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転生した主人公が次元神になる外伝  作者: ヘルカイザー
知恵の女神と偽りの次元神

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32/32

タイトル未定2026/11/06 10:49

終幕 それでも、あなたを忘れない


 噴水の水音が、庭園に響いていた。


 アテナは長椅子に座り、膝の上の設計図を広げていた。


 何度も開いた紙だった。


 折り目のそばには、二人で書き直した線がある。自分の文字の隣に、ヘルカイザーの注記が残っている。


 風が吹くと、紙の端がわずかに浮いた。アテナは慣れた仕草でそこを押さえた。強く押さえ過ぎると古い折り目が傷むため、指先へ入れる力まで、いつしか覚えてしまっていた。


 どこを読めば、どんな言葉が書かれているのか。


 もう、覚えてしまっていた。


 それでも、彼女はその紙を開いた。


 書かれた内容を確かめるだけなら、毎回ここへ持ってくる必要はない。それでも水音の聞こえる場所で広げると、机の上で読むときとは違う順序で、思い出が戻ってきた。


『こちらを変えてみては、いかがでしょうかねぇ♪』


 文字を目で追うと、楽しそうな声が思い出された。


 注記を残したときの、彼の手元まで見える気がした。紙の端を押さえた小さな前脚。そのそばを動く筆。考えを説明する途中で自分の疑問に気づくと、彼はそこで話を止め、また図へ向き直った。


 顔を上げれば、噴水が見える。


 初めて会った日、あの小さな白いドラゴンは、そこに立っていた。


 見知らぬ相手へ警戒して、名前を尋ねた。


 返ってきたのは、丁寧な挨拶と、噴水の仕組みについての質問だった。


 まさか、そこから話が長く続くとは思っていなかった。尋ねられたことへ答え、こちらからも問い返した。彼は噴水を眺め、説明を聞き、それから自分の考えを見せてくれた。


「……本当に、不思議な方でしたね……」


 アテナは、かすかに微笑んだ。


 水の流れについて話し始めると、彼は熱心に耳を傾けた。


 別の案を思いつけば、嬉しそうに図を描いた。


 問題を指摘すると、また考え直した。


 その続きを聞きたくて、自分も問いを重ねた。


 答えを知るだけでは、終わらなくなっていた。もし違う形にしたらどうなるのか。ここで流れが変わるなら、その先では何が起きるのか。ひとつの説明から別の疑問が生まれ、それを彼へ伝えるのが楽しかった。


 気がつけば、時間が過ぎていた。


 あの日のことを、アテナは今も覚えている。


 また話したいと、尋ねたことも。


 もちろんですよと、すぐに頷いてくれたことも。


 その返事を聞いたときには、次に会えば何を話そうかと考えていた。別れの後に、もう続きを思いついていたのだ。その気持ちが、後に何度も足を研究室へ向けさせた。


 設計図へ視線を戻すと、自分が書き添えた疑問がある。すぐ隣に、彼の答えが残っている。もう一度同じ説明を聞きたいと思っても、今は、この紙から声を思い出すことしかできなかった。


 噴水は、その間も水を流していた。


 図面には、結局採用しなかった案も残っている。線が引かれた後に別の形を試し、もう一度もとの案へ戻った箇所だった。そのたびに、なぜうまくいかなかったのかを話した。失敗をした側が黙ってしまうのではなく、相手もそこへ顔を寄せてきた。


 アテナは、その跡を指で辿った。答えの線だけを残していたなら、この時間までは思い出せなかったかもしれない。途中で交わした疑問も、書き損じた図も、後から読み返せる形になっている。それが、今はありがたかった。


 楽しかったと口にすると、その後に起きたことを軽くするようで、ためらった日もあった。けれど、昔の喜びを否定しても、今苦しんでいる者が救われるわけではない。何が変わり、何が残ったのかを考えるためにも、あの時間を歪めたくなかった。


 彼女は、共に喜んだ研究のことも覚えている。誰かの苦しみが軽くなったという結果を前に、二人で確かめ直した。そのときの彼の喜びを、後の行いを知った自分が嘘に変えることはできなかった。


 膝の上の紙へ、木々の影が揺れた。アテナは顔を上げた。今ここにある噴水と、もう隣にはいない友人。その両方を、同じ景色の中に見ていた。


 幾度か修繕されたところが、光の下に見える。共に作業した時代のまま、何もかもが止まっているわけではない。それでも、水の流れる先を辿れば、二人で確かめた仕組みへ、今も思い当たることができた。


     ◇


 設計図の端を押さえていた指が、止まった。


 目に浮かんだのは、最後の再会だった。


 草原の上空で振り返った、懐かしい姿。


 自分を見つけたときの、明るい声。


 長く探していた相手が、ようやく目の前にいた。


 白い身体の後ろで、黒い翼が嬉しそうに動いた。記録を閉じて、話を聞く姿勢を取ってくれた。その仕草だけで、昔の研究室を思い出した。


 会いたかった。


 話したかった。


 彼の考えを認められなくても、それで友人としての時間までなくなるとは思いたくなかった。


 だから、手を伸ばした。


 彼も、その手へ小さな前脚を差し出した。


 触れるまでの短い時間には、安堵があった。意見は違っても、同じ場所にいて、相手の返事を待つことができる。もう少し話せるのかもしれないと、思った。


 そして――。


『……な……何ですか……これは……!?』


 アテナは、設計図から手を離した。


 自分の掌を見つめる。


 攻撃はしていない。


 術式も使っていない。


 それなのに、触れた彼は苦しんだ。


 驚き、手を振り払い、自分から離れた。


 指を曲げても、あのときと違うところは見つからなかった。自分の手には傷もない。何かを放ったという感覚もない。それでも、彼の笑顔が消え、身体が震えたことは事実だった。


「……あなたに、手を伸ばしてはいけなかったのでしょうか……?」


 問いかけても、答える者はいなかった。


 手を伸ばす前に何かができたのかと考え、そこで止まる。予想していなかったことを、後から知っていたことにはできない。それなのに、彼が痛がった瞬間を思い出すと、何もしなければよかったのかという問いが戻ってきた。


 ヘルカイザーは、自分が故意に傷つけたとは思っていなかった。


 その言葉を、アテナも信じている。


 けれど、信じてもらえたことと、近づけることは、同じではなかった。


 彼は距離を取った。


 何が起きたのか分からない以上、また同じことが起きるかもしれないからと。


 アテナも、それ以上、手を伸ばせなかった。


 もう一度、あの顔をさせたくはなかった。


 立ち去る彼を追おうとした足も、途中で止まった。呼べば、名前を届けることはできる。だが、その先で手を取って引き留めることは、もう、ためらわずに選べる動作ではなかった。


 膝の上へ、手を戻す。


 紙の上には、昔の二人の文字が並んでいた。


 あの頃は、同じ図を押さえるために伸ばした指が触れても、何も起きなかった。今は、その何気ない近ささえ、なぜ失われたのか分からないままだった。


 アテナは、折り目に沿って設計図をゆっくり畳んだ。いつもならすぐ揃う角が、今日は少しずれた。開き直して整え、それから、ようやく膝の上へ手を重ねた。


     ◇


 研究机へ戻ると、アテナは最後の再会の記録を開いた。


 接触の直後に生じた、身体の異常。


 距離を取った後の変化。


 そのときに交わした言葉。


 確かめられたことを、順に書き並べる。


 分からない部分には、問いを残した。


 感情の強かった記憶ほど、起きた順序を慎重に確かめた。驚いて身を寄せようとしたこと。彼が距離を取ったこと。その後も声を交わせたこと。どこまでが自分の目で見た事実で、どこからが推測なのかを、読み返しながら確かめていく。


「……何が、起きたのでしょう……」


 マイナスエネルギーは、彼の力と深く結びついていた。


 そこへ、何か異なる性質のものが反応したのかもしれない。


 しかし、可能性を思いついたことと、原因を確かめたことは違う。


 まだ、断言できなかった。


 アテナは、手元の資料を読み直した。


 願いに合う説明だけを選べば、一見、答えができたように見えるかもしれない。だが、それを信じて近づいた先で、彼をまた苦しめるなら、分かったことにはならない。


 彼女は、仮の説明を書いた行の末尾へ、小さな問いを置いた。


 調べるべきことはある。


 けれど、彼自身の状態を確かめようとすれば、また会わなければならない。


 そのために近づくことで、彼が苦しむのなら。


 筆が止まった。


「……それでは、私は……」


 言葉の続きを、書けなかった。


 原因を確かめるためだからと、彼に同じ痛みを求めてよいわけではない。そのことは、研究者としても、友人としても、見失いたくなかった。必要な情報がないというもどかしさだけで、相手の苦しみを後回しにはできなかった。


 彼に研究をやめてほしいと願った。


 誰かを苦しめることを、正しいと言い続けないでほしかった。


 同時に、彼自身にも苦しんでほしくなかった。


 その願いを、どうすれば同じ場所へ置けるのか。


 今のアテナには、分からなかった。


 閉じた資料を脇へ寄せ、別の記録へ手を伸ばす。そこには、彼の変化について調べた結果がある。少しずつ積み重なり、最後には定着してしまった影響。それを、短い怒りや一時的な錯乱として説明することはできなかった。


 彼女は、分かっている結論を消さなかった。


 今、考えているのは、昔の彼へ戻す方法ではない。最後の接触で起きたことを知り、これからどう向き合えるかを考えることだった。その違いを、机の上でも曖昧にしたくなかった。


 新しい問いの隣へ、確かめられた事実をもう一度置く。


 同じ頁を読み直しても、すぐに答えが増えるわけではない。それでも、彼が嫌いになったのではないと言ったことも、研究をやめないと答えたことも、同じ記録の中へ残した。


     ◇


 ゼウスは、アテナの報告を静かに聞いた。


 彼と再会したこと。


 研究について、改めて言葉を交わしたこと。


 手が触れた直後、彼が痛みに襲われたこと。


 そして、その原因が分からないまま別れたこと。


 アテナは、手元の記録を示しながら話した。草原で彼の声を聞いたときのことになると、説明の途中で息が詰まった。それでも、懐かしかったという思いだけで、続いた対話を省くことはしなかった。


「……以前と、変わらないところもありました」


 アテナは、手元へ目を落とした。


「話し方も、笑顔も。研究を語るときの、楽しそうなご様子も……」


「……だが、考え方は違っておったのだな」


「はい」


 その答えは、はっきりしていた。


「今の研究を、認めることはできません」


 悪事を働いた相手でも、苦しめ続けてよいことにはならない。


 自分へ攻撃した相手でも、抵抗できなくなった後まで研究の対象にしてよいわけではない。


 友人だからといって、その行いを正しいと言うつもりはなかった。


 彼に助けられた者の証言を、アテナは覚えている。荷物を抱えて去った旅人も、集落の少女も、白いドラゴンの優しさを語った。それが嘘でないと知っているからこそ、その後の記録へ目を閉じることもできなかった。


「……それでも、私は……」


 アテナは、顔を上げた。


「あの方との友情を、捨てたくないのです」


 言葉にしてから、指先へ力が入った。彼の行いを認められないという答えを、今言ったばかりだった。その二つが自分の中にあることを、ゼウスへ伝えたかった。


 ゼウスは、しばらく黙っていた。


 それから、深く頷く。


「過去を変えることはできぬ」


「……はい」


「そして、あやつ自身の行為まで、お主が全て背負う必要はない」


 アテナは、唇を結んだ。


 もっと早く、変化に気づいていれば。


 会う機会を奪われていたことを、見抜いていれば。


 貯蔵庫からの流入を、確かめ直していれば。


 そうした思いは、何度も繰り返してきた。


 その先へ、今度は自分の手で彼を苦しめた記憶まで加わった。


 昔の記録を開けば、気づけたかもしれない箇所を探してしまう。報告書を読めば、そこへ至る前に声をかけられたのではないかと考える。既に起きた出来事の前へ、自分を何度も立たせようとしていた。


「……分かっています」


 声が震えた。


「分かって、いるのですが……」


 涙が落ちた。


 ゼウスは、彼女が言葉を取り戻すまで待っていた。


 アテナは、ゆっくりと涙を拭った。


 分かっていることを、すぐに心まで受け入れられるわけではなかった。


 それでも、彼の全てを自分の責任にしてしまえば、彼自身が選んだことまで見失ってしまう。


 彼は、やめないと答えた。


 自分は、認められないと伝えた。


 その対話があったことを、忘れてはならなかった。


 自分の後悔だけで彼を説明してしまえば、目の前で聞いた言葉も、遠くの報告に残された行為も、その中へ沈んでしまう。彼女が会いたいと願ったのは、今の彼が何を考えているかを直接聞くためでもあった。


 望んでいた返事ではなかった。


 けれど、彼は答えた。その答えを聞いた友人として、自分が次にどう向き合うかを考えなければならなかった。


 アテナは、資料を揃えて顔を上げた。涙はまだ残っていたが、言葉を探すために伏せていた視線を、もう一度、目の前へ戻した。


     ◇


 その夜、アテナは一枚の白い紙を机へ置いた。


 しばらく眺めてから、筆を取る。


『ヘルカイザーさんへ』


 名前を書いたところで、一度、手を止めた。


 どこへ届ければよいのか、分からない。


 誰に託せば届くのかも。


 それでも、今の自分の言葉を、書いておきたかった。


 以前、届けられるはずの言葉が届かなかった時間がある。互いに会いたかったのに、相手が忙しいのだと聞かされていた。今は、宛先が分からないことを、アテナ自身が知っている。だから、届けたつもりにはならず、それでも書こうと思った。


『あの日、あなたに何が起きたのか、私はまだ分かっていません。』


『あなたを傷つけるつもりはありませんでした。ただ、もう一度、友人としてお話ししたかったのです。』


 そこまで書き、アテナは読み返した。


 草原で伝えた否定の言葉が、紙の上にも残った。彼が信じてくれたことを疑っているのではない。ただ、自分が何を願って手を伸ばしたかを、落ち着いた言葉で書いておきたかった。


 それだけでは、伝えたいことの全てではなかった。


 筆を動かす。


『私は、今のあなたが行っていることを、正しいとは思えません。』


『間違っていると思ったときには、これからも、そう伝えます。』


『けれど、それはあなたを嫌いになったからではありません。』


 一文を書くたび、続きを急がずに読んだ。友人だと言うために、その行いを認める言葉へ変えたくはなかった。反対していることを書くために、大切に思う気持ちまで消したくもなかった。


 水音の響く庭園を、思い出した。


 研究室に広げられた図面を。


 こちらの疑問を聞き、また考え始める友人を。


『あなたの才能を、尊敬しています。』


『あなたと過ごした時間を、今も大切に思っています。』


 文字の端が、少し滲んだ。


 アテナは涙を拭い、続きを書いた。


『もし、いつか再びお会いできる日が来たなら。』


『そのときは、あなたを苦しめずに、もう一度、笑ってお話しできたら嬉しいです。』


『あなたの友人、アテナより。』


 書き終えても、すぐには紙を折れなかった。


 読み直せば、書き足したいことが浮かぶ。


 会えて嬉しかったことも、姿を見つけたときに声が出なかったことも、もっと詳しく伝えられる。これまでどれほど探していたかを、書くこともできた。


 それでも、何もかもを一度に伝えることはできない。


 書けば長くなる言葉を、全て彼へ渡せばよいのかも分からなかった。返事を求めるために、自分の寂しさを並べたいわけではない。まず、今ここで確かに言えることを、残しておきたかった。


 アテナは、最後に書いた一文を見つめた。


 あなたの友人。


 その言葉を、消したくはなかった。


 彼も、共に過ごした時間を今も大切にしていると言った。あの声を、自分に都合のよい約束へ変えるつもりはない。研究をやめるという意味でなかったことも、知っている。


 それでも、友情を大切にしているという言葉まで、なかったことにはしたくなかった。


 手紙を丁寧に折り畳む。


 古い噴水の設計図と共に、箱へ収めた。


 図面の上へ新しい紙が重なる。過去の二人が書いた線のそばへ、今の自分が書いた言葉を置いた。まだ渡せない手紙だったが、書いた時間まで無駄だとは思わなかった。


「……いつか、渡せる日が来ると良いですね……」


 蓋を閉じた後も、彼女の手は、しばらくその上に置かれていた。


     ◇


 翌朝、アテナは研究机へ向かった。


 ヘルカイザーを、以前の価値観へ戻す方法は存在しない。


 それは、既に調べ、確かめた事実だった。


 その結論を、都合のよい願いで書き換えるつもりはない。


 机へ座る前に、彼女は一度、以前の調査を収めた場所へ目を向けた。読み返すたびに結論が変わるわけではなかった。自分が友人であるという理由で、ほかにはない解決がそこから現れるわけでもない。


 それでも、まだ分からないことは残っている。


 最後に会ったとき、何が起きたのか。


 なぜ、触れただけで彼が苦しんだのか。


 原因を知りたかった。


 彼に会いたいと願う自分が、何を確かめなければならないのかも。


 原因を知ったとしても、彼と同じ考えになれるという保証はない。痛みが起きなければ、今の研究を認められるようになるのでもない。そのことと、傷つけずに話せるかという問いは、どちらも残る。


 アテナは、違う問いをひとつの答えで埋めようとはしなかった。


「……あなたが、研究をやめないのでしたら……」


 アテナは、新しい紙を広げた。


「私も、私の研究を続けます……」


 彼女は、まだ知らなかった。


 ヘルカイザーが、新しい会社へ入ったこと。


 マスター社長へ、自ら忠誠を誓ったこと。


 一つのスレッドを壊し、世界の平和という理想を、研究計画から消したこと。


 彼が、その先に何を選んだのかも。


 彼女の手元にあるのは、共に過ごした記録と、別れた日の記憶だった。


 その記録の隣へ、新しい問いを書き加える。


 問いの下には、確かめられたことを置く欄を作った。分からない部分は空いたままだ。そこへ願いだけを書き込まないよう、アテナは筆先を止め、もう一度、最後の再会の記録を開いた。


 昨夜書いた手紙は、箱の中にある。


 新しい頁へ、最後に会った場所を書いた。そこから何を記録できていたかを確かめる。気持ちが強く動いた場面ほど、後から別の理由を添えやすい。彼女は、覚えていることと、そこから考えたことを、慎重に文章へ残した。


 作業を始めても、すぐに手が速くなるわけではなかった。彼が後ろへ下がったところを記すと、また指が止まる。けれど、そのたびに同じ箇所を消して、書かなかったことにするつもりはなかった。


 自分が近づこうとしたことも、彼の判断を聞いて足を止めたことも、そこへ書いた。次に同じような状況になったなら、何に気をつけなければならないかを考えるためだった。会いたいという気持ちだけで、相手との距離を決めたくはなかった。


 今すぐ役立つ結論を出せなくても、残せるものはあった。分からないことをそのまま問いとして保ち、確かめたことを見失わない。それは、彼と図面を囲んでいたときにも、大切にしてきた姿勢だった。


 アテナは、一行を書き終えて顔を上げた。机の先には、朝の光が差している。今日の作業は、始まったばかりだった。


 研究の結果を書いた紙ではない。今の自分の気持ちを残したものだった。その二つをどちらも大切にするために、彼女は、手元の記録へ向き直った。


     ◇


 庭園では、今日も噴水が水を流していた。


 アテナは、そのそばで足を止めた。


 誰かが水の高さに首を傾げ、仕組みを尋ねてくることはない。


 地面に図を描きながら、嬉しそうに顔を上げる姿もなかった。


 いつもなら隣へ視線を動かすところで、彼女は水の流れを見た。そこから始まった会話が、今も自分の中に残っている。水音を聞けば、失敗に気づいて二人で図面へ戻った時間も思い出せた。


 それでも、初めて言葉を交わした日のことを、アテナは覚えている。


 後に起きた出来事を知っていても、あの日の楽しさまで偽りにはならない。


 今の行いを認められなくても、かつて向けられた笑顔まで否定したくはなかった。


 忘れてしまえば楽になるのかと考えたことが、なかったわけではない。だが、思い出そうと決めたときだけ思い出す相手ではなかった。紙に残る線や、小さな問いに出会うたび、彼と話した時間が浮かんだ。


「……ヘルカイザーさん」


 水音の中へ、名前を落とす。


 返事はない。


 アテナは、それでも小さく微笑んだ。


「どうか、お元気で……」


 二人の道は、分かれていた。


 もう、同じ結論を見つめてはいない。


 すぐ隣へ座り、同じ図面を覗き込むことも、今はできなかった。


 離れた友人を思い出すことが、いつも穏やかな時間になるわけではなかった。名前を呼べば、楽しい声の後に、あの痛みに驚いた声も蘇る。研究室を思い浮かべれば、共に喜んだ記録のそばへ、今は認められない研究の報告も重なった。


 そのどちらにも、彼がいた。


 アテナは、見たくないものを消すために、思い出を開いているのではなかった。今の行いを知った自分が、初めて会った日の相手へ、もう一度問いかけることはできない。それでも、あのとき何を知り、何を喜んだかを、正確に覚えていたかった。


 噴水から落ちる水が、光を受けた。


 以前なら、それを眺めて新しい工夫を思いつく者が、隣にいたのだろう。アテナは、自分ひとりでも流れを辿った。あの仕組みについて学んだことは、友人がいない今も、自分の知識として残っている。


 彼と話したことで、自分にも増えたものがある。知らなかった考えを知り、疑問を口にする楽しさを知った。別の見方に出会えば、もう少し考えてみようと思えた。その時間を失ったものだけとして数えるには、今の自分の中にも、残っているものが多かった。


 だから、忘れないことを、同じところで立ち尽くすことにはしたくなかった。


 机へ戻れば、今日書き始めた問いがある。読み返すべき記録も、確かめなければならないことも残っている。手紙を渡す日が来るかどうかは、まだ分からない。その不確かさを、約束に変えるつもりはなかった。


 いつか会えると決まっているから、書いたのではない。


 会えたとき、自分の気持ちを曖昧にしないために書いた。友人だという言葉も、認められないという言葉も、自分の中から取り落としたくなかった。


 アテナは、長椅子へ一度だけ目を向けた。図面を広げた場所には、木々の影が落ちている。今は誰も座っていない。それでも、あそこに座るたび思い出す声があることを、彼女は知っていた。


 その声に呼ばれた名前も、覚えている。


 記録を閉じ、噴水のそばを離れた後も、友人と過ごした時間が終わってしまった事実と、それが自分の中に残ることは、共に続いていくのだろう。彼女は、その重さを抱いて歩くことになる。


 水音が、背後から聞こえていた。


 それでも、アテナは忘れなかった。


 噴水の仕組みを語り合った日を。


 失敗した模型を前に、二人で笑った時間を。


 知る喜びを共にした、あの友人を。


 いつか、再び言葉を交わせる日が来たなら。


 そのときに、自分の言葉で話せるように。


 アテナは、静かに庭園を歩き出した。


――『知恵の女神と偽りの次元神』 終――

これでアテナとヘルカイザーの過去編は終了になります

御観覧ありがとうございました

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