見ていた計測値について記していた。
互いの記録を並べ、どのときに何が起こったのかを話す。
聞きたいことは、また増えた。
同時に、今まで分からなかったことの一部が、実際に見た結果へ変わっている。
アテナは、新しく書いた一行を読んだ。
「……今日のことは、きっと、何度も思い出すのでしょうね」
ヘルカイザーが顔を上げた。
「ええ♪ これから考えるときにも、読み返すことになりそうですよ♪」
アテナは、小さく笑った。
彼らしい返事だった。
自分も、同じ記録を、何度も開くことになるだろうと思った。
◇
研究の成果は、神界にも伝わった。
アテナは、ゼウスへ記録を差し出した。
装置がどのように動いたのか。魂に、どのような変化が見られたのか。これから何を確かめていく必要があるのか。
彼女は、順を追って説明した。
最初に、どのような苦しみを和らげたいと考えたのかを話す。
それから、負のエネルギーを分離して蓄えるという案と、そのために調べたことを示した。
ゼウスは、差し出された記録へ目を向けた。
「……ここが、魂に変化が見られたところか」
「はい。苦しみが和らいだと、声を聞くことができました」
アテナは、その箇所を示した。
研究室で見た光景が、また思い浮かぶ。
それでも、報告では、見たことと、これから確かめたいことを分けて伝えた。
喜びが大きかったからこそ、その結果を、正確に受け取ってもらいたかった。
ゼウスは記録を読み、深く頷いた。
「……実に見事な成果だ。これで救われる魂があるならば、何よりではないか」
「はい!」
アテナの声は、自然と明るくなった。
ゼウスが、もう一度記録へ視線を戻した。
「お主らが考えてきたことが、実を結んだのだな」
「はい。何度も話し合い、案を描き直しました」
アテナは頷いた。
初めて、ヘルカイザーから分離の案を聞いたときには、何を調べればよいのかも考え始めたばかりだった。
今は、結果を記した紙を差し出せる。
ゼウスは、二人が検討した箇所にも目を通した。
「この先も、調べることは残っているのだな」
「はい。今回の結果から、引き続き確認したいこともあります」
アテナは、最後の書き込みを示した。
その続きを話せることも、嬉しかった。
ゼウスは、最後の記録まで目を通した。
アテナは、説明の終わった紙を見つめた。
結果が出る前には、何をどこまで伝えられるかも、まだ分からなかった。
今日見たことを、こうして話せる。
それでも、その一例だけで、今後の全てを語れるわけではない。
「これからも、結果を見ながら、調べていきたいと思います」
彼女が伝えると、ゼウスは頷いた。
「うむ。その続きも、聞かせてもらおう」
「はい」
アテナは、深く頷き返した。
資料をまとめながら、研究室で話したいことを思い浮かべる。
褒めてもらえたことも、これから取り組むことも、ヘルカイザーと改めて言葉にしたかった。
ほかの神々も、この発明に驚き、称賛した。
ヘルカイザーは、その言葉に丁寧に頭を下げた。
アテナは、隣からその姿を見ていた。
称賛の言葉を受けるときにも、彼の仕草は上品だった。
噴水のそばで初めて名乗った日のことが、ふと思い出される。
あのときは、目の前の相手について、知らないことばかりだった。
今は、彼が考えかけの図面へ向き直る姿も、試作の記録を読み返す様子も知っている。
皆が褒めている発明が、どんな話から始まったのかも。
アテナは、胸の中に、また喜びが満ちるのを感じた。
長くかけた時間が、一つの成果になったことを、ほかの人にも知ってもらえた。
けれど、その言葉を聞いて、研究の続きを考える気持ちまで終わるわけではなかった。
ヘルカイザーが顔を上げる。
彼の返事を聞く前から、アテナには、また調べたいことがあるのだろうと分かる気がした。
「ありがとうございます♪ ですが、まだまだ調べたいことがありますので♪」
彼にとって、研究が終わったわけではなかった。
一つの魂を救えたことは、確かな成果だった。
同時に、それをもっと確かな方法へと育てていくための課題も残っていた。
アテナは、その続きを楽しみにしていた。
研究室へ戻れば、また記録を開くことになる。
今回の結果を、どのように受け止め、その先へ繋げるのか。ヘルカイザーと話したいことがあった。
「また、調べたことを持っていきますね」
アテナが伝えると、彼は嬉しそうに頷いた。
「ええ♪ 自分も、改めて考えてみたいところがありますので♪」
褒められた後にも、彼は図面を気にしている。
その姿を見て、アテナは微笑んだ。
新しい案を聞くのも、自分の考えを伝えるのも、今までと同じように楽しみだった。
その研究で安らげる魂がいると分かったことが、彼女の気持ちを、いっそう明るくしていた。
机へ図面を広げると、ヘルカイザーは、いつものように前脚で一角を示した。
「こちらなのですが、少々、お話ししても?」
「ええ。聞かせてください」
アテナは、その隣へ資料を置いた。
彼が説明を始める。途中で気になったところを尋ねると、彼も、少し考えてから言葉を返した。
思いついたことを伝え合い、同じ紙へ書き足していく。
アテナは、これからも、そのやり取りを続けたいと思った。
研究が進めば、まだ知らないことに出会うだろう。新しく見えた課題を、もう一度、二人で考えることになるだろう。
今は、その先へ向かうことも、楽しみだった。
彼女が図面へ指を置くと、ヘルカイザーも、そこへ顔を向けた。
◇
貯蔵庫は、その後も稼働を続けた。
救われる魂の数が増えるにつれて、漆黒の空間へ蓄えられるマイナスエネルギーも増えていった。
記録へ、新しい結果が加わる。
最初の成果だけを眺めていた頃とは、並ぶ資料の量も変わっていた。
ヘルカイザーは、一つずつ目を通した。
どのように負のエネルギーが分離され、貯蔵されているか。以前の記録と比べて、違うところがあるか。
気になった箇所を読み直し、次に調べたいことを書き留める。
アテナと図面を囲むときにも、話すことは尽きなかった。
研究は、変わらず続いていた。
ヘルカイザーは、装置の記録を欠かさず確認していた。
ある日、計測値を眺めていた彼は、小さく首を傾げた。
「……ふむ」
貯蔵庫と、自分の次元神の力を繋ぐ経路。
そこを通して、ごくわずかな負のエネルギーが、自分へ流れ込んでいた。
「……少々、流れてきていますねぇ」
彼は、その数値を記録した。
ヘルカイザーは、記した箇所へ視線を留めた。
流れ込みがある。
それは、見なかったことにするものではなかった。
前の記録も開き、今、分かることを書き添える。
それから、ほかに変化がないかを見た。
研究室には、紙を動かす音が響いた。
彼の手は、いつものように次の確認へ進んでいた。
装置は動いている。処置を受けた魂にも、目立った異常はない。
自身の力も、いつもどおりに扱える。
確認できた範囲では、研究を止めなければならないほどの変化は見られなかった。
「……引き続き、記録しておきましょうかねぇ」
そう言って、ヘルカイザーは印を残した。
まだ分からないところがあれば、調べていく。
彼が研究の中で何度も行ってきたことだった。
今、記録へ残した流入も、そのように、次に見るべき箇所として置かれた。
彼は、別の計測値へ目を移した。
魂の苦しみを減らす装置は、動いている。
研究室で読み返す数字の中に、流れ込みについての記録も加わっていた。
ヘルカイザーは、次の資料を広げた。
まだ、考えたいことは沢山ある。
もっと確実に負のエネルギーを分離するには、どうすればよいか。貯蔵の仕組みを、どのように改良できるか。
いつものように、研究へ意識を戻した。
彼は、負のエネルギーが流れ込んでいることを知っていた。
けれど、そのエネルギーが、自分の考え方へ及ぼす影響までは理解していなかった。
白い布に、一滴の黒い染料が落ちる。
まだ、その染みは小さい。
布全体の色が変わったようには見えない。
ヘルカイザーは、新しい図面へ線を引いた。
苦しむ魂を救うために始めた発明は、今日も静かに動いていた。




