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転生した主人公が次元神になる外伝  作者: ヘルカイザー
知恵の女神と偽りの次元神

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第29話 略奪企業ガルデローベ社



「……いやはや」


 ヘルカイザーは、机に広げた計算書を見つめていた。


 白い指先が、縦に並んだ数字を上から下へ辿る。途中で止まり、対応する図面へ移り、それから、また同じ行へ戻った。小さな黒い翼は畳まれたまま、尻尾の先だけが机の下でゆっくり揺れている。


 貯蔵庫の最終改良。


 次元制御の調整。


 増え続けるエネルギーを確かめるための、測定装置。


 必要なものを書き出し、費用を積み上げたところで、筆が止まった。


 計画書には、先に行うべき作業も、その結果を見てから手を入れる箇所も記されていた。既に使っているものを活かせる部分については、その分の費用を引いてある。思いつくまま欲しいものを並べたわけではなかった。


 それでも、紙の下へ近づくにつれて、合計は大きくなっていく。


「これは、随分と困りましたねぇ♪」


 もう一度計算する。


 項目を見直す。


 ひとつの数字を誤って転記していれば、そこを直せる。同じものを二度数えていれば、片方を消せばよい。彼は図面と照らし合わせながら、行ごとに確認の印を添えた。最後まで辿っても、削れる誤りは見つからなかった。


 しかし、結果は変わらなかった。


 手元の資金では、次の研究へ進めない。


 図面の上では、既に考えがまとまりつつあった。あとは形にし、動かして確かめたい。


 それが、費用のところで止まっている。


 貯蔵庫そのものは、今も働いていた。長く蓄えてきたものも失われてはいない。けれど、動いていることと、彼が思い描く最後の形へ届いていることは同じではなかった。ここまで確かめた仕組みを、全体として整えるために、まだ必要な工程が残っている。


 ヘルカイザーは、図面の端へ指を置いた。


 確かめたいところが見えている。なぜそれを確かめる必要があるかも分かっている。手を動かせば、答えへ近づけるはずだった。その手前で計算書を眺め続けるのは、彼にとって、もどかしい時間だった。


 必要な装置を省けば、費用は下がる。だが、何が起きたのかを十分に測れない状態で先へ進んでも、計画した研究にはならない。確かめずに完成したと書くつもりもなかった。


 彼は、削りかけた行の横へ小さく印をつけ、その項目を残した。


 机の上の紙を一枚ずつ寄せると、進められる作業と、今の費用では動かせない作業の境目が見えてきた。設計を考え直すことなら続けられる。しかし、どれだけ紙の上で精密に整えても、実際に動かしたときの結果まで書き込むことはできない。空欄へ向けていた筆を、彼は一度置いた。


 こうして準備を重ねる時間も、無駄ではない。だが、準備が整った後には、実物を前にする時間が要る。彼が欲しいのは、都合のよい予想だけを並べた完成図ではなかった。作り、確かめ、必要なら直す。その往復ができるところまで、計画を運びたかった。


 計算書の最後に引かれた線の下は、まだ空いていた。ヘルカイザーは、そこへ見込みだけの金額を書き足すことをせず、手元にある額をそのまま残した。


「……ふむ」


 ヘルカイザーは、計算書と研究計画書を並べた。


 研究をやめるつもりはない。


 必要な費用があるならば、その費用を得る方法を考えればよい。


 答えの出ない計算を繰り返しても、手元の金額は増えない。計画のどこを小さくするかという見方から、計画を動かすために何ができるかという見方へ、彼は目を移した。


 自分には、これまで作り上げてきたものがある。


 扱える力も、開発してきた仕組みもある。その全てを今この机の周りだけで使わなければならない理由はなかった。必要とする仕事があれば、そこへ知識を持ち込める。成果を出し、その対価を得られるなら、止まっている項目にも手が届く。


 広げた図面を眺めているうちに、尻尾の動きが少し変わった。


「……そうですねぇ♪」


 彼は顔を上げた。


「就職でも、してみましょうかねぇ♪」


 口にすると、次にすることが定まった。


 先ほどまで合計を囲んでいた指が、今度は新しい紙を寄せる。必要な資金の額を控え、そのそばへ、自分にできることを書き始めた。困っていた声は、もう次の作業を見つけた明るさへ戻っていた。


 机の隅には、アテナとの接触について記した紙も収められている。彼女を嫌いになったわけではなかったし、あの異常を忘れたわけでもない。ただ、その答えが出るまで、ほかの研究も全て止めるという考えはなかった。


 分からないものは記録に残す。今できることは進める。


 そうして開かれた新しい紙の上に、研究者としての自分を仕事へ結びつける準備が、少しずつ整っていった。


     ◇


 仕事を探していた彼の目に、一つの会社の名が留まった。


『ガルデローベ社』


 『なんでもありのスレッド』に存在する企業。


 主な事業は、略奪と制圧だった。


 ヘルカイザーは、その一行の前で一度目を止めた。穏やかな事業内容に読み違える余地はない。何を行う会社かという問いには、最初から答えが書かれていた。


「おやおや♪ 随分と物騒な会社ですねぇ♪」


 ヘルカイザーは、その説明を読み進めた。


 何を行う会社なのかは、明確だった。


 その活動に、自分の技術を役立てることもできそうだった。


 次元への干渉。


 空間の固定。


 障壁の形成。


 装置の開発。


 彼は、使えるかどうかをひとつずつ考えた。強い力を持っているというだけでは、仕事の中で何を任せられるかは伝わらない。必要なところで働き、求められる結果へつなげられるのか。その見方で眺めると、これまで自分のために調整してきた仕組みにも、別の用途が浮かんだ。


 ただし、まだ実際に試していない使い方もある。思いついた段階のものを、既に完成しているものと同じようには扱えない。彼は手元の紙へ短い注記を添えた。


 事業の説明を、読み飛ばしてはいなかった。


 略奪と制圧。そのために自分の技術が用いられることを理解しながら、どのような成果を出せるかを考えている。研究対象に条件を置いていることと、会社でどのような仕事を引き受けるかを同じ問いとして確かめる手は、そこで止まらなかった。


 彼の目は、もう、必要とされる技術へ向いていた。


 どのように使えるかを考えていたところで、報酬の記載に目が止まる。


『成果・貢献度に応じて報酬を決定』


 さらに、その先を読む。


『実績次第では、時給一億円も可能』


「……いち、おく……?」


 彼は、もう一度同じ箇所を読んだ。


 視線が金額の前から後ろへ動く。それから、ひとつ上の行へ戻る。小さく首を傾げ、桁を確かめているあいだだけ、翼の動きも止まっていた。


 誰もが固定で受け取れる金額ではない。


 それだけの成果を示し、評価されれば、という話だった。


 ヘルカイザーは、その条件まで読み返した。入社するだけで手に入る金額だと受け取ったわけではない。成果が必要なら、成果を出せばよい。自分の技術をどう役立てるかという、先ほどまでの考えが、そのまま報酬へつながっていた。


「いやはや♪ 何とも魅力的な待遇ではありませんかねぇ♪」


 ヘルカイザーは、机の上の計算書を振り返った。


 必要な合計を目で追う。先ほどまでは、下の行へ進むほど、次の研究が遠ざかって見えていた。今は、仕事によって得た対価を、どの項目へ充てればよいかを考えられる。


 もちろん、そこには、まだ得ていない報酬を得たことにする余地はない。金額の大きさに惹かれたからといって、計画書の支出を今すぐ埋められるわけではなかった。評価される仕事をして初めて、実際の資金になる。


 研究に必要な費用は、確かに大きい。


 しかし、知識と技術を仕事へ活かせるのであれば、ただ費用が減るのを待つよりもよい。


 彼は仕事の説明へ戻り、自分が示せるものを確かめた。作りたいものがある。そのために働く。働くからには、任せられたことへ技術を役立てたい。考える順序は、彼の中で自然に揃っていった。


「……マスター社長、ですかぁ」


 会社を率いる人物の名を、彼は声に出した。


「どのような方なのでしょうねぇ♪」


 この時点で知っていたのは、その会社を率いているということだった。会ったことのない相手へ、既に忠誠を感じていたわけではない。報酬の記載と、自分にできること。その間を、実際の仕事へつなげられるのかを確かめる必要があった。


 次に広げたのは、費用を削るための計算書ではなかった。


 自分に何ができるのかを示すための資料だった。


 ヘルカイザーは、研究の途中で得た記録を全て持ち込もうとはしなかった。相手が知りたいのは、会社の活動へ何を役立てられるかだ。必要な内容へすぐ目が届くよう、説明の順序を組み直していく。


 確かめたものには、その結果を添える。まだ構想の段階にあるものには、そう記す。実際に見せられるものは、見せる準備をする。そのための紙が揃うと、止まっていた机の上に、次の行動のためのまとまりができた。


 資料を揃える作業の途中で、順序を入れ替えた紙もあった。自分が研究してきた時間の順に説明すれば、相手が必要なところへ辿り着くまでに長くかかる。まず何ができるかを示し、それを確かめるための記録へ進む。その方が、仕事に結びつく話をしやすい。


 研究を知らない相手にも伝わるよう、図のそばへ短い説明を添えた。詳しい内容を省き過ぎれば、何を確かめたのか分からなくなる。逆に、細かな記録を並べ過ぎれば、肝心の結果が埋もれてしまう。彼は何度か紙を置き直し、必要なときには奥の記録も開けるようにした。


 自分で考えた仕組みを、別の目的のために説明する。その準備を進めるうちに、ただ仕事を見つけたいというだけではない関心も生まれていた。どこへ質問が向くのだろう。どの技術に使い道を見つけるのだろう。資料を読む相手の反応を、少し楽しみにしていた。


 彼は最後に、最初のページを読み返した。


 自分の能力を大きく見せるために、曖昧な言葉を増やす必要はない。使えるものがあるなら、それを示せばよかった。どのように評価されるかは、会って確かめられる。


 黒い翼が、ゆっくりと開いた。


     ◇


 ガルデローベ社の社長室。


 ヘルカイザーは翼を広げ、右の前脚を胸元へ添えた。


 上品に頭を下げる。


「初めまして。ヘルカイザーと申します♪」


 顔を上げると、マスター社長がこちらを見ていた。


 小さな白いドラゴンの姿に、言葉を失う様子はない。


 差し出した資料へ目を通し、再び彼へ視線を戻す。


 その短い動作のあいだ、ヘルカイザーは静かに待った。用意した説明をすぐに全て話し始めるのではなく、相手が何を尋ねるかを聞く。閉じていた翼の端が、背後で小さく収まった。


「研究資金が必要だと聞いている」


「ええ♪ 少々、作りたいものがありましてねぇ♪」


 答える声には、計算書を前に困っていたときの重さはなかった。資金が必要であることを隠すつもりはない。働く理由があることを、そのまま説明している。


「我が社の仕事は、略奪と制圧だ」


「はい。拝見しております♪」


 マスター社長の声は、書かれていた事業内容を曖昧にしなかった。ここへ来た相手が何を求めていても、会社の仕事が変わるわけではない。その前提を確かめてから、問いが続いた。


「そのために、君は何ができる?」


 ヘルカイザーは、少し微笑んだ。


 尋ねられたことは、明快だった。


 強い力があるという話を聞くだけでも、研究者という肩書きを眺めるだけでもない。会社の目的に対して何を示せるか。それが、この場で答えるべきことだった。


 彼は資料を広げ、順に説明を始めた。


 扱える力の範囲。


 作り上げた技術。


 仕事へ転用できると考えている仕組み。


 ひとつの項目について説明すると、次に対応する記録を示した。技術の名だけを並べるよりも、何を確かめてあるかが伝わるようにする。相手の視線が該当する箇所へ移ったのを見てから、次の紙へ指をかけた。


 マスター社長は、黙って聞いていた。


 無言のあいだも、資料から注意が離れている様子はなかった。ページを進める前に、先ほど示した箇所へ戻ることがある。そのたびに、ヘルカイザーも説明を止め、必要なら補足できるよう待った。


 説明の途中で、短い問いが入る。


 ヘルカイザーはそれに答え、必要な箇所を示した。


 問いは、話した内容を繰り返させるだけのものではなかった。どこまで確かめているのか。どこから先が、用途を変えるための調整になるのか。彼が示した技術を、実際に使うものとして聞いているからこその確認だった。


 ヘルカイザーは、まだ試していない箇所を隠さず示した。現時点でできることを尋ねられているのに、いずれできるかもしれないことだけを答えても、役には立たない。分かっている範囲を正確に伝えれば、その先で何を試す必要があるかも明らかになる。


 資料の上へ置かれた小さな指が、一度止まった。


 マスター社長は、そこを見てから顔を上げた。


「……実際に、見せてもらえるか」


「もちろんですよ♪」


 ヘルカイザーは資料を寄せ、実演のための場所を確かめた。説明用に展開する範囲は、室内で示せる小さなものに留めている。周囲を巻き込む必要はなく、差が見えれば十分だった。


 空間が静かに歪んだ。


 固定された範囲と、外側の空間。その違いを示し、次に障壁を展開する。


 白い前脚が、境目へ向けてゆっくり動いた。外から見ただけでは掴みにくい変化を、どこに注目すればよいかと説明しながら示していく。派手な現象を次々に重ねるのではなく、ひとつを終えてから次へ進んだ。


 マスター社長の目は、その動きと資料を行き来していた。


 ヘルカイザーは、展開している範囲を戻し、同じことをもう一度確かめられる状態にした。実演の結果が、先ほど話した内容と対応していることを示す。技術を見せるというのは、その一致も含めてのことだった。


 ヘルカイザーは、誇張せずに説明した。


 できることと、まだ検証が必要なこと。


 すぐに役立てられるものと、改良すれば使えるもの。


 万能だという一言にしてしまえば、細かな違いは伝わらない。相手が何を任せるかを考えるためには、今の状態を知る必要があった。彼は、質問された箇所へ戻ることを惜しまなかった。


 ひとつの説明を終えると、マスター社長が資料へ視線を落とした。先ほど確かめた項目を、そのまま次の問いの前提にしている。ヘルカイザーは、それに応じて紙の位置を変えた。


 説明は、机を挟んで少しずつ具体的になっていった。


 何を見せたかが、そのまま次の判断へつながる。目の前の人物は、技術を珍しがるだけで話を止めなかった。面白いものを持っている相手として眺めるより先に、会社で働く者として何を任せられるかを考えていた。


 マスター社長は、それらを確かめていた。


 実演を終えた空間が、もとの状態へ戻る。ヘルカイザーは余分なものが残っていないことを確かめ、資料の上へ指を戻した。その頃には、自分の説明をどのように聞かれているかが、彼にもよく分かっていた。


 曖昧なところは訊ねられる。示した結果は、その結果として扱われる。まだ確かめていない部分を口にしたからといって、確かめた技術まで無意味になるわけではない。次に必要な作業が何かという話へ進む。


 その進み方に、ヘルカイザーの関心は引き込まれていた。


 用意してきた資料を読み上げるだけなら、相手が誰でも同じところで話が終わる。けれど、この場では、問いに答えるたび、示した技術の用途が具体的になっていく。ヘルカイザーは、その都度、手元の記録へ戻り、答えられることを確かめた。


 マスター社長は、彼が確かめ終えるのを待った。答えを急がせて、都合のよい返事だけを取ろうとはしない。一方で、検証が必要な箇所は、そのままにして先へ進めもしなかった。今の状態を明らかにするための時間が、短い問いの間に、きちんと置かれていた。


 ヘルカイザーの説明も、次第に紙へ頼る部分が減っていった。伝えたいことが増えたからこそ、必要な図だけを示せば足りた。自分に何ができるかという問いへ、持ち込んだ資料を越えて、頭の中でも具体的に答え始めていた。


「……面白い」


 短い言葉だった。


 ヘルカイザーは、説明を止めて顔を上げた。


「君の技術は、我が社で十分に活かせる」


 その言葉には、迷いがなかった。


 何を求め、何を評価したのかが、はっきりしている。


 提示した内容を途中で聞き流し、ただ景気のよい言葉を返したのではない。問い、実演を見て、資料と照らし合わせた後の判断だった。ヘルカイザーは、自分がどの技術を示したかを覚えている。そのため、その評価が何に向けられたかも理解できた。


 ヘルカイザーは、目の前の人物を見つめた。


 神という呼び名を欲しくて、ここへ来たわけではない。


 自分を褒めてほしいためでもなかった。


 技術を示し、仕事として役立て、その成果によって研究資金を得る。


 そのつもりだった。


 神々に真正の神ではないと言われたことを、今この場で埋め合わせたいのでもない。自ら作り上げた力が神々とは異なることは、彼自身が分かっている。その違いに腹を立てて、別の相手から呼び名を得ようとしたこともなかった。


 目の前にあるのは、仕事のために示した技術だった。


 けれど、今、彼の心を引いているのは、報酬の額だけではなかった。


 話を聞き、確かめ、決断する姿。


 揺るぎなく、自分の会社を率いる声。


 金額を見つけたときの驚きとは、違う感覚があった。研究に必要なものを揃えられるかもしれないという期待だけなら、机の計算書へ考えが戻るはずだった。今の彼の視線は、マスター社長へ向いたまま離れなかった。


 この人物は、会社の行き先を示している。


 何のための技術かを問うときも、その答えを確かめるときも、軸が動かなかった。説明したものを、どの目的へ用いるかを自分の言葉で判断する。その迷いのなさが、ヘルカイザーの中へ強く残った。


 彼に対して何でも好きなことをしてよいと告げたから、惹かれたのではなかった。むしろ、仕事の目的は最初から明確に置かれている。その目的のもとで、自分の知識を使う場があることに、彼は関心を抱いていた。


 この人物のもとで、自分の技術を使ってみたい。


 そう思った。


 その思いが生じたことに、ヘルカイザー自身も気づいた。研究資金を得るために働く場所を探していたはずなのに、今は、目の前の相手が求める結果へ、自分なら何を加えられるかを考え始めている。


 会社の仕事が略奪と制圧であることは、変わらない。


 それを説明した声も、まだ耳に残っていた。彼は知らずに頷こうとしているのではない。内容を理解し、技術をどう役立てるかを話し、その後で、この相手のもとで働きたいと感じていた。


「……いやはや♪」


 ヘルカイザーは、静かに微笑んだ。


「あなた様は、実に素晴らしいお方ですねぇ♪」


 声は自然に柔らかくなった。用意してきた資料には書いていない言葉だった。自分の技術を説明するための順序も、この答えを引き出すために組んだものではない。会い、話し、目の前で確かめたからこそ、口に出てきた。


「我が社で働いてみる気はないか、ヘルカイザー君」


 彼は姿勢を正した。


 黒い翼を広げ、深く頭を下げる。


 初めの挨拶よりも、動作はゆっくりしていた。小さな前脚が胸元へ添えられる。礼を取る姿勢を整えてから、彼は、自分の意思を告げた。


「このヘルカイザー、あなた様へ忠誠を誓わせていただきます♪」


 その言葉を、誰かに言わされたのではなかった。


 彼自身が、そうしたいと思った。


 高い報酬を得るために、求められていない誓いを形だけ添えたのでもない。働く場所を見つけたという判断を越えて、この相手へ仕えたいという気持ちがあった。その気持ちを、自分の口から伝えた。


「自分の知識と技術を、どうぞお役立てくださいませ♪」


 マスター社長を見上げる顔には、喜びがあった。


 その瞬間にも、研究したいものは消えていない。資金が必要であることも、机で止まっていた計画も、覚えている。けれど、これから働く理由は、来る前と全く同じではなくなっていた。


 役立てたい相手が、目の前にいた。


 面会へ来る前なら、会社で働く時間を、研究資金へ換算して考えただろう。必要なものを揃えるまでに、どれだけの成果が要るか。その見方は、今も失われてはいない。だが、それだけでは、胸元へ前脚を添えて告げた言葉を説明できなかった。


 期待される結果へ、自分の工夫を届かせたい。示された目的に対して、任せてよかったと思える仕事をしたい。そう考えると、改良のために手を動かす時間そのものが、早く始めたいものになった。研究へ戻るために待つ時間とは、感じ方が違っていた。


 ヘルカイザーは、差し出した資料へもう一度視線を向けた。先ほどまで自分の力を説明するための紙だったものが、今は、これから仕事を始めるための資料に見えていた。


     ◇


 入社のきっかけは、研究資金の不足だった。


 作りたいものがあり、そのために働く場所を探した。


 しかし、そこで彼は、仕えたいと願う相手を見つけた。


 手元へ戻った資料には、説明の途中で加えた小さな印が残っている。どこへ質問が向いたか、どの技術を実際に示したか。その跡を見れば、社長室で交わしたやり取りを順に思い出せた。


 ヘルカイザーは、資料の端を揃えた。


 金額を読んだときには、手元の計算書を振り返った。今は、マスター社長の言葉を思い返している。自分の技術を会社で活かせると判断した声が、心の中にはっきりと残っていた。


「……さてさて♪」


 ヘルカイザーは、仕事へ向けた資料を開いた。


 自分の技術で、どのような成果を出せるだろう。


 マスター社長の求める結果へ、何を役立てられるだろう。


 説明のために示した項目を、実際に使うための見方で読み直す。改良が必要なところには、その前に確かめるべきことがある。すぐに使える技術にも、仕事に合わせて整える部分があるだろう。


 まだ初めの仕事を終えたわけではない。


 報酬も、記載されていた最高額を手にしたわけではなかった。そのことを飛び越えて、既に成功したと考えているのでもない。これから成果を示すために、手元の知識を使える。それが、今の彼には楽しみだった。


 考えることが、また増えた。


 研究を続けるためだけに、仕事の時間が失われる時間になるのではない。仕事の中にも、技術を試し、役立て、結果を確かめる機会がある。そして今は、その成果を届けたい相手もいた。


 白い指先が、新しい紙を押さえる。


 机の上で計算書と資料を並べたときには、二つの間をつなぐ道を探していた。今は、そこへ足を踏み出すことが決まっている。止まっていた数字を眺め続ける代わりに、何から準備を始めるかを選べた。


 彼は、必要な項目へ順に目を通した。


 略奪と制圧。その目的へ、自分の技術を役立てる。社長室で確かめた言葉を読み替えることなく、彼は仕事の資料へ書き込みを加えていった。


 以前、苦しむ魂を救うために作った仕組みも、今の彼へ至る研究の一部だった。そこで得た知識が、長い改良を経て、目の前の資料へつながっている。最初に願った用途と、これから引き受ける仕事の違いを考えて、彼の筆が止まることはなかった。


 古い噴水の図面も、しまった場所に残っている。


 アテナと話した時間を、捨てたつもりはなかった。それを大切に覚えたまま、彼は新しい資料を開き、新しく仕える相手のための仕事を考えていた。


 彼の中で、その二つが同じ机に置かれることに、不都合はなかった。


「これは、楽しみになってきましたねぇ♪」


 黒い翼が、嬉しそうに揺れた。


 書き込みを終えたところへ印を添え、次の項目を手前へ寄せる。マスター社長へ示した言葉に見合う成果を出したい。そのために、自分の知識と技術を使いたかった。


 こうしてヘルカイザーは、略奪と制圧を主な事業とするガルデローベ社へ入社した。

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