第30話 完成した漆黒と、失われた一つの世界
ガルデローベ社へ入社してから、ヘルカイザーの研究環境は変わった。
会社の活動へ役立てる技術を開発し、成果を示す。
評価された仕事によって報酬を得る。
そして、その資金を、長く続けてきた研究へ注いだ。
以前、計算書を前に止まっていた指が、今は届いたものを確かめるために動いている。必要な項目の横へ印を添え、残っている工程へ目を移す。紙の上で何度も見直した計画が、ようやく実際の作業へつながっていた。
働く前から、記載されていた最高の報酬を約束されていたわけではない。任された仕事で何を役立てたかが、その評価へつながる。ヘルカイザーは得た資金を確かめ、その範囲で次に揃えるものを選んでいた。
「いやはや♪ 働いた成果が評価されるというのは、素晴らしいものですねぇ♪」
必要なものを揃え、設計図を形にしていく。
以前は費用のために止まっていた箇所にも、手を入れられるようになった。
計画書に残っていた空欄へ、実際に確かめた結果が入っていった。予想した通りに動いたところもあれば、手を加える必要があるところもある。彼は後者を消して、初めから問題がなかったような記録にはしなかった。
試験を重ね、計測値を見直す。
新しく揃えた測定装置の前で、ヘルカイザーは古い記録を開いた。同じところを確かめても、今までより詳しく残せる変化がある。足りなかったのは、考える時間だけではなかった。費用のために見送っていた確認が、ようやく手元の作業になっていた。
記録の取り方を変えたときには、過去の結果をそのまま並べてよいかも確かめた。違う条件で測ったものを、同じものとして扱えば、改良の効果を見誤るかもしれない。彼は必要な条件を書き添え、読み返したときに取り違えないようにした。
作業の合間には、会社のための資料も開く。仕事へ示した結果と、自分の研究に用いる資金は、その都度確かめられていた。机に揃うものが増えるたび、入社を選んだことをよかったと思った。何を役立てられるかと問われた場面も、鮮明に覚えている。
マスター社長へ成果を示すことと、自分の構想を形にすること。その二つのために、彼の手はよく動いた。必要な作業があるなら、順に進めればよい。開いた紙を前に途方に暮れていた頃とは、机へ向かう気持ちが違っていた。
けれど、揃えられた装置も、既に分かっている範囲を越えて全てを教えてくれるわけではなかった。調べるべき項目を決めるのは彼自身であり、どの変化に注意を向けるかも、彼の知識によっていた。今はまだ、その外側にあるものの姿を知らなかった。
一度の成功だけでは、次へ進めない箇所もあった。接続を戻し、同じ手順で確かめる。別の部分へ手を入れた後も、それまで動いていた箇所に変化がないかを調べる。そのための時間が、記録の厚みになっていった。
貯蔵庫は、長い間、動き続けていた。
それでも、彼の構想には、まだ届いていなかった。
回収すること。
蓄えること。
その力を、自分自身へ集約すること。
既に働いていた仕組みに、今まで存在しなかった目的を突然与えたのではない。長く続けてきた改良の、その先だった。個々の機能が動くことを確かめたうえで、それらを全体として整える必要があった。
幾度も改良してきた仕組みを、最後まで繋ぎ合わせる。
机には、古い記録も置かれていた。初めの頃よりも、紙の枚数はずっと増えている。変更した箇所を辿れば、その時々に何を考えていたかが分かった。彼は必要な記録を開き、今の設計との対応を確かめた。
ヘルカイザーは、記録へ目を落とした。
「……さてさて。こちらは、いかがでしょうかねぇ♪」
試験を始める。
数値が変わる。
白い指先が、ひとつ目の項目へ置かれた。そこに変化が現れたことを確かめ、次へ移る。期待していた結果を先に書き込むことはせず、目の前に示されるものを順に記録していった。
回収、集約、蓄積。そして、自らの次元神の力との接続。
確認した項目が、一つずつ想定した範囲へ収まっていった。
途中で別の部分へ無理が生じている様子もない。彼は、最後の項目を見た後もすぐには筆を置かず、最初へ戻った。最後まで動いたという印象だけで、どこかを見落としたくはなかった。
「……おやおや」
彼は、最初の記録から読み返した。
途中だけがうまく動いたのではない。
全体を通して、考えていた結果が得られている。
黒い翼の端が、わずかに持ち上がった。声にする前に喜びが表れていたが、彼の目は記録から離れなかった。今ならもう一度、同じ結果を確かめられる。その確認を済ませてから、書きたい言葉があった。
もう一度確かめる。
結果は変わらなかった。
最初から最後まで、彼が待っていた順序で変化が現れた。開いた設計図と、新しく埋まった記録。その二つを交互に見た後、ヘルカイザーは、ようやく小さく息を吐いた。
「……遂に、完成しましたねぇ♪」
長く待っていた言葉だった。
ヘルカイザーは、新しい記録へ書き込んだ。
『マイナスエネルギー貯蔵庫・完成』
文字を書き終えた後も、指先はしばらく紙のそばにあった。読み返して、消す必要がないことを確かめる。設計の途中に書いた予定でも、いつか達したい目標でもない。今、確かめた結果として、そこへ残せる言葉だった。
筆を置き、漆黒の空間を見つめる。
かつて、苦しむ魂を救うために始めた研究。
その発明は、膨大な負のエネルギーを自分へ集める完成形に到達していた。
始まりの頃にも、彼は成功を喜んだ。魂から苦しみが軽くなったと分かったとき、アテナと記録を囲んだ。その喜びまで、偽りだったわけではない。
今、隣に女神はいなかった。
彼はひとりで新しい文字を眺め、満足そうに尻尾を揺らした。長く続けた研究が形になったことに、確かな達成感があった。完成した仕組みが、これからどのように働くか。その先にも、確かめたいことは残っていた。
◇
『なんでもありのスレッド』で、ヘルカイザーは次元制御の最終調整を続けていた。
周囲では、今日も人々の言葉が行き交っている。
誰かが話しかけ、別の誰かが答える。
積み重ねられたやり取りが、彼らの「世界」を形作っていた。
同じ場所を訪れた者が、前に交わした言葉の続きを置く。別の話題が始まり、そこへまた返事が重なる。ヘルカイザーには馴染みのある光景だった。神々が探す世界という言葉だけでは辿れなかった、その場所に、彼は今もいた。
近くには、別のスレッドも存在している。それぞれに、そこへ来る者たちのやり取りがあった。ひとつの言葉だけでは成り立たない時間が、幾つもの記録として積み重なっていた。
「……ふむふむ。順調ですねぇ♪」
計測値を記録する。
貯蔵庫の状態を確かめ、接続を調整する。
完成したという記録は、細かな状態を見なくてよいという意味ではなかった。彼は作業を進めるたび、意図した変化が得られているかを確かめていた。馴染みのある数字を追う指先は、落ち着いている。
その途中で、見慣れない反応が現れた。
いつものやり取りは、調整のために止められていたわけではない。ヘルカイザーが記録へ目を落としているあいだにも、言葉は増えていた。彼が確認を済ませて顔を上げれば、先ほどとは違う話が続いていることもあった。
そこに積み重なるものを、彼がひとつ残らず知っていたわけではない。自分が参加していない時間にも、誰かが訪れている。後から前の記録を辿れば、その時間にどんなことがあったかが分かる。そのような場所が、幾つも並んでいた。
彼自身にも、そこへ戻る感覚は馴染んでいた。しばらく離れ、また訪れれば、話の続きが見つかる。呼びかける言葉を置けば、返事があるかもしれない。いつも必ず同じ相手がいるわけではなくても、積み重ねたやり取りは、戻ってきた者の目印になった。
完成した装置の記録へ確認の印を添えたときも、その景色は変わっていなかった。すぐ近くの場所が失われるとは、彼も思っていない。異常を示すものがないかを見ながら、予定していた順序で調整を続けていた。
後になって辿れば、ここにも、まだ何も壊れていなかった時間があった。言葉が続き、彼の筆も動いていた。その直後に何が起きるかを知らないまま、次の記録へ目を移していた。
「……おや?」
ヘルカイザーは、筆を止めた。
普段、回収しているマイナスエネルギーとは違う。
性質の異なるものが、記録の中に混じっていた。
量が多いか少ないかという違いだけではなかった。慣れた反応の中へ、同じ見方では説明できない変化が現れている。彼は直前に行った調整を確かめ、どこから違いが始まったかを探した。
「こちらは……何でしょうねぇ?」
反応を詳しく調べようとした。
その瞬間だった。
――ズキンッ。
「……っ!?」
身体の奥を、痛みが貫いた。
手元の記録から、視線が逸れる。
筆を持っていた指が強張った。声を出そうとしても、最初の息がうまく続かない。黒い翼が大きく動き、崩れかけた身体の姿勢を支えようとする。
覚えのある痛みだった。
草原で、アテナの手に触れたとき。
何が起きたのかも分からないまま、彼女から離れた、あのときの痛み。
記録へ残しただけで、まだ原因を解明できていなかった異常。それが、今度は彼女のいないところで起きている。近づく相手から距離を取ればよいという、あのときと同じ動きでは対処できなかった。
「……これは……!」
――ズキィィンッ。
再び痛みが走る。
次元の制御が、一瞬だけ乱れた。
ヘルカイザーは、すぐに接続へ意識を戻した。
痛みを確かめるよりも先に、動いている力を落ち着かせようとした。今の状態を把握し、元の流れへ戻す。そのために、開いたままの記録へ視線を戻した。
しかし、完成した貯蔵庫には、膨大なマイナスエネルギーが集められていた。
小さな乱れは、その場だけに留まらなかった。
想定していなかった方向へ、力が広がる。
近くに存在していた、一つのスレッドへ。
先ほどまでそこにあったやり取りが、歪んで見えた。記録された言葉の連なりが、もとの形を保てなくなっている。ヘルカイザーは、痛みで詰まりかけた息を吐き、そちらへ前脚を向けた。
「……いけませんねぇ……!」
ヘルカイザーは制御を取り戻そうとした。
空間を固定する。
崩れかけた構造を、繋ぎ直す。
触れられるうちに、ほころびを止めようとした。何が起きたのかを詳しく調べる時間は、後でもよい。今はまず、広がってしまった力を戻さなければならない。彼の視線は、崩れ始めた場所から離れなかった。
だが、ほころびは、止めようとした先でも広がっていった。
支えようとした箇所の向こうが、先に失われる。残っているところへ働きかけても、元へ戻す前に別のつながりが途切れていく。修正する手が届くはずの場所が、変わり続けていた。
「お待ちください……! こちらを……!」
彼は、修正を試みた。
もう一度、力を伸ばした。
それより早く、言葉が途切れた。
――パキンッ。
積み重ねられた記録が、崩れた。
先ほどまで誰かが言葉を交わしていた場所が、消えた。
ひとつの返事が遅れたのではなかった。続きを待つための場所そのものが、なくなっていた。過去のやり取りへ戻ろうとしても、そこへ通じるつながりを辿れない。
「…………」
ヘルカイザーは、その場所を見つめていた。
まだ制御を戻そうとしていた前脚が、ゆっくりと止まる。
もう、繋ぎ直す相手がなかった。
身体の内側には、まだ痛みの余韻があった。けれど、胸元へ手を添えるより先に、彼の視線は消えた場所を探していた。そこに残っているものを見つけなければならない。その思いのまま、しばらく動けずにいた。
◇
「……自分が……」
言葉にしてから、彼はもう一度、消えた場所を確かめた。
先ほどまでは、確かに存在していた。
人々が訪れ、話し、記録を重ねた場所。
誰かが「世界」と呼んでいた、一つのスレッド。
調整を始めたときには、そこにもやり取りがあった。自分の研究のために用意された試験場所ではない。そこへ来る者たちが、それぞれの言葉を置き、続きを交わしていた。
「……壊してしまったのですか……?」
修復を試みた。
別の方法を考えた。
何かが残っていれば、それを起点にできるかもしれない。見えていないだけなら、つながりを確かめ直せるかもしれない。ヘルカイザーは、すぐに失われたと決めて手を引こうとはしなかった。
だが、失われたものは戻らなかった。
最後に見えていた箇所を探して、彼は視線を止めた。どこから崩れ始めたのかを思い出す。あのとき繋ぎ直そうとした場所が残っていれば、そこへもう一度働きかけられるかもしれない。そう考え、記憶にある位置を確かめた。
何度確かめても、つながりは見つからなかった。
ヘルカイザーは、開いたままの資料へ戻った。最後に調整した内容は、ここに残っている。自分が行った操作を辿ることはできた。しかし、それを逆の順序で辿れば、失われたやり取りまで帰ってくるというものではなかった。
紙へ目を向けているあいだに何かを見落とす気がして、すぐに顔を上げた。今ならまだ、間に合うところがあるのではないか。終わってしまったと考える前に、確かめるべきものがあるのではないか。筆を置いては、また手を伸ばす。その動きが続いた。
戻ったものはなかった。
研究中に壊れた部品なら、どこが壊れたかを調べ、必要なものを揃え直せる。以前と同じ役割を果たすものを作れれば、試験も再開できる。だが、今失われた場所について、何をもって同じものと呼べるのか。そこにいた者たちの時間を、彼の設計図から作り直すことはできなかった。
前脚を伸ばした姿勢のまま、彼はしばらくその違いを考えた。次の手段を探すたび、自分の力を向ける先がなくなっていることを、繰り返し確かめることになった。
前脚を向けても、先ほどと同じ景色は現れない。確認する場所を変え、別の記録を開いても、そこにあったものを取り戻すことはできなかった。試みた内容だけが増え、結果の欄は変わらなかった。
彼は、筆を持ち直した。
何を行い、どこで止められなくなったのかを書こうとする。しかし、最初の一行を記したところで、指先が止まった。書き残すべきことは分かる。それでも、記録を作り始めたからといって、今の出来事がいつもの研究と同じになるわけではなかった。
研究がうまくいかなかっただけなら、原因を調べ、次へ進めばよかった。
しかし今、目の前から消えたのは、自分の試作品ではなかった。
作り直すために、図面を開けばよいものではない。そこで誰がどんな順序で話し、何を思って返事をしたのか。後から自分が似た形を用意しても、それが戻ったことにはならない。
彼は、その違いを理解していた。
自分へ攻撃を仕掛けてきた相手を、計画に従って研究対象にしたのでもない。悪事を目撃し、選んだ者へ力を使ったのでもない。巻き込まれた場所は、自分の調整とは関係なく存在していた。
「……いやはや……」
声が、低く落ちた。
「取り返しのつかないことを……」
机には、貯蔵庫の完成を記した資料が残っていた。
その文字を見ても、先ほどのようには喜べなかった。
完成と記したところに、誤字はない。確かめた範囲では、考えていた通りに動いていた。その事実を取り消せば、消えた場所が戻るというものでもない。だが、今はその文字のすぐ隣へ、起きたことを記す必要があった。
白い指先が、紙の端を押さえる。
自分が扱っていた力だった。制御の乱れを止めようとして、止められなかった。その順序を、誰か別の者の出来事のように書くことはできなかった。
ヘルカイザーは、事故が起きる直前の記録を手元へ引いた。
得られた数値の後には、もう何も書かれていないところがあった。そこで痛みが走り、視線を外したことを覚えている。それから、戻そうとした力が、別の方向へ広がった。
原因を知る必要がある。
ただ、原因さえ分かれば、先ほどの声をなかったことにできるわけではない。そのことは、調べ始める前から彼にも分かっていた。
◇
ヘルカイザーは、事故の記録を調べ続けた。
制御が乱れた箇所。
その直前に現れた、異質な反応。
そして、自分の身体に生じた痛み。
初めから全てを一つの理由で説明しようとはしなかった。先に起きたことと、その後に起きたことを、記録に沿って確かめる。痛みに驚いた記憶だけへ頼れば、短い間に起きた変化の順序を取り違えるかもしれなかった。
別の記録を開く。
『原因不明の身体異常』
『発生条件――アテナとの接触』
あの日に確かめられたことと、今回の数値を並べる。
草原で起きた異常には、書き残せたことが少なかった。手が触れた直後に苦しみ、距離を取った後には痛みが弱まった。アテナは攻撃しておらず、自分も、その言葉を信じていた。
今回、彼女はそばにいなかった。
それでも、覚えのある痛みが起きた。ならば、彼女がそばにいるということだけが、異常を説明する条件ではなかったことになる。接触という記述を、原因の全てとして残しておくことはできない。
「……ふむ……」
繰り返し照合した。
似ているだけなのか。
同じ性質の反応なのか。
身体の感覚が似ていたからといって、そのまま同じものだと決められない。逆に、起きた場所が異なるからといって、関係がないとも言い切れなかった。彼は、それぞれの記録にある事実を、ひとつずつ照らし合わせた。
分からない箇所を、推測で埋めることはしなかった。
異常の直前に現れたものは、普段扱っているマイナスエネルギーとは違っていた。そこから目を逸らし、単に調整を誤ったとだけ書けば、肝心の始まりを見落とす。だが、その異質な反応だけで全てを説明しようとしても、まだ確かめていない部分が残った。
彼は紙を寄せ、新しく分かったところへ印を添えた。
ひとつ分かると、次に確かめなければならない点も見えてくる。記録の余白は、その繰り返しで埋まっていった。いつものように興味深い結果へ声を弾ませることはなく、筆先の動く音だけが続いた。
調べ、確かめ、ようやく一つの答えへ辿り着いた。
「……プラス……エネルギー……?」
口に出してから、その性質を改めて確かめた。
希望。
信頼。
思いやり。
誰かの幸せを願う心。
そうした温かな感情に結びつく力が、膨大なマイナスエネルギーを抱える自分の身体へ影響していた。
恐怖や絶望を調べた記録とは、結びつくものが異なる。その違いを確かめることで、ようやく、草原で起きた出来事にも説明が届いた。あのとき、彼女は何かを攻撃のために用意したのではなかった。
ヘルカイザーは、アテナの姿を思い出した。
伸ばされた手。
自分が苦しんだときの、驚いた顔。
『あなたを、傷つけるつもりなど……!』
あの言葉は、初めから信じていた。
彼女は攻撃していなかった。
術式も使っていない。
ただ、友人へ手を伸ばしていた。
長く探していたと、彼女は言っていた。研究を認められないと告げた後も、話をしたかったと言った。違う意見を持っているからといって、友人であることまで諦めたくない。その気持ちを抱いて、手を差し出したのだろう。
自分も、その手へ前脚を伸ばした。
拒みたかったわけではない。懐かしい相手と過ごした時間は、今も大切だった。だからこそ、痛みが走った瞬間、何が起きたのか分からなかった。
「……そういうことでしたかぁ……」
原因不明だった記録へ、答えを書き加える。
発生条件として記した接触の下へ、確かめられた性質を残した。彼女の名前が、危険を仕掛けた者の名前になるわけではない。あの日、分からないまま書いた一行を、今はもう少し正確に説明できた。
長く分からなかったことが、一つ解けた。
ヘルカイザーは、二つの記録を揃えて見た。草原で作った一枚には、当時分かったことしか書かれていない。今の記録には、異質な反応と痛み、制御の乱れへ至る順序が加わっている。両方を置いたことで、初めて説明できるところがあった。
あのとき、アテナは手を下ろしていた。
自分が後ろへ下がると、彼女はそれ以上近づかなかった。その動作を、今は前より詳しく思い出せた。引き留めたくても、また痛がらせるかもしれないと考えたのだろう。彼女の声は震えていたが、自分を追い詰めるような動きはなかった。
それでも、自分は離れることを選んだ。
当時は分からなかった危険を避けるための判断だった。その記録を、彼は消さなかった。今、原因を知ったからといって、触れても問題がなくなったわけではない。膨大なマイナスエネルギーを抱える自分の状態も、そのまま続いていた。
相手に悪意がないことは、異常が起きない保証にならない。
その事実が、今日の事故にもつながっていた。誰かが自分を襲ったのではなくても、扱う力が乱れ、その先で関係のない場所が失われた。敵意の有無だけを見ていれば済むことではなかった。
彼は新しい記述を読み返し、確かめていないことを断言していないか点検した。分かったところまでを残す。そのための作業は続けられた。だが、書き終えるたびに感じていた、ひとつの疑問が解けた喜びは、今は言葉にならなかった。
しかし、失われたスレッドは戻らなかった。
ヘルカイザーは、書き加えた文字を見た。プラスエネルギー。その名前を得たことで、調べる対象は明瞭になった。だが、消えた場所にあった言葉が、一行でも戻ってきたわけではない。
あの反応が起きたから、身体に痛みが生じた。
痛みによって、制御が乱れた。
その先で、力を止められなかった。
順序を辿れるようになったことと、その出来事を起こしたのが自分であることは、同じ紙の上へ残った。原因を説明するために、自分が扱っていたという事実を消す必要はなかった。
何が起きたのか分かったことと、自分が起こした事故は、別だった。
手元には、完成を記した紙もある。
長く続けた改良の結果を、なかったことにはできない。それと同じように、完成した仕組みを扱っていた自分が、別の場所を失わせたことも、見なかったことにはできなかった。
ヘルカイザーは、消えた場所へもう一度目を向けた。
さっきまで、そこへ何かを働きかければ戻せるのではないかと、何度も試みた。今も、戻せるものなら戻したかった。けれど、新しく分かった原因を携えて見ても、その場所は戻らないままだった。
紙の端へ添えた指が、静かに止まる。
彼は、アテナへ原因を押しつける言葉を書かなかった。彼女のいないところでも起きた異常を調べたのだから、その違いは明らかだった。希望や思いやりが存在すること自体を、事故を起こした者の代わりに責めることもできなかった。
自分の身体が、それにどう反応するかを知らなかった。
その状態で、膨大な力を扱っていた。
答えを得た後の記録にも、そこは残された。
そして、研究資料を静かに閉じた。




