第22話 深まりゆく漆黒
漆黒の研究空間には、絶え間なくマイナスエネルギーが流れ込んでいた。
流れは、ヘルカイザーが資料を読んでいる間にも続いている。
前の記録を取り出し、必要な箇所を探す。その紙へ視線を落としている間にも、奥には、新たな力が集まり続けていた。
ヘルカイザーは、顔を上げた。
小さな白い身体の前へ、幾つもの計測値が並んでいる。
どこから見直すべきかを考え、まず、比較に必要なものを手元へ寄せた。
「ふむふむ……なるほどですねぇ♪」
ヘルカイザーは計測値を並べていた。
生きる者が抱く怒り、悲しみ、絶望、憎しみ。
それらは多くの世界で生まれては消える。
彼は消え去る前の力を捉え、自分へ集め続けていた。
一つの世界だけを見ていれば、その中で変わるものがある。
同じ場所でも、いつも同じ量が生まれるわけではない。
だから、あるとき確かめた数値だけを、そのまま全ての説明に使うことはできなかった。
ヘルカイザーは、条件について記した箇所へ目を向けた。
何を見て、どのように確かめたものなのか。
そこを揃えなければ、比べてよいものかが分からなくなる。
研究を進めるために、確かめるべきことは多かった。
ヘルカイザーは、並べた紙を、一度、手前から順に読み直した。
最初の記録では、気にしていなかった違いがある。
後から必要だと分かり、書き添えるようになったこともあった。
だから、古い記録に説明がないことを、そのまま、違いはなかったという意味にはできない。
当時は、そこを確かめていなかった。
それならば、今、確かめるための方法を考えればよい。
彼は、その箇所へ短い注記を残した。
すぐに答えを出せないからといって、失敗だったとは思わない。
何を知らないかが分かれば、次に向かう先ができる。
そうした作業を重ねていると、机の上は、見るべき箇所を開いた紙で埋まっていった。
ヘルカイザーは、少し身を引き、その全体を眺めた。
片側だけへ置くと、比較したいものが見えなくなる。
必要な二枚を近づけ、別の記録を奥へ寄せた。
その小さな配置を変えるだけでも、読み進めやすくなる。
彼は、楽しそうに、次の行へ目を移した。
目の前にあるのは、実際に確かめた結果だった。
ただ、集まる量が増えたという記録には、魂がどのように感じているかの全てまでは書かれていない。
それを知りたいなら、別の問いが必要になる。
今の彼が、ここへ並べているのは、蓄積を調べるために選んだものだった。
その資料から、次の蓄積の方法を考える。
記録を丁寧に読むことと、どの問いを優先しているかを見直すことは、同じではなかった。
彼の手元で、注記が、また一つ増えた。
調べ方は詳しくなっていく。
その詳しさの中で、今、最初に確かめたいのは誰の状態なのかという問いは、前へ出てこなかった。
けれど、それを面倒だと避ける様子はない。
違う数値が現れれば、どうして違ったかが気になった。
同じような結果が続けば、そこへ共通するものを考えたくなる。
集まっているという事実から、さらに何を知ることができるか。
彼の関心は、次々に、その先へ移っていった。
以前の目的は、苦しむ魂を救うこと。
今の興味は、どれだけ多く蓄積できるかという問題そのものだった。
本人の中では二つは矛盾していない。
だが、他者が苦しむ過程に向ける目は、もはや以前と同じではなかった。
紙へ並ぶのは、集められた力についての記録だった。
どれだけ増えたか。
どのような働きが確認できたか。
その数値を見ていると、次に試したいことが浮かぶ。
その元に、苦しむ者がいるということを、知らないのではない。
自分が何を集めているかは、理解していた。
けれど、今、その苦しみについて考えるときには、そこから得られる力へ目が向く。
苦痛があることを知る。
その中で生まれるものを捉える。
そして、どれだけ集められたかを確かめる。
そうして、研究の記録が増えていった。
初めて貯蔵庫が完成した頃には、魂の言葉へ耳を傾けた。
苦しくないと聞き、その変化を確かめ、成功を喜んだ。
彼は、その日のことを覚えている。
だから、今の研究も、その続きなのだと考えられた。
自分は、同じ研究を進めている。
より多く集めることができれば、より広い範囲へ、その働きを及ぼせる。
その説明は、彼の中で自然に繋がっていた。
ただ、机へ向かう彼の視線は、救われた魂の一つひとつよりも、集まる量を追っている。
どちらを先に知りたいかと考えれば、今、興味を引くのは、そちらだった。
ヘルカイザーは、一枚の記録を手前へ引いた。
前に確かめたときから、蓄積量は増えている。
その変化を、一度で見渡せるように並べ直した。
増え続ける。
そのことを、ただ当然の結果として見過ごすつもりはなかった。
集まる仕組みがあるから増える。
では、どこまで増やせるのだろう。
記録を追っていた目が、そこで止まった。
今ある値が大きいことと、その先に限界がないことは、同じではない。
まだ確かめていない先について、分かったことのようには書けなかった。
だからこそ、調べてみたいと思った。
「さてさて♪ 限界というものがあるのでしょうかねぇ♪」
問いかける声には、楽しさがあった。
限界があるのなら、それは何によって定まるのか。
まだ分からないのなら、どのような方法で確かめるのか。
ヘルカイザーは、空いている紙を手元へ置いた。
問いを書き、その下へ、思いついた手順を並べる。
すぐに答えが出るとは思っていない。
ただ、最初にどこを見ればよいかを考え始めることはできた。
彼は新しい実験を思いつき、喜んで筆を走らせた。
書いてみると、まだ説明が足りないところも見えた。
そこへ印をつけ、前の記録を開き直す。
確かめられていることを土台にして、その先へ進む。
その作業には、研究者としての丁寧さが残っていた。
分からないものを知りたいという欲求も、少しも弱まってはいない。
だから、自分が危うい方向へ進んでいるとは考えなかった。
膨大な力が自らへ流れ込んでも、その先に起こることを恐れる様子はない。
アテナが見せた資料を、忘れたわけではなかった。
長く流入すれば、価値観に影響を与える。
彼女は、そのことを調べ、伝えた。
けれど、今、自分が出した答えは、自分で考えたものだった。
研究を重ね、記録を読み、方法を検討して、ここへ辿り着いた。
彼は、その実感を疑っていなかった。
丁寧に考えたことが、答えそのものの正しさまで保証するわけではない。
しかし、彼の意識は、自分の判断を見直すことへは向かわなかった。
どう進めるかを考える。
どこを確かめれば、さらに多くを集められるかを考える。
そのために使う知恵が、また、新しい紙へ形を与えていく。
ヘルカイザーは、書いた手順を読み直した。
考えかけた箇所へ戻り、もう一つ、記述を加えた。
机の奥では、漆黒が動き続けている。
彼が筆を止めても、流れが止まるわけではない。
その音のない変化を、彼は、見慣れた研究の光景として眺めた。
白い身体が、そちらへ向く。
浮かんでいるのは、いつもの笑顔だった。
◇
神界でアテナは、古い貯蔵庫の設計図をゼウスに見せていた。
初めて事情を説明したときにも、同じ構造を示した。
あれから捜索は続いている。
けれど、本人のいる場所は分からない。
そのため、今ここで確かめられるのは、手元に残された記録だった。
彼女は、机へ紙を広げた。
折れていた端を伸ばし、接続が描かれた箇所を、ゼウスの見える向きへ動かす。
その線を、今は、迷わず示すことができる。
気づいた日に、何度も目で辿ったところだった。
それでも、容易に口へ出せる説明にはならなかった。
「……この装置が、少しずつ彼へマイナスエネルギーを流していました」
アテナの指が、接続の上へ留まる。
魂から取り去ったものを、別の空間へ移して蓄える。
そのための装置だった。
だが、その貯蔵庫は、ヘルカイザー自身の次元神の力と繋がっている。
装置が働く仕組みを理解するだけでは、足りなかった。
その繋がりを通って、何が彼へ届くかまで、確かめる必要があった。
アテナは、図面の隣へ、流入の記録を置いた。
ある時点で、わずかな量だった。
それだけを見れば、見過ごしてしまうかもしれない。
けれど、長い稼働時間がある。
その間に、貯蔵量も増え続けた。
一度の計測と、続いていた流れを、同じものとして扱うことはできない。
そのことを、記録を追いながら説明した。
ゼウスへ紙を渡す前に、アテナは、前後の頁も開いた。
一行だけを示せば、そこで急に大きな変化があったように見えるかもしれない。
けれど、調べたのは、長く続いた流れだった。
ある日だけの異常を直し、何もなかったときへ戻るという話ではない。
そのことを伝えるため、古いものから順に並べた。
アテナが知っているのは、手元へ残っている記録と、本人から聞いたことだった。
今、彼がどれほど集めているかを、ここから確かめられるわけではない。
自分が止めようとした日に、流入量が増えていた。
研究室へ向かい、その実験をしていると、本人の口から聞いた。
その後、彼は、止めることなく去った。
だから、危険は続いていると考える。
けれど、今の計測値を持っているかのような説明はしなかった。
そこが分からないから、捜索が必要だった。
アテナは、示した記録へ、もう一度目を落とした。
手元の紙を何度読んでも、それが最新の彼の状態を示すものに変わることはない。
自分には、そこまでしか分からない。
その限界も含めて、ゼウスへ伝える必要があった。
ゼウスは、アテナの示した箇所へ目を向けた。
姿を消した者を探すための資料とは、別の紙だった。
どこにいるかではなく、なぜ、その判断へ至ったかを考えるための記録が、目の前にある。
「……それがお主の言う、価値観の変質の原因なのだな」
「はい。そして、もう元へ戻す方法はありません」
アテナは、言い終えるまで、資料へ添えた手を動かさなかった。
以前に語った結論を、繰り返している。
繰り返せるようになったからといって、その意味が軽くなったわけではない。
同じ言葉が、今も胸へ重かった。
ゼウスは深く目を閉じた。
アテナは、返事を待った。
図面の線は、静かに机の上へ広がっている。
貯蔵庫を完成させたとき、この接続を見て、自分たちは成功を喜んだ。
実際に、救われた魂がいた。
その事実は変わらない。
けれど、そこから彼自身へ流れ込み、変化が積み重なっていたことも、同じ記録の先にある。
成功だったか、失敗だったかと、一言で済ませることはできなかった。
アテナは、紙をもう一枚、手元へ寄せた。
長く負のエネルギーが浸透した場合について、調べた資料だった。
微細な影響が、考え方の重心を変える。
やがて、自分が当然だと考える基準そのものへ及んでいく。
その変化を、本人が研究の進歩だと理解する可能性についても、確かめた。
ヘルカイザーは、自分で考えた答えだと語った。
アテナには、その声が、今も思い出せた。
以前の彼と違う何かが、外から代わりに喋っていたのではない。
彼自身が理解し、判断し、続けると答えた。
そこが、何より悲しかった。
アテナは続ける。
「……それでも、研究をやめるわけにはいかないのです。なぜ変化したのか、どうして止められなかったのか……私には、調べる責任があります」
その言葉の後、少しだけ息を整えた。
自分が一緒に喜んだ研究だった。
気になることがあれば、意見を伝えてきた。
その中で、何を見て、何を見ていなかったかを、確かめなければならないと思っていた。
ただ、悲しかったという記憶だけで、終わらせたくはなかった。
どうして気づけなかったのか。
どの記録に、どのような兆しがあったのか。
気づいたときには、既に何が変わっていたのか。
その問いへ、知っている範囲で答えを残す必要があった。
アテナは、資料の端を指で揃えた。
思い返すと、救われた魂の声を聞いたとき、自分たちは、本当に喜んでいた。
その喜びを責めるために、調べているのではない。
魂が楽になったことを、後から間違いへ変えるつもりもなかった。
同じように、後に危険が分かったから、初めから何も考えていなかったのだと書くこともできない。
失わせてはいけないものについて、二人は話し合った。
考慮したことがある。
その上で、まだ見ていなかったところがあった。
それを確かめなければ、なぜ止められなかったかという問いにも、答えられなかった。
アテナは、初期の構造図を、流入の記録の隣へ戻した。
装置は、目的の働きをしていた。
だからといって、その装置へ繋がる彼自身の状態まで、問題がないと結論づけてよかったわけではない。
ヘルカイザーは、稼働に問題がなかったと答えた。
自分は、装置だけの問題ではないと伝えた。
その対話で、初めて、互いがどこを見ていたかを、はっきり知った。
もっと早く同じ問いを向けていればと、今も考える。
けれど、ここへ残すべきなのは、その後悔の強さだけではなかった。
何を確認したために安心し、その確認では何が分からなかったのか。
その違いを、言葉にしておかなければならなかった。
アテナは、自分が持ってきた資料を、改めて見渡した。
大切な友人についての記録だった。
だからこそ、都合のよい説明へ変えてはいけないと思った。
彼女は、自分が友人を元に戻せると信じているわけではなかった。
分かったことを、そのまま確かな事実として認めようとしていた。
調べ続ければ、望んだ結論へ辿り着けるはずだと、自分へ約束するつもりはない。
以前の価値観へ戻す方法がないという事実を、調査を続けることで消せるわけではなかった。
それでも、原因を知ることと、過ぎた変化を元へ戻すことは、同じではない。
戻せないのなら、何が起きたかも調べなくてよい。
そのようには、考えられなかった。
アテナは、構造図から手を離した。
机の上へ、指先が落ち着く。
この図面を読む自分の手を、ヘルカイザーが見ていたときのことを思い出した。
彼は、どのように働くかを説明した。
自分は、それを理解しようとした。
その時間が、今の調査にも残っている。
当時知ったことがあるから、どの接続を確かめるべきかを考えられる。
けれど、知っていたのなら、なぜそのときにと思う気持ちも、同時に生まれる。
アテナは、目を伏せた。
調べることと、自分を責めることが、いつも明確に離れているわけではなかった。
記録を読んでいるつもりで、同じ後悔へ戻ることがある。
この線へ気づいていたなら。
この流れを、もっと早く調べていたなら。
そう考えても過去は変わらないと分かっていながら、指が、同じところで止まる。
ゼウスは、開かれた資料と、アテナの顔を見た。
言葉にした責任の重さを、そのまま全て、彼女一人へ置いてよいとは思わなかった。
ヘルカイザー自身が選んだ行為もある。
交流を妨げた神々の行為もあった。
彼が自分で止めなかった研究を、アテナが力でも止められなかった。
その全てを、彼女一人が過去へ戻って直せるはずだったという話にはできない。
「アテナよ。全てを一人で背負うでないぞ」
アテナは、ゆっくりと顔を上げた。
声には、叱責だけではないものがあった。
調べることを、無意味だと言われたのではない。
彼女が何を大切にし、なぜ、ここへ資料を持ってきたかを聞いた上で、その言葉が向けられた。
アテナは、すぐに、もう大丈夫だとは答えられなかった。
心配をかけていることは、分かる。
けれど、自分が関わった研究だったという思いも、簡単には消えない。
その両方があるまま、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
ゼウスの前で、アテナは、もう一度、資料へ目を向けた。
今、示しているのは、確認できた記録だった。
そこへ、自分がもっとよい友人であれば必ず防げたはずだという、証明できない結論を加えてはいけない。
そのことを、改めて考えた。
自分が知らなかったことはある。
気づくのが遅れたことも、つらい。
けれど、知っている事実と、願いを含んだ仮定を、同じ記述にしてしまえば、何が起きたかを見失う。
最初に調査を始めたときから、気をつけていたことだった。
今も、その問いへ戻らなければならなかった。
アテナは、開いた紙を、順に揃えた。
結論を、変えない。
分からないところを、分かったこととして埋めない。
その上で、確かめられるところへ、知恵を向けていく。
今日は、そのことを、ゼウスにも伝えたかった。
机の上に残った構造図へ、最後に、もう一度目を向ける。
同じ線から、装置の働きも、彼へ届く流れも辿れる。
その両方を見なければならないという理解は、もう、手放せなかった。
アテナは、紙をそっと閉じた。
図面が閉じられても、調べたことがなくなるわけではない。
胸の後悔が消えることもなかった。
それでも、今確かめたことを残し、次に読むべきものを考える。
彼女は、そのために、資料を持ち帰るつもりだった。
◇
別の場所では、ヘルカイザーが古い噴水の図面を手に取っていた。
先ほど考えていた実験の記述から、少し目を離したときだった。
揃えた紙の間に、見覚えのある図が見える。
彼は、それを引き出した。
今の研究とは、扱っているものも、規模も違う。
それでも、そこへ描かれた工夫は、読むとすぐに思い出せた。
どこを変え、どのような動きを考えたか。
何を確かめようとして、どこで予想と違ったか。
ヘルカイザーは、線を追った。
アテナと見比べた箇所へ、視線が止まる。
このときは、こちらを変える方法を考えていた。
今、改めて見ると、別の工夫も思いつく。
古いものだから、全て完成した答えとして置いておく必要はない。
当時の発想へ敬意があっても、さらによくできるところを考えることはできる。
それは、アテナと楽しんだ時間にも、あったことだった。
彼女が何かを示す。
自分が、それを見て、別の案を出す。
その返事を聞いて、また、考える。
ヘルカイザーは、紙を少し傾けた。
新しく思いついた工夫を、彼女ならどう見るだろう。
自分が気づいた利点を、同じように面白がるだろうか。
それとも、別のところへ目を留めるのだろうか。
「……アテナさんでしたら、こちらの改良案をどう思われるのでしょうねぇ♪」
少しの間、楽しそうに思い出す。
問いかける相手の姿は、ここにない。
けれど、その問いを口にしたこと自体を、不快には思わなかった。
今も、彼女の知恵を認めている。
自分とは違う見方があることも、その見方が、新しい工夫へ繋がったことも覚えていた。
最後に意見が合わなかったからといって、過去の全てを価値のないものへ変えるつもりはなかった。
その図面を、破ったり、捨てたりする理由もない。
懐かしいものとして眺めることができる。
同時に、今読んでも考える余地のある、研究の記録でもあった。
ヘルカイザーは、思いついた箇所を、もう一度確かめた。
すぐに答えを決めず、図の前後を追う。
どの部分を変えると、ほかへ影響するか。
彼は、その小さな仕組みを、しばらく楽しんだ。
だが、彼は研究をやめない。
古い噴水の図面を開いたからといって、今進めている集約の構想を、誤りだと思うことはなかった。
アテナの意見を思い浮かべることと、最後の頼みを聞き入れることは、繋がらない。
彼女は、研究をやめてほしいと願った。
その理由も、聞いた。
自分のことを心配していたことも、分かっている。
けれど、研究が完成すれば、より多くの魂を救える。
自分が引き受ければ、ほかの者たちは苦しまずに済む。
彼は、その答えを選んでいる。
そこを、懐かしさだけで変える理由は見つからなかった。
ヘルカイザーは、噴水の図面を、元の位置へ戻した。
角が折れないように、ほかの紙へ揃える。
その手が止まったのは、ほんの短い間だった。
噴水の図面は、手を伸ばせば、また開けるところにある。
それでよかった。
眺めたくなれば、取り出せる。
思いついた工夫も、そのときに考えればよい。
けれど、そのために、目の前の実験の案を、閉じてしまう必要はない。
ヘルカイザーは、机の手前へ、身体の向きを戻した。
先ほどまで考えていた箇所へ視線を置くと、途中だった問いが、すぐに戻ってくる。
記憶の中の対話は、そこで、続きのないものとして脇へ置かれた。
実際の返事を待っていたのではない。
アテナならどう思うかと考えることはできても、ここで答えてくれる相手はいなかった。
そのことを、彼は知っている。
それでも、今の研究を進めるために、彼女の返事を必要とはしなかった。
自分で確かめる方法を考え、実験を組むことができる。
その先に、まだ、知りたいことがあった。
机の手前には、まだ、書きかけた実験の案がある。
限界はあるのか。
自分が問いにしたものへ、視線が戻った。
貯蔵庫の奥で黒い流れが脈打ち、数値は今日も増え続けた。
彼は、今の記録と、立てた手順を見比べる。
この段階で確かめたいことは、何か。
まだ分からないものを、どうすれば知ることができるか。
目の前の問題に向かうと、考えることは、次々に現れた。
その笑顔は昔と変わらない。
世界を平和にしたいという言葉も、まだ彼の中には残っていた。
けれど、彼がその言葉に結びつける行為は、もはや昔の発明家のものではなかった。
苦しむ魂を見て、今、何を優先するか。
どこまでを、目的のために選ぶ価値のある方法とするか。
その基準が変わった後にも、研究を楽しむ顔は残っている。
思い出を大切にする気持ちも、消えてはいなかった。
だから、本人には、その変化を、自分が失われたこととして捉える理由がなかった。
自分で考え、選び、続けている。
その実感のまま、彼は、次の検討へ進んだ。
アテナの机では、古い接続が、変化の原因として示されている。
ヘルカイザーの机では、その接続を使うための案が、研究の続きとして書かれている。
どちらも、同じ仕組みを見ていた。
けれど、片方は、なぜ止められなかったかを問う。
もう片方は、さらにどこまで進められるかを問う。
相手の考えを、今ここで尋ねる声はない。
それぞれの資料へ、違う問いが向けられていた。
アテナは、もう元へ戻す方法はないと、知っていることを語った。
その事実を認めても、原因を調べることまで終わらせるつもりはなかった。
ヘルカイザーは、まだ、知らないことがあると考えた。
その未知を、集めることを控える理由にはせず、実験を考える理由にしていた。
同じように知恵を使い、資料を読み、答えを求めている。
かつて二人を近づけた営みが、今は、同じ結論へ結びつかない。
ヘルカイザーは、筆を動かした。
新しく加えた一行を読み、満足そうに頷く。
奥では、流れが続いている。
研究の記録は、また一つ増えた。
ヘルカイザーの研究は、まだ終わらない。
そして、彼を取り巻く漆黒は、静かに、確実に深まり続けていた。




