第26話 歪んだ善悪の天秤
ヘルカイザーは、先日の研究記録を閉じた。
最後の紙が重なると、机の上に残っていた淡い光が、小さな白い指先を照らした。黒い翼は椅子の背に触れないよう畳まれている。読み返した箇所へ挟んだ細い紙片だけが、綴じた記録の端から覗いていた。
恐怖と絶望を伴ったとき、マイナスエネルギーの密度が高まる。
神々を対象にした実験では、確かにその傾向が見られた。
ただし、一度の結果を、そのまま全てへ当てはめることはできない。相手が備える力も、抱いていた敵意も、命の危険をどのように理解するかも、計測には関わってくる。得られた量だけを並べて満足するのは、彼の好む研究ではなかった。
では、ほかの者にも同じことが起きるのだろうか。
開き直したページには、実験を始める前と終えた後の反応が残されていた。初めは退去の準備をしていた神々が、途中から何度も助けを求めている。かつて自分を襲った者たちであることも、誤った命令を信じていたという説明も、書き落としてはいない。
彼は説明を理解したうえで、研究を続けた。その事実を隠す必要も感じていなかった。
「さてさて♪ 次は、こちらを確かめたいところですねぇ♪」
新しい研究計画書を広げ、対象についての条件を書き写す。
『自分へ攻撃を仕掛けてきた者』
『悪事を働いている者』
どちらかに該当する者を選ぶ。
無関係な者を、研究のためだけに捕らえるつもりはなかった。
通りすがりの者が穏やかに暮らしているなら、その暮らしへ手を伸ばす理由はない。困っている者がいれば、できることをして助ければよい。そこについて、彼の考えは明瞭だった。対象に条件を設けたことにも、その考えが反映されている。
以前の自分を侮ったというだけの相手も、ここには含めていない。神でないと言われても、実際に神々とは異なるのだから、それで腹を立てることはなかった。今、求めているのは誰かへ鬱憤を晴らす機会ではなく、次の比較に必要な記録だった。
「これなら、問題ありませんねぇ♪」
彼は頷いた。
条件が書かれた行の下へ、確認済みの印を添える。その筆致は、装置の接続を点検するときと同じだった。
対象を選ぶことと、その相手へどこまでの苦しみを与えてよいかを考えることは、本来、別の問題だった。
攻撃を止める必要があったとしても、動けなくなった相手へ研究を続ける必要まで生じるわけではない。悪事を目撃したとしても、その者の残りの時間が研究者のものになるわけではない。
しかし、彼の筆は、次の計測項目へ進んでいた。
同じ条件で得た結果を比較するための空欄が、紙の上に増えていく。対象の許可を確かめる欄はなかった。今はもう抵抗できないという事実も、中止を判断するための欄には置かれていない。
整然とした計画書の前で、ヘルカイザーは満足そうに尻尾を揺らした。
◇
とある世界の街道で、荷物が地面へ投げ出された。
結び目の緩んだ包みから、衣類の端が覗いた。小さな容器がひとつ転がり、道の窪みに当たって止まる。拾おうと身を屈めかけた旅人の目の前へ、武器の切っ先が下りてきた。
「これで全部か!」
武装した男が、旅人の一人へ武器を突きつけている。
周囲の者たちも、囲みから逃れられなかった。散らばった荷物を拾おうとした手が、男の怒声に止まる。
旅人たちは互いに近い場所へ寄っていたが、誰かを庇おうと身体を動かすだけでも、男たちの目が向いた。何を差し出せば終わるのか分からない。そのため、手元に残った包みを抱く指にも、手放そうとする指にも、同じ震えがあった。
誰も動けないまま、足音だけが近づいた。
荷物を蹴った男の靴が、乾いた土を鳴らす。街道の先は開けている。そこへ走り出せば逃げられそうなのに、旅人には、わずかな距離がひどく遠かった。
「おやおや♪ 随分と物騒ですねぇ♪」
男たちが顔を上げた。
小さな白いドラゴンが、上空から降りてくる。
黒い翼の下を通った光が、道へ細い影を落とした。ヘルカイザーは、散った荷物を踏まない場所を選んで高度を下げる。突然の声に怯えた旅人にも気づき、視線を合わせる前に、武器を持つ男たちの位置を確かめた。
「……何だ、こいつは」
「皆さんのお荷物では、ないようですが?♪」
返事を待つあいだも、彼は旅人へ背を向けきらなかった。誰かが急に手を出しても、その前へ入れる距離だった。
男の視線が白い身体から黒い翼へ動き、それから地面の包みへ戻った。荷物の持ち主を説明する言葉は出てこない。代わりに、握っていた武器へ力がこもった。
「邪魔をするな!」
男の一人が、武器を振るった。
その攻撃は、白い身体へ届かなかった。
障壁に阻まれ、男の動きが止まる。
硬い音に、旅人の肩が跳ねた。ヘルカイザーはそちらへ一度目を向けたが、自分へ向けられた刃に驚く様子はない。障壁の向こうで男の腕だけが強張り、振り抜くはずだった姿勢のまま固まっていた。
次の瞬間には、周囲の男たちも身動きが取れなくなっていた。
後ろへ下がろうとした足も、仲間へ合図しようと上がった手も、その位置に留まる。旅人へ伸びかけた腕が、それ以上近づくことはなかった。
「……っ!? 何をした!」
ヘルカイザーは、彼らの武器と、怯えている旅人たちを見比べた。
地面に散った品は、どれも旅の途中に必要なものだった。男たちの持ち物に戻そうとしている者はおらず、旅人たちの目だけが、それぞれの包みを追っている。その場で何が行われていたかを判断する材料は、揃っていた。
「……なるほどですねぇ♪ 今回は、両方の条件に当てはまるわけですかぁ♪」
「……条件?」
問い返す男には答えず、彼は旅人たちへ向き直った。
計画書の二行が、彼の頭の中で確かめられていた。だが、そちらへ取りかかる前に済ませるべきことがある。まだ、荷物の前で立ち尽くしている者たちがいた。
「もう大丈夫ですよ♪」
先ほどまで武器を突きつけられていた者が、恐る恐る顔を上げる。
男たちが動かないことは見えていた。それでも、助かったのだとすぐに信じるのは難しかった。さっきまで何をしても怒鳴られていた身体は、声をかけられても、まず身構えようとした。
「……助けてくださったのですか……?」
「もちろんですよ♪ 何も悪いことをしていないのでしょう?♪」
旅人は、何度も頷いた。
ヘルカイザーは、その答えを急がせなかった。頷くたびに肩から少しずつ力が抜けるのを待ち、それから地面の包みへ視線を移す。顔を上げた旅人がつられてそちらを見ると、初めて、しゃがんで拾ってもよいのだということが伝わった。
ヘルカイザーは、散らばった荷物を返していった。
埃のついた布を軽く払い、開いた包みを持ち主が結び直せるよう近くへ寄せる。中身を勝手に確かめたり、礼の代わりを求めたりはしない。手が震えてうまく紐を扱えない者には、作業の終わるまで静かに待った。
「こちらも、皆さんのものでしょうか?♪」
「……はい。それも……」
「おやおや♪ でしたら、忘れずにお持ちくださいねぇ♪」
受け取った手は、まだ震えていた。
それでも、旅人たちの顔には少しずつ安堵が戻っていった。
転がった容器を拾った者が、蓋の閉まっていることを確かめた。包みを抱え直した者が、隣にいる連れの顔を見た。そこにいた全員が、まず互いの無事を目で確かめ、それから、ようやく白いドラゴンへ向き直った。
彼は荷物が揃ったことを確かめ、安全に立ち去れるようにした。
拘束された男たちの近くを通らなくて済むよう、街道の端を空けてある。誰かが武器を取り直す心配もない。ヘルカイザー自身がその場に留まっていることが、歩き始めた旅人たちの支えになった。
「……本当に、ありがとうございました」
「いえいえ♪ どうぞ、お気をつけて♪」
何度も頭を下げながら、旅人たちは街道を去っていく。
初めの数歩はぎこちなかったが、やがて歩幅が揃った。ひとりが後ろを振り返ると、白いドラゴンはまだそこにいて、穏やかに見送っていた。その姿を見て、旅人はもう一度だけ深く頭を下げた。
その背中を見送るヘルカイザーの笑顔は、優しかった。
危険から離れられたことを、彼も喜んでいた。取り戻した荷物を抱く手が、先ほどより落ち着いていたことにも気づいている。助けた者の安堵を眺めるその時間に、計測のための演技はなかった。
◇
「……なあ。荷物は返しただろう」
拘束された男が、声を上げた。
旅人たちの足音が遠ざかってからのことだった。それまでは、誰かが振り返れば別の態度を取れるとでも考えるように、男は唇を固く閉じていた。だが、街道に残った相手が白いドラゴンだけになると、黙っていることに耐えられなくなった。
「もう、いいじゃないか。何も取っていない」
ヘルカイザーは振り返った。
「おや? 返したのは自分ですよ♪」
責め立てる言い方ではなかった。誰が荷物を戻したかという、目の前の事実を訂正しただけだった。だからこそ、男が用意していた言い訳は続かなかった。
「……だから、もう……」
武器を下ろそうとしても、腕は動かない。逃げようとする足にも力が届かない。男はようやく、自分たちが何かを差し出せば交渉できる状態にもないのだと気づき始めた。
荷物を奪うことはできなかった。旅人を追うこともできない。今ここで彼らを押さえておかなければならない理由は、その危険を防ぐことだけなら、既に小さくなっていた。
「皆さんには、別のお願いがありましてねぇ♪」
同じ穏やかな声だった。
旅人へ忘れ物を確かめていたときと、何も変わらない。
ヘルカイザーは、逃げていく背中から男たちへ視線を戻しただけで、怒りを新たにしたわけではなかった。自分を狙った武器を思い出し、恨みを募らせてもいない。先ほど確認した研究条件が、そのまま次の行動へつながっていた。
「少々、研究にご協力いただきたいのですよ♪」
男たちは、互いの顔を見た。
その言葉の意味を知る者はいなかった。金品を差し出せと言われたなら、まだ分かる。道を空けろと命じられたなら、それにも従える。けれど研究という言葉は、どうすればここから帰れるのかを、何も教えてはくれなかった。
誰かが身をよじった。
しかし、空間ごと止められた身体は、わずかにも動かなかった。
ヘルカイザーは、その反応を見落としていなかった。怯え始めていることは、理解していた。理解したうえで、対象を選ぶ手順に間違いはないと判断していた。
「……研究って、何だ」
「皆さんの反応を、少し調べさせていただきます♪」
説明は丁寧だったが、断る機会は置かれなかった。
協力してほしいという形を取った言葉の後でも、拘束は続いている。男たちの誰かが了承したのを待って、彼が動いたわけではない。怖がっているのかどうかも、行動を取りやめる判断には結びつかなかった。
漆黒の空間が広がる。
街道の景色が遠ざかり、男たちは別の場所へ運ばれた。
最後まで見えていた明るい道も、地面に残る荷物の跡も、やがて視界から消えた。旅人たちが無事に歩き去った方向へ、手を伸ばすことはできなかった。
◇
研究場所には、神々を対象にした記録が並べられていた。
机の端には空白の用紙が揃えられ、以前の結果をすぐに参照できるよう、必要なページだけが開いてある。ここへ来る前に立てていた計画が、そのまま作業の順序になっていた。
ヘルカイザーは、それを新しい計測結果と比較した。
相手は人間だった。
同じ言葉をかけても、反応の仕方は違う。恐怖が強まる時機にも、抵抗を諦めるまでの様子にも、それぞれ違いがあった。
以前の神々は、自分たちに備わる力が届かないことを知ったとき、反応を大きく変えていた。目の前の男たちは、そもそも何によって拘束されているかを理解できていない。説明を聞こうとする者もいれば、意味が分からないまま声を荒らげる者もいた。
その違いを、ヘルカイザーは乱暴にひとつの値へまとめなかった。声の大きさだけでは、内側に生じるものの強さを判断できない。黙った者の反応が弱いとも限らない。記録へ目を通すたび、彼の指先は必要な箇所で止まった。
男たちにとっては、その沈黙も恐ろしかった。
何かを書いている。こちらを見ている。だが、何を確認すれば終わるのかが分からない。自分の声が白いドラゴンへ届いていることだけは、顔を上げる仕草から分かった。それでも帰れないことが、次の不安を生んでいた。
「……ふむふむ。こちらにも、共通するところはありますねぇ♪」
彼は筆を走らせた。
違う点を残しながらも、比較したかった傾向は確認できた。恐怖が深まるとき、ただ怒鳴っていたあいだとは異なる変化が現れる。抜け出せるかもしれないという見込みが薄れていくと、記録の上にもそれが反映された。
彼は、結果を見つけた喜びを隠さなかった。けれど男たちの苦痛そのものを、仕返しの楽しみとして眺めているのでもない。何が起きているかを明らかにできたことへ、研究者として頷いている。そのために何が続いているかを、同じ重さで問い直すことがなかった。
『シナナクナール』の効果によって、男たちの命は失われなかった。
しかし、苦しみまで消えるわけではない。
死なずに済むという事実は、今いる場所から解放される約束ではなかった。命が保たれていることを確かめる指先と、次の項目へ進む筆先が、交互に動いた。
ヘルカイザーにとって、生きたまま帰せることは大切だった。対象を失わないためだけに考えているのではなく、殺すつもりもない。ただ、その配慮によって、今与えている苦しみまで許されると考えることに、もう疑問を持たなかった。
男のひとりが、先ほどの旅人たちを思い出していた。
返された荷物。去っていく背中。どうぞ気をつけてと告げた声。あのとき、白いドラゴンは確かに助けていた。同じ相手がこちらの言葉を聞きながら、なぜ終わらせてくれないのか。その問いを言葉に整えるだけの余裕も、薄れていった。
かすれた声が、計測装置の向こうから聞こえた。
「……もう、何もしない……」
ヘルカイザーは顔を上げた。
「おや。それは良い心掛けですねぇ♪」
返答はすぐだった。
言葉が聞こえなかったわけでも、改める意思を否定したわけでもない。これから悪事をやめるのなら、よいことだと彼は思った。その先で旅人が脅かされずに済むなら、それも喜ばしい。
けれど、既に始めた計測をここで終えるかどうかは、その返答とは別のところで決めていた。
男は、微かな希望を向けた顔のまま、彼の手元を見た。筆が置かれることを待った。紙が閉じられることを待った。ヘルカイザーの視線がまた記録へ戻ると、その顔から力が抜けていった。
「……頼む……助けてくれ……」
街道で荷物を抱えていた者と、同じ言葉を必要としていた。
男が誰かを脅した事実は消えない。旅人たちを怯えさせたことも、今ここにいる者たち自身の行為だった。それでも、その事実が目の前の声をどこまでも無視してよい理由になるわけではなかった。
ヘルカイザーは、聞こえた訴えを記録の端へ残した。そこに表れた変化を、読み返せるようにするためだった。
彼は記録を確かめ、最後の項目を書き終えた。
決めていた確認が終わった。比較に必要な内容も揃った。ここでさらに続ける必要はないと判断し、初めて筆を置く。
「では、本日の実験も、ここまでにしましょうか♪」
男たちは、その言葉が何を意味するのか、すぐには信じられなかった。次の説明が続くのではないかと待ち、記録用紙が閉じられるのを目で追った。終わると聞かされても、身体に残る緊張は消えなかった。
男たちは、生きたまま元の世界へ戻された。
足元に土の感触が戻り、顔へ外の空気が触れた。遠くの景色が動かずにそこにある。何の変哲もない道端の明るさが、さっきまでとは違うものに見えた。
もう一度手足を動かせるようになっても、しばらく誰も立ち上がらなかった。
指を曲げ、それが自分の意思で動いたことを、何度も確かめる者がいた。隣の男が身じろぎするだけで、肩を強張らせる者もいた。終わったのだから帰ればよいという、簡単な行動へ移れなかった。
互いを急かす声も、旅人へ向けていた怒号も、そこにはなかった。
ヘルカイザーは、生還を確認してからその場を去った。彼の記録には、予定した項目が全て埋まっていた。道端に残った沈黙の長さまでは、そこに収められていなかった。
◇
神界に届いた報告書を、アテナは読み進めていた。
新しく運ばれてきた紙の端を揃え、最初の証言へ目を落とす。白いドラゴンを見たという報告を開くとき、今の彼女は、読む前から指先に力が入るようになっていた。
白いドラゴンに救われた旅人たちの証言。
奪われかけた荷物が返されたこと。
怪我をさせられることなく、その場を離れられたこと。
そこまで読めば、胸が温かくなるはずだった。
実際、その知らせに安堵はあった。脅かされていた人々が無事だったことを、彼女は喜んでいる。旅人のひとりが何度も振り返って礼をしたという箇所では、その場へ立つ小さな友人の姿を、容易に思い描けた。
慌てなくてよいと声をかけるときの調子も、落とした物を拾って差し出す指先も、知っていた。話を聞くために顔を上げ、相手が言い終わるのを待つ。その丁寧さに助けられたことが、アテナ自身にもあった。
けれど、次の記録には、戻ってきた男たちの様子が書かれていた。
ページをめくる手が止まった。消えた者たちは戻っている。命も失われてはいない。その確認の下に続く文章を読み、彼女はゆっくりと息を吐いた。
何があったのかと問われても、怯えて口を閉ざす者がいた。
途切れ途切れに語られた言葉からは、以前の神々の報告と同じ研究が読み取れた。
相手が神々であったときには、自分たちが伝えた命令の誤りが発端にあった。だが、今回の街道の出来事は、その命令の続きを追ったものではない。そこで起きていた悪事を止め、危険を取り除いた後で、研究へ移っている。
誤った命令が撤回されたという知らせだけでは、止まらない。そのことが、新しい報告の中に、はっきりと現れていた。
「……ヘルカイザーさん……」
アテナは、二つの証言を隣へ置いた。
旅人の感謝を記した紙と、男たちの怯えを記した紙。その端を揃えようとして、彼女は途中で手を止めた。どちらも、同じ白いドラゴンについて語っている。
助けたことは、本当なのだ。
同じように、苦しめたことも。
片方が事実であるために、もう片方が嘘になるわけではなかった。どちらかの証言だけを残せば、彼の姿はもっと簡単に説明できるのだろう。だが、その説明からこぼれる者がいることを、アテナは見過ごせなかった。
助けられた旅人に、感謝を取り消すよう求めることはできない。彼らは実際に救われた。同時に、戻ってきた男たちへ、悪事を働いたのだからその苦しみは全て当然だと告げることもできなかった。
隣に置かれた紙へ、ゼウスも視線を落としていた。アテナが読み終えるのを待ち、彼女が顔を上げると、言葉を促すように静かに頷いた。
「……あの方には、対象を選ぶ基準があるようです」
ゼウスが、彼女へ目を向けた。
「自分を攻撃した者か、悪事を働いた者か。そのどちらかを、研究の対象にしているのですね」
アテナは、これまでに届いた報告との共通点を指で示した。今回の男たちは、旅人を脅していた。そのうえで、止めに入った彼へ武器を向けた。研究の対象とされた経緯には、確かに一定の筋がある。
「……無差別というわけではないのだな」
「はい。ですが……」
アテナは、男たちの証言へ指を置いた。
その指先は、武器を使えなくなったという記述の下で止まっていた。荷物が返され、旅人たちが去ったところでも、同じ確認をしている。そこから後に何が必要だったのかを、記録に沿って見ていた。
「それで、どこまでも苦しめてよいことにはなりません」
ゼウスは、静かに頷いた。
アテナは、指を置いたまま、しばらく紙を見つめていた。研究という言葉を知っている。友人がその言葉を口にするときの喜びも知っている。だから、聞き慣れた言葉がこの報告に現れるたび、単に恐ろしい呼び名を読むよりも、深く胸が痛んだ。
彼が新しい発見を喜んだ時間まで、偽りにしたくはなかった。苦しむ魂のために考えた仕組みも、そこから誰かが救われた事実も、今なお彼女の記憶にある。あの成功が本当だったからこそ、同じ研究者の手で、苦しみを生む側へ進んだことが重かった。
かつては、どうすれば苦しみを軽くできるのかを一緒に考えた。計測された量が減ることを、よい結果として話したこともある。今、彼の手元にある記録では、強い反応を引き出せたことが成果になっている。
その変化は、一日の怒りでは説明できなかった。怒りが静まれば元に戻るというものでもない。自分を侮った者への恨みだと呼べば、初めから彼の心にない理由を与えてしまう。それでは、起きていることを見失う。
アテナは、旅人たちの感謝を否定できなかった。
そこに、以前と同じ優しさを見つけてもいた。
だからこそ、隣に置かれた記録から目を背けることもできなかった。
友人を大切に思う気持ちが、彼によって苦しめられた者を見る妨げになることだけは、許したくなかった。彼の優しさを覚えているのは自分だけではない。街道を歩き去った旅人も、それを知っている。その記憶を守るためにも、続いて起きたことを伏せるわけにはいかなかった。
窓から入る光が、二枚の報告書を等しく照らしていた。
ゼウスは一方を片づけようとはしなかった。アテナも、どちらかを裏返すことはなかった。彼女は両方の紙を揃えて、同じ記録の中へ収めた。
◇
ヘルカイザーは、新しい比較結果を読み返していた。
計画書の空欄は埋まり、神々を対象とした結果の隣に、今度の記録が加わっている。同じところには印をつけ、異なるところには短い注記を残した。どちらも重要だった。違いが見つかったなら、その理由を確かめる研究もできる。
街道で旅人を助けたことも覚えている。
無事に荷物を受け取り、礼を言って帰っていった。
とりわけ、最後に振り返った旅人の顔を思い出した。去ってよいのか迷っていた表情が、少しずつ落ち着いていった。無事に先へ進めたのならよかったと、彼は今も思っていた。
その記憶に向けられる気持ちは、穏やかだった。
男たちを研究の対象にしたことについても、記録に問題はなかった。
確認した条件は、どちらにも当てはまっている。命を失った者もいない。予定していた計測は終わり、元の世界へ帰した。その順序を指で追い、抜け落ちた項目がないことを確かめた。
助けてくれという声も、書き残されていた。
彼はそれを消さなかった。なかったことにもしていない。けれど、その声を読んで考えたのは、同じ言葉が出るまでの反応に違いがあったということだった。自分がその場にいて、終わらせることができたという事実は、研究の中止を改めて考える理由にならなかった。
机の上で、古い記録と新しい記録がきれいに重なる。
「……さてさて♪ 次に確かめるところも、見えてきましたねぇ♪」
彼は、満足そうに新しい紙を広げた。
旅人を助けたときと同じ指先が、次の計画のために紙を押さえる。白い身体のそばで黒い翼がわずかに動き、筆を持つ手の邪魔にならない位置へ収まった。
計画書の上には、対象を選ぶための二つの条件が残っていた。
その条件を守っていることが、彼には十分な確かさだった。
どちらの出来事も、彼の中では矛盾していなかった。




