第21話 失われゆく年月
月日が流れた。
最初の頃、アテナは、新しい捜索報告が届くたび、その日付へ目を向けていた。
前の知らせから、どれだけ経ったか。
その間に、どこまで調べられたのか。
一枚の紙を開く前にも、いくつものことを考えた。
見つかったなら、知らせてほしい。
そう頼んだときの自分の声と、ゼウスの返事を、何度も思い出した。
けれど、所在の判明を告げる紙は、届かなかった。
調べた先が増える。
以前の報告を読んで、次の捜索が行われる。
その繰り返しの間に、一つの報告だけでは辿れないほど、記録が積み重なっていった。
神界では捜索担当者が交代し、かつてヘルカイザー本人と話したことのない神々まで、その名を記録の中で読むようになっていた。
新しく捜索に加わる者は、まず、それまでの資料へ目を通した。
何者を探しているか。
何が起き、なぜ、所在を確かめる必要があるのか。
そこには、ヘルカイザーの姿や力についての説明があった。
小さな白い身体と、黒い翼。自ら神に近い力を作り上げたという来歴。次元へ働きかける力。
けれど、その記述から思い浮かべる姿と、実際に彼へ会った者の記憶は、同じにはならなかった。
資料を読む者は、彼の声を知らない。
新しい仕組みを説明するとき、どの箇所で楽しそうにするかも、分からない。
図面を覗き込む相手へ、どのように顔を向けるかも、記録だけでは伝わりきらなかった。
作られた神。偽物の次元神。危険な研究者。
さまざまな呼び名が増えた。
来歴を示す言葉も、起きた出来事への警戒を示す言葉も、その名の前へ添えられた。
資料を短く説明するときには、それらが先に口にされることもあった。
しかし、どの記録にも彼の現在地は記されていない。
新しい担当者が加わっても、そこから読み進めた先で、同じ空白へ辿り着く。
帰ると告げた場所は分からない。
調べた世界に、その姿はなかった。
かつて本人に会った者が持つ知識も、その空白を埋めるには足りなかった。
捜索のための説明が増えても、行き先を示す情報が増えたわけではなかった。
アテナは、その違いを、報告を読むたびに考えた。
知っていることを、伝える必要はある。
彼がしたことを、小さく扱うつもりもなかった。
けれど、呼び名を重ねただけで、彼を知ったことにはならない。
とりわけ、偽物という言葉を目にすると、指が止まった。
その呼び方で彼が傷ついたのだと考えれば、分かりやすい説明になるのかもしれない。
だが、実際に見た姿は、違う。
彼は、本当に気にしていなかった。
自分で作った力だから、そのとおりだと答え、研究の話へ戻った。
アテナは、そのことまで、後に起きた事件へ合わせて変えたくはなかった。
何が原因で、何を彼自身が選んだのか。
その問いを、知っている事実から離してはいけない。
初めて調査のために机へ紙を置いたときと同じように、彼女は、そのことを確かめた。
捜索担当者が変わると、報告に使われる言葉の調子も、少しずつ変わった。
見慣れていた筆跡ではない文字が、紙に並ぶ。
同じ場所について述べられていても、何を先に書くかが違う。
アテナは、その一枚を、以前の記録と照らし合わせた。
慣れた書き方でないから読みにくいと、閉じてしまうことはしなかった。
調べた内容を知るためには、今、ここに書かれたことを読む必要がある。
その手順を重ねるうち、最初の捜索に加わっていた者が、今は担当していないという事実にも、少しずつ慣れていった。
慣れたから、平気になったのではない。
同じ相手から返事が来ると思っていた頃とは違う形で、捜索が続いているのだと知った。
始まった日のままではいられないほど、時間が過ぎている。
アテナは、古い紙と新しい紙を、机へ並べた。
探す相手の名は、どちらにも同じように書かれている。
その下に続く所在だけが、今も分からなかった。
紙を重ね直すと、古いものの端が、少しだけ外へ出た。
アテナは、それを指で揃えた。
何度も開いた箇所には、手を添えた跡がある。以前から確かめていたところへ、自然に指が向かう。
新しい報告を読むときにも、その癖は残っていた。
まず、結果を見る。
次に、調べた範囲と、それまでの記録を比べる。
どの箇所を先に確かめるかを迷わなくなったことが、アテナには、ふと悲しかった。
最初は、一枚を開くたび、息を詰めて全てを読んだ。
今も大切に読んでいる。けれど、結果の見つからない報告を読む手順そのものには、慣れてしまった。
彼がいない日々へ、自分も、そのように馴染んでいる。
そのことに気づくと、すぐに次の紙へ進めなくなった。
悲しんでいないわけではない。
待つことをやめたわけでもない。
それでも、今日の執務があり、読まなければならない資料があり、次の日が来る。
その日々を過ごす自分を、彼は知らないのだった。
ゼウスの前へ出るときにも、彼女は、その報告を手にしていた。
かつて宮殿で全てを説明した日のように、初めから経緯を話す必要はない。
ゼウスは、何があったかを知っている。
それでも、言葉を待つ間、アテナの胸は静かではなかった。
何か新しいことが分かったのではないかという期待を、完全にはなくせなかった。
「……まだ、見つからぬ」
ゼウスの声には疲労がにじんでいた。
アテナは、その短い言葉を聞いた。
捜索が続いている間、ゼウスも、報告を読み、判断を重ねている。
命じて終わった話ではなかった。
どれほどの場所を探しても見つからないという結果が、ここにも積み重なっていた。
アテナは静かに頷く。
「……はい。それでも、探したいのです」
声にすると、その願いが、今も自分の中にあることを、改めて知った。
最初の日から、一度も疲れずに待っていたわけではない。
報告を読む手を止め、しばらく紙を見つめたままになる日もあった。
どこを探せばよいか分からないのなら、これ以上、何ができるのだろうと思うこともあった。
けれど、探さなくてよいとは、答えられなかった。
彼女が守り続けていたのは、単なる美しい思い出ではない。
ヘルカイザーが犯した罪も、人格が完全に変質してしまった事実も、すでに理解していた。
その上で、いつかもう一度、彼自身に間違いを伝えたかった。
ここまで時間が経ったから、過去の行為を忘れてよいとは思わない。
会えない間に、今の研究を認められるようになったわけでもなかった。
最後に見た姿を懐かしむときにも、その前の対話を思い出す。
より多くの魂を救えるなら、誰かが苦しむ方法にも価値がある。
彼は、そう答えた。
自分は、認められないと伝えた。
その返事は、年月の中で取り消されてはいなかった。
アテナは、手元の資料を抱え直した。
彼がどこで何を考えているかを、想像だけで決めるつもりはない。
分からないからこそ、所在を知りたかった。
また会えたなら、自分の願いを語るだけでなく、彼自身の答えを聞かなければならない。
そして、認められないことは、その場でも伝える。
そのために、まだ、探したいと思っていた。
ゼウスのもとを離れた後も、新しい居場所が分かったわけではなかった。
アテナは、来た道を戻った。
足を止めれば、そこから研究室へ向かった日を思い出す。
あの日は、行く先があった。
今は、同じように歩き出しても、彼のいる扉へ辿り着くことはできなかった。
◇
庭園の噴水は修繕を重ねながら、今も水を流している。
アテナは、近くまで歩み寄り、しばらく、その様子を見ていた。
水が上がる。
弧を描き、光を返しながら落ちてくる。
同じ仕組みで流れ続けているように見えても、何も手を加えず、ここまで残ったのではなかった。
直されたところがある。
保たれてきたところがある。
そのことを知っているからこそ、アテナには、流れる水が、過ぎた時間を示しているように思えた。
二人でここへ目を向けたときから、今日まで。
自分が訪ねない日にも、水は流れ、そのための手入れが行われてきた。
ヘルカイザーがいない時間の中で、神界の日々は続いていた。
アテナは古い資料を開いた。
手に馴染んだ紙だった。
何度も読んだため、どの箇所に何が書かれているかを、ほとんど覚えている。
それでも、文字を見ず、記憶だけで済ませたいとは思わなかった。
彼が書いたものが、ここにある。
そのことを、目で確かめたかった。
『こちらの水路を変更すれば、もっと良い結果が得られそうですねぇ♪』
懐かしい筆跡を読むと、小さな白いドラゴンが目の前で笑う姿を思い出す。
説明するとき、彼は、楽しそうに図を示した。
ここから水が通り、その先で動きが変わる。
分かると、別の疑問が浮かんだ。
尋ねれば、彼も考え、二人で図面を覗き込んだ。
アテナは、紙の端を押さえた。
噴水の音を聞きながら読むと、文字の間へ、あの頃の声が戻ってくるようだった。
研究に失敗した時も、彼は楽しそうだった。
思ったとおりに動かなかったことを、全て無意味だったと捨てるわけではない。
どうして、そうなったのか。
それを確かめれば、次に考えられることが増える。
彼は、その過程も、面白がっていた。
成功すれば、さらに面白いことを考え始めた。
完成したものを眺めて終わるのではなく、そこから使える別の工夫へ目が向く。
その速さに、アテナが驚くこともあった。
聞いているうちに、自分にも案が浮かんだ。
それを伝えると、彼は、真剣に耳を傾けた。
かつての図面には、そのやり取りが残っている。
初めに引いた線だけでなく、考え直して加えたものがある。
言葉を交わした後の、自分たちの理解が、そこにある。
アテナは、その一つへ指を添えた。
今、この紙に新しい注記を加えるなら、どのような答えが返るのだろう。
そう考えかけてから、指を止めた。
今の彼を、以前の返事だけで思い浮かべるわけにはいかない。
研究室で、自分が差し出した資料を、彼は読んだ。
そのときも、理解を喜び、感心してくれた。
けれど、その先で、選ぶ方法は違っていた。
アテナは、目の前の噴水へ視線を向けた。
同じ思い出を持っていることと、今も同じ答えを選べることは、違う。
それを、あのときほど痛く知ったことはなかった。
「……ヘルカイザーさん」
名前を呼んでも返事はない。
水音だけが、変わらず続いた。
アテナは図面を閉じた。
紙を揃える指が、少しだけゆっくり動く。
以前は、閉じるときに、次に聞くことを考えた。
ここまで読んだから、明日は、その続きを話したい。
そのように、図面の終わりが、次に会う約束へ繋がっていた。
今は、閉じた後にも、持ち帰る相手は自分だけだった。
アテナは、資料を抱え、庭園を離れた。
執務室へ戻ると、机の上には、まだ別の紙がある。
彼女の研究机には、二人で作った貯蔵庫の古い構造図と、負のエネルギーが魂へ与える影響を記した調査資料が残っている。
噴水の図面を、そっと置いた。
その隣に、貯蔵庫の構造図がある。
楽しかった時間だけを残し、それ以外を見えないところへしまっているのではなかった。
完成したとき、何を喜んだか。
その後、どのような接続から、何が起きたか。
両方を、読み返すことができるようにしてあった。
アテナは、構造図を開いた。
初めて、その繋がりの意味に気づいた日の衝撃を、覚えている。
見慣れていた線だった。
装置が働くための仕組みとして、何度も考えたところでもある。
そこを、彼自身へ何が届くかという問いから見直したとき、別の意味が現れた。
どうして、もっと早く、その問いを向けなかったのだろう。
アテナは、流入の記録へ手を伸ばした。
ここにも、手がかりはあった。
装置が動いていることだけを確認して終わらず、その流れが何をもたらすかを、調べていたなら。
その考えが浮かぶと、目の前の紙が、ひどく重く感じられた。
読み返すたびに、後悔の形が少しずつ変わっていった。
初めの頃は、回廊で止められなかった光景が、何より強く胸へ迫った。
もっとはっきりと言えば。
あのとき、別の言葉を選べていたなら。
やめてほしいと訴える自分の声を、何度も思い返した。
やがて、考える先は、その前の日々へも向かった。
庭園で資料を見せられたとき、回収量を気にしていることへ、違和感を覚えた。
自分は、魂そのものを見てほしいと伝えた。
彼は、そのとおりだと頷いた。
そこで安心せず、何を考えているかを、もっと尋ねていたなら。
その問いを考えると、今度は、会えなかった日々が戻ってきた。
手紙を託したこと。
都合が合わないと聞き、待つことを選んだ日。
それらが、誰かの嘘によって変えられていたと知ったとき、アテナは、ひどく怒った。
今も、その行為を許してはいない。
けれど、怒りがあるから、自分への問いが消えるわけではなかった。
もっと早く気づけたなら。
会う機会を奪った神々の悪意を見抜けたなら。
あの装置を停止できていたなら。
アテナは、机へ肘をつきかけ、ゆっくりと姿勢を戻した。
どの問いにも、確かめられない続きがある。
会えていたなら、必ず分かったとは言えない。
資料を早く読んでいれば、すぐに正しい判断ができたと約束することもできない。
それでも、その可能性があったことを、忘れることはできなかった。
完全に変わる前なら、対処できる余地があったかもしれない。
自分が調べた記述は、その時間の違いを示していた。
だから、いつ気づいたかという問いが、何度も胸へ戻ってくる。
アテナは、古い記録の端へ、指を添えた。
過ぎた日の資料を開けば、当時の自分が、まだ知らなかったことに出会う。
今の自分には分かる。
けれど、その知識を、あの日の自分へ渡すことはできなかった。
読み直しているのは、自分だった。
紙にある出来事が、もう一度起きているのではない。
それでも過去は戻らない。
アテナは、息を吐いた。
それを知っているのに、同じ箇所で、また立ち止まる。
その自分を、愚かだと責めて済ませたくもなかった。
時には、涙が出ないまま、最後まで読み終える日もあった。
そのような日には、もう平気なのかと、自分へ問いかけそうになる。
けれど、紙を閉じた後、彼へ感想を伝えようとして、ふと顔を上げる。
そこで、返事をくれる相手がいないことを、また知る。
悲しみは、いつも同じところで、同じ形をして待っているのではなかった。
図面を開いたときには落ち着いていても、別の資料の注記を見て、急に胸が痛むことがある。
以前なら彼も面白がっただろうと思った瞬間、その先を話せないことへ気づく。
アテナは、そのたびに、すぐ手を動かせるとは限らなかった。
しばらく考え、呼吸が戻ってから、今の資料へ目を向けた。
そうして、一日の仕事は続いた。
執務が終わると、机の上へ残した古い構造図が見える。
終えた仕事の分だけ、待っていた時間も、また過ぎている。
自分が今日読んだものを、いつか彼へ話す機会はあるだろうか。
その問いには、今日も答えがなかった。
大切な友人だった。
今も、大切に思っている。
だからこそ、何があったかを、簡単に読み終えたことにはできない。
けれど、悲しみが深いからといって、調べた結論を変えてはいけなかった。
完全に侵食された価値観を、元へ戻す方法はない。
その文字へ向けた視線を、すぐには動かせなかった。
長い年月が経ったこと自体を、新しい方法があるという根拠にはできない。
どこかで自然に元へ戻っているはずだと、考えることもできなかった。
分かっていることは、今も、机の上にある。
それを踏まえた上で、自分は、なお、彼を探したいと答えている。
アテナは、流入の記録を閉じ、構造図の上へ置いた。
彼と力を向け合った日のことも、思い出した。
届かないなら、道を変える。
空間を固定し、接続へ術式を伸ばす。
考えた方法を尽くした。
それでも、彼の力を越えられなかった。
最後にほどけた黄金の光と、床へ膝をついた感触が、まだ記憶にある。
止められなかったという事実を、過ぎた時間で小さくしたくはなかった。
今度は必ず大丈夫だと、根拠なく自分へ約束することもできない。
ただ、それを理由に、彼がどこにいるかを知ることまで諦めるつもりはなかった。
アテナは、揃えた紙へ目を落とした。
この机には、友人と考えた記録と、友人を止めようとした記録が、同じように残っている。
どちらかだけが、本当の彼だったという話ではない。
同じ相手と過ごし、その相手について知ったことだった。
楽しかった日を、後の出来事に合わせて嘘へ変えない。
同じように、悲しい出来事を、楽しかった日のために消さない。
その両方を保つことは、年月が経てば簡単になるとは限らなかった。
ある日は、懐かしさが先に来る。
別の日は、やめてくれなかった彼の返事が、胸へ戻る。
そのたびに、アテナは、紙を開き、自分が何を見たかを確かめた。
いつか、彼自身と話せる日が来たときのためにも、覚えていたかった。
◇
「おやおや♪ こちらの蓄積量も随分と増えましたねぇ♪」
彼女の知らない場所で、ヘルカイザーは楽しそうに記録を書き加えていた。
紙へ向かう前脚は、ためらっていない。
今、確かめたものを、以前の記録と見比べる。
自分の考えた仕組みが働き、集められた量が増えている。
その事実を、彼は、研究の成果として喜んでいた。
漆黒の貯蔵空間は以前より広がっている。
ヘルカイザーは、その奥へ目を向けた。
そこにあるものを見て、恐ろしいから離れようとは考えない。
調べたいものがある。
確かめたい働きがある。
自分へ届く流れを、もっとよく知ることができれば、その先の研究へ使える。
彼の意識は、自然にそちらへ向かっていた。
自然に発生する苦しみから負の力を集めるだけでも、数値は伸び続けた。
誰かが自分を侮辱したかどうかは、そのための条件ではない。
自分へ向けられた恨みだけを、待っているのでもなかった。
生きる者が苦しむことは、彼の知らないところでも続いている。
その中から生まれる負の力が、集まる。
記録へ並ぶ数値は、その積み重ねを示していた。
ヘルカイザーは、比較するための古い紙を取り出した。
神界にいた頃から、考えていたことがある。
そこから進んだ箇所も、まだ確かめきれていない箇所もある。
前の資料を読むことは、ただ懐かしむための行為ではなかった。
何を試し、何が分かっていたかを知るために、今も使う。
彼は、必要なところへ目を留めた。
このときには、こう考えていた。
その後、別の方法を見つけた。
今の記録と並べれば、進んだところが分かる。
その手順は、彼にとって、気持ちのよいものだった。
ヘルカイザーは、広がった貯蔵空間と、古い記録に残る量を見比べた。
以前、確かめたときとは違う。
その違いを、ただ大きくなったという印象だけで終わらせず、記録として並べられることが面白かった。
記憶の中では、過去の数値は、今より小さかったものとしてまとまってしまう。
紙を開けば、どこから変化が続いていたかを辿れる。
そのために残した記録が、今、役に立つ。
彼は、必要な紙を一枚選び、ほかを脇へ揃えた。
調べるために使っているうち、机の上も、少しずつ配置が変わった。
今よく使うものが、前へ来る。
以前に繰り返し開いたものは、比較するときに取り出せる位置へ移る。
それは、研究が続いているための変化だった。
古いものを全て捨て、新しい記録だけで考えるのではない。
積み重ねた中から、今の問いに必要なものを選ぶ。
そこに、止まったままの時間はなかった。
アテナと会っていない年月も、彼にとっては、研究を進めてきた時間だった。
少しずつ、知ることが増えている。
考え続けた時間が、紙の上にも残っている。
長い間、研究を止めずに来たことを、後悔する理由はなかった。
アテナが、その年月をどのように過ごしているかは、知らない。
どれほど捜索の記録が増え、何人の担当者が代わったかも分からなかった。
彼のもとで増えているのは、流入と蓄積についての記録だった。
新しい紙を加え、必要があれば古いものを開く。
その中で、アテナと考えたことが、ふと浮かぶときもあった。
「あの頃は、アテナさんとよく議論しましたねぇ♪」
呟いた後、ヘルカイザーは、少しだけ手を止めた。
自分の説明を聞き、彼女は、違う角度から問いを向けた。
同じものを見ているのに、気にするところが違う。
その問いから、別の考えが生まれる。
知恵を交わすことは、楽しかった。
意見が違うだけで、すぐに不快になったわけではない。
知らなかった見方を教えられれば、もっと面白い仕組みを作れるかもしれないと思った。
彼女が、自分の研究を喜んでくれたことも覚えている。
人間だった頃の話を聞いてくれたことも、忘れたわけではなかった。
懐かしむ感情はあった。
けれど、彼はそれ以上、記憶に留まらない。
古い紙へ向けていた視線が、今の資料へ戻る。
彼女が、最後に研究を止めようとしたことも、覚えている。
なぜ、そのように考えたかの説明も聞いた。
それでも、自分が選んだ答えを捨てる理由にはしなかった。
その判断が、年月の中で、自然に変わったわけでもない。
自分は研究を続けている。
実際に、分かったことが増え、集められるものも増えている。
それは、進んできた結果だった。
彼は、その先を考えた。
未解決の理論がいくつもある。
前の記録から分かったことだけでは、まだ、答えられない問いが残っている。
どのように調べれば、その働きを確かめられるだろう。
使える記録は、どれだろう。
ヘルカイザーは、資料を引き寄せた。
懐かしい声を思い出していた時間から、次の検討へ、意識が移る。
彼には、その方が重要だった。
アテナと過ごした日を、大切ではなかったことにする必要はない。
ただ、今、優先するものを選べば、目の前の研究だった。
自分へ集まる力を、さらに知りたい。
考えた方法を、形にしたい。
その欲求が、次の紙へ手を伸ばさせた。
彼の知らない神界では、アテナが古い記録を閉じている。
同じ頃、ヘルカイザーは、別の古い記録を開いていた。
アテナは、何に気づけなかったかを、紙の上で確かめる。
ヘルカイザーは、何を新しく確かめられるかを考える。
どちらの机にも、過ぎた時間が残っている。
けれど、その資料を読むときに向いている先は、同じではなかった。
待つ者にとって、一つの報告が届くまでの間は長い。
調べ続ける者にとって、一つの記録を終えた先には、次の問いがある。
どちらにも、日々は続いていた。
その長さが、二人を再び同じ机へ戻すことはなかった。
神界の噴水は、水を流している。
手入れをされ、必要なところを直されながら、その形を保ってきた。
アテナが図面を持って訪ねるときも、訪ねないときも、水は上がり、落ちる。
ヘルカイザーは、その場所にいない。
それでも、彼が工夫を語った記録は残り、アテナは、その声を思い出すことができる。
そのことが、いつも慰めになるとは限らなかった。
はっきり覚えているからこそ、返事のない時間が痛い。
忘れられないからこそ、また会えば言いたいことがある。
アテナは、その願いを手放さなかった。
ヘルカイザーの前では、次の記録が増えていく。
彼は、今も楽しそうに、その続きを考えている。
長い年月は、二人の距離を縮めなかった。
アテナの願いは深くなり、ヘルカイザーの研究はさらに進んだ。
二人が共有した噴水だけが、今も同じ水音を響かせ続けていた。




