第23話 歪められた命令
神界の記録庫で、一冊の古い指令書が開かれた。
頁を押さえる指の下で、紙が小さく鳴る。
紙の端には、長い年月の間に幾度も読み返された跡が残っている。
新しく任務を引き継いだ神は、そこへ記された名を見た。
『対象――次元神ヘルカイザー』
探されている者の名だった。
本人を見たことはない。
任務に加わる前にも、その名を耳にしたことはある。けれど、どのような声で話し、何を考える者なのかを、自分の経験から語ることはできなかった。
知るためには、残された記録を読む必要がある。
その名を指で辿り、新たに任務を引き継いだ神は、隣の記録へ目を移した。
捜索。所在の確認。発見時の報告。
長く見つからなかった相手を、探し続けている。
その経緯を読み、必要な箇所へ目を留めた。
その先に記されていた目的は、捕獲だった。
しかし、いま手渡された指令には、別の言葉があった。
『発見次第、排除』
二つの記述の間で、視線が止まった。
古い記録と、現在の指令。
長い任務であれば、その途中で指示が変わることもあるのだろう。
新たに任務を受けた神は、そう考えた。
それまでの全てに立ち会っていたわけではない。
だから、目の前で引き継ぐ者へ、今、従うべきものを尋ねた。
「……こちらが、現在の指令なのですね」
「そうだ。以前から引き継がれている」
答えた神の声に、ためらいはなかった。
アテナが研究室から戻り、ゼウスへ報告した日を、彼が知っているわけではない。
答えた神も、最初に命令が下された場に居合わせたわけではなかった。
自分も、任務を引き継いだ。
そのとき、説明を受け、文書を渡された。
それが、上から下された指令なのだと理解してきた。
任務を引き継ぎ、記録を読み、その説明を次の担当者へ渡した。それを何度も繰り返してきただけだった。
そのどこかで、語られる内容が、少しずつ変わっていた。
発見したなら報告する。
捕獲し、連れ戻す。
抵抗した場合には拘束する。
危険な対象を無力化する。
一つの説明には、それらしい理由が添えられた。
対象は、危険な力を持っている。
研究を止めるよう求めても、応じなかった。
アテナの術式さえ、阻んだという。
それを聞けば、発見した際の備えは必要だと思える。
けれど、備える理由があることと、命令の内容が変わったことは、同じではない。
その違いを、引き継ぎのたびに原文へ戻って確かめてはいなかった。
相手は、これまで、その指令に従ってきた。
自分より前に任務を知っている者が、そう説明している。
それが、現在の命令を疑わない理由になった。
長い年月の中で、説明は少しずつ重ねられた。
やがて、捕獲と排除の違いを確かめる者さえいなくなっていた。
新しく加わった者にとっては、初めに渡された指令が、任務の出発点だった。
なぜ、それ以前の表現と違うのか。
いつ、誰が変更を命じたのか。
そこへ戻る前に、まず、今の任務を果たさなければならないと考えた。
説明を渡す者にとっても、自分が命令を作り直しているという意識はない。
聞いたことを伝え、使ってきた文書を渡す。
その繰り返しの先で、一文は、最高神の意思として受け渡されていた。
古い指令書は、すぐそばにあった。
探すこともできない奥へ、失われていたわけではない。
開けば、以前の目的を読める。
その文字と、今の指令の文字が違うことも、目で確かめられる。
けれど、現在の指令だと説明された後、その違いは、変更済みの内容として扱われた。
どちらが古いかを確かめることと、何の根拠で変わったかを確かめることは、別だった。
引き継ぐ者は、今使う文書を手前へ置いた。
先ほどまで読んでいた古い記録は、机の奥へ寄せられる。
文字が消えたのではない。
ただ、実際の行動を決めるときに、参照する紙が変わっていた。
その小さな手の動きの後で、任務の説明は続いた。
今の指令を読み終えた者が、それを持って現場へ向かう。
いずれ、その者が別の担当者へ渡すときにも、自分が使った指令として、この紙を示すのだろう。
何人が従ったかは、その命令を誰が下したかの証明にはならない。
それでも、繰り返し使われてきたという事実が、文書へ、疑いにくい重さを与えていた。
閉じられた古い記録には、捕獲という言葉が残っている。
今、手渡される紙には、排除と書かれている。
その違いを、最高神へ問い直す声は、ここでは上がらなかった。
「最高神ゼウス様の指令だ。間違いのないように」
「承知しました」
指令書が閉じられる。
受け取った神は、その上へ手を置いた。
命じられた相手を探し、見つけたなら、任務を実行する。
そのために、姿と力についての説明を、もう一度確かめた。
小さな白いドラゴン。黒い翼。次元へ働きかける力。
書かれた特徴を、記憶へ留める。
見つかったときに、ためらって取り逃がしてはならない。
その考えの前には、排除すべき相手だという指令が置かれていた。
命令を受け取った神は、疑わなかった。
その命令の主であるゼウスが、変わってしまった一文を知らないことも。
◇
別の世界の上空で、ヘルカイザーは計測を続けていた。
黒い翼を保ち、手元の記録へ目を落とす。
調べるために、こちらへ来ていた。
今、得られた値を、前に確かめたものと見比べる。
「ふむふむ……こちらは、少々違う反応が出ますねぇ♪」
声には、興味深そうな響きがあった。
違う反応があるなら、その理由を知りたい。
同じものを測ったつもりで、何か条件が違っていたのだろうか。
あるいは、まだ見ていなかった働きがあるのか。
ヘルカイザーは、記録の端へ、短く書き添えた。
手元の記録を眺め、次に確かめる箇所を考える。
そのとき、周囲に複数の気配が現れた。
筆を動かしかけた前脚が止まる。
「……おや?」
顔を上げた直後、光が降り注いだ。
白い身体のそばで空間が歪む。
向かってきた光の先が、身体から逸れた。
攻撃は彼を捉えることなく通り過ぎ、遠くで爆ぜた。
光が広がり、遅れて、残った輝きが薄れていく。
ヘルカイザーは、その行き先を一度見てから、現れた相手へ目を戻した。
呼びかけより先に、攻撃が来た。
少なくとも、ただ計測の様子を見に来た相手ではなかった。
ヘルカイザーは、記録を閉じた。
書きかけていた箇所が、閉じた紙の内側へ隠れる。
「おやおや♪ 随分と物騒なご挨拶ですねぇ♪」
前方には、武器を構えた神々が並んでいた。
その中央にいる指揮官が声を上げる。
「対象を確認! 次元神ヘルカイザー!」
名を呼ばれ、ヘルカイザーは、そちらへ顔を向けた。
自分が誰かを知った上で、攻撃してきたらしい。
ならば、何のために来たのかを聞く必要がある。
「ええ♪ 自分に、何かご用でしょうか?」
「貴様には、神界から排除命令が下されている!」
ヘルカイザーは、相手の武器から、顔へ視線を戻した。
排除。
挨拶にしては物騒だと思ったが、その言葉は、さらに踏み込んだものだった。
「……排除、ですか?」
ヘルカイザーは首を傾げた。
神界から去った後、自分へ何が命じられていたかを、彼は知らなかった。
アテナが何を報告し、その後、神々がどのように動いたかも分からない。
今、この相手は、神界の命令だと告げている。
「どなたがお出しになったのでしょうねぇ?」
「最高神ゼウス様の権威に基づく、正式な指令だ!」
懐かしい名前だった。
アテナが自分の研究を報告していたことも、その成果が評価されていたことも覚えている。
その名を、今、自分を排除する命令の根拠として聞いた。
ヘルカイザーは、神々の表情を順に見た。
指揮官だけが、冗談を言っている様子ではない。
周囲の者たちも、武器を下ろさなかった。
正式な指令に従っていると、本気で考えているのだろう。
だからといって、その説明だけで、何も聞かずに応じるつもりはなかった。
「自分は、こちらの世界を少し調べに来ただけですよ♪ 何か行き違いがあるのではありませんかねぇ?」
「黙れ、偽物の神が!」
再び光が走った。
言葉を遮るように、その攻撃が距離を詰める。
ヘルカイザーの前に障壁が広がる。
攻撃はそこで止まり、眩しい光だけが散った。
その向こうで、神々は、なお、武器を構えていた。
ヘルカイザーは、障壁の前へ残った光を見た。
一度目だけが、何かを取り違えた攻撃だったというわけではない。
自分が名乗り、質問した後にも、続けてきた。
「……お話を聞いていただけませんか?」
返事の代わりに、別の方向から攻撃が来た。
彼は小さく身体を傾け、それをかわした。
通り過ぎた光の跡へ、黒い翼が、わずかに動く。
それでも、彼は、すぐに反撃を広げなかった。
何のために来たかは、聞いた。
誰の名による命令なのかも、相手は答えた。
けれど、行き違いではないかという問いには、攻撃が返ってくる。
話をするつもりが、どこまであるのか。
それを、確かめていた。
自分を偽物と呼ぶことは、どうでもよかった。
もともと、自分で作った力だった。
生まれながらの神ではないと言われても、そこへ怒る理由はない。
以前も、同じように呼ばれた。
そのときに何も思わなかった言葉が、今、急に傷になるわけでもなかった。
しかし、研究の手を止めさせられることも、実際に攻撃を受け続けることも、そのままにしておく理由はなかった。
閉じた記録は、まだ、手元にある。
彼は、ここで計測を続けるつもりだった。
その途中へ現れた者たちが、こちらを攻撃し、言葉を聞こうとしない。
侮辱を無視できることと、その行為に対応せずに済むことは、違った。
ヘルカイザーは、中央にいる指揮官へ、もう一度目を向けた。
排除という言葉を、相手が何の意味で使っているのか。
今度は、そこをはっきりと尋ねた。
「皆さんは、本当に自分を殺すおつもりなのでしょうか?」
「当然だ!」
ためらいのない答えだった。
前後へ説明を加える必要さえないというように、強く返ってきた。
ヘルカイザーは、静かに頷いた。
相手が何をするつもりかは、分かった。
話そうとしている間にも攻撃された。
殺す意思があるかを尋ねれば、当然だと答えた。
ここで、なお、同じ質問を重ねる必要はなかった。
「……なるほどですねぇ♪」
黒い翼が広がる。
小さな白い身体の後ろで、その輪郭が大きくなった。
指揮官は、その動きを見た。
それまでの防御と回避が、相手の全てではなかったことを、まだ理解していない。
漆黒の力が空を揺らした。
神々の光は押し返され、隊列が崩れた。
まっすぐ向かっていた攻撃が、狙った先へ届かなくなる。
隣の者との位置を保とうとした神が、思わず身体を引いた。
その動きへ合わせようとして、別の者も構えを崩す。
指揮官は、立て直そうとした。
武器を向け直し、術式を整えようとする。
けれど、立て直そうとした術式も、次元の歪みによって行き先を失う。
形を作れば、目標へ届くはずだった。
その見通しが、今、目の前で成り立たなくなっていた。
「……何だ、この力は……!」
指揮官は、そこで初めて理解した。
記録で読んだ「危険な対象」という説明では、この力の差を測れなかったのだ。
資料には、力を持つと書かれていた。
警戒すべきだと、引き継ぎでも聞いた。
そのため、武器を構え、攻撃に備えた。
けれど、実際に向き合うと、自分たちが組み上げた攻撃の道そのものが、相手の力で変わってしまう。
数を揃えれば、そのまま押し切れるという相手ではなかった。
その理解が、遅れて胸へ届いた。
指揮官は、目の前へ意識を戻そうとした。
相手の白い姿は見えている。
姿を見失い、どこへ攻撃してよいか分からなくなったのではない。
見える相手へ向かうはずの光が、そのまま届かない。
自分たちが保っているつもりの距離も、術式が通る道を保証してはいなかった。
神々の一人が、崩れた位置から、なお、向きを直そうとする。
隣の者も、それへ合わせかけた。
だが、光を整えるより先に、周囲の歪みへ対応しなければならない。
前を向くことと、狙いを定めることが、同じ動作では済まなくなっていた。
攻撃を続けるための手順が、うまく繋がらない。
その間、ヘルカイザーは、荒い声を上げなかった。
自分たちへ、何度も質問していたときと同じ顔がある。
その小さな姿と、隊列を崩した力の大きさが、指揮官の中で、まだ結びつききらなかった。
偽物と呼んだことは、何の役にも立たない。
真正の神であるかどうかを口にしても、今、届かない攻撃が届くようにはならなかった。
相手をどう呼ぶかとは関係なく、対処しなければならない力が、目の前にあった。
白い姿は、まだ前方にある。
距離を詰めればよいのか、離れればよいのか。
一瞬、判断が止まった。
だが、その間にも、隊列は戻らなかった。
「退け! いったん退け!」
指揮官の声が、強く響いた。
神々が距離を取る。
互いの位置を確かめながら、ヘルカイザーから離れていった。
追撃が来るのではないかと、目を離せない者もいた。
それまで、排除すべき対象として見ていた小さな身体が、今は、恐ろしく遠く感じられた。
ヘルカイザーは追わなかった。
遠ざかる武器と、攻撃の止まった空間を確かめた。
向かってくる光は、もうない。
わざわざ、その先まで追いかけるつもりはなかった。
「次は、お話のできる方に来ていただきたいものですねぇ♪」
その穏やかな声を背に、神々は撤退した。
最後まで、彼の声は荒れなかった。
それが、指揮官には、かえって、力の差を感じさせた。
自分たちが命じられたと思っていたことを、そのまま果たせる相手ではない。
退きながら、その事実だけは、はっきりと分かっていた。
けれど、その任務の根拠になった命令そのものが誤っているとは、まだ知らなかった。
◇
研究場所へ戻ったヘルカイザーは、記録へ新しい項目を書き加えた。
計測の続きとは、別に残しておくべきことがあった。
開いた紙の上へ、起きた順に記す。
周囲へ神々が現れた。
名を確認される前に、攻撃された。
その後、用件を聞いた。
神々からの排除命令。
最高神ゼウスの名による正式な指令だと、相手は説明した。
ヘルカイザーは、その記述を、一度読み直した。
自分が直接、ゼウスの言葉を聞いたわけではない。
だが、攻撃してきた者たちは、その命令があると語った。
少なくとも、彼らの行為を決める理由として、それが使われていた。
次の行へ、筆を進める。
対話を試みても、攻撃が止まらなかったこと。
行き違いではないかと尋ねた後にも、武器を向けられた。
話を聞いてほしいと求めたときにも、別の方向から攻撃が来た。
そして、殺す意思があると、相手自身が答えたこと。
そこまで書いてから、ヘルカイザーは、紙を見つめた。
何が起きたかは、記録できた。
次に考えるのは、同じことが起きた場合の対応だった。
また、名を答え、用件を聞き、行き違いを確かめようとする。
その間にも攻撃が続くなら、同じ手順を長く続ける意味があるだろうか。
ヘルカイザーは、今回、話が成立しなかったところを読み返した。
初めに光が来た。
その後で、相手は自分の名を確認した。
こちらが用件を尋ねると、排除命令だと答えた。
起きた順に追えば、どこまでを話し合いのために使ったかが分かる。
その時間に、自分は、計測を続けられなかった。
攻撃を避け、障壁を張り、質問へ返事があるかを待った。
実際に言葉で返ってきたものは、相手の意思を知るためには役に立った。
けれど、その先で攻撃が止まることはなかった。
ヘルカイザーは、そこへ目を留めた。
同じ言葉を繰り返し、同じ防御を続ければ、違う結果へ向かうとは限らない。
少なくとも、今回は、そうならなかった。
ならば、確認した後に選ぶ動きを変える。
彼は、それを、手順の問題として考えていた。
自分が何をすれば、研究へ戻れる状態になるか。
その問いに答えるために、今、起きたことを記録へ並べている。
神界のどこで文書が変わったかを、ここから知ることはできなかった。
相手が正式な命令だと信じていた理由も、本人たちから詳しく聞けたわけではない。
けれど、その者たちが実際にしたことと、殺すつもりだと答えたことは、自分で確かめた。
対応を決めるために使ったのは、その事実だった。
質問へ言葉で答えることがあっても、攻撃を止めて話し合うことにはならなかった。
ならば、相手の意思が分かった後まで、同じお願いを繰り返す必要はない。
「……次も同じでしたら、お話を続けても仕方がありませんねぇ」
声に出してから、対応の条件を考えた。
神を見かけたら、ただちに攻撃する。
そのようなことを書こうとしているのではなかった。
今、記録した問題は、実際に攻撃され、話そうとしても止まらず、殺す意思まで明言されたことだった。
次に同じ状況になったなら、相手が何を望んでいるかを確かめた後、早く対応すればよい。
彼は、対応についての一文を書いた。
『対話が成立せず、攻撃の意思が明確な場合には、早期に制圧する』
書いた文字を、ゆっくりと追う。
それで、次に何をするかが決まった。
同じように攻撃されながら、話を聞いてほしいと長く頼む必要はなくなる。
制圧すれば、少なくとも、その攻撃は止められる。
その先で自分がしたいことは、研究だった。
「これで、研究へ戻るまでの時間も短くなりますねぇ♪」
筆を置き、先ほど中断した資料を広げる。
新しい対応の一文へ、いつまでも意識を留めてはいなかった。
起きたことを記し、次の方法を決めた。
ならば、今は、中断された問いへ戻ればよい。
計測値の並びを見ると、襲撃の直前に気にしていた違いが、思い出せた。
こちらで、少し異なる反応が出た。
その理由を、まだ確かめていない。
ヘルカイザーは、書きかけの箇所を手元へ寄せた。
彼にとっては、起きた出来事を整理し、次の手順を決めただけだった。
その一文が、次に神々と向き合うときの動きを変えることになる。
けれど、今の彼は、それを、無駄を減らすための工夫として眺めていた。
表情には、研究を再開できる明るさが戻っていた。
◇
神界の謁見の間に、重い声が響いた。
「……排除作戦、失敗と申し上げましたか?」
報告者の言葉を聞き、ゼウスはゆっくりと顔を上げた。
長く続いた捜索についての報告だった。
対象が見つかった。
その知らせだけならば、まず、どこにいたかを確かめるところだった。
しかし、続いた説明には、聞き流せない言葉があった。
排除作戦。
ゼウスは、その言葉を、聞き返した。
「はい。対象の力は、想定を大きく上回っておりました」
報告者は、交戦の結果を説明しようとしていた。
こちらの攻撃が届かなかったこと。
力を押し返され、退くほかなかったこと。
想定した以上の危険があったと、告げようとしている。
だが、ゼウスが今、確かめたいのは、そこだけではなかった。
「誰が、排除を命じた」
報告者は、言葉を止めた。
謁見の間が、静かになる。
自分たちが従った任務の名を告げたはずだった。
それを、命令の主であるはずの最高神が、なぜ、そう尋ねるのか。
報告者の顔に、戸惑いが浮かんだ。
「……正式な指令に従ったものですが……」
「その指令を持って参れ」
ゼウスの声は、低かった。
聞いた説明だけで、そこで結論を出すつもりはない。
従ったという文書を、実際に見なければならなかった。
差し出された文書を、ゼウスは読み進めた。
ヘルカイザーの名。
最高神の権威を示す記載。
そして、見覚えのない命令。
『発見次第、排除』
ゼウスの視線が、その一文へ留まった。
紙を持つ指に、力が入る。
自分が命じた内容を、忘れていたわけではない。
所在を確かめ、知らせる。
その上で、捕獲し、連れ戻すための任務だった。
命を奪うことを、命じてはいない。
だが、今、差し出された紙には、最高神の名と共に、その指示が書かれていた。
玉座を叩く音が、謁見の間に響いた。
「わしが命じたのは捕獲だ。命を奪えなどと、いつ命じた!」
報告者の肩が、強張った。
その言葉で初めて、何を問われているかが分かり始めた。
作戦の失敗だけではない。
自分たちが行った作戦の目的そのものを、ゼウスは認めていなかった。
「……ですが、代々この指令が……」
「代々伝えられたからといって、わしの言葉が変わってよいわけではない!」
報告者は深く頭を下げた。
受け取った指令へ従った。
その説明が、命令を正しいものに戻すことはなかった。
長く使われていたから、以前から渡されていたから。
その理由で、最高神が命じていない一文を、命じたことにはできない。
ゼウスは、文書を見つめたまま黙った。
怒りの中で、見失ってはいけないことがあった。
この紙が、いつ、どのように変わったかは、まだ分からない。
目の前の報告者が、初めに変えた者なのかどうかも、ここでは決められない。
しかし、この指令を正式なものと信じた神々が、実際に武器を向けたことは、既に報告されていた。
長く探していた相手が、ようやく見つかった。
その最初の報告が、誤った命令による襲撃だった。
ゼウスは、交戦の説明を思い返した。
ヘルカイザーは、自分に用件を尋ねたという。
排除命令を告げられ、その命令の主を聞いた。
相手は、最高神ゼウスの名を答えた。
その後にも、攻撃が続いた。
彼の側から見れば、何が起きたことになるのか。
研究のために訪れた場所で、神々が現れ、攻撃してくる。
話そうとすれば、最高神による正式な命令だと告げられる。
ゼウスが本当に何を命じたかを、彼が知る手段は、その場になかった。
誤りが文書の中にあるだけでは、もう済まない。
ゼウスは、紙の上へ、もう一度視線を落とした。
一文を書き直せば、文書の誤りを示すことはできるだろう。
しかし、それで、既に向けられた武器が、向けられなかったことになるわけではない。
ヘルカイザーが尋ねたとき、誰の命令だと答えたか。
その返事を、今度はなかったことにはできない。
報告には、彼が最初から襲いかかったとは書かれていなかった。
用件を聞き、行き違いではないかと尋ね、それでも攻撃が続いたという。
その点を、相手の危険さだけで覆ってはいけなかった。
力が強かったことと、どちらが何をしたかは、異なる話だった。
ゼウスは、文書を持ち直した。
頭を下げた報告者は、まだ、その場にいる。
長く続いた任務を、引き継いだと語った相手だった。
どこで、何が変わったのか。
その問いは、ここから確かめる必要がある。
だが、その前に、今知らされた出来事を、誰へ伝えなければならないかがあった。
その言葉は、攻撃と共に、本人へ届けられてしまった。
ゼウスは、手元の一文から、目を離せなかった。
アテナは、見つかったなら知らせてほしいと願っていた。
その願いを、自分は聞いた。
長い間、成果のない報告を伝え続けても、彼女は、なお、探したいと答えた。
ようやく、その相手が見つかった。
けれど、その知らせを、ただ再会への希望として渡すことはできなかった。
彼女が止めようとし、それでも大切に思っている友人へ、神々は、最高神の名で殺意を向けた。
ゼウスは、顔を上げた。
「……直ちにアテナを呼ぶのだ」
再会への知らせを待ち続けていた女神へ、何を伝えなければならないのか。
ゼウスの手の中で、指令書の端が静かに折れた。




