第28話 触れてはならない光
「……ヘルカイザーさんが、見つかったのですか……?」
知らせを受けたアテナは、ゼウスのもとへ急いだ。
聞き返した声の最後が、わずかに震えていた。次に居場所が判明したら知らせてほしい。そう願い出てから、その名を聞くたびに顔を上げていた。今度こそ会えるのかもしれないという思いが、足を速めた。
机の上に置かれたのは、新しい目撃報告だった。
今度は、戦いの知らせではない。
別の世界で、小さな白いドラゴンがエネルギーの調査を続けているという。
その記述を読み、アテナは短く息を吐いた。誰かが襲われたという文章を、まず探してしまう自分に気づいていた。何も起きていない知らせであることが、嬉しかった。同時に、そのことに安堵するようになった年月の長さが、胸に触れた。
アテナは、その場所を確かめた。
記された位置へ指を添え、道筋を頭の中で辿る。報告書を持つ手へ必要以上の力が入り、彼女は一度指を緩めた。読み違えて急いでも、会える場所には近づけない。
「……まだ、いらっしゃるのでしょうか」
「報告が来た時点ではな」
今も同じところにいるという保証はなかった。何度も届いた報告は、たいてい、彼が立ち去った後の出来事だった。助けられた者の言葉も、帰された者の証言も、そこに本人がいないことだけは同じだった。
それでも、今回は調査を続けているという。ほんのわずかでも、留まっている見込みがある。
ゼウスは、彼女の表情を見た。
「……前に話した危険を、忘れるでないぞ」
「はい」
答えた声を、アテナは自分でも確かめるように聞いた。懐かしさだけで会いに行くのではない。研究を続ける彼の行動も、自分が止められなかったことも、覚えている。その記憶を机に置き去りにして出ていくことはできなかった。
アテナは、資料を丁寧に閉じた。
「それでも、会いに行きます」
ゼウスは、その言葉を聞いてから静かに頷いた。
机に残る報告書には、これまで彼が行ったことが記されている。アテナは、戻ってきたらまたその続きを読まなければならない。今日会えたからといって、それらが過去のことになるわけではなかった。そう思うと、伝えたい言葉はいっそう重くなった。
彼女は資料の端を揃え、確かめた場所をもう一度胸に刻んだ。まだ伝えていない言葉がある。何を答えられるにしても、今度は、彼の声で聞きたかった。
◇
広大な草原の上空に、白い姿があった。
草の穂が風へ揃って傾き、起き上がる。遠くまで続く緑の上で、小さな黒い翼がゆっくりと動いていた。白い身体のそばには記録があり、時折、その端が風に揺れている。
「ふむふむ……こちらの世界も、興味深いですねぇ♪」
手元の記録へ書き込み、顔を上げては周囲の反応を確かめている。
アテナは、少し離れたところで足を止めた。
彼の背が見えた瞬間には、呼ぼうと思った。けれど、声が聞こえると、喉の奥で言葉が止まった。記憶の中で何度も聞き返した声が、風に交じって、今ここへ届いている。
その声を、ずっと聞きたかった。
報告書の文字ではなく、思い出の中でもなく、目の前の彼に会いたかった。
書き込みの終わりに尻尾が少し揺れた。気になるものを見つけたのだろうと、考えずとも分かった。その見慣れた仕草が、長く会えなかった時間を一瞬だけ縮めた。
「……ヘルカイザーさん……?」
白いドラゴンが振り返る。
彼は、少し目を丸くした。
それから、懐かしい笑顔を浮かべた。
「おやおや♪ これはこれは……アテナさんではありませんか♪」
同じ声だった。
丁寧な言葉も、嬉しそうに揺れる黒い翼も。
アテナの視界が滲んだ。
もっと落ち着いて呼びかけるつもりだった。訊ねたいことの順序も、ここへ来るまでに考えていた。けれど、名前を呼び返されると、最初に出てきたのは、用意していた説明ではなかった。
「……ずっと、探していました」
「いやはや♪ それは、ご苦労をおかけしましたねぇ♪」
ヘルカイザーは記録を閉じ、彼女へ向き直った。
それだけの動作に、昔の研究室を思い出した。
訪ねれば、手を止めて迎えてくれた。
新しいものを見つけたと、喜んで図面を広げてくれた。
今も、彼は作業を続けたまま返事を済ませようとはしなかった。閉じた記録へ指を添え、話を聞く姿勢を取っている。そのことが嬉しくて、アテナは一度だけ目を伏せた。
「……お元気でしたか」
「ええ♪ 調べたいことが沢山ありましてねぇ♪」
アテナは涙を拭い、小さく頷いた。
言いたいことは、幾つもあった。
無事だったことへの安堵も、会えなかった日々のことも、伝えたかった。だが、その前に、誤ったままにしてはならないことがある。友人として会いに来たからこそ、神界から届いた命令について、自分の声で説明しなければならなかった。
あの排除命令は、誤って伝えられたものだった。
ゼウスは、彼を殺すよう命じてはいなかった。
途中で命令が変質し、それが実際の攻撃につながった。神々が彼へ殺意を向けた事実を、単なる行き違いとして消すつもりはなかった。ただ、命令を発した者の意図についても、誤りを残したくなかった。
アテナがそう伝えると、ヘルカイザーは穏やかに頷いた。
「ええ。そのお話は、伺いましたよ♪」
「……そう、でしたか……」
「皆さんにも、ご説明いただきましたのでねぇ♪」
その神々に、その後、何が起きたのか。
アテナは知っていた。
言葉が止まる。
目の前の彼は、説明を疑っていなかった。誤った命令だったことを、今の彼女から初めて聞かされたのでもない。神々は自分たちの過ちを伝え、彼は理解した。その後で、研究が行われた。
誤解さえ解けばよいという道は、そこにはなかった。
ヘルカイザーは、手元の記録へ視線を落とした。
「そのときに、面白い反応も見つかりましてねぇ♪」
彼は、研究の成果を語り始めた。
閉じた記録が、再び開かれる。どこを示せばよいのか迷わず、彼の小さな指がページの上を動いた。説明を聞いてくれる相手がいることを、喜んでいるようだった。
恐怖が強まるときの変化。
絶望を感じたときに得られる、高密度のマイナスエネルギー。
以前よりも効率よく回収できるようになったこと。
その声は、本当に楽しそうだった。
アテナは、示された記録から目を逸らさなかった。何が計測されたのかは理解できる。彼が確かめたかった違いも、成果として扱っている傾向も、読み取れた。理解できるからこそ、その数字の手前にいた者たちの声が、胸の中で蘇った。
助けを求めた相手へ、彼は返事をしていた。
聞こえていて、理解していて、そのうえで実験を続けた。その記録を、今は大切な発見として、自分へ見せている。
昔も同じように、並んで紙を見た。だが、あのとき一緒に喜んだのは、苦しむ魂が少しでも楽になったことだった。
「……ヘルカイザーさん」
アテナは、静かに呼びかけた。
「お願いです。その研究を、考え直してください」
彼の言葉が止まった。
指先が、説明の途中にあった位置で留まる。風にめくれかけた紙を押さえ直してから、彼はアテナの顔を見た。
「……また、そのお話ですかぁ?」
苛立って怒鳴る声ではなかった。なぜ同じところへ戻るのかを、理解しかねている調子だった。彼女はその声を聞き、目の前にいる友人との隔たりを、改めて知った。
「悪事を働いた方でも、どれほど苦しめてもよい理由にはなりません」
「皆さんは、ご自分の意思で悪事を働いたのでしょう?♪ あるいは、自分を殺そうとした方々です♪」
「それでも……」
「無関係な方々を、捕らえているわけではありませんよ♪」
彼は、誤解を解くように説明した。
対象を選ぶ基準があることを伝えれば、彼女にも分かってもらえると思っている。むやみに誰でも捕らえているという話なら、自分も同意はしない。その点では同じはずなのに、なぜ納得してもらえないのか。彼の視線には、その戸惑いがあった。
アテナは首を振った。
「分かっています。あなたに助けられた方々がいることも、知っています」
「でしたら――」
「ですが、それで、もう一方の行いを認めることはできません」
途中で止めた言葉に、アテナの胸も痛んだ。それでも、曖昧に頷くことはできなかった。助けた事実を認めるのと同じ真剣さで、研究によって苦しめた事実にも向き合ってほしかった。
草原を風が渡った。
足元の草が揺れ、彼の白い身体の下で影が動いた。二人の間に遮るものはない。互いの声も、聞こえている。それなのに、同じ説明を見ているつもりで、違うところへ答えを置いていた。
ヘルカイザーは、しばらく黙っていた。
「……残念ですねぇ」
その声に、アテナの胸が痛んだ。
彼を失望させるために来たのではなかった。久しぶりに会った友人へ、否定する言葉ばかりを渡したかったのでもない。けれど、再会を喜ぶために見過ごせることではなかった。
◇
「……研究を否定することだけが、あなたに会いたかった理由ではないのです」
アテナは、懸命に言葉を探した。
言い急げば、どれも言い訳のようになる気がした。彼の研究を認められないことと、彼自身に会いたかったこと。その両方を、どちらも弱めずに伝えたかった。
「もう一度、お話ししたかったのです。あなたが何を考えているのか、直接、お聞きしたかった……」
彼女は、目の前の友人を見つめた。
報告の中の名前としてではなく、こうして顔を見て、答えを待ちたかった。研究を続ける理由も、自分の言葉をどう聞いたのかも、彼にしか答えられない。その声が懐かしいだけに、これで話が終わるのが恐ろしかった。
「以前のように、意見が違えば、その理由を一緒に考えて……」
図面の前で、何度もそうした。最初の案に固執せず、疑問があれば指を止めた。彼女の問いから新しい方法が生まれたことも、彼の説明で自分の考えが変わったこともある。その時間を、二人とも知っていた。
「アテナさん」
ヘルカイザーの声は、優しかった。
「自分は、あなたとのお話を、今も大切に思っていますよ♪」
アテナの唇が震えた。
欲しかった言葉だった。共に過ごした時間を、彼も大切に覚えている。自分ひとりだけが、もうどこにもない日々へ呼びかけていたのではなかった。
「……でしたら……」
「ですが、この研究をやめるつもりはありません」
穏やかな言葉が、二人の間へ置かれる。
優しい声が続いたからこそ、その答えは、はっきりと聞こえた。彼は友情を否定していない。思い出を捨ててもいない。そのままで、自分の進む先を変えないと告げていた。
アテナは、一度だけ目を伏せた。
聞きたくなかった答えだった。
けれど、聞かなかったことにはできない。
大切に思っていると言ってくれた部分だけを胸へしまい、その後の言葉から耳を塞ぐことはできなかった。今の彼が何を考えているかを聞くために、自分はここへ来たのだ。
目を上げると、彼はまだそこにいた。立ち去りもせず、彼女が次の言葉を探すのを待っている。
「……私は、あなたを諦めたくないのです……」
彼女は、そっと手を伸ばした。
以前と同じ人物へ戻してほしいという願いではなかった。
違う考えを持つ友人と、それでも、もう一度向き合いたかった。
強引に引き留めるためでも、力を封じるためでもない。かつて図面を一緒に押さえた手で、目の前にいる相手へ触れようとしていた。今も大切な友人であることを、言葉だけでは伝えきれなかった。
ヘルカイザーは、その手を見た。
「……アテナさんは、本当にお優しい方ですねぇ♪」
彼も、小さな前脚を差し出した。
アテナはわずかに息を緩めた。拒まれなかったことが、胸へ温かく広がった。考えが違っても、話を続ける場所が残っているのかもしれない。ほんの短いあいだ、そう思えた。
二人の手が触れた。
◇
――ズキンッ。
「……っ!?」
ヘルカイザーの身体が震えた。
笑顔が消える。
思いもよらない痛みに、言葉が途切れた。
手元の記録が傾き、紙の端が大きく揺れた。浮いていた身体の姿勢が崩れ、黒い翼が反射的に広がる。その急な動きに、アテナも息を止めた。
「……な……何ですか……これは……!?」
「……ヘルカイザーさん!?」
アテナが身を寄せようとする。
再び、身体の奥へ痛みが走った。
彼は反射的に手を振り払い、距離を取った。
アテナの手が、空中に残された。
触れていた感触だけが、指先に残っている。そのすぐ先にあった白い姿は、もう離れた位置へ移っていた。彼が胸元を庇う仕草を見て、彼女はもう一歩踏み出そうとした足を止めた。
攻撃はしていない。
術式も使っていない。
ただ、友人に触れただけだった。
止められなかった悔いも、長く会えなかった寂しさも、再会できた喜びも、そのとき彼女の中にあった。それらを抱えながら、今度は離れたままにしたくないと願った。
友人を失いたくないという願いから、温かなプラスエネルギーが流れていた。
それが、膨大なマイナスエネルギーを抱える彼の内側で衝突した。
しかし、その仕組みを、このときの二人は知らなかった。
アテナに見えたのは、触れた直後に友人が苦しんだという事実だった。ヘルカイザーに分かったのも、近づいて手を重ねたとき、予想していなかった異常が生じたことだけだった。
草を渡る風の音が、急に遠く感じられた。
「……今、何かなさいましたか……?」
ヘルカイザーの声は、まだ硬かった。
相手を問い詰めるための鋭さではなく、息を整えきれない響きがあった。身体の内側を確かめながら、原因につながるものを探している。
「……いいえ! 私は、何も……!」
アテナは、伸ばした手を見つめた。
「あなたを、傷つけるつもりなど……!」
声が強くなり、途中で震えた。否定するために何を示せばよいのか、分からなかった。使っていない術式を取り消すことはできない。握っていない武器を手放すこともできない。自分の手には、初めから何もなかった。
「……ええ。それは、分かっています」
彼は、ゆっくりと息を整えていた。
彼女が嘘をついているとは思わなかった。
けれど、触れた直後に痛みが生じたことも、事実だった。
ヘルカイザーは、距離を保ったまま指先を動かした。先ほどまで触れていたところを確かめ、次に胸元へ目を落とす。攻撃を防ぎ損ねたという感触はない。それでも、今までと同じように近づいてよいと判断することはできなかった。
「……原因は分かりませんが、あなたへ近づいたとき、自分に何らかの異常が発生しました」
「……でしたら、一緒に調べましょう」
アテナは、声を震わせながら言った。
分からないことが起きたのなら、確かめる。その考えは、彼と共に過ごす中で何度も頼ったものだった。今度もそうできるのではないかと、言葉が先に出た。
「今、何が起きたのか、記録を確かめて……」
「申し訳ありません」
彼は、わずかに後ろへ下がった。
アテナの言葉が止まる。
その動きは小さかった。けれど、これ以上は近づかないでほしいという意思を、言葉より先に伝えていた。彼女は自分の手を見て、ようやく、それをまだ半ば差し出したままでいることに気づいた。
「原因が分からない以上、再び同じことが起きるかもしれませんからねぇ」
アテナは、それ以上近づけなかった。
目の前で、彼が苦しんだ姿を見てしまったから。
一緒に調べたい。そのために、そばへ行きたい。しかし、そばへ行くことそのものが、また痛みを生むかもしれない。自分の願いを押し通すために、その危険を試すことはできなかった。
彼女は、ゆっくりと手を下ろした。
ヘルカイザーも、その動きを見ていた。手が下がったことを確かめても、すぐには元の位置へ戻らない。彼が用心しているのだと分かり、アテナは身体の向きを変えることさえ慎重になった。互いに傷つけようとしていないのに、相手の小さな動きを警戒しなければならなかった。
触れる前には、互いの表情を確かめるための距離しかなかった。今は、同じ草原の上に立ちながら、近づいてよいかどうかさえ分からなくなっていた。
◇
「……もう、私とはお話ししたくないのですか……?」
絞り出すような問いだった。
問うべきなのは身体の異常のことだと、アテナも分かっていた。それでも、手を離された瞬間から胸に残る怖さが、言葉になった。痛みのために離れたのだと理解しながら、そのまま、会話まで終わってしまう気がした。
ヘルカイザーは、穏やかに首を振った。
「いえいえ♪ そういうわけではありませんよ♪」
彼女を憎んでいるわけではない。
言葉を交わした時間を、否定しているのでもない。
ただ、近づくことで起きた異常が、まだ分からない。
彼は、友情への思いとは別に、その危険を考えていた。
懐かしい相手だからこそ、原因も確かめずにもう一度触れるべきだとは思わなかった。彼女が攻撃していないと信じることと、自分の身体に起きたことを無視することは、同じではない。
「ですが、自分の研究をやめるつもりはありません。そして、あなたと自分では、進む道が違うのでしょう?」
アテナは、伸ばしていた手を握りしめた。
その言葉には、二つの隔たりがあった。考えの違い。そして、触れたときに起きる、まだ説明できない痛み。ひとつをどうにかすれば、もうひとつも消えると約束されたわけではない。
それでも、彼の中にある思い出は消えていなかった。つい先ほど、自分との話を今も大切にしていると言ってくれた。その言葉まで、遠ざかる背中と一緒に失いたくはなかった。
「……私は、諦めません……!」
涙が頬を伝った。
「たとえ今のあなたを止められなくても、あなたとの友情を諦めません!」
研究を認めるという意味ではなかった。起きたことを忘れ、ただ昔のように笑おうという願いでもない。認められない行いをしている友人へ、それでも自分は向き合いたい。その名前を呼ぶことをやめたくない。
ヘルカイザーは、しばらく彼女を見つめた。
アテナは動かなかった。近づけば彼を苦しめるかもしれない。だから、その場から声を届けることしかできなかった。握った手の中で、爪が掌へ触れていた。
「……本当に、アテナさんらしいですねぇ♪」
その声には、懐かしむような柔らかさがあった。
黒い翼が広がる。
右の前脚を胸元へ添え、彼は執事のように丁寧に頭を下げた。
見慣れた礼だった。だから、アテナには、それが何を告げる仕草なのか分かった。話を終え、立ち去ろうとしている。今すぐ何かを言わなければと思うのに、言葉が追いつかなかった。
「あなたとの時間は、今も大切な思い出ですよ♪」
「……ヘルカイザーさん……」
「ですが、しばらく距離を置くことにしましょう。どうか、お元気で♪」
次元が歪んだ。
草原の向こうを映していた空間に、別の奥行きが生まれる。アテナはその変化を知っていた。閉じてしまえば、そこへ手を伸ばしても、もう彼はいない。
アテナは、一歩だけ踏み出しかけた。
けれど、差し出そうとした手が止まる。
また、彼を苦しめてしまうかもしれない。
引き留めたいという願いが、そのまま、動けない理由になった。手を取れば届くと思っていた距離へ、もう不用意に踏み込めなかった。
「……ヘルカイザーさん!!」
呼ぶことしか、できなかった。
白い姿が消え、次元が閉じる。
最後まで残った黒い翼の端も見えなくなり、その向こうに、もとの草原が戻った。何も遮るもののない景色が続いている。彼がいた位置を確かめるように、アテナの視線だけが動いた。
アテナは、その場に膝をついた。
自分の手を見る。
助けたいと、思っただけだった。
もう一度、一緒に考えたかった。
それなのに、触れた友人は苦しみ、自分から離れていった。
手の中には、何の傷もない。そのことが、何が起きたのかをかえって分からなくした。自分には何も残っていないのに、彼は確かに痛がった。思い出の中の同じ仕草を繰り返しただけでは、もう近づけなかった。
草が風へ傾き、彼女の指先に触れた。
◇
漆黒の研究空間へ戻ったヘルカイザーは、身体の状態を確かめた。
離れた後、痛みは弱まっていた。
机へ記録を置き、姿勢を落ち着ける。指先を動かしても、翼を畳み直しても、草原で生じたのと同じ痛みは起きない。だからといって、何もなかったことにはできなかった。
彼は、新しい記録を作った。
『原因不明の身体異常』
『発生条件――アテナとの接触』
『対策――原因解明まで接触を避ける』
書き終えてから、発生条件の行へ視線を戻した。分かっているのは、そこで起きたということだった。それだけで彼女自身が何かを仕掛けたと決めることはできない。彼は、見ていない術や感じなかった敵意を、推測だけで書き加えなかった。
「……あの痛みは、一体、何だったのでしょうねぇ……?」
思い返しても、攻撃の気配はなかった。
アテナの言葉にも、嘘は感じなかった。
こちらを傷つけるつもりはないと告げた声は、切実だった。痛みに驚いたとき、彼女もまた驚いていた。近づこうとした動作は、追い打ちをかけるためのものではなかったと、彼は考えている。
彼は、分からない部分をそのまま記録した。
研究に反対されたことを、異常の原因へ勝手につなげることもなかった。意見が違ったから攻撃されたのだとすれば、確かめていないことを確定させてしまう。それは彼の望む記録ではなかった。
彼女への怒りはなかった。
だが、原因が分からない以上、距離を取るという判断も変わらなかった。
会話を思い返すと、彼女がずっと探していたと言った声が蘇った。懐かしい相手に会えたことは、彼にとっても嬉しかった。その気持ちは、記録の中で消してしまう必要のないものだった。
ヘルカイザーは、紙の端を揃えた。
大切な思い出があることと、今すぐ再会を試みることは、同じ判断にはならない。彼女と過ごした時間を覚えたまま、原因の分からない接触を避ける。その方針で、彼の手は止まらなかった。
机の上には、途中になった調査の記録も残っていた。
新しく作った一枚をそのそばへ置き、混同しないよう、彼は静かに並べ直した。
◇
神界の庭園で、噴水の水音が響いていた。
アテナは、その前に立っていた。
水は途切れずに流れている。修繕されたところも、時の流れに馴染み、今は庭園の景色の一部になっていた。足を止めて見つめれば、彼と一緒に確かめた水の道筋を、今も辿ることができた。
初めて会った場所。
同じ図を囲み、何度も考え直した場所。
顔へ水が跳ねて、二人で笑ったこともあった。
そのときには、近づくことを恐れなかった。濡れた図面を持ち上げようと、同時に手を伸ばしたこともある。相手の指が触れたからといって、どちらかが痛みに身体を強張らせることはなかった。
アテナは、今日触れた手を見つめた。
ここへ戻ってからも、痛がった彼の顔が離れなかった。自分の願いが、なぜあのようなことにつながったのかは分からない。分からないまま、もう一度手を伸ばしてよいとも思えなかった。
彼女は、自分の手を胸元へ引き寄せた。
「……今は、近づけなくても……」
声が、かすれた。
「私は、あなたを諦めません……」
返事はなかった。
その言葉で、何かが解決したわけではない。明日には会えると分かったわけでも、次に触れても痛がらせない方法を見つけたわけでもなかった。ただ、理由が分からないからといって、大切な相手だったことまで消すことはできなかった。
それでも、アテナは、共に過ごした時間を手放さなかった。
二人の友情は、消えていない。
彼がそう言ってくれたことを、彼女は覚えている。自分もまた、認められない行いから目を逸らさずに、その友情を大切にしたいと思っていた。
噴水の水音が続く。
隣へ目を向ければ、誰もいなかった。以前なら、そこから図面を覗き込む小さな白い姿があった。今は、その場所へ伸ばすはずだった手を、胸元に置いている。
けれど、同じ場所へ並んで立つことさえ、今は叶わなくなっていた。




