第5話 二人の穏やかな日々
月日が流れるにつれ、二人の会話は研究の話だけにとどまらなくなった。
アテナが執務の合間にあったことを話し、ヘルカイザーが、その日に思いついたことを語る。
研究室の入口で挨拶をすると、ヘルカイザーが顔を上げる。
机の上に紙を広げている日もあれば、作りかけのものを眺めている日もあった。
「今日は、こちらへいらっしゃれたのですねぇ♪」
「ええ。少し時間ができましたので」
アテナは持ってきた資料を置き、その隣へ腰を下ろす。
最初に研究の続きを尋ねることもあった。けれど、座ったまま、今日あったことを話すようにもなっていた。
書類を読んでいるときに気になった言葉。考えをまとめている途中で、ふと思い出したこと。
ヘルカイザーは、手を止めて話を聞いた。
分からないところでは首を傾げ、面白いと思ったところでは問い返してくれる。
その返事を聞いていると、アテナも、自分が何を気に留めていたのかを、改めて考えることができた。
何でもない話から始まったはずが、新しい発明の議論へ繋がることもあった。
「……それは、こちらにも使えるかもしれませんねぇ♪」
話の途中で、ヘルカイザーが紙を引き寄せる。
アテナは、少し身を乗り出した。
「今のお話が、ですか?」
「ええ♪ 少々、違うところから考えてみたくなりましてねぇ♪」
彼が線を引くと、先ほど口にしたことが、思いがけない場所へ繋がっていく。
アテナも、その図へ目を向けた。
初めは話すだけのつもりだったのに、今度は、実際にその形で動くのかが気になり始める。
彼女が問いを向けると、ヘルカイザーは嬉しそうに頷いた。
何を話していても、その先に二人で考えられることが見つかった。
反対に、難しい図面を囲んでいたのに、いつの間にか笑い合っていることもある。
考え込んでいた箇所から顔を上げると、ヘルカイザーも、ちょうどこちらを見ていたことがある。
「……同じところが、気になっていらっしゃるのですか?」
「おや♪ アテナさんもですかぁ♪」
二人で指し示すと、やはり同じ場所だった。
少し前には、別々のところから考えていたはずだったのに、同じ問いへ戻ってきていた。
「また、こちらを描き直すことになりそうですね」
「ええ♪ 随分と、ここへ戻ってまいりますねぇ♪」
その返事に、アテナは笑った。
同じところで立ち止まっていても、前に話したことを覚えている相手がいる。今度は、どこまで考えられたのかを伝え合える。
もう一度、図面を開くことも、彼女には楽しみだった。
ふと会話が途切れたときには、そのまま資料を読むこともある。
隣で紙が動く音を聞きながら、自分の考えを整理する。気になる言葉を見つけたら、顔を上げて話しかける。
その声へ、彼が振り向く。
アテナは、そうした小さなやり取りにも、心が和らぐのを感じていた。
アテナは、その時間を楽しみにしていた。
机へ戻ってからも、研究室で聞いた声が思い出されることがあった。
資料の一節を読み、次に会ったら伝えようと思う。疑問を見つければ、彼はどう考えるだろうと想像する。
それを尋ねるためだけに、すぐ答えをまとめなければならないわけではなかった。
まだ考えかけでも、話すことができる。
ヘルカイザーも、描きかけの図面を見せてくれた。案を一つに決められなければ、並べて意見を尋ねてくる。
分からないことを挟んだまま、一緒に考えていられる。
その心地よさを知るにつれて、アテナは、次に研究室へ向かう時間を楽しみにするようになっていた。
「……今日は、何を作っていらっしゃるのですか?」
「ふむふむ♪ 少しだけ便利なものを、と思いましてねぇ♪」
「少しだけ、ですか?」
「ええ♪ ほんの少しですよ♪」
ヘルカイザーは、楽しそうに紙の端を持った。
アテナは、その仕草を見たとき、すでに少し笑いそうになっていた。
彼の言う「少し」から、長い議論が始まったことが、何度もある。
それでも、今回はどのようなものなのか、まず聞いてみたかった。
「では、拝見します」
「ええ♪ こちらなのですがねぇ♪」
机の上にあった資料を少し寄せ、図面を広げる場所を作る。
アテナは、その紙が置かれるのを待った。
そう言って広げられた設計図を見て、アテナは口を閉じた。
目で追うだけでも、すぐには全体を掴めない。
最初の線を辿ると、別の箇所へ繋がっていた。
その先には、調整のための書き込みがある。余白を読んでいるうちに、まだ見ていない部分へ目を移さなければならなくなった。
「……こちらから順番に、伺ってよろしいでしょうか」
「もちろんですよ♪ まず、こちらをご覧ください♪」
ヘルカイザーは、迷わず説明を始めた。
アテナは頷き、彼が示す場所を追った。
考えていることは分かる。そこを変えれば、確かに便利になるだろう。
けれど、そのために考えなければならないことも、図のあちこちへ書き込まれていた。
「そして、こちらも変えるのですか?」
「ええ♪ それに合わせて、こちらも少々♪」
アテナは、紙の端まで目を動かした。
しばらく説明を聞き、幾つもの書き込みを確かめてから、彼女は隣の発明家を見た。
「……ヘルカイザーさん」
「はい?」
「あなたの『少し』は、あまり信用できませんね」
「おやおや♪」
彼は楽しそうに笑った。
アテナも、つられて笑う。
「便利になるところは、分かりました」
「おや♪ それは何よりですねぇ♪」
「ですが、そこまで辿り着くのに、随分と考えることがありそうですよ」
アテナが余白を示すと、ヘルカイザーもそちらを見た。
「ふむふむ♪ では、どこから考えましょうかねぇ♪」
当然のような返事だった。
アテナは、また笑った。
彼も、簡単に終わると言いたかったわけではないのだろう。作ってみたいことを話しているうちに、考える場所が増えたのだ。
自分も、すでに、そのうちの一つが気になっている。
「こちらです。今のお話ですと、この部分が先に変わってしまうと思います」
「なるほどですねぇ♪ では、そちらを見直してみませんとねぇ♪」
アテナは、自分の資料を開いた。
今日も、ここから話が広がっていきそうだった。
それから二人は、また図面へ向き直った。
そうした穏やかな日々が、重ねられていた。
◇
ある日のことだった。
アテナは、苦しみを抱えた魂について話した。
初めから、新しい研究の相談をするつもりだったわけではなかった。
その日あったことを話しているうちに、気にかかっていたことへ言葉が及んだ。
ヘルカイザーは、手元の図面を脇へ寄せた。
いつもなら、興味を持ったところで、すぐに質問が返ってくる。けれど、そのときは、彼女の説明が終わるのを待っていた。
アテナは、少しずつ話を続けた。
何を失い、どのような思いを抱えているのか。一つの言葉でまとめてしまうには、それぞれの苦しみが違っていた。
彼女は、分かっていることから、順に伝えようとした。
争いによって大切なものを失った魂。
理不尽な仕打ちへの恨みを手放せない魂。
傷ついたときの記憶に囚われ、いつまでも憎しみから離れられない魂。
アテナは、机の一角を見つめた。
相手が何に苦しんでいるのかを聞き、その言葉を理解しようとする。
それだけでも、すぐにできることではなかった。語れない思いもあれば、何度も同じ出来事へ戻ってしまうこともある。
話を聞いた後にも、痛みは続いている。
「……悲しかったことを覚えているだけではなく、その苦しさから離れられないのです」
アテナは、そう言って顔を上げた。
ヘルカイザーは、静かに頷いていた。
彼女は、その反応を見て、また続きを話した。
言葉をかけることで、少しずつ落ち着く場合もある。
けれど、どれほど語りかけても、その苦しみが和らがないこともあった。
穏やかになったように見えても、同じ記憶を思い出すと、再び憎しみに苦しむことがある。
何がその痛みを強めているのか、言葉から分かる場合もある。それでも、理由が分かったからといって、すぐに取り除けるわけではなかった。
「もう苦しまなくてもよいと、お伝えしたいのですが……」
アテナは、言葉を止めた。
そう伝えられることと、相手が苦しまずにいられることは、同じではない。
口にする前から、そのことは分かっていた。
ヘルカイザーは、彼女の顔を見ていた。答えを急ぐことも、話を別のところへ移すこともしなかった。
「……その方々は、苦しみ続けているのですねぇ」
ヘルカイザーは、珍しく長い間、口を挟まずに聞いていた。
「はい。安らぎを得てほしいのですが、簡単ではありません」
「お話を聞いた後にも、続いているのですねぇ」
「はい。少し落ち着くことはあっても、それだけでは和らがないものがあります」
アテナは、ゆっくりと息をついた。
こうして話している今も、すぐに方法が見つかると思っているわけではなかった。
ただ、気にかかっていたことを、彼へ話していた。
ヘルカイザーは、内容を確かめるように頷いた。
「……なるほど。何が苦しいのか分かっていても、その苦しさがなくなるわけではないのですねぇ」
「ええ。だからこそ、どうすればよいのかと、考えてしまうのです」
アテナは、膝の上で手を重ねた。
アテナは、机へ目を落とした。
知識があるからといって、すべてを救えるわけではない。
苦しみの理由を理解しても、その痛みを取り除く方法が見つからないことがある。
ヘルカイザーは、しばらく考え込んでいた。
机へ置いた前脚は、まだ動いていなかった。
紙を引き寄せることもなく、彼は、先ほどまでアテナが話していたことを思い返しているようだった。
アテナも、声をかけずに待った。
いつもの図面の話なら、どこで考えが止まっているのか、自分から指し示せる。
けれど、今、彼が考えていることは、まだ分からない。
伝えたかったことは、伝わっただろうか。
彼女が少し顔を向けると、ヘルカイザーも、ゆっくりと視線を戻した。
「……なるほどですねぇ」
「どうしたのでしょう。難しいお話でしたか?」
「いえいえ♪ むしろ、考えがいのあるお話ですよ♪」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「その魂が抱えている恨みや憎しみを、取り除くことはできないのでしょうかねぇ」
「……負の感情を?」
「ええ♪ 苦しみの原因になっているものを、別の場所へ移せれば……」
アテナは、すぐには言葉を返せなかった。
魂へ語りかけることを考えていた。何に傷つき、どのような思いを抱いているのかを理解しようとしていた。
彼は、その魂を苦しめているもの自体へ、別の働きかけができないかと言っている。
「……魂が抱えているものを、分けるということでしょうか」
「ええ。苦しみのもとになっているものを、そこから移せないかと思いましてねぇ」
アテナは、先ほど話した魂のことを思い浮かべた。
もし、その苦しさが和らぐのなら。
そう考えた瞬間に、何をどう分ければよいのかという問いも浮かんだ。
彼女は、ヘルカイザーへ顔を向けた。
アテナは、目を見開いた。
ヘルカイザーは、新しい紙を取り出した。
まだ図面と呼べるようなものではない。
魂と、その苦しみを生む負のエネルギー。そして、それを移す先。
考えるための図が、少しずつ紙の上に現れた。
アテナは、図を目で追った。
今は、何かが動く仕組みまで描かれているわけではない。
魂がある。その魂が、負のエネルギーによって苦しんでいる。そこから分離できたとすれば、それをどこへ移すのか。
ヘルカイザーは、言葉にしたことを、紙の上へ並べていた。
「こちらは、まだ、考えるために置いているだけですよ」
「……ええ。今、何が分かっていないのかを見ているのですね」
「はい。どこから調べるかも、考えませんとねぇ」
アテナは、紙の端へ手を添えた。
いつも、新しい案を見せてもらうときと同じように、彼が示した場所を見つめる。
けれど、その図が扱おうとしているものは、今までの噴水とは違っていた。
「……そんなことが、できるのでしょうか?」
「まだ、何も分かりませんけれどねぇ♪」
彼は、正直に答えた。
「ですが、考えてみる価値はありそうでしょう?♪」
アテナは、もう一度図を見た。
苦しみを和らげられるかもしれない。
その可能性には、心が動いた。同時に、確かな方法が何も分かっていないことも、見落とすわけにはいかなかった。
「……はい。ただ、どこまで分けられるものなのかも、調べなければなりませんね」
「ええ。その通りですねぇ」
ヘルカイザーは、彼女の言葉を書き留めた。
アテナは、図の中の魂を示した。
この印が表している相手には、記憶があり、思いがある。
アテナは、紙へ置いていた指を、少し動かした。
「最初にお話ししたとき、魂ごとに、苦しみの理由が違うとお伝えしましたね」
「ええ。覚えておりますよ」
「ですから、この図を考える間にも、その違いを忘れずにいたいのです」
ヘルカイザーは、頷いた。
「同じように見えるものでも、そこへ至るまでが違うかもしれませんからねぇ」
「はい。分からないところを、一つの説明で埋めてしまわないようにしたいと思います」
アテナは、彼が描いた線を見た。
考えるために簡単に示すことと、相手について全て分かったと思うことは、違っている。
ヘルカイザーは、図の脇へ余白を残した。
「こちらにも、気になることを書いていただけますか」
「ええ」
アテナは、先ほど話したことを、短い言葉にして加えた。
説明を聞くだけのときよりも、自分が何を大切にしたいのかが、はっきりしてきていた。
自分が話を聞き、安らぎを得てほしいと願っていた相手だった。
そのことを、図を考える間にも、忘れずにいたかった。
アテナは、図を見つめた。
魂の苦しみを理解し、語りかけることとは、別の方法だった。
アテナは、新しく描かれた図を眺めた。
今まで考えていた方法だけでは、届かないところがあった。
ヘルカイザーの言葉は、そこへ別の問いを向けていた。
まだ、実際にできるという答えではない。それでも、できるかどうかを調べるためには、何を見る必要があるのかを考え始められる。
「……私も、今のお話に関係することを、調べ直してみたいと思います」
「おや。何か、思い当たるものがありますか?」
「すぐに答えになるものではありません。ただ、今の図を見てから読み直すと、違う問いを向けられるかもしれません」
ヘルカイザーは、楽しそうに頷いた。
「ええ♪ そちらも、ぜひ伺いたいところですねぇ♪」
アテナは、紙へ目を戻した。
今まで知っていたことを、そのまま当てはめるのでは足りないかもしれない。
だからこそ、彼が考えたことと並べて、どこまで分かるのかを見てみたかった。
それだけに、確かめなければならないことも多い。
「魂そのものを傷つけてしまう危険は、ありませんか?」
「そこは、最初に調べたいところですねぇ」
「苦しんでいるものを取り除こうとして、魂を傷つけてしまっては……」
「ええ。それでは、助けることになりませんからねぇ」
ヘルカイザーは、魂を表す印のそばへ書き込みを加えた。
アテナは、その手の動きを見ていた。
彼女が気にしたことを、彼は、案の中で考えるべきこととして残している。
うまくいくかもしれないと語るだけでなく、確かめなければならない場所にも目を向けていた。
アテナは、少し身を寄せた。
自分からも、伝えておきたいことが、まだあった。
「記憶や、大切な思いまで失わせてしまっては……」
「ええ。救うために作るのですから、そうなってはいけませんねぇ」
アテナは、静かに頷いた。
大切な相手を覚えていることと、その相手を失った苦しみから抜け出せないこと。
その両方が、一つの魂の中にある。
苦しみを和らげたいと願うとき、覚えていることまで無理に消してしまえばよいとは思えなかった。
「大切だったことを、大切だったまま覚えていられるなら……」
アテナは、そこで一度言葉を切った。
「そのうえで、苦しさが和らぐ方法を考えたいのです」
「ええ。何を取り除き、何を残すのか。その違いを、よく調べませんとねぇ」
ヘルカイザーは、紙の上へ視線を落とした。
アテナも、彼と同じ箇所を見つめた。
ヘルカイザーは、彼女の指摘を書き留めた。
魂を傷つけず、負のエネルギーを分離すること。
取り除いたものを、安全に保管すること。
「移した先のことも、考えなければなりませんね」
アテナが言うと、ヘルカイザーは、その先を示す線を見た。
「ええ。取り除けたとしても、その後を考えずにはいられませんからねぇ」
「そこから、また誰かが苦しむことになっては……」
「はい。そちらも調べるところとして、残しておきましょう」
紙の上へ、また一つ、課題が加わった。
アテナは、並んだ言葉を読み返した。
移すことができれば、それで終わるわけではない。どこへ、どのように移し、その後はどう扱うのか。
考える場所は、その先にも続いていた。
周囲へ漏らさず、ほかの魂へ影響を与えないこと。
そして、処置を受けた魂の状態を、きちんと確かめること。
「……苦しみが減ったかどうかも、確かめなければなりませんね」
「ええ。移せたように見えることと、魂が安らげることは、分けて見なければなりませんねぇ」
ヘルカイザーの言葉に、アテナは頷いた。
紙の上で線が繋がっても、相手がどうなったかを見ずには、救えたと言えない。
最初に話したのは、苦しみ続けている魂のことだった。
考えを進めている間にも、その相手へ戻ってこられるようにしたい。
アテナは、魂の印のそばへ、自分でも短い言葉を書き添えた。
ヘルカイザーがその文字を読み、小さく頷いた。
アテナが疑問を挙げるたびに、紙の上の課題が増えた。
ヘルカイザーは、その一つひとつに目を向けた。
アテナは、書き足した場所を順に示した。
「こちらが分からないままでは、その先も決められないと思います」
「ふむふむ。でしたら、調べる順番も考えましょうかねぇ」
「はい。分かったことによっては、今の案も変わるかもしれません」
「ええ。そのときには、また描き直しましょう」
アテナは、最初に引かれた線を見た。
それを残すことだけを目的にしてはいけない。調べた結果、違う形を考える必要があれば、そちらへ進むことになる。
彼も、そのつもりで話している。
アテナは、次に気になった箇所へ指を向けた。
「……なるほど。こちらも、調べませんとねぇ」
「こちらは、急いで結論を出さない方がよいと思います」
「ええ♪ 大切なところですからねぇ♪」
ヘルカイザーは、少し紙を引き寄せて、書き込みを読み直した。
アテナも、言葉を止めた。
すぐに答えが出る話ではなかった。
それでも、話し始めたときには、一人で考え続けていたことが、今は二人の間に広がっている。
方法が分かったわけではない。魂の苦しみが、今、この場で消えたわけでもない。
けれど、何を調べたいのかを、一緒に考えられるようになっていた。
「……お話しして、よかったと思います」
アテナが言うと、ヘルカイザーは顔を上げた。
「自分も、聞かせていただけてよかったですよ」
彼は、紙の上を見た。
「分からないことは多いですが、考えたいところも見えてきましたからねぇ」
いつものように、二人の議論は長く続いた。
ただ、その日、机の上に広がっていたのは、噴水の設計図ではなかった。
まだ方法の分からない、魂を救うための研究だった。
◇
アテナは、書き込みで埋まった紙を見つめた。
課題は多い。
実現できるかどうかも、まだ分からない。
それでも、話す前にはなかった道筋が、そこに生まれていた。
最初に描かれたのは、魂と、そこから何かを移すという考えだった。
今は、その周りに、いくつもの問いがある。
何を分けられるのか。
大切なものを傷つけずに行えるのか。
移した後には、何を見ていかなければならないのか。
アテナは、一つずつ目を通した。
問いが増えたために、難しさも、初めよりよく分かるようになっている。
けれど、それらを飛ばして、完成したつもりになることはできない。
この先、どこへ目を向ければよいかを示す言葉として、残しておきたかった。
「……もし、完成すれば」
彼女は、小さく呟いた。
「多くの魂が、救われるかもしれませんね」
ヘルカイザーは、その言葉に微笑んだ。
「それでしたら、ぜひ完成させたいところですねぇ♪」
アテナは、その返事を、静かに聞いた。
苦しむ魂について話し始めたとき、彼がどのように答えるかは、分からなかった。
今も、研究がどのような結果へ至るかは分からない。
それでも、彼は、その魂が安らげる方法を考えたいと、同じ紙へ目を向けてくれている。
「……私も、その願いを大切にしたいと思います」
「ええ。何のために考えているのかは、忘れずにいたいですねぇ」
ヘルカイザーは、魂を表す印を見た。
アテナも、そこへ目を戻した。
図面の向こうにいる相手のことを思いながら、続きを考えていきたかった。
アテナは、彼を見た。
人に使ってもらえることを喜び、また新しいものを作りたくなると話していた発明家。
その喜びは、今も彼の中にある。
アテナは、以前、屋台について聞いたときの声を思い出した。
自分で作ったものを使ってもらえると、また考えたくなる。
今、目の前の紙に並んでいる問いにも、その発明家が目を向けている。
けれど、懐かしい話を思い出したからといって、今回の研究がうまくいくと決まるわけではなかった。
これから調べなければならないことは、紙の上へ幾つも残っている。
アテナは、その一つへ指を置いた。
「……こちらについては、まず、今まで分かっていることをまとめてみます」
ヘルカイザーが、同じ場所を見た。
「ええ。そちらを伺ってから、こちらの考え方とも比べてみましょう」
アテナは頷いた。
願いを抱くだけで終わらせず、そのために、今できることを選びたかった。
自分からも研究へ加われることがある。
そう思うと、机へ戻って資料を開く時間を、少し違う気持ちで迎えられそうだった。
「私も、調べてみます」
「おやおや♪ 心強いですねぇ♪」
「私の方で、調べられそうな資料を探してみます」
「ええ♪ 自分も、仕組みの方から考えてみますよ♪」
「分かったことだけでなく、まだ確かめられないところも、お伝えしますね」
「もちろんです♪ そちらも、一緒に考えていきましょう♪」
アテナは頷いた。
それぞれが持ち帰り、調べ、次に会ったときに話す。
今までも、そうして案を広げてきた。
その積み重ねを、今度は、苦しむ魂を救う方法へ繋げていきたいと思った。
彼女は、紙の端に、最初に探してみたいことを書き留めた。
二人は、研究を続けるための資料を並べ始めた。
アテナが一冊を開くと、ヘルカイザーも、その隣から覗き込んだ。
「まず、こちらのお話から伺っても?」
「ええ。ただ、今の案とどのように繋がるかは、まだ分かりません」
「はい♪ その辺りから、考えてみたいところですねぇ♪」
彼女は、図のそばへ資料を置いた。
気になる一節を読み、紙へ視線を戻す。すぐには繋がらなくても、何が違うのかを二人で話した。
机の上には、まだ答えのない問いが並んでいた。
その一つに、ヘルカイザーが前脚を向ける。
アテナも、同じ場所を見た。
研究を終えるためには、まだ多くのことが必要になるだろう。
けれど、始めるための一枚は、今、二人の間にあった。
アテナは、その紙が置かれた机を見た。
ここで、小さな噴水の案を囲んだことがある。難しい箇所へ印をつけ、直した模型を眺めて笑った。
今日は、そのときと同じ隣の席から、新しい問いへ目を向けている。
「分かったことがありましたら、またお話ししますね」
「ええ♪ 自分も、考えたことをお見せしますよ♪」
ヘルカイザーが頷く。
アテナは、開いていた資料へ目を戻した。
次に会うときまでに、何を調べられるだろう。
すぐに役立つ答えが見つからなくても、読んだことを伝え、その先を一緒に考えたい。
ヘルカイザーも、今の図から、また違う案を思いつくかもしれない。そのときには、自分も、今日書き留めたことを思い出しながら意見を伝えよう。
彼女は、資料の中の一節へ視線を留めた。
まだ分からないことがある。
そのことを確かめるために、二人は、同じ机で考え始めていた。
苦しむ魂が、安らぎを得られるように。
その願いが、二人の新しい研究の出発点となった。




