第27話 優しき救済者、冷酷なる裁定者
「……善悪を区別していることと、その行為が正しいことは、別の問題です」
アテナは、ゼウスの前で報告書を広げていた。
紙の端には、何度か読み返した跡があった。同じ証言へ戻るたびに、折れそうになる角を指で伸ばしている。文字を追うだけでは、そこにいる者たちの表情までは見えない。それでも、読み落としてはならない箇所があることだけは、はっきりと分かった。
ヘルカイザーに救われた者たちの証言が増えている。
一方で、彼に連れていかれた者たちの報告もあった。
自分を攻撃した者。
ほかの誰かへ悪事を働いていた者。
対象には、共通点が見られた。
無関係な通行人が、突然研究のためだけに捕らえられたという報告は、ここにはない。助けを必要としていた者は、その場を離れられている。読み進めるほどに、その区別は明瞭になっていった。
しかし、抵抗する力を失った後も、相手の苦しみは続いていた。そこへ目を移すとき、アテナは、前の記述を理由に読むのをやめることができなかった。
「……その基準は、一貫しているようです」
「うむ」
ゼウスの返事は短かった。結論を急がせるものではなく、続きを聞くための声だった。アテナは手元の紙を一枚寄せ、男たちが武器を使えなくなった後の記述を示した。
「ですが、降伏した相手を研究のために苦しめることまで、認めるわけにはいきません」
ゼウスは、黙って耳を傾けていた。
攻撃を止めることと、その後も相手を拘束して実験すること。その間には、考えるべきことがある。だが、ヘルカイザーの行動を記した文章では、その間が、滑らかにつながっていた。対象の条件を確認した後は、研究へ進んでいる。
アテナは、別の証言へ視線を移す。
助けられた人々は、白いドラゴンの優しさを語っていた。
荷物を返してもらったこと。
恐ろしい目に遭った後で、穏やかな言葉をかけてもらったこと。
礼を述べるあいだ、相手を急かすこともなかったという。旅人が歩き始めるまでその場に残り、荷物の忘れ物まで確かめていた。そうした小さな仕草のひとつひとつが、アテナの知る友人の姿と重なった。
その文章を読むと、声まで思い出せた。困っている者へ顔を向けるときの、柔らかな調子。自分の作ったものが役立ったと分かったときの、嬉しそうな表情。あの日々を思い出すこと自体が間違いなのではないと、彼女は知っていた。
「……それでも、以前のあの方の優しさが、全くなくなったわけではないのです」
そう言ってから、彼女は唇を結んだ。
優しさが残っている。
そのことだけを選び、ほかを見なかったことにはできない。
今も誰かを助けているから、研究で苦しめた者については問わなくてよい。そのようには考えられなかった。逆に、後の行為を知ったからといって、救われた人々の感謝を偽りにすることもできない。
どちらも、今のヘルカイザーが行っていることだった。
アテナは二つの記録を重ねず、それぞれの文章が見える位置に置いた。ゼウスも、それを片づけるようには言わなかった。窓の外から、神界の庭園を渡る風の音が聞こえていた。
◇
別の世界の集落で、食料の入った荷が運び出されていた。
袋の底が地面を擦り、こぼれた土が細い跡を残した。持ち上げた男が面倒そうに腕を引き、傾いた荷をもうひとりへ渡す。受け取った側も、中身を気遣う様子はなかった。
住民たちは、その荷がどこに置かれていたかを知っていた。どれだけ残っているかも、いつまで保たせなければならないかも知っている。そのため、男たちがひとつ運び出すたび、誰かの顔から血の気が引いた。
「……それだけは、どうか……」
老人が伸ばした手を、武装した男が払いのける。
突き飛ばされた身体が、地面へ倒れた。
乾いた音がして、少女の目の前から老人の肩が低くなった。ほんの少し前まで、彼のそばにいれば大丈夫だと思っていた。その身体が倒れるのを見た瞬間、少女はほかのことを考えられなくなった。
「おじいちゃん!」
少女が駆け寄り、老人のそばへ膝をつく。
服についた土を払おうとして、どこへ触れればよいか迷った。起こそうとしても、自分の腕だけではうまくいかない。老人が息をしていることを確かめ、それでも不安で、その顔を何度も覗き込んだ。
男たちは振り返らなかった。
住民たちは、奪われていく食料を見つめながら、誰も前へ出られずにいた。
老人へ近づこうとした者の足が、向けられた武器を見て止まる。荷を引き戻そうとすれば、同じように突き飛ばされるかもしれない。誰かが動けば、そばにいる者まで危険に晒すかもしれない。その迷いが、人々をその場へ縫い留めていた。
少女は老人の腕を握った。周りを見ても、大人たちは皆、怖い顔で黙っている。助けてほしいと目を向ける先が、見つからなかった。
「おやおや♪ 随分と賑やかですねぇ♪」
場に不釣り合いな、明るい声がした。
小さな白いドラゴンが、空から降りてくる。
黒い翼がゆっくりと動き、地面へ影が落ちた。少女は初め、それが何なのか分からず、老人の腕をいっそう強く握った。男たちが顔を上げたために、ようやく自分も上を見た。
「……何だ?」
「こちらは、皆さんのものではないようですがねぇ♪」
ヘルカイザーは、食料を抱える男と、その前で動けずにいる住民を見た。それから、倒れた老人と少女へ視線を移す。荷を取り戻そうとした手が払いのけられたことも、その後に誰も助けへ入れずにいたことも、彼の判断には十分だった。
男たちが武器を向けた。
しかし、振るうより先に、その動きが止まった。
「……っ!?」
腕が動かない。
足を踏み出すこともできない。
握った武器を見下ろしても、構え直すことさえできなかった。男たちは隣の者へ顔を向けようとし、そちらも同じ姿勢で止まっていると知った。強引に動こうとした肩が強張ったまま、位置を変えられずにいる。
怒鳴り声が上がったが、ヘルカイザーは既に老人のそばへ向かっていた。
地面へ降りると、少女より少し低い位置から顔を上げた。武器を持つ男たちの姿が、その小さな白い身体の向こうに見える。それでも、誰もこちらへ近づいてはこなかった。
「お怪我は、ありませんか?♪」
少女は、老人の腕へしがみついたまま彼を見上げた。
「……ドラゴンさん……?」
「もう、大丈夫ですよ♪」
聞き返した声を叱られることはなかった。急いで離れろとも言われなかった。白いドラゴンは老人の様子を確かめながら、少女にも顔を向け、落ち着くのを待っていた。
ヘルカイザーは老人の怪我を確かめ、住民たちへ安心するよう声をかけた。
さっきまで近寄れなかった者が、ようやく足を動かした。老人のそばへ屈む者と、散った物を拾う者がいる。男たちの様子を窺いながらの動作だったが、その武器はもう住民へ近づかなかった。
奪われかけた食料も、その場へ戻された。
傾いていた袋が立て直される。運び出された荷が、もとあった場所へ近づいていく。その光景を見て、張り詰めていた住民の肩から、少しずつ力が抜けた。
老人は少女に支えられながら顔を上げた。
「……助かりました。本当に……」
「いえいえ♪ 困っている方を見かけましたのでねぇ♪」
ヘルカイザーの返事には、礼を受けるためにしたことだという響きがなかった。目の前で困っていたから手を貸した。それが済んだことを喜ぶように、尻尾の先が小さく揺れた。
少女は、彼の顔をじっと見つめていた。
大きな牙や翼を持つ相手を、いつもなら怖がったかもしれない。けれど今は、こちらへ話しかける声が優しかった。老人の顔にも、先ほどのような苦しそうな強張りがなくなっている。
「……助けてくれたの?」
「もちろんですよ♪」
彼が答えると、少女の手から少し力が抜けた。
握り締めていた老人の服に、深い皺が残っていた。その皺を見て、少女は自分がずっと指を強張らせていたのだと知った。ほんの少しだけ手を開き、もう一度、白いドラゴンへ顔を向ける。
「……ありがとう」
「どういたしまして♪」
その笑顔に、少女も小さく微笑んだ。
ヘルカイザーは、その変化を嬉しく思った。老人のそばで怯えていた少女が、ようやく笑えたのだ。戻された食料を確かめている住民たちの様子にも、安堵がある。自分がここへ来たことで、その場の危険をなくせた。
彼の中では、それは疑いなく、よい出来事だった。
◇
「……おい。もう、返しただろう!」
男の声が、二人の間へ割り込んだ。
少女はびくりと肩を揺らした。笑いかけたばかりの口元が閉じる。老人のそばへ寄った住民たちも、声のした方を見た。
「さっさと、この妙な術を解け!」
ヘルカイザーは振り返った。
男の腕は、まだ武器を構えかけた位置にあった。荷は取り戻され、住民への危険も遠ざかっている。目の前の男たちに、その場で再び何かを奪える余地はなかった。
「おやおや♪ 皆さんには、少々お付き合いいただきたいのですよ♪」
「……何だと?」
「研究に、ご協力いただきましょうかねぇ♪」
ヘルカイザーの声は、少女へ答えていたときと同じ明るさだった。
男たちは、住民たちを見た。
助けを求めるような視線だった。
さっきまで武器を向けられていた人々は、返事ができなかった。
奪われかけた荷を抱えている者が、無意識にそれを胸元へ引き寄せた。老人のそばにいた者は、男たちと白いドラゴンを交互に見た。何が始まろうとしているのか、誰にも説明されていなかった。
自分たちを脅した相手が動けなくなった。そのことには、確かに安堵があった。今すぐ術を解けば、また同じことをするのではないかという不安もある。それでも、研究という聞き慣れない言葉から、その後の行き先は見えなかった。
少女は、ヘルカイザーの横顔を見た。
男たちは怖かった。老人を倒したところも見ている。だから、その人たちを助けてほしいと言いたいのか、自分でも分からなかった。ただ、声の調子が変わっていくことには気づいた。
先ほどまで住民へ向けられていた怒鳴り声が、今は、何が起きるのか分からない者の声になっていた。
「……その人たち、殺しちゃうの……?」
彼は、すぐに振り返った。
穏やかに首を横へ振る。
「命を奪うつもりはありませんよ♪」
少女は、ほっと息をつきかけた。
怖いことは、これで終わるのだと思いかけた。白いドラゴンは老人を助けてくれた。食料も返してくれた。ならば、きっと、この人たちにも何かを言い聞かせて、どこかへ帰すのだろう。
「少々、お勉強していただくだけですのでねぇ♪」
その向こうで、男が叫んだ。
「……待て! 何をするつもりだ!」
少女の指が、老人の服を掴んだ。
白いドラゴンは、まだ優しく笑っていた。
先ほど、自分に大丈夫だと言ってくれたときと、同じ顔だった。
それなのに、動けない男たちの声は震えていた。
少女には、研究が何をすることなのか分からなかった。勉強という言葉も、男たちの怯える様子とはうまく結びつかない。殺さないと答えてもらったのに、安心しきれないまま、視線だけが行き来した。
老人の服を掴む手に、再び力がこもる。
少女は、老人の背後へ身を寄せた。
ヘルカイザーは、その動きに気づいた。
「……おや」
ほんの少し前まで、少女は正面から顔を見ていた。礼を言い、笑い返してくれた。今は老人の身体の陰から、こちらを窺っている。その違いは、彼にも見えていた。
住民たちも、黙ってこちらを見ている。
自分たちを救った相手へ、何かを尋ねようと唇を動かしかけた者がいた。しかし言葉は出ず、視線が拘束された男たちへ戻った。戻された食料の周りで、人々の手が止まっていた。
ヘルカイザーは、少女から男たちへ目を移した。荒い声が続いている。拘束された者たちが騒げば、助かったばかりの人々がまた不安になる。それは好ましくなかった。
彼は少し考え、頷いた。
「皆さんを、これ以上怖がらせるのもよろしくありませんねぇ♪」
その言葉に、少女は老人の陰から少し顔を出した。
何かが変わるのだと思った。白いドラゴンは、自分たちが怖がっていることを分かってくれたのだ。それなら、もう大丈夫なのかもしれない。
男たちの周囲に、漆黒の空間が開いた。
「……ま、待ってくれ!」
「では、こちらで続きをお話ししましょう♪」
黒い翼が広がる。
男の声が、言い終わらないうちに遠くなった。少女には、そこがどこへ続いているのか見えない。白い身体の向こうへ手を伸ばすことも、何かを聞き返すこともできなかった。
次の瞬間、男たちの姿はヘルカイザーと共に消えていた。
集落には、取り戻された食料が残された。
袋はきちんと置かれ、奪われかける前と同じように、住民の手が届くところにある。老人も無事だった。さっきまで近づくことを阻んでいた武器も、もうそこには向けられていない。
少女は、老人の服を掴んだまま、その場所を見つめていた。
助けてくれたのだと、今も思っている。
その顔も、優しい声も、覚えていた。
けれど、消える直前の男の声を思い出すと、うまく手を開くことができなかった。
◇
漆黒の研究場所で、ヘルカイザーは男たちの反応を記録した。
机の上には、前の計測結果が開かれていた。同じ項目を探し、新しい記録と照合する。条件の異なる箇所へ注記を添えながら、確かめるべき順序をひとつずつ進めていた。
彼らが集落で行っていたことは、確かめている。
研究の対象にする条件にも、当てはまっていた。
武器を向けたことだけを根拠にしているのでもない。住民の食料を運び出し、止めようとした老人を払いのけた。その行為を目撃していたため、対象として選ぶ判断に迷いはなかった。
彼は怒ってはいなかった。
自分へ武器が向いたときも、怯えた声で待ってくれと訴えられたときも、心の中に復讐の筋書きを描いてはいない。計画に従い、必要な変化を確かめている。それが、彼の理解している今の作業だった。
『シナナクナール』によって命が保たれていることも、確認されていた。研究を終えれば、生きたまま帰す。その方針にも変わりはない。だが、帰すまでの時間をどう扱うかについて、相手が選べることはなかった。
声が聞こえれば、彼は顔を上げた。反応に変化があれば、それを書いた。聞こえているのに終わらないことが、男たちをいっそう怯えさせていた。
実験を進める途中で、ふと少女の顔が浮かんだ。
礼を言ったときには、少し笑っていた。
けれど、男たちを連れていく前には、老人の後ろへ隠れてしまった。
あの場で住民が安全になったことに、間違いはない。食料も返している。老人の様子も確かめた。自分が彼らに害を加えるつもりなどないことは、答えた言葉にも表れていたはずだった。
それなのに、少女は怖がった。
ヘルカイザーは筆を止め、説明した順序を思い返した。命を奪うつもりはないと告げたところでは、少女は少し安心したように見えた。その後、男たちが声を上げ、老人の背へ隠れた。
「……説明が、少々よくありませんでしたかねぇ」
小さく呟き、計画書を手元へ寄せる。
彼は、少女を怯えさせたかったわけではない。助けた者が安心して暮らせることを、今もよいことだと思っている。だから、あの場で生じた恐怖には対処する必要があると考えた。
ただし、その対処は、研究そのものを見直す方向へ向かなかった。
一般の人々には、詳しい目的や安全への配慮までは伝わりにくい。拘束された男たちの声を聞けば、不安になることもあるだろう。ならば、彼らの目の前でその話を長く続けない方がよい。彼の考えは、そこへ落ち着いた。
彼は、新しい注意事項を書いた。
『一般の方々の前では、研究対象の処遇を詳しく説明しないこと』
文字を読み返し、次の計画でも見落とさない位置へ記す。装置の扱いに改善点を見つけたときのように、必要な修正を加えたつもりだった。
少女が後ずさった理由には、別の問いも含まれていた。助けてくれた相手の隣で、今度は誰かが怯えている。その場にいる者にとって、目を向けずにいられないことが起きていた。
しかし、ヘルカイザーが記したのは、見える場所での説明についてだった。声が聞こえない場所へ運べば、その場の人々の不安は減る。少なくとも、彼が目の前で気づいた問題は、それで解決できると考えた。
「これなら、余計な心配をさせずに済みますねぇ♪」
書き終えた文字の脇へ、確認の印を添える。
少女が笑ってくれたことを、彼は嬉しく覚えていた。再び同じような場面があれば、もっと安心してもらえるようにしたい。その願いの隣に、別の場所で続く研究があった。
研究計画を閉じ、計測値へ目を戻す。
方法をやめるという考えは、浮かばなかった。
机へ戻った指先は、迷いなく次の記録を押さえた。研究対象から聞こえる声は続いている。ヘルカイザーは、その変化を確かめながら、また筆を動かし始めた。
◇
アテナは、新しい報告書を読み終えた。
読み終わったというのに、最後のページを閉じられずにいた。少女の様子を記した箇所へ視線が戻り、その少し前にある感謝の言葉を、もう一度辿る。
老人を助けた白いドラゴン。
食料を取り戻した発明家。
そして、抵抗できなくなった男たちを、研究のために連れ去った者。
その三つの姿が、ひとつの短い出来事の中にあった。別の日の話でも、別の者を取り違えた証言でもない。同じ場所で、同じ人々が見ていた。
少女が語ったという言葉を、もう一度読む。
『助けてくれたの。優しかったの』
その後には、老人の背に隠れた様子も記されていた。
アテナは、少女の言葉がそこで途切れていることを、しばらく見つめた。怖かったから、助けてもらったことまで否定したのではない。助けてもらったから、その後は何も怖くなかったと言えたのでもない。
幼い目に映った二つのことが、そのまま記されている。その簡潔さが、かえって彼女の胸へ深く届いた。
アテナは、ゆっくりと資料を置いた。
「……あの方は、どちらも本心なのでしょうね……」
助けたときの言葉に、偽りはなかった。
研究へ協力してほしいと告げたときにも。
親切に振る舞って油断させようとしたのだと考えれば、少女の笑顔まで作戦の一部になってしまう。だが、彼が住民を助けた行動には、そのような理由を必要としなかった。困っていたから助け、安心した姿を喜んだ。その後で、研究対象とした相手へ向き直った。
その自然な移り方に、今の隔たりがあった。
かつて同じ机を囲んでいたとき、研究の先に誰がいるかを、二人で話したことがある。装置の性能だけでなく、それを使って苦しみを軽くできるかを考えた。うまくいったときの喜びは、数値が整ったことだけに向けられていたのではなかった。
今も彼は、誰かが助かれば喜んでいる。
その一方で、研究対象となった者の苦しみを、得られた結果として見ている。同じ研究者の関心が向けられる先で、訴える声の意味が変わってしまっていた。
以前と変わらないものと、決定的に変わってしまったもの。
その両方を知っていても、彼女は友人を忘れられなかった。
忘れられないことを、研究を許す理由にはできない。けれど、許せないことを理由に、共に過ごした時間までなかったことにもできなかった。
アテナは置いたばかりの資料へ指を添えた。報告を読み続けていれば、彼がどこで何をしたかを知ることはできる。なぜ危険なのかを確かめ、被害を記録することも必要だった。
それでも、彼に向ける言葉を、報告の余白に書くだけで終えたくはなかった。
「ゼウス様」
アテナは顔を上げた。
「次に居場所が判明したときには、どうか、私に知らせてください」
口にすると、胸の奥にあった考えが、はっきりと形を取った。遠くの出来事を読む立場から、自分の足で近づくという選択だった。
「……会いに行くつもりか」
「はい」
返事をする前に、彼女は一度だけ息を整えた。危険がなくなったから行くのではない。記録を読んだ今だからこそ、何を聞き、何を伝えたいのかを、自分の中で曖昧にしたくなかった。
「今のあやつは、以前よりも危険だ。分かっておるな」
ゼウスの声を、アテナは目を逸らさずに聞いた。
かつて戦ったときの隔たりを、忘れてはいない。研究の蓄積が続いていることも知っている。昔の友人だから自分だけは必ず大丈夫だと考えることは、目の前の報告を軽く扱うのと同じだった。
「……分かっています」
アテナは、はっきりと答えた。
「それでも、もう一度、お話ししたいのです」
自分の言葉が届くと、確信しているわけではなかった。
会えば研究をやめてくれるという約束もない。懐かしい話をすれば、それで隔たりが消えるわけでもない。彼女がこれまで調べてきたものの中にも、そのように解決できる根拠はなかった。
ただ、報告書を読み続けるだけで、その名前を遠いものにしたくはなかった。
彼が今も何を大切にしているのか。何を理解したうえで、何を続けているのか。誰かの文章を通して推し量るだけでなく、目の前で声を聞きたかった。
そして、自分が認められないことも、直接伝えたかった。
友人であることを理由に目を閉じるためではない。その名前を呼びながら向き合うために、アテナは顔を上げていた。
ゼウスは、すぐには言葉を返さなかった。机の上にある報告書と、彼女の表情へ視線を移す。アテナも急がず、その場に立っていた。
窓の外では、いつものように風が木々を揺らしている。
次の知らせがいつ届くのかは、まだ分からなかった。彼女はその不確かさの前で、差し出した言葉を取り消さなかった。
◇
その頃、ヘルカイザーは、古い噴水の図面を眺めていた。
新しい記録を揃えるために机の端を空けたとき、しまっていた紙が目に留まったのだった。取り出した図面は、何度も開いた折り目に沿って、自然に広がった。
紙の上には、今の研究に必要な計測値はない。水の通り道と、流れが戻る位置。そのそばに、小さな訂正がいくつも残されている。一度書いてから改めた線も、相談の後に加えた注記も、消さずに残してあった。
ヘルカイザーは、端が浮かないよう指で押さえた。
その動作の途中で、かつて向かい側に置かれた手を思い出す。ここはどうなるのかと尋ねる声。説明を聞いた後で、別の可能性を示してくれた言葉。そのたびに、図面の上には線が増えた。
「……アテナさんでしたら、どのようなご意見を出されるのでしょうねぇ♪」
細かな注記を目で追う。
以前、何度も図面を囲んだ女神の声が、思い出された。
彼女は、分からないところをそのままにせず尋ねてくれた。ヘルカイザーも、その問いを面倒に思ったことはない。説明する途中で自分にも気づくことがあり、彼女の見方によって、手元の案がよくなることもあった。
うまくいったときは、一緒に喜んだ。
噴水の水が思ったところへ流れなかったときも、失敗を隠して見せる必要はなかった。図面へ戻り、なぜそうなったのかを考えた。その時間を、彼は今も大切なものとして覚えていた。
少女へ笑いかけたときと同じように、その記憶へ向ける気持ちにも偽りはなかった。
ただ、手元へ置いた新しい計画書には、別の記録がある。
一般の人々の前では、研究対象の処遇を詳しく説明しないこと。今日加えた注意事項の文字は、まだ新しかった。そこへ目を向けても、古い図面をしまわなければならないほどの葛藤は起きなかった。
大切な友人と過ごした時間がある。
今は今で、進めたい研究がある。
ヘルカイザーの中では、その二つは同じ机の上に置けるものだった。思い出を粗末にしたつもりもなく、計画を改める必要も感じていない。
彼は少し微笑み、それから図面をしまった。
折り目を確かめ、紙が傷まないように重ねる。いつかまた見たくなったときには、同じ場所から取り出せるようにしておいた。
研究机には、まだ確かめていない数値が残っている。
閉じた図面の代わりに、新しい記録を手前へ引いた。途中まで書いた注記を読み返し、次に確認する項目を探す。指先が止まる位置は、もう定まっていた。
会いに行くことはなく、彼は再びそちらへ向き直った。




