第25話 絶望という名の発見
「……おや?」
ヘルカイザーは、神々との交戦時に記録された数値を見つめていた。
初めは、中断された調査へ戻るために開いた記録だった。
どこまで確かめ、何が途中になっていたか。それを読み直すつもりで、前の箇所へ戻った。
その中に、気になる変化があった。
攻撃を受けたとき。
こちらが反撃したとき。
相手が撤退しようとしたとき。
それぞれの反応を並べ、もう一度確かめる。
数値が大きく動いたというだけでは、何による変化かまでは分からない。
ヘルカイザーは、交戦の経過と照らし合わせた。
あのとき、相手は、こちらへ武器を向けていた。
話を聞いてほしいと求めても、攻撃が続いた。
殺すつもりかと尋ねると、当然だという返事があった。
その後、自分が力を使うと、相手の様子が変わった。
最も大きく流入量が増えていたのは、神々が怒りを露わにして攻撃した瞬間ではなかった。
ヘルカイザーは、その前後へ目を移した。
見間違えたわけではない。
声を荒らげ、敵意を向けてきたときより、その後に大きな反応が残っている。
力の差を知り、逃げようとしたとき。
抵抗を諦め、命乞いを始めたとき。
その言葉と動きを、彼は覚えていた。
攻撃できると考えていた者たちが、届かないと知った。
相手を排除するために来たはずが、自分たちの身を案じるようになった。
その変化と、記録の動きが重なる。
「……ふむふむ」
ヘルカイザーは、その箇所へ印をつけた。
恐怖。
逃げられないという認識。
助からないかもしれないと思ったときの、絶望。
そのような状態に伴って、マイナスエネルギーの反応が大きくなっていたのではないか。
まだ、今回の記録だけで、全てを説明することはできない。
だが、確かめてみるべき問いは見つかった。
彼は、机の上へ、関係する記録を寄せた。
攻撃へ向かう怒りと、自分の身が危ういと知ったときの恐れ。
どちらも、負の力を生む。
けれど、それらを、いつも同じ反応として扱ってよいとは限らなかった。
「いやはや♪ これは興味深いですねぇ♪」
声が、少し弾んだ。
指で記録を辿りながら、彼は古い出来事を思い出した。
アテナから託された包みを、目の前で捨てた神。
あのときも、神は初めから怯えていたわけではなかった。
自分を侮辱し、力を振るい、拘束された後になって、声の調子を変えた。
その変化を、ヘルカイザーは見ていた。
自分の力が通じると思っていたときと、それが通じないと知った後では、違う顔をしていた。
そして、『シナナクナール』の効果が続く間、苦しみ続けていた。
「……あのときは、測定しておりませんでしたねぇ」
彼は、記録へ置いていた指を止めた。
思い出すことはできる。
けれど、その記憶だけで、どのような数値が出ていたかを確かめることはできない。
あの行為を、最初から実験として組み立てたわけではなかった。
友人の信頼を踏みにじったことに、反省してもらうためだった。
研究のために行ったわけではない。
アテナから託されたものを捨てた。
そのことを、許せないと考えた。
偽物と呼ばれた恨みを晴らすためではなかったし、エネルギーの発生量を調べるためでもなかった。
その当時の理由を、今になって、別のものへ書き換えるつもりはない。
けれど、もし、あのときにも同じような反応が生じていたのなら。
ヘルカイザーは、新しい紙を取り出した。
今度は、初めから確かめるための記録を用意できる。
どのような状態で反応が変わるかを見て、交戦中の数値と比較する。
そうすれば、印をつけた箇所について、もう少し分かるかもしれない。
新しい紙には、交戦中の記録から気になった箇所を、順に書き出した。
まず、最も大きく変わったところ。
次に、その前と後で、相手の様子がどう違ったか。
結果を見てから、過去の全てを同じ説明へ合わせてしまえば、確かめたいことを見失う。
ヘルカイザーは、記憶から補った箇所には、そのように分かる言葉を添えた。
ここには記録がある。
こちらは、そのとき見たことを思い出している。
それらを比べるためにも、改めて調べたいと思った。
人を救う仕組みを考えていたときにも、彼は、分からない箇所を残したまま、分かったとは書かなかった。
その丁寧さは、今もある。
ただ、丁寧に確かめようとしているものが、変わっていた。
相手の恐怖が強まるときの反応を、見たい。
そのための方法を、用意したい。
今、彼の知恵は、その問いを実現するために使われていた。
そのために誰かを苦しめることになるという事実は、思考から消えてはいなかった。
むしろ、それが、今、確認したい状態だった。
「……改めて、確かめる価値がありそうですねぇ♪」
彼は、紙へ筆を向けた。
その先に何をするべきかを考える顔には、新しい実験を思いついた喜びがあった。
◇
別の世界で、神々が撤収の準備をしていた。
神界から届いた通知が、机の上に広げられている。
排除命令は誤りだった。
その一文は、何度読み直しても変わらない。
自分たちは、その誤りを正しい指令だと信じ、ヘルカイザーへ実際に攻撃した。
命令があると説明したときの、自分の声を、隊長は思い出していた。
相手に誰の命令かを尋ねられ、最高神ゼウスの名を答えた。
こちらの任務に、疑うべきところはないと思っていた。
最初の交戦で、彼が話し合おうとしていたことも覚えている。
用件を聞かれた。
行き違いではないかと、言われた。
それでも、こちらは攻撃を止めなかった。
今、誤りを知らされたからといって、その経過がなくなるわけではない。
「……報告の内容を、もう一度確認する」
隊長の声は重かった。
従った指令と、実際にしたことを、正確に残さなければならない。
受け取った内容が誤りだったから、交戦の記述まで曖昧にしてよいとは思わなかった。
机の上へ、紙を寄せる。
そのとき、背後から穏やかな声がした。
「こんにちは、皆さん♪」
神々が振り返る。
小さな白いドラゴンが、そこに浮かんでいた。
「……ヘルカイザー……!」
声と一緒に、部下の手が動いた。
前に向けられた力を、身体が覚えている。
目の前へ同じ姿が現れたことに、考えるより早く反応しかけた。
武器へ手を伸ばしかけた部下を、隊長が止めた。
「待て! 攻撃するな!」
強い声に、手が止まる。
隊長は、自ら前へ出る。
今度こそ、まず、伝えなければならないことがあった。
前の指令を信じていたときと、今は違う。
相手も、その訂正を知る必要がある。
「排除命令は誤りでした。最高神ゼウス様は、あなたの排除を命じていません」
「……おや。そうだったのですかぁ」
ヘルカイザーは、隊長へ顔を向けた。
説明を遮ることはなかった。
隊長は、その反応を見て、続けた。
「我々は、誤った指令に従ってしまったのです。もう戦うつもりはありません」
隊長は頭を下げた。
背後の神々も、攻撃へ移ろうとはしなかった。
自分たちのしたことが、これだけで許されるかどうかは分からない。
それでも、戦う意思はないと、はっきり示さなければならなかった。
ヘルカイザーは、熱心にその説明を聞いた。
排除命令はなかった。
相手は、誤ったものを正式な指令だと信じた。
今は、その誤りを知り、もう戦わないと答えている。
彼は、その内容を理解した。
「なるほどですねぇ♪ 事情は分かりましたよ♪」
神々の肩から、わずかに力が抜けた。
話が通じた。
こちらの説明を聞き、理解したと答えてくれた。
今度は、同じ間違いを繰り返さずに済む。
隊長は、静かに息を吐きかけた。
少なくとも、言葉の途中で、再び攻撃を向け合うことにはならなかった。
そのことが、ほんの少し、胸を緩めた。
隊長が顔を上げたところで、ヘルカイザーは続けた。
「ところで、自分の研究にご協力いただけませんかねぇ♪」
「……研究?」
「ええ♪ 皆さんとの交戦記録に、面白い反応がありましてねぇ♪」
隊長は、その言葉の意味を考えようとした。
交戦記録に、反応があった。
それを調べるために来たのだろうか。
何を聞かれるのかを確かめるより早く、周囲が変わった。
次の瞬間、空間が固定された。
神々は身動きが取れなくなった。
隊長は、反射的に腕を動かそうとした。
動かない。
自分の意思で止まっているのではないことを、すぐに知った。
背後の部下たちも、同じように動きを失っている。
「……何をする!」
「少々、お時間をいただきたいのですよ♪」
丁寧な声だった。
研究について相談するような口調と、動かせない身体の間に、隊長は、うまく意味を見つけられなかった。
「我々は謝罪したはずだ! もう攻撃しないと伝えた!」
「ええ♪ ですから、もう戦闘を続ける必要はありませんねぇ♪」
ヘルカイザーは、当然のように頷いた。
聞いていなかったのではない。
もう戦わないという言葉を知り、そのとおりだと答えている。
「ですが、戦闘と研究は、別のお話でしょう?♪」
隊長の顔から、血の気が引いた。
説明を聞いていなかったのではない。
理解した上で、彼は別の判断をしている。
誤りだったと伝えれば、少なくとも、交戦を続ける理由はなくなる。
隊長は、そのように考えていた。
ヘルカイザーも、戦闘を続ける必要はないと答えた。
けれど、それが、身体を自由にする理由にはなっていなかった。
今度は、研究のために、時間を求めている。
その求めを断ることができる状態ではなかった。
隊長は、足へ意識を向けた。
後ろへ退くことも、部下の前へ立ち直すこともできない。
頭を下げたときには、自分の意思で身体を動かしていた。
今は、その動きさえ、選べなくなっていた。
背後から、息を呑む気配がした。
自分と同じように、動けないことを確かめたのだろう。
隊長は、ヘルカイザーの顔を見た。
事情が分かったと答えたときの笑みが、まだ、そこにある。
その返事を聞いて、話が通じたと考えた。
実際に、説明の内容は通じていた。
だからこそ、何をもう一度説明すればよいのか、分からなかった。
殺すつもりはない。
命令は誤りだった。
そのどちらも知った相手が、戦闘ではなく研究だと語っている。
隊長は、先ほど伸ばしかけた部下の手を止めたことを思い出した。
攻撃を繰り返してはならないと、自分で決めた。
その判断が間違いだったということではない。
けれど、攻撃しなければ、相手も何もしないという期待は、今、目の前で崩れていた。
漆黒の空間が広がった。
神々は、ヘルカイザーの研究場所へ連れていかれた。
机の上へ残された通知には、排除を命じていないという文字が、まだ開かれていた。
◇
漆黒の中に、計測装置の表示が浮かんでいた。
ヘルカイザーは、その前で記録を整えている。
交戦のときに確かめたものを、隣へ置いた。
今、何を測ろうとしているかが分かるように、紙へ記述を加える。
神々の視線が、その前脚を追っていた。
ここへ連れてこられた理由は、まだ、よく分からない。
研究という言葉だけが、明るい声で告げられた。
そして、自分たちの身体は、動かせないままだった。
「本日は、恐怖と絶望の発生量を測定したいのですよ♪」
拘束された神々は、彼の手元を見つめた。
恐怖と、絶望。
その言葉が、自分たちへ何をするつもりかという問いに、重く繋がっていく。
取り出されたのは、一つの薬だった。
『シナナクナール』。
一定時間、対象が死ななくなる発明品。
ヘルカイザーは、それを、研究へ用いるものとして手元へ置いた。
神々が見ていることにも、気づいている。
隠して進めようとしている様子はなかった。
ただ、明るい声で説明されても、それを聞く者たちには、安心できる理由がなかった。
「……待ってくれ」
隊長の声が震えた。
「我々は、もう戦うつもりはない」
「ええ。先ほど伺いましたよ♪」
「ならば、なぜ……!」
同じ訴えを、繰り返さずにはいられなかった。
自分たちは、誤りを伝えた。
攻撃をしないと答えた。
その上で、なぜ、ここへ連れてこられたのか。
「皆さんは、実際に自分へ攻撃なさった方々ですからねぇ♪ 無関係な方に、お願いしているわけではありませんよ♪」
ヘルカイザーは、丁寧に説明した。
自分を攻撃した者。
悪事を働いた者。
研究の対象にするなら、そのような相手を選ぶ。
その基準を、彼は自然なものだと考えていた。
相手が、今、戦わないと答えたことを知らないのではない。
その前に、実際に攻撃をしたという事実は残っている。
だから、研究の対象として選ぶことに、問題はない。
彼の説明は、そこで繋がっていた。
自分たちがした攻撃を、なかったことにはできない。
隊長にも、それは分かる。
けれど、その事実が、これから何をされてもよいという意味になるとは、考えていなかった。
神々の視線が、彼から計測装置へ移る。
いま、この瞬間にも数値が変わっていた。
「……おやおや♪ 既に反応が出ていますねぇ♪」
彼は、嬉しそうに書き留めた。
隊長は、表示と、記録を取る姿を見た。
何かを確かめたと、彼は喜んでいる。
その変化の理由に、自分たちの恐れが含まれているのだと、思い至った。
動けないことを知った。
どのような研究かを聞いた。
その後、今の数値が出ている。
自分たちが怯えていることさえ、彼には、確認すべき反応として見えている。
ヘルカイザーは、記録から顔を上げた。
次に確かめる項目へ、意識を向ける。
やがて、漆黒の空間に悲鳴が響いた。
◇
ヘルカイザーは、計測値と神々の反応を照らし合わせていた。
恐怖が強まったとき。
逃げようとしても、どこにも動けないと理解したとき。
懇願しても終わらないと悟ったとき。
そのたびに、マイナスエネルギーの密度が変わった。
声の調子と、表情の変化。
何を求め、どの時点で、その言葉を言わなくなったか。
彼は、表示だけを見ていたわけではなかった。
今、目の前の相手に何が起きているかを見ながら、それに伴う数値を確かめていた。
「……なるほどなるほど♪」
彼は、先ほどの交戦記録を隣へ置いた。
攻撃してきたときと、こちらの力を知った後。
あの記録の中にも、変化がある。
今、ここで見ている反応と、重なるところがあった。
「やはり、同じような傾向がありますねぇ♪」
嬉しそうに言って、筆を動かす。
神の一柱が、かすれた声を上げた。
「……お前は……何とも、思わないのか……」
ヘルカイザーは顔を上げた。
「何についてでしょうか?」
「……我々が、苦しんでいることだ……」
「今回の研究目的ですからねぇ」
答えに迷いはなかった。
研究のために見ている反応が、確かに生じている。
彼の関心は、その結果に向いていた。
苦しんでいると、改めて教えられたから、初めて気づいたのではない。
その状態を見て、記録していた。
けれど、相手が今求めたものは、数値についての説明ではなかった。
それを見てなお続けることを、どう考えているかと問うた。
ヘルカイザーは、研究の目的だと答えた。
その返事の間に、止めるという判断はなかった。
神は、彼の手元へ目を向けた。
話しかければ、ヘルカイザーは顔を上げる。
声が聞こえていないのではない。
何について尋ねているかを確かめ、答えを返す。
だが、返事があることは、願いが聞き入れられることではなかった。
苦しんでいると伝えた。
その状態を知ってほしいと願った。
相手は、既に知っていた。
今、何が起きているかを理解し、そのまま、記録へ向かっている。
自分たちは、実際に攻撃した者だから選ばれたのだと聞いた。
その説明を思い返しても、いつになれば、もう十分だと言ってもらえるのかが分からない。
反省したと答えれば終わる時間なのか。
何を謝ればよいのか。
そのように考えようとしても、目の前には、測るべき項目を確かめている研究者がいた。
彼が終わりを決める理由は、自分たちの願いとは別のところにある。
神は、そのことへ、少しずつ気づき始めていた。
「……そんなに、我々が憎いのか……」
「おや? 復讐ではありませんよ♪」
ヘルカイザーは首を傾げた。
「純粋な研究です♪」
神は、何も言えなくなった。
怒りが鎮まるのを待てば、終わるのではない。
恨みを晴らせば、満足するのでもない。
攻撃したことへの謝罪も、既に聞かれていた。
命令が誤りだったという説明も、理解されている。
それでも続いているのは、知られていない事情があるからではなかった。
今、確かめたいことがあるからだった。
神は、彼の顔を見つめた。
声を荒らげているわけではない。
自分たちが偽物と呼んだことを、繰り返して責めてもいない。
計測を確かめ、分かったことを喜び、次に見る箇所を考えている。
目の前の発明家は、今も楽しそうに、次に確認する項目を考えていた。
◇
実験が終わると、神々は生きたまま元の世界へ戻された。
漆黒の研究場所には、計測の記録が残った。
ヘルカイザーは、記録を読み返した。
戦闘中に自然に生じた負の感情。
研究の場で、条件を変えながら生じさせた反応。
同じ点も、異なる点もある。
その全てを同じものとして扱うのではなく、比較して確かめる。
とりわけ大きく反応が変わったところへ、目を留めた。
彼は、実験のために整えた記録を、順に辿った。
始める前にも、数値は動いていた。
拘束され、何を測るかを聞いた時点で、反応があった。
その後にも、変化は続いている。
全てが一度に同じように現れたのではない。
その違いを残しておけば、交戦中の変化についても、もう少し詳しく考えられる。
ヘルカイザーは、書いた時点を確かめ、隣の記録へ視線を移した。
同じような傾向が見えることを、彼は喜んだ。
思いついた問いを、確かめることができた。
記憶だけでは分からなかったことが、今は、比較するための紙へ残っている。
その成果を前に、彼は満足していた。
神々が、どのような気持ちで元の世界へ戻ったかを、ここから見ているわけではない。
ただ、彼らが苦しんでいたことは、実験中に確かめた。
その事実が、記録を閉じ、方法を捨てる理由にはならなかった。
どのような状態に伴っていたか。
その問いへ、今回の記録から答えを書いた。
比較した結果を、新しい一文にまとめる。
『強い恐怖・絶望・苦痛に伴い、高密度のマイナスエネルギーが発生する』
「……そういうことでしたかぁ♪」
ヘルカイザーは、満足そうに微笑んだ。
「発生したものを集めるだけでなく、発生させることも研究に組み込めば良いのですねぇ♪」
以前は、存在している負の力を、どう捉えるかを考えた。
苦しみから生まれるものを、消える前に集める。
その仕組みを、より広い範囲へ使う方法を調べてきた。
今は、その手前へ、自分の実験を置くことができると考えている。
反応が生じる状態を作り、その結果を確かめる。
それも、集める方法の検討に含めればよい。
彼の筆は、その考えへ自然に続いた。
彼は、対象についての条件も書き留めた。
無関係な者を捕らえるつもりはない。
自分へ攻撃した者や、悪事を働いた者だけを対象にする。
だから、この方法を採用しても問題はない。
そう判断し、彼は次の研究へ進んだ。
神々が、戦うつもりはないと告げたことも、記憶から消えてはいなかった。
今、敵対していないことは、知っている。
それでも、過去に自分へ攻撃したという条件は変わらない。
その条件を満たすことが、研究へ使う理由として置かれていた。
相手を選ぶ基準がある。
だからよい。
その先で、相手へどこまでの苦しみを与えてよいのかという問いは、彼の筆を止めなかった。
記録が整うと、新しい紙へ目を向けた。
次に確かめたいことを考える。
彼にとっては、新しい発見から研究を進める、いつもどおりの時間だった。
◇
神界へ戻った神々の報告が、アテナのもとへ届いた。
彼女は、一枚目を読み終えたところで手を止めた。
もう一度、同じ箇所へ目を戻す。
謝罪は伝えられた。
ヘルカイザーは、その事情を理解していた。
その上で、研究の対象として神々を連れていった。
アテナは、息を詰めた。
訂正が届かなかったために、交戦が続いたのだろうか。
読み始めたとき、まだ、その可能性を考えていた。
けれど、記された順序は違う。
隊長は、攻撃を止めた。
ゼウスが排除を命じていないと伝え、もう戦わないと答えた。
ヘルカイザーは、それを聞いて、分かったと返事をした。
その後のことだった。
「……どうして……」
声が、紙の上へ落ちた。
知らなかったからではない。
誤りが訂正されず、自分たちを、今も殺そうとしていると考えたからでもなかった。
事情を知った上で、研究へ協力してほしいと告げ、拘束した。
アテナは、震えそうになる指で、続きを追った。
読み進めると、恐怖と絶望の発生量を測定していたという証言があった。
記録の文字が、すぐには、意味のある文章として繋がらなかった。
何を測るために、連れていったのか。
その答えが、今、自分の目の前にある。
アテナは、紙の端へ置いた手を、一度、机へ下ろした。
そのまま読み続けようとしても、行を追う目が止まる。
自分は、命令の誤りを知ってほしいと願った。
彼にとって、神界の全てが、自分を殺そうとした者に見えたままではいけないと考えた。
その訂正には、確かに意味がある。
ゼウスが何を命じ、何を命じていないかを、彼は知った。
けれど、今の報告は、それだけでは止まらない行為があることを示していた。
知らなかった事情を伝えることと、知った上で選ぶ基準を変えてもらうことは、同じではない。
その違いを、自分は、研究室での対話でも知ったはずだった。
それでも、今また、胸へ突きつけられている。
アテナは、目を閉じかけ、もう一度、文字へ視線を戻した。
悲しいからといって、ここで続きを読まないわけにはいかなかった。
何が起きたかを、最後まで知らなければならない。
恐怖と、絶望。
苦しみを生み、そのときに生じるものを確かめていた。
アテナは、かつての研究室を思い出した。
苦しみが和らいだ魂の声。
記録を確かめ、成功だと微笑んだヘルカイザー。
その成果を、二人で喜んだ日。
どうすれば、魂が楽になるのか。
大切な思いまで失わせず、怨みや憎しみから救うことができるか。
そのために、図面を広げ、考えを交わした。
完成したと聞いたとき、自分は、本当に嬉しかった。
今も、その喜びを嘘だったことにはできない。
けれど、手元の報告には、その研究の先で、彼が選んだ別の行為がある。
「……こんなことのために、私たちは研究を始めたのではありません……!」
報告書の上へ、涙が落ちた。
苦しみを取り除くために考えた発明だった。
いま彼は、苦しみを生み出し、そこから得られるものを集めている。
同じ研究の続きとして、同じ笑顔のまま。
アテナは、濡れた箇所を見つめた。
紙にある言葉を、読み間違えたことにはできなかった。
謝罪が伝えられたという記述へ、また目が戻る。
伝えたい訂正は、届いた。
それでも、彼は、この方法を選んだ。
届かなかった言葉さえ届けば、今の行為は起きずに済むのだと、考えることはできなくなった。
アテナは震える手で、報告書を机へ置いた。




