タイトル未定2026/11/06 10:49
終幕 それでも、あなたを忘れない
噴水の水音が、庭園に響いていた。
アテナは長椅子に座り、膝の上の設計図を広げていた。
何度も開いた紙だった。
折り目のそばには、二人で書き直した線がある。自分の文字の隣に、ヘルカイザーの注記が残っている。
風が吹くと、紙の端がわずかに浮いた。アテナは慣れた仕草でそこを押さえた。強く押さえ過ぎると古い折り目が傷むため、指先へ入れる力まで、いつしか覚えてしまっていた。
どこを読めば、どんな言葉が書かれているのか。
もう、覚えてしまっていた。
それでも、彼女はその紙を開いた。
書かれた内容を確かめるだけなら、毎回ここへ持ってくる必要はない。それでも水音の聞こえる場所で広げると、机の上で読むときとは違う順序で、思い出が戻ってきた。
『こちらを変えてみては、いかがでしょうかねぇ♪』
文字を目で追うと、楽しそうな声が思い出された。
注記を残したときの、彼の手元まで見える気がした。紙の端を押さえた小さな前脚。そのそばを動く筆。考えを説明する途中で自分の疑問に気づくと、彼はそこで話を止め、また図へ向き直った。
顔を上げれば、噴水が見える。
初めて会った日、あの小さな白いドラゴンは、そこに立っていた。
見知らぬ相手へ警戒して、名前を尋ねた。
返ってきたのは、丁寧な挨拶と、噴水の仕組みについての質問だった。
まさか、そこから話が長く続くとは思っていなかった。尋ねられたことへ答え、こちらからも問い返した。彼は噴水を眺め、説明を聞き、それから自分の考えを見せてくれた。
「……本当に、不思議な方でしたね……」
アテナは、かすかに微笑んだ。
水の流れについて話し始めると、彼は熱心に耳を傾けた。
別の案を思いつけば、嬉しそうに図を描いた。
問題を指摘すると、また考え直した。
その続きを聞きたくて、自分も問いを重ねた。
答えを知るだけでは、終わらなくなっていた。もし違う形にしたらどうなるのか。ここで流れが変わるなら、その先では何が起きるのか。ひとつの説明から別の疑問が生まれ、それを彼へ伝えるのが楽しかった。
気がつけば、時間が過ぎていた。
あの日のことを、アテナは今も覚えている。
また話したいと、尋ねたことも。
もちろんですよと、すぐに頷いてくれたことも。
その返事を聞いたときには、次に会えば何を話そうかと考えていた。別れの後に、もう続きを思いついていたのだ。その気持ちが、後に何度も足を研究室へ向けさせた。
設計図へ視線を戻すと、自分が書き添えた疑問がある。すぐ隣に、彼の答えが残っている。もう一度同じ説明を聞きたいと思っても、今は、この紙から声を思い出すことしかできなかった。
噴水は、その間も水を流していた。
図面には、結局採用しなかった案も残っている。線が引かれた後に別の形を試し、もう一度もとの案へ戻った箇所だった。そのたびに、なぜうまくいかなかったのかを話した。失敗をした側が黙ってしまうのではなく、相手もそこへ顔を寄せてきた。
アテナは、その跡を指で辿った。答えの線だけを残していたなら、この時間までは思い出せなかったかもしれない。途中で交わした疑問も、書き損じた図も、後から読み返せる形になっている。それが、今はありがたかった。
楽しかったと口にすると、その後に起きたことを軽くするようで、ためらった日もあった。けれど、昔の喜びを否定しても、今苦しんでいる者が救われるわけではない。何が変わり、何が残ったのかを考えるためにも、あの時間を歪めたくなかった。
彼女は、共に喜んだ研究のことも覚えている。誰かの苦しみが軽くなったという結果を前に、二人で確かめ直した。そのときの彼の喜びを、後の行いを知った自分が嘘に変えることはできなかった。
膝の上の紙へ、木々の影が揺れた。アテナは顔を上げた。今ここにある噴水と、もう隣にはいない友人。その両方を、同じ景色の中に見ていた。
幾度か修繕されたところが、光の下に見える。共に作業した時代のまま、何もかもが止まっているわけではない。それでも、水の流れる先を辿れば、二人で確かめた仕組みへ、今も思い当たることができた。
◇
設計図の端を押さえていた指が、止まった。
目に浮かんだのは、最後の再会だった。
草原の上空で振り返った、懐かしい姿。
自分を見つけたときの、明るい声。
長く探していた相手が、ようやく目の前にいた。
白い身体の後ろで、黒い翼が嬉しそうに動いた。記録を閉じて、話を聞く姿勢を取ってくれた。その仕草だけで、昔の研究室を思い出した。
会いたかった。
話したかった。
彼の考えを認められなくても、それで友人としての時間までなくなるとは思いたくなかった。
だから、手を伸ばした。
彼も、その手へ小さな前脚を差し出した。
触れるまでの短い時間には、安堵があった。意見は違っても、同じ場所にいて、相手の返事を待つことができる。もう少し話せるのかもしれないと、思った。
そして――。
『……な……何ですか……これは……!?』
アテナは、設計図から手を離した。
自分の掌を見つめる。
攻撃はしていない。
術式も使っていない。
それなのに、触れた彼は苦しんだ。
驚き、手を振り払い、自分から離れた。
指を曲げても、あのときと違うところは見つからなかった。自分の手には傷もない。何かを放ったという感覚もない。それでも、彼の笑顔が消え、身体が震えたことは事実だった。
「……あなたに、手を伸ばしてはいけなかったのでしょうか……?」
問いかけても、答える者はいなかった。
手を伸ばす前に何かができたのかと考え、そこで止まる。予想していなかったことを、後から知っていたことにはできない。それなのに、彼が痛がった瞬間を思い出すと、何もしなければよかったのかという問いが戻ってきた。
ヘルカイザーは、自分が故意に傷つけたとは思っていなかった。
その言葉を、アテナも信じている。
けれど、信じてもらえたことと、近づけることは、同じではなかった。
彼は距離を取った。
何が起きたのか分からない以上、また同じことが起きるかもしれないからと。
アテナも、それ以上、手を伸ばせなかった。
もう一度、あの顔をさせたくはなかった。
立ち去る彼を追おうとした足も、途中で止まった。呼べば、名前を届けることはできる。だが、その先で手を取って引き留めることは、もう、ためらわずに選べる動作ではなかった。
膝の上へ、手を戻す。
紙の上には、昔の二人の文字が並んでいた。
あの頃は、同じ図を押さえるために伸ばした指が触れても、何も起きなかった。今は、その何気ない近ささえ、なぜ失われたのか分からないままだった。
アテナは、折り目に沿って設計図をゆっくり畳んだ。いつもならすぐ揃う角が、今日は少しずれた。開き直して整え、それから、ようやく膝の上へ手を重ねた。
◇
研究机へ戻ると、アテナは最後の再会の記録を開いた。
接触の直後に生じた、身体の異常。
距離を取った後の変化。
そのときに交わした言葉。
確かめられたことを、順に書き並べる。
分からない部分には、問いを残した。
感情の強かった記憶ほど、起きた順序を慎重に確かめた。驚いて身を寄せようとしたこと。彼が距離を取ったこと。その後も声を交わせたこと。どこまでが自分の目で見た事実で、どこからが推測なのかを、読み返しながら確かめていく。
「……何が、起きたのでしょう……」
マイナスエネルギーは、彼の力と深く結びついていた。
そこへ、何か異なる性質のものが反応したのかもしれない。
しかし、可能性を思いついたことと、原因を確かめたことは違う。
まだ、断言できなかった。
アテナは、手元の資料を読み直した。
願いに合う説明だけを選べば、一見、答えができたように見えるかもしれない。だが、それを信じて近づいた先で、彼をまた苦しめるなら、分かったことにはならない。
彼女は、仮の説明を書いた行の末尾へ、小さな問いを置いた。
調べるべきことはある。
けれど、彼自身の状態を確かめようとすれば、また会わなければならない。
そのために近づくことで、彼が苦しむのなら。
筆が止まった。
「……それでは、私は……」
言葉の続きを、書けなかった。
原因を確かめるためだからと、彼に同じ痛みを求めてよいわけではない。そのことは、研究者としても、友人としても、見失いたくなかった。必要な情報がないというもどかしさだけで、相手の苦しみを後回しにはできなかった。
彼に研究をやめてほしいと願った。
誰かを苦しめることを、正しいと言い続けないでほしかった。
同時に、彼自身にも苦しんでほしくなかった。
その願いを、どうすれば同じ場所へ置けるのか。
今のアテナには、分からなかった。
閉じた資料を脇へ寄せ、別の記録へ手を伸ばす。そこには、彼の変化について調べた結果がある。少しずつ積み重なり、最後には定着してしまった影響。それを、短い怒りや一時的な錯乱として説明することはできなかった。
彼女は、分かっている結論を消さなかった。
今、考えているのは、昔の彼へ戻す方法ではない。最後の接触で起きたことを知り、これからどう向き合えるかを考えることだった。その違いを、机の上でも曖昧にしたくなかった。
新しい問いの隣へ、確かめられた事実をもう一度置く。
同じ頁を読み直しても、すぐに答えが増えるわけではない。それでも、彼が嫌いになったのではないと言ったことも、研究をやめないと答えたことも、同じ記録の中へ残した。
◇
ゼウスは、アテナの報告を静かに聞いた。
彼と再会したこと。
研究について、改めて言葉を交わしたこと。
手が触れた直後、彼が痛みに襲われたこと。
そして、その原因が分からないまま別れたこと。
アテナは、手元の記録を示しながら話した。草原で彼の声を聞いたときのことになると、説明の途中で息が詰まった。それでも、懐かしかったという思いだけで、続いた対話を省くことはしなかった。
「……以前と、変わらないところもありました」
アテナは、手元へ目を落とした。
「話し方も、笑顔も。研究を語るときの、楽しそうなご様子も……」
「……だが、考え方は違っておったのだな」
「はい」
その答えは、はっきりしていた。
「今の研究を、認めることはできません」
悪事を働いた相手でも、苦しめ続けてよいことにはならない。
自分へ攻撃した相手でも、抵抗できなくなった後まで研究の対象にしてよいわけではない。
友人だからといって、その行いを正しいと言うつもりはなかった。
彼に助けられた者の証言を、アテナは覚えている。荷物を抱えて去った旅人も、集落の少女も、白いドラゴンの優しさを語った。それが嘘でないと知っているからこそ、その後の記録へ目を閉じることもできなかった。
「……それでも、私は……」
アテナは、顔を上げた。
「あの方との友情を、捨てたくないのです」
言葉にしてから、指先へ力が入った。彼の行いを認められないという答えを、今言ったばかりだった。その二つが自分の中にあることを、ゼウスへ伝えたかった。
ゼウスは、しばらく黙っていた。
それから、深く頷く。
「過去を変えることはできぬ」
「……はい」
「そして、あやつ自身の行為まで、お主が全て背負う必要はない」
アテナは、唇を結んだ。
もっと早く、変化に気づいていれば。
会う機会を奪われていたことを、見抜いていれば。
貯蔵庫からの流入を、確かめ直していれば。
そうした思いは、何度も繰り返してきた。
その先へ、今度は自分の手で彼を苦しめた記憶まで加わった。
昔の記録を開けば、気づけたかもしれない箇所を探してしまう。報告書を読めば、そこへ至る前に声をかけられたのではないかと考える。既に起きた出来事の前へ、自分を何度も立たせようとしていた。
「……分かっています」
声が震えた。
「分かって、いるのですが……」
涙が落ちた。
ゼウスは、彼女が言葉を取り戻すまで待っていた。
アテナは、ゆっくりと涙を拭った。
分かっていることを、すぐに心まで受け入れられるわけではなかった。
それでも、彼の全てを自分の責任にしてしまえば、彼自身が選んだことまで見失ってしまう。
彼は、やめないと答えた。
自分は、認められないと伝えた。
その対話があったことを、忘れてはならなかった。
自分の後悔だけで彼を説明してしまえば、目の前で聞いた言葉も、遠くの報告に残された行為も、その中へ沈んでしまう。彼女が会いたいと願ったのは、今の彼が何を考えているかを直接聞くためでもあった。
望んでいた返事ではなかった。
けれど、彼は答えた。その答えを聞いた友人として、自分が次にどう向き合うかを考えなければならなかった。
アテナは、資料を揃えて顔を上げた。涙はまだ残っていたが、言葉を探すために伏せていた視線を、もう一度、目の前へ戻した。
◇
その夜、アテナは一枚の白い紙を机へ置いた。
しばらく眺めてから、筆を取る。
『ヘルカイザーさんへ』
名前を書いたところで、一度、手を止めた。
どこへ届ければよいのか、分からない。
誰に託せば届くのかも。
それでも、今の自分の言葉を、書いておきたかった。
以前、届けられるはずの言葉が届かなかった時間がある。互いに会いたかったのに、相手が忙しいのだと聞かされていた。今は、宛先が分からないことを、アテナ自身が知っている。だから、届けたつもりにはならず、それでも書こうと思った。
『あの日、あなたに何が起きたのか、私はまだ分かっていません。』
『あなたを傷つけるつもりはありませんでした。ただ、もう一度、友人としてお話ししたかったのです。』
そこまで書き、アテナは読み返した。
草原で伝えた否定の言葉が、紙の上にも残った。彼が信じてくれたことを疑っているのではない。ただ、自分が何を願って手を伸ばしたかを、落ち着いた言葉で書いておきたかった。
それだけでは、伝えたいことの全てではなかった。
筆を動かす。
『私は、今のあなたが行っていることを、正しいとは思えません。』
『間違っていると思ったときには、これからも、そう伝えます。』
『けれど、それはあなたを嫌いになったからではありません。』
一文を書くたび、続きを急がずに読んだ。友人だと言うために、その行いを認める言葉へ変えたくはなかった。反対していることを書くために、大切に思う気持ちまで消したくもなかった。
水音の響く庭園を、思い出した。
研究室に広げられた図面を。
こちらの疑問を聞き、また考え始める友人を。
『あなたの才能を、尊敬しています。』
『あなたと過ごした時間を、今も大切に思っています。』
文字の端が、少し滲んだ。
アテナは涙を拭い、続きを書いた。
『もし、いつか再びお会いできる日が来たなら。』
『そのときは、あなたを苦しめずに、もう一度、笑ってお話しできたら嬉しいです。』
『あなたの友人、アテナより。』
書き終えても、すぐには紙を折れなかった。
読み直せば、書き足したいことが浮かぶ。
会えて嬉しかったことも、姿を見つけたときに声が出なかったことも、もっと詳しく伝えられる。これまでどれほど探していたかを、書くこともできた。
それでも、何もかもを一度に伝えることはできない。
書けば長くなる言葉を、全て彼へ渡せばよいのかも分からなかった。返事を求めるために、自分の寂しさを並べたいわけではない。まず、今ここで確かに言えることを、残しておきたかった。
アテナは、最後に書いた一文を見つめた。
あなたの友人。
その言葉を、消したくはなかった。
彼も、共に過ごした時間を今も大切にしていると言った。あの声を、自分に都合のよい約束へ変えるつもりはない。研究をやめるという意味でなかったことも、知っている。
それでも、友情を大切にしているという言葉まで、なかったことにはしたくなかった。
手紙を丁寧に折り畳む。
古い噴水の設計図と共に、箱へ収めた。
図面の上へ新しい紙が重なる。過去の二人が書いた線のそばへ、今の自分が書いた言葉を置いた。まだ渡せない手紙だったが、書いた時間まで無駄だとは思わなかった。
「……いつか、渡せる日が来ると良いですね……」
蓋を閉じた後も、彼女の手は、しばらくその上に置かれていた。
◇
翌朝、アテナは研究机へ向かった。
ヘルカイザーを、以前の価値観へ戻す方法は存在しない。
それは、既に調べ、確かめた事実だった。
その結論を、都合のよい願いで書き換えるつもりはない。
机へ座る前に、彼女は一度、以前の調査を収めた場所へ目を向けた。読み返すたびに結論が変わるわけではなかった。自分が友人であるという理由で、ほかにはない解決がそこから現れるわけでもない。
それでも、まだ分からないことは残っている。
最後に会ったとき、何が起きたのか。
なぜ、触れただけで彼が苦しんだのか。
原因を知りたかった。
彼に会いたいと願う自分が、何を確かめなければならないのかも。
原因を知ったとしても、彼と同じ考えになれるという保証はない。痛みが起きなければ、今の研究を認められるようになるのでもない。そのことと、傷つけずに話せるかという問いは、どちらも残る。
アテナは、違う問いをひとつの答えで埋めようとはしなかった。
「……あなたが、研究をやめないのでしたら……」
アテナは、新しい紙を広げた。
「私も、私の研究を続けます……」
彼女は、まだ知らなかった。
ヘルカイザーが、新しい会社へ入ったこと。
マスター社長へ、自ら忠誠を誓ったこと。
一つのスレッドを壊し、世界の平和という理想を、研究計画から消したこと。
彼が、その先に何を選んだのかも。
彼女の手元にあるのは、共に過ごした記録と、別れた日の記憶だった。
その記録の隣へ、新しい問いを書き加える。
問いの下には、確かめられたことを置く欄を作った。分からない部分は空いたままだ。そこへ願いだけを書き込まないよう、アテナは筆先を止め、もう一度、最後の再会の記録を開いた。
昨夜書いた手紙は、箱の中にある。
新しい頁へ、最後に会った場所を書いた。そこから何を記録できていたかを確かめる。気持ちが強く動いた場面ほど、後から別の理由を添えやすい。彼女は、覚えていることと、そこから考えたことを、慎重に文章へ残した。
作業を始めても、すぐに手が速くなるわけではなかった。彼が後ろへ下がったところを記すと、また指が止まる。けれど、そのたびに同じ箇所を消して、書かなかったことにするつもりはなかった。
自分が近づこうとしたことも、彼の判断を聞いて足を止めたことも、そこへ書いた。次に同じような状況になったなら、何に気をつけなければならないかを考えるためだった。会いたいという気持ちだけで、相手との距離を決めたくはなかった。
今すぐ役立つ結論を出せなくても、残せるものはあった。分からないことをそのまま問いとして保ち、確かめたことを見失わない。それは、彼と図面を囲んでいたときにも、大切にしてきた姿勢だった。
アテナは、一行を書き終えて顔を上げた。机の先には、朝の光が差している。今日の作業は、始まったばかりだった。
研究の結果を書いた紙ではない。今の自分の気持ちを残したものだった。その二つをどちらも大切にするために、彼女は、手元の記録へ向き直った。
◇
庭園では、今日も噴水が水を流していた。
アテナは、そのそばで足を止めた。
誰かが水の高さに首を傾げ、仕組みを尋ねてくることはない。
地面に図を描きながら、嬉しそうに顔を上げる姿もなかった。
いつもなら隣へ視線を動かすところで、彼女は水の流れを見た。そこから始まった会話が、今も自分の中に残っている。水音を聞けば、失敗に気づいて二人で図面へ戻った時間も思い出せた。
それでも、初めて言葉を交わした日のことを、アテナは覚えている。
後に起きた出来事を知っていても、あの日の楽しさまで偽りにはならない。
今の行いを認められなくても、かつて向けられた笑顔まで否定したくはなかった。
忘れてしまえば楽になるのかと考えたことが、なかったわけではない。だが、思い出そうと決めたときだけ思い出す相手ではなかった。紙に残る線や、小さな問いに出会うたび、彼と話した時間が浮かんだ。
「……ヘルカイザーさん」
水音の中へ、名前を落とす。
返事はない。
アテナは、それでも小さく微笑んだ。
「どうか、お元気で……」
二人の道は、分かれていた。
もう、同じ結論を見つめてはいない。
すぐ隣へ座り、同じ図面を覗き込むことも、今はできなかった。
離れた友人を思い出すことが、いつも穏やかな時間になるわけではなかった。名前を呼べば、楽しい声の後に、あの痛みに驚いた声も蘇る。研究室を思い浮かべれば、共に喜んだ記録のそばへ、今は認められない研究の報告も重なった。
そのどちらにも、彼がいた。
アテナは、見たくないものを消すために、思い出を開いているのではなかった。今の行いを知った自分が、初めて会った日の相手へ、もう一度問いかけることはできない。それでも、あのとき何を知り、何を喜んだかを、正確に覚えていたかった。
噴水から落ちる水が、光を受けた。
以前なら、それを眺めて新しい工夫を思いつく者が、隣にいたのだろう。アテナは、自分ひとりでも流れを辿った。あの仕組みについて学んだことは、友人がいない今も、自分の知識として残っている。
彼と話したことで、自分にも増えたものがある。知らなかった考えを知り、疑問を口にする楽しさを知った。別の見方に出会えば、もう少し考えてみようと思えた。その時間を失ったものだけとして数えるには、今の自分の中にも、残っているものが多かった。
だから、忘れないことを、同じところで立ち尽くすことにはしたくなかった。
机へ戻れば、今日書き始めた問いがある。読み返すべき記録も、確かめなければならないことも残っている。手紙を渡す日が来るかどうかは、まだ分からない。その不確かさを、約束に変えるつもりはなかった。
いつか会えると決まっているから、書いたのではない。
会えたとき、自分の気持ちを曖昧にしないために書いた。友人だという言葉も、認められないという言葉も、自分の中から取り落としたくなかった。
アテナは、長椅子へ一度だけ目を向けた。図面を広げた場所には、木々の影が落ちている。今は誰も座っていない。それでも、あそこに座るたび思い出す声があることを、彼女は知っていた。
その声に呼ばれた名前も、覚えている。
記録を閉じ、噴水のそばを離れた後も、友人と過ごした時間が終わってしまった事実と、それが自分の中に残ることは、共に続いていくのだろう。彼女は、その重さを抱いて歩くことになる。
水音が、背後から聞こえていた。
それでも、アテナは忘れなかった。
噴水の仕組みを語り合った日を。
失敗した模型を前に、二人で笑った時間を。
知る喜びを共にした、あの友人を。
いつか、再び言葉を交わせる日が来たなら。
そのときに、自分の言葉で話せるように。
アテナは、静かに庭園を歩き出した。
――『知恵の女神と偽りの次元神』 終――
これでアテナとヘルカイザーの過去編は終了になります
御観覧ありがとうございました




