第31話 捨て去った理想と、新たな忠誠
ガルデローベ社の研究室で、ヘルカイザーは一冊の古い資料を開いていた。
『マイナスエネルギーの回収と、世界の平和について』
何度も書き加えた記録だった。
表題のそばには、後の改良に合わせて添えた文字がある。古い線の上から訂正したところもあれば、余白へ新しい図を描いたところもあった。紙の端を押さえる指先は、それぞれの記述がどの頃のものかを覚えていた。
世界に生まれる苦しみを、取り除く。
負のエネルギーを一か所へ集める。
そして、その集約先を自分自身にする。
そうすれば、ほかの者たちが苦しまずに済む。
長い年月、彼はその考えを正しいと信じ、研究を続けてきた。
読み進めれば、確かめた仕組みが順に現れる。回収ができるようになった記録。蓄積について加えた変更。その先で、自分自身へ力を集約するために考えたこと。今へ至る道筋は、紙の上にも残っていた。
初めに苦しむ魂の様子を確かめたときのことも、思い出せた。苦痛が軽くなったと知り、結果を何度も確認した。アテナへ見せる記録を整える手は、嬉しさのために、いつもより少し急いでいた。
その成果は、本物だった。
古い資料には、最初の試験がうまくいかなかったところも残っていた。あの頃の彼は、苦しみを軽くできたかどうかを知りたくて、何度も同じ箇所を確かめた。仕組みが動いたというだけでは満足できず、魂の様子がどう変わったかへ目を向けていた。
アテナが覗き込む場所を空けたことも覚えている。図を指し示しながら説明し、彼女から問いが返ると、新しい紙を寄せた。答えに詰まったところは、そのまま次の研究で確かめることになった。資料を読み返すと、そうした時間の順序まで思い出せた。
彼は紙の端を軽く伸ばした。古い折り目が指へ触れる。今の研究記録より薄い一冊だったが、そこへ費やした時間が短かったわけではない。当時の知識で考え、試し、得られた結果を喜んだ。その積み重ねがなければ、完成した貯蔵庫にも届かなかった。
自分が作り上げたものを、彼は今も理解できた。記述のどこが後に変わり、どこがそのまま使われているかも分かる。だから、古い表題を見て戸惑っているのは、研究内容を忘れたからではなかった。読み取れる目的と、隣にある事故の結果を、同時に見ていた。
後に目的や使い方が変わったからといって、あのとき救われた魂の安堵まで、存在しなかったことにはならない。彼も、そこに偽りの結果を書いた覚えはなかった。
机の隣には、別の記録が置かれている。
完成した貯蔵庫。
プラスエネルギーによって引き起こされた痛み。
次元制御の乱れ。
消えてしまった、一つのスレッド。
その資料には、まだ新しい筆の跡があった。何が起きたかを確かめるために、何度も読み返した箇所がある。修復を試みた内容も、戻らなかったという結果も、書き残されていた。
古い紙と新しい紙を並べると、彼の視線は、その間を何度も行き来した。
長く望んでいた完成へ、ようやく届いた。それから、制御を取り戻せないまま、自分の研究とは関係のなかった場所を失わせた。どちらも、自分が行ってきたことの続きだった。
ヘルカイザーは、古い資料の表題へ目を戻した。
「……世界を平和にするために、研究を続けて……」
言葉が止まった。
消えた場所のことを、思い出す。
誰かが言葉を置き、別の誰かが答えていた。自分が見ていない時間にも、やり取りは積み重なっていた。その続きを待つ場所が、あの一瞬の後にはなくなっていた。
「その自分が、世界を壊してしまったのですかぁ……」
返事のない研究室で、彼はしばらく動かなかった。
開いた資料の下へ、白い指先の影が落ちている。そこへ次の注記を書き加えることはできた。けれど、何を書けば失われた場所に釣り合うのかという問いに、答えはなかった。
彼は、事故の記録へ手を伸ばした。
頁をめくる動作は静かだった。そこに残っている結果が、もう一度読めば違うものになるとは思っていない。それでも、古い目的を見つめた後では、確かめずに先へ進めなかった。
◇
原因は、分かっていた。
プラスエネルギーが、自分の身体へ痛みをもたらした。
その痛みによって、制御が乱れた。
しかし、それで自分のしたことが消えるわけではない。
完成した装置を扱っていたのは、自分だった。
異常を見抜けず、力の行き先を止められなかったのも、自分だった。
ヘルカイザーは、原因を記した行の下へ指を置いた。そこには、分かったことが順に並んでいる。なぜ起きたかを説明するための記述だった。誰が起こしたかを別のものへ変えるための記述ではなかった。
希望や信頼が存在したことを、失われた場所の代わりに責めることはできない。アテナが友人へ手を伸ばしたことも、今回の調整を命じた行為ではない。あの日の接触と似た痛みが、彼女のいないところで起きた。その事実を調べて、答えへ辿り着いたのだ。
彼は、彼女が攻撃したと疑ってはいなかった。
今、原因を理解してからも、それは変わらない。分からなかったことに名前がついたからといって、誰かの善意を過ちの持ち主にすることはできなかった。
「……自分の責任ですねぇ……」
ヘルカイザーは、事故の記録を閉じた。
そして、古い研究計画書へ手を伸ばした。
『最終目的――世界の平和』
しばらく、その一文を見つめた。
これまで何度も、その下へ具体的な工程を書いた。必要な仕組みを考え、計測し、改良を続けた。その全てを結ぶ行き先として、そこに置いていた言葉だった。
世界から苦しみを取り除く。そのために集め、そのために蓄える。自分へ全てを集約できれば、他者が苦しむ理由を減らせると考えていた。その構想を大きく描くほど、自分の力にも、まだ足りないところが見えてきた。
だから、作り続けた。
そして今、完成したものの隣に、失われた場所の記録がある。
研究をやめようと考えたわけではなかった。
マイナスエネルギーを集めることへの関心も、失っていない。
恐怖や絶望から効率よく回収する方法を、間違いだと考え直したわけでもない。
自分へ攻撃した者や、悪事を働いた者を対象にする。
その基準も、変えるつもりはなかった。
彼は対象を記した項目にも目を通した。そこには、今まで研究のために確かめてきた条件がある。今度の事故で失われた場所は、その条件に従って選んだものではなかった。
だからこそ、自分の不手際によって関係のないものを巻き込んだことを、重く感じていた。だが、その重さは、これまで条件に当てはまる相手へ与えた苦しみを、同じように問い直す方向へは向かなかった。
研究対象から聞こえた声も、記録に残っている。
アテナに、考え直してほしいと頼まれたことも覚えている。彼女は、相手に悪事があったとしても、どこまでも苦しめてよいことにはならないと伝えた。彼はその言葉を聞き、今の研究をやめるつもりはないと答えた。
その答えは、今も変わっていなかった。
ただ、世界を守るという言葉を、そのまま掲げ続けることだけは、できなかった。
「……世界の平和を守る、ですかぁ」
彼は、小さく息をついた。
「随分と、おこがましいことを考えていたものですねぇ……」
大きく書かれた目的の文字は、紙の上で少しも変わっていなかった。その下に、どれだけ成功を並べても、消えた場所へ届くわけではない。自分が世界を守る者として研究を続けていると、そのまま言うことはできなかった。
筆を取る。
文字の上へ、一本の線を引いた。
『世界の平和』
長い間、研究の行き先として書き続けてきた言葉だった。
その一文を、計画から消した。
紙を破ったわけではなかった。線の下には、もとの文字が読める。その文字が、かつて自分の書いたものだったという事実も残ったままだった。
ヘルカイザーは、線の端で筆を止めた。
書き直しを決めたのは、装置の設計ではない。完成した貯蔵庫を壊すためでも、集めた力を捨てるためでもなかった。自分がこれから掲げる目的を、その手で変えていた。
「……これで、よろしいでしょう……」
筆先が止まる。
その手に、かつての発明家の価値観が戻ったわけではなかった。
自ら起こした事故への罪悪感と、今の研究を正しいとする判断は、彼の中で共に存在していた。
線を引いたことで、事故が償われるとも考えていない。失われた記録は戻らず、自分の責任も消えない。そこを理解しながら、彼は、これから進む研究の表題を整えようとしていた。
開いた紙の上に、空白ができる。
ヘルカイザーは、その空白から逃れるように、すぐ別の言葉で埋めようとはしなかった。少しのあいだ、筆を置いたまま見つめていた。研究室には、彼自身の小さな動きだけがあった。
◇
消した一文の下に、余白が残った。
ヘルカイザーは、その空白を眺めていた。
世界の平和という目的をなくしても、作りたいものは、なくならなかった。
確かめたい反応がある。
改良したい装置がある。
まだ形にしていない考えも、幾つもあった。
事故について分かったことも、これから扱う力を考えるうえでは残しておかなければならない。プラスエネルギーが身体へもたらす影響を知ったからといって、それに関する問いが全てなくなったわけではなかった。
貯蔵庫の働きにも、次元制御にも、記録へ残すべきことがある。彼の頭の中には、何を確かめたいかという考えが次々に浮かんだ。目的の一行へ線を引いても、その関心は消えなかった。
そして、会社から求められている仕事がある。
「……マスター社長……」
初めて会ったときの姿を、思い出した。
何ができるのかと、尋ねられた。
技術を示せば、その成果を確かめてもらえた。
仕事として必要なものを、迷いなく告げる声。
そのもとで力を使いたいと、自分から忠誠を誓った。
ヘルカイザーは、机の隣へ目を向けた。会社のための資料も、そこにある。説明のために用意し、その後、実際の仕事に合わせて書き足してきたものだった。
最初に見つけたのは、研究費を得る道だった。
不足していた費用を補えれば、止まっていた計画を動かせる。実際に働き、対価を得たことで、完成まで進むことができた。そのことへ感謝はあった。しかし、それだけが、今ここにいる理由ではなかった。
会って話した後、彼は自分から仕えたいと思った。
何を必要とし、どの成果を役立てるのか。その判断をする姿に惹かれた。報酬を得るための働き先に留まらず、自分の技術を届けたい相手ができた。その気持ちは、初めて頭を下げたときから続いている。
ヘルカイザーは、静かに微笑んだ。
「世界を救うなどと大きなことを考えなくても……」
隣に置かれていた、仕事の資料を開く。
「自分の研究を必要としてくださる方が、いらっしゃるではありませんか♪」
次元制御。
空間固定。
障壁と、装置の開発。
会社の活動へ役立てられる技術を、書き出していく。
略奪と制圧を行う、その仕事のために。
書かれた目的を、都合よく別のものへ読み替えてはいなかった。ガルデローベ社が何を行う会社なのかは、入社する前から知っている。マスター社長自身の言葉でも聞き、その前提で、自分が何をできるかを示した。
今も、その内容を理解していた。
世界の平和という一文に線を引いたから、会社の活動が穏やかなものへ変わるわけではない。これから開発する技術がどこへ向けられるのか。その目的は、新しい紙の上にも明確だった。
彼は、そのための案を書いた。
必要とされるところへ、自分の工夫を加える。作り、動かし、結果を確かめる。その結果を社長へ示せることが、彼には研究を進める理由になっていた。
「……さてさて♪」
新しい計画書へ、筆を走らせる。
最初の図を描くと、次に確かめたい箇所が見えてくる。線のそばへ短い説明を添え、既に使える仕組みとの関係を記す。考えが具体的になるにつれ、筆の動きも途切れなくなった。
「まだまだ、作りたいものは沢山ありますからねぇ♪」
研究の手は、再び動き始めた。
仕事へ用いる資料には、個人の興味だけでは決められない順序があった。会社が何を必要としているかを確かめ、そこへ役立つものを整える。思いついた案があっても、まだ検証していなければ、その段階だと伝えなければならない。ヘルカイザーは、そのために紙を揃えた。
初めて社長室へ持ち込んだときと同じように、成果として言える範囲を確かめる。見せられるものがあるなら、実際に示す準備をする。分からない箇所を隠して話を進めても、相手が必要な判断をできなくなる。そのような資料にしたいとは思わなかった。
技術を必要とする相手に、その状態を正確に伝えること。そのための手間を、彼は惜しまなかった。改良がうまくいけば、それがどう役立つかを考える。新しい結果が出れば、前のものと照らし合わせ、どこが変わったかを示せるようにする。机の上に、会社へ向ける記録が増えていった。
書き終えた頁を揃えたとき、彼は、これを見たマスター社長が何を尋ねるだろうと考えた。まだ直せるところがあるだろうか。別の用途へ広げられるだろうか。相手から返ってくる言葉を待つ気持ちが、次の準備へつながっていた。
机の向こうには、閉じた事故の記録がある。それを処分したわけではなかった。問い直したいときには開ける場所へ置いたまま、彼は新しい紙へ向かっていた。
罪悪感がなくなったから、動き始めたのではない。
消せない出来事を覚えたまま、それでも続けたい研究がある。その研究を必要とする相手もいる。彼の指先を次の線へ進ませるものは、そこにあった。
◇
ある日、マスター社長はヘルカイザーの成果を確認し、顔を上げた。
提出した資料には、完成させたものについての記録が揃っていた。何を目的とし、どのように働き、どこまで確かめたか。説明の順序は、初めてこの相手へ技術を示したときと同じように、読む者が確かめられる形に整えてある。
ヘルカイザーは、静かに返事を待っていた。
自分で成果を確かめたことと、それを仕事として評価されることは、同じではない。会社が必要とするものへ役立てられたかを聞くために、彼は顔を上げていた。
「ヘルカイザー君」
「はい♪」
「今後は、我が社の技術開発を率いてもらいたい」
「……おや?」
ヘルカイザーは、少し目を丸くした。
聞き間違いではないかと、目の前の相手を見た。成果の中に追加で直す箇所があるのか、次に必要な仕事の話なのか。そうした問いを予想していたところへ、それより広い役割が示されていた。
マスター社長は、その反応を見た上で続ける。
「技術開発部長として、その力を存分に発揮してもらおう」
ヘルカイザーは、一度だけ資料へ目を落とした。
これまで、自分が示してきた成果。
これから、会社のために作れるもの。
今の資料に載せたものだけではなかった。まだ構想の段階にある案も、その先で改良できると思っている仕組みもある。どれを形にし、会社の求める結果へつなげていくか。任せたいと告げられた役割を、彼は自分の中で確かめた。
名前を飾るためだけの肩書きとしては聞かなかった。
技術開発を率いるということは、その仕事へ継続して自分の知識を用いるということだった。目の前の一件に成果を出すだけでなく、その先を考える役割がある。マスター社長は、そのための力を発揮するようにと言った。
ヘルカイザーの視線が、資料から戻った。
研究費が足りないからと、仕事を探した日のことを思い出す。あのときは、働くことでどこまで研究を進められるだろうと考えた。今は、会社のためにどこまで技術を役立てられるだろうと考えている。
その変化を、彼は嫌だと思わなかった。
むしろ、自分の仕事を見た相手から、さらに任せたいと告げられたことが嬉しかった。初めて会った日の言葉だけでなく、その後に示してきた成果の先で、今の声があった。
考えを巡らせてから、姿勢を正す。
黒い翼を広げた。
右の前脚を胸元へ添え、上品に頭を下げる。
「かしこまりました、マスター社長♪」
その声には、喜びがあった。
「このヘルカイザー、あなた様のご期待に、必ずお応えいたしましょう♪」
「期待しているぞ、ヘルカイザー君」
「どうぞ、何なりとお申し付けくださいませ♪」
顔を上げた彼の視線は、まっすぐ社長へ向いていた。これから何を作るかについて、既に幾つかの案が浮かんでいる。その案を形にし、また成果として示したいと思った。
忠誠は、強いられたものではなかった。
研究費を得るためだけに、口にした言葉でもない。
自ら選んだ相手へ、彼は改めて仕える意思を示した。
初めに誓った言葉を、忘れてはいなかった。今度は、新しく任された役割のもとで、その意思を形にする。胸元から前脚を下ろすときも、彼の表情には穏やかな喜びが残っていた。
机へ戻れば、また紙を広げられる。
任された役割を思い返すと、開発の記録をどのように整えておくかという考えも浮かんだ。自分が理解しているだけでは、会社へ成果を示す資料として十分ではない。何を確かめ、何が未確認かを、必要なときに読み取れる状態にしておきたかった。
ヘルカイザーは、手元の資料の端へ指を添えた。今日示した結果は、この後の仕事の前提になる。そのつながりを曖昧にしないことも、新しい役割の中で続けるべきことだった。肩書きを告げられて喜んだだけで、机の上の作業が不要になるわけではない。
むしろ、これまでより考えることが増えるだろう。彼は、その先を楽しみにしていた。技術を使う場所があり、成果を見て判断する相手がいる。そのもとで、さらに何を作れるかを任された。初めに抱いた関心が、今は具体的な仕事として目の前へ広がっている。
そのために力を使いたいという意思は、礼を終えた後も変わらなかった。技術開発部長という呼び名は、誰かに神として認められることとは無関係だった。会社の仕事を率いる者としての役割を、彼は、自ら受け取っていた。
会社が求めるもののために、まだ作れるものがある。その仕事を任されたという実感が、彼の中で具体的になっていった。
◇
漆黒の貯蔵庫を背に、ヘルカイザーは新しい研究へ取りかかった。
机の上には、会社へ提出する資料と、個人の研究記録が並んでいる。
その奥に、古い計画書がしまわれていた。
世界の平和という一文には、線が引かれている。
紙そのものを焼いたり、過去の記録を削り取ったりはしなかった。そこで何を考えていたかは、今も読み返せる。あの目的へ向かって研究を続けた自分がいた。その事実を、今の彼は知っていた。
しかし、かつてアテナと語り合った時間まで、消えたわけではなかった。
初めて噴水の仕組みを尋ねたこと。
互いの図面へ書き込みを重ねたこと。
苦しむ魂が救われたと、二人で喜んだこと。
それらは、彼の過去として残っていた。
図面へ向かっていると、以前なら彼女がどこを尋ねただろうと思うこともある。説明の途中で浮かんだ疑問を、そのまま口にしてくれた。返答を考えているうちに、自分にも気づくことがあった。
その思い出を、不愉快なものとして遠ざけるつもりはなかった。
彼女が今の研究を認めないことも、覚えている。もう一度会ったとき、懐かしい笑顔のまま何もかも賛成してもらえるとは考えていない。草原で交わした言葉は、その点を明らかにしていた。
それでも、共に過ごした時間は大切だった。
彼女を恨んでいるから別の相手へ仕えるのではない。神々に侮られたから、その埋め合わせとして今の地位を求めたのでもなかった。呼び名の違いに傷ついていたという理由は、彼の中にはない。
自分の研究を続けたいと思い、働く先を探した。
会った相手の判断と姿に惹かれ、自ら忠誠を誓った。
その過程を経て、今の机の前にいる。
その過去を持つ彼が、今の自分として、新しい図面を描いている。
「……ふむふむ……なるほどですねぇ♪」
穏やかな笑顔も、丁寧な物腰も、変わらない。
小さな白い指が図面を押さえ、黒い翼は作業の邪魔にならないよう畳まれていた。気になる箇所が見つかると、そこへ顔を近づけ、対応する記録を探す。研究へ向ける熱心さも、今なお彼のものだった。
だが、研究の行き先は変わった。
発明のために。
自分の興味のために。
そして、マスター社長の期待に応えるために。
その目的を書いた紙のそばへ、確認する項目を加えていく。まだ分からないところには問いを残し、試してから答えるべきところには空欄を置く。彼の机では、そうして次の仕事が始まっていた。
奥へしまった計画書の一行へ、視線が戻ることはなかった。
事故を忘れたわけではない。自分が消した場所の記録も、その原因も、調べたこととして残してある。しかし、その重さから、かつての価値観へ戻る道が生まれたわけでもなかった。
これまで研究対象にした者へ、もう苦しみを与えないと決めたのではない。回収をやめることも、貯蔵庫を手放すことも選んではいない。
彼が消したのは、研究の全てではなかった。
世界を救うという、大きな目的だった。
その先に置いたのは、今の自分が必要だと思う研究と、自ら選んだ相手への忠誠だった。
ヘルカイザーは、計画書へ次の項目を書き加えた。
書き終えると、紙を少し動かし、図面の全体を見た。まだ線を引く場所が残っている。確かめたいことも、作りたいものも、尽きてはいなかった。
白い身体の向こうで、漆黒の空間が静かに広がっている。
彼はそれを背に、筆を持ち直した。
新しい図面の端には、あとで確認するための印が並んでいた。そこへ目を移すと、次の手順はもう見えている。彼は紙を動かし、書き込みやすい位置へ寄せた。机の上に積まれた過去の記録も、その動作に合わせて少しだけ揺れた。
噴水の図面を開く日が、またあるかもしれない。そのときには、共に書いた注記を読み、彼女の声を思い出すのだろう。だが、それは、今の仕事をやめて神界へ戻る約束ではなかった。大切に覚えているという気持ちのまま、彼は違う目的へ筆を進められた。
アテナは、彼がここで何を選んだかをまだ知らない。消えたスレッドについても、線を引いた一文についても、知らせは届いていなかった。二人が最後に交わしたのは、草原での言葉だった。その先へ、彼だけの時間が積み重なっていた。
研究室に、女神の返事はない。
ヘルカイザーは、その静けさの中で次の案を確かめた。成果として示せる形にするためには、まだ作業が要る。いずれマスター社長の前へ広げる資料へ、何を残すかを考えながら、彼は新しい線を引いた。
こうして、『なんでもありのスレッド』に存在する略奪と制圧の企業、ガルデローベ社の技術開発部長ヘルカイザーが誕生した。




