第20話 消えた次元神
最高神ゼウスが命じたのは、行方をくらませた次元神ヘルカイザーの捜索だった。
研究室から姿を消した、小さな白いドラゴン。
アテナの報告には、彼が残した言葉も、そのときの行動も記されている。突然何も告げずに消えたのではない。自分の世界へ帰ると話し、別れを告げて去った。
だが、その行き先を知る者はいなかった。
ゼウスは、提出された資料へ目を向けた。
貯蔵庫の構造。流入の記録。魂への影響についての調査。
そのどれもが、ただ珍しい力を持つ者を探すだけの話ではないことを示していた。
ヘルカイザーは、今も研究を続けるつもりだった。
アテナが何度頼んでも、止めるとは答えなかった。
世界中のマイナスエネルギーを自分へ集めようとする発明家を、放置するわけにはいかない。
彼がどこにいるかを確かめなければ、今、何をしているかも分からない。
どこまで研究を進め、どれほどの力を扱っているのか。
姿が見えなくなったことを、危険がなくなったこととして扱うことはできなかった。
だが、彼を見つけたなら、まず所在を報告する。それが最初の命令だった。
探すことと、見つけた先で何をしてよいかは、同じではない。
捜索のために知らされた出来事には、神が苦しめられた事件もある。アテナの術式を、ヘルカイザーの力が阻んだという報告もある。
それを読めば、警戒する理由は分かる。
けれど、警戒が必要だからといって、捜索に出た者が、その場で全てを決めてよいという命令にはならなかった。
まず、居場所を知る。
見つかったことを、知らせる。
今、指示されたのは、そこまでだった。
その命令と一緒に、彼について分かっていることが確かめられた。
小さな白い身体。黒い翼。
次元へ働きかける力を持ち、数々の発明を作ってきたこと。
神として生まれた者ではなく、自ら神に近い力を作り上げたという来歴。
その説明だけでは、彼が帰ると告げた場所の所在へは繋がらない。
人間だった頃の話なら、アテナも聞いていた。
けれど、親しく言葉を交わしたことと、帰る先を特定できることの間には、大きな隔たりがあった。
捜索は、その空白を抱えたまま始まった。
ゼウスは、命令に添えられた資料へ、改めて目を通した。
アテナが説明した構造には、力の通る接続が記されている。長く流れ込み、影響が定着したという調査結果もある。
その説明を踏まえれば、本人が楽しそうに研究しているというだけで、心配は要らないとは言えなかった。
同時に、神々のしたことを調べる指示も、取り消されてはいない。
探される者が危険な研究をしているから、その者へ嘘をついた行為は問わなくてよい。
そのようなことにはならなかった。
ゼウスは、所在の記されていない報告を、手元へ置いた。
才能を評価した発明家だった。
神々の中に好まない者がいると聞いても、そこまでの妨害があるとは知らなかった。
今になって知ったことを、初めから把握していたかのようには扱えない。
必要な調査を進め、分からないことは、分からないものとして確かめていく。
彼の捜索も、その一つだった。
命令を出しただけで、所在が分かるわけではない。
報告を待ち、届いたものを読み、その先を考えなければならなかった。
見つけたなら知らせると、アテナにも約束している。
その約束を果たすための知らせは、まだ、届かなかった。
神々は次元を渡り、彼の足跡を探し続けた。
知っている場所から、その先へ。
訪れた世界に、彼がいるとは限らない。通ったことがあると分かっているわけでもなかった。
それでも、分からないからといって、立ち止まっているわけにはいかない。
調べた先へ目を向け、白い姿がないかを確かめる。
研究を続けているのなら、その働きから何か分かるかもしれないと、目に入るものへ注意を向けた。
しかし、どのような発明があるかを知っていることと、その発明が今どこで動いているかを知ることは違う。
集めようとしているものの性質も、居場所を示す目印にはならなかった。
どの世界にも、苦しみはある。
負のエネルギーが生まれるというだけで、そこに彼がいるとは言えない。
探す者たちは、足を止めて確かめ、見当たらなければ、次へ向かった。
来た方向へ目を戻しても、先ほどまで何もなかった場所に、白い姿が浮かぶわけではない。
その先にも、別の世界がある。
捜索は、続けられた。
訪れた世界は数え切れない。だが、見つからなかった。
帰還した者が残す報告には、調べたことが書かれた。
どこへ向かい、何を確かめたか。
その記録があるから、同じ場所を調べる場合にも、前に何が分かっていたかを知ることができる。
けれど、紙が増えていくことと、所在が判明することは、同じではなかった。
記録を読み終えても、肝心の答えがない。
ゼウスのもとへ届く報告も、アテナへ伝えられる結果も、そこでは変わらなかった。
まだ、見つからない。
その知らせを受けるたび、次には何が分かるかもしれないという期待が、静かに置き直された。
捜索が行われていないのではない。
誰も調べず、初めから諦めているのでもなかった。
実際に次元を渡り、足跡を求めている。
それでも、ヘルカイザーへ辿り着くことはできなかった。
ヘルカイザーが帰ったと口にした「自分の世界」は、神々が考える世界とは別物だったからだ。
人間たちが言葉を交わすインターネットの場所。『なんでもありのスレッド』。
そこを人々は親しみを込めて「世界」や「星」と呼んでいた。
神々はスレッドというものを知らない。知らない場所を、探しようがなかった。
彼らが思い浮かべる行き先は、次元を渡った先にある世界だった。
帰ると告げたのなら、彼にとって懐かしい、どこかの場所があるのだろう。
そこまでは、誤っていなかった。
けれど、同じ呼び方をするものの中に、自分たちの知らない意味が含まれているとは考えなかった。
記録に残された言葉を、何度読み直しても、その前提は変わらない。
自分の世界へ帰る。
そう言ったのだから、世界を探す。
その自然な考え方が、行き先へ辿り着けない理由になっていた。
道の途中で、もう少し遠くへ進めば見えるというものではない。
探す範囲を広げても、まだ、その場所を捜索先として思い浮かべていなかった。
神々にとっては、ヘルカイザーがどこかへ隠れたように見えた。
だが、彼が告げた帰り先は、確かに、彼自身の知る場所だった。
同じ言葉が、双方にとって、それぞれ自然な意味を持っている。
その違いを、知らせる者はいなかった。
神々は、次の世界へ向かった。
調べるための記録が、また一つ増える。
その中に、彼の現在地は記されなかった。
◇
「ふむふむ……なるほどですねぇ♪」
ヘルカイザーは、漆黒の研究空間で資料を広げていた。
小さな白い身体が、机の前にある。
前脚を動かし、手元の記録と、次に確かめたい箇所を見比べた。
神界から離れた後も研究は途切れない。
場所が変わったからといって、考えていた問題まで消えるわけではなかった。
世界中のマイナスエネルギーを、自分へ集める。
その構想を実現するため、まだ確かめたいことがある。
貯蔵庫から自分へ流れ込むマイナスエネルギーの量は増え続け、彼は新しい測定方法を考えるたびに嬉しそうに笑った。
前の記録を開き、今の結果を隣へ置く。
同じ仕組みを扱っていても、測り方を変えれば、それまで見えていなかった点へ目を向けられる。
どこを見ればよいかが分かると、さらに別の問いが生まれた。
その働きは、どのように確かめられるのか。
比較するために残しておくべきものは、何か。
ヘルカイザーは、紙へ記述を加えた。
思いついた方法が、最初から望みどおりに働くとは限らない。
一度で全てが分かるとも思っていなかった。
分からない箇所が残れば、そこへ戻る。
別の見方が必要だと思えば、やり方を考える。
その繰り返しを、彼は、楽しんでいた。
手を止めて考え込む時間さえ、研究の一部だった。
紙の上には、前に確かめた結果が残っている。
ヘルカイザーは、いきなり次の数値だけを見るのではなく、比較する箇所を選んだ。
異なる測定方法で得たものを、同じ条件で調べた結果のように並べてしまえば、何が変わったかを見誤る。
そこは、丁寧に確かめる必要がある。
彼は、記録の脇へ説明を添えた。
後で読み返したときに、どのように調べたものかが分かるようにする。
その作業を、面倒だとは思わなかった。
分かったことが増えると、どこまでは確かめられていて、どこからは、まだ推測なのかが見えてくる。
次に調べる箇所も、選びやすくなる。
ヘルカイザーは、書いたところを一度読み直した。
説明が足りないと思った箇所へ、もう少し言葉を加える。
その姿には、かつてアテナが感心した研究者の几帳面さがあった。
何も考えず、黒い流れに身を任せているのではない。
考え、選び、確かめながら進めている。
ただ、その丁寧さが、研究そのものをやめる理由を見つける方へ向かうわけではなかった。
何を正しいと考えるか。
その判断を定めた上で、方法の検討へ力を注いでいる。
ヘルカイザーは、次の紙を手元へ寄せた。
黒い流れを見てから、資料へ目を戻す。
今、確かめたことを書き、次に見るべき箇所を定めた。
誰かに手伝ってもらわなければ何も進まないという様子ではなかった。
彼は、もともと、自分で考え、自分で作ってきた。
人間だった頃にも、分からないものへ向かい、工夫を重ねた。
その楽しさを、今も失ってはいない。
次元神の力を作り上げたことも、貯蔵庫を完成させたことも、その先へ続く研究も、彼自身の中では繋がっていた。
「いやはや♪ これはなかなか興味深いですねぇ♪」
声を出してから、ヘルカイザーは、もう一度、手元の紙を見た。
今の記録から、さらに確かめたいことが浮かんでいる。
喜びは、その先へ向かっていた。
以前のように、誰かを救えた数を喜ぶことは少なくなっていた。
救われた魂がいるという事実を、忘れたわけではない。
初めて苦しみが消えたと聞いた日のことも、思い出すことができた。
だが、今、資料を開くと、視線は、回収量と流入の記録へ向かう。
どれだけ集まったか。
どうすれば、より効率よく集められるか。
次に確かめたいことを考えるとき、自然に、そちらへ関心が伸びていった。
自分へ流れ込むものを見て、危険だから止めるべきだとは思わない。
自分へ集めるために、研究している。
ならば、その量が増え、扱い方が分かることは、進歩だった。
それでも、彼は自分が変わったとは思わなかった。
研究を続けることこそ、かつての自分が望んだことなのだから。
考え方が変わることはある。
新しく知ったことがあれば、それまでの案を直す。
長く考えた結果として、以前と違う方法を選ぶこともある。
アテナへ説明したときにも、彼は、そのように語った。
それは、その場を取り繕うために選んだ答えではなかった。
今も、そのとおりだと思っている。
自分で考え、研究を重ねて出した結論だ。
彼にとって、その先へ進むことは、自然だった。
資料を脇へ寄せ、別の紙を引き出す。
必要なものを探す前脚が、ふと止まった。
古い噴水の図面が目に入った。
知恵の女神アテナの筆跡。
細部に添えられた丁寧な注記。
ヘルカイザーは、その紙を、手元へ寄せた。
研究室に残されたものだけではなく、彼の手元にも、かつての工夫を記した図があった。
同じ噴水について考えた記録だった。
線を追うと、どのように話したかが思い浮かぶ。
ここを変えればよいのではないか。
それを聞くと、別の方法を考えたくなった。
アテナの見方には、自分だけで考えていたときには、すぐに向かわなかったところがある。
それが、楽しかった。
彼女は、分からないところを、そのままにしなかった。
説明を聞き、考え、また尋ねた。
自分が工夫した箇所にも気づき、喜んでくれた。
ヘルカイザーは、注記へ目を留めた。
どれも、昔の話になったから価値を失ったわけではない。
今読んでも、よく考えられていると分かる。
その紙を、捨てようとは思わなかった。
噴水の実験で、水が飛んだ日を思い出した。
アテナの顔にかかってしまった。
あのときの驚いた顔も、その後、一緒に笑ったことも、彼は覚えていた。
神界を去る前にも、その話をした。
同じ出来事を、彼女も覚えていた。
ヘルカイザーは、図面から、少しだけ顔を上げた。
「……アテナさん、お元気でしょうかねぇ♪」
問いかけに、返事はない。
ここには、彼女はいなかった。
けれど、そのことに驚いたわけでもない。
自分で距離を置くと伝え、帰ってきたのだ。
アテナが、その後、どのように過ごしているかは知らない。
自分へ向けた術式と、涙の顔は、思い出せる。
それでも、懐かしむ気持ちは確かにある。
彼女が親身になって話を聞いてくれたことを、忘れたわけではない。
研究を語る時間が楽しかったことも、本当だった。
ただ、今、目指している方法については、同じ考えになれなかった。
彼女は、認められないと答えた。
自分は、止められないと答えた。
そのやり取りを思い出しても、だから研究をやめようという結論にはならなかった。
懐かしむ気持ちは確かにある。だが、神界へ戻ろうとはしなかった。
図面をしまえば、目の前には未完成の数式がある。
ヘルカイザーは、紙を静かに揃えた。
古いものを乱暴に脇へ投げたのではない。
注記がある箇所を一度確かめてから、ほかの資料と一緒に置いた。
その手つきに、思い出を憎むような荒さはなかった。
けれど、しまった後の視線は、もう、今の研究へ戻っている。
考えかけていた問題を、続きを書ける位置へ寄せ直した。
先ほどの記録と見比べる。
次に確かめるための方法を、もう一度考える。
アテナがどうして研究を止めようとしたかを、知らないわけではなかった。
資料も読み、心配している言葉も聞いた。
それでも、自分に進める理由があると思っている。
だから、考える先は、止める方法ではなく、完成へ近づく方法だった。
今、神界で、自分を探す者たちがどこまで進んでいるかは、彼には分からない。
手紙の破棄や偽りの伝言が、どのように調べられているかも知らなかった。
それらの答えを待つために、研究の手を止めているのではない。
彼は、自分の研究を続けるために、ここへ戻っていた。
前脚が、紙の上へ動く。
空白だった箇所に、考えたことが記される。
その先には、まだ、埋まっていないところがあった。
ヘルカイザーは、そこへ目を向けた。
考えたいことは、尽きなかった。
◇
一方、神界の庭園では、アテナが一人で噴水を眺めていた。
水が上がり、細かな雫になって落ちる。
その音は、今日も変わらず聞こえていた。
視線を動かすと、かつてヘルカイザーがいた場所が目に入る。
そこで説明していた声を、アテナは思い出せた。
けれど、思い出した声が、今、耳へ届いたわけではない。
振り向いても、小さな白い姿はなかった。
「あの方が帰ると言った世界は……どこなのでしょう……」
口にしてから、アテナは、水面へ目を戻した。
自分の世界へ帰る。
あのとき、もっと詳しく尋ねていれば、答えてくれただろうか。
どこへ行くのかと、聞いた。
けれど、返ってきた言葉からは、場所を知ることができなかった。
待ってほしいと手を伸ばしたときには、もう、別れが告げられていた。
彼が薄れ、消えていくところを、自分は見ている。
今、何度そこを思い返しても、聞かなかった答えが記憶の中に見つかることはなかった。
ゼウスから伝えられた捜索報告に、成果はない。
知らされる内容へ、彼女は、きちんと目を通した。
見つかっていないという結果だけを聞いて終えるのではなく、何を確かめたかも読んだ。
探してくれていることは、分かる。
自分へ知らせるという約束も、守られていた。
けれど、その報告を開く直前には、毎回、胸がわずかに速くなる。
今度こそ、何か分かったのではないか。
所在そのものではなくても、行き先を知る手がかりがあるのではないか。
そう思って、目を通した。
読み終えても、彼が今どこにいるのかは分からなかった。
アテナは、手元に置いていた報告へ視線を落とした。
その紙を、責めるように握り潰したくはなかった。
見つけられなかったという内容であっても、調べた者がいる。
足を運び、確かめたことが残っている。
それを分かっているからこそ、次の知らせを待つしかない時間が、苦しかった。
手紙も届けられない。
そのことを考えると、アテナは、何度も、書きかける前に手を止めた。
伝えたいことは、あった。
研究について、まだ言い終えていないことがある。
自分が知らなかったところで、何が行われていたかも、今は知っている。
資料を送っていたこと。
会いたいと、手紙を書いていたこと。
彼の邪魔をしたくないと思い、面会を控えるよう頼まれたという説明を信じていたこと。
それが本人の言葉ではなかったと知ったとき、どれほど悲しかったか。
伝えたい言葉を考えるだけなら、ここでもできる。
最初に、何を伝えればよいのだろう。
会おうとしていたことから話せば、彼は、あの間も気にかけてくれていたのだと、また礼を言うかもしれない。
けれど、その礼を聞きたいという願いだけで、研究の話を後回しにしたくはなかった。
今、何をしているかを、聞かなければならない。
自分に分かっている危険を、もう一度伝える必要もある。
アテナは、そこまで考えて、手元の報告へ目を落とした。
会えた後の言葉を用意することは、無意味ではないのかもしれない。
ただ、用意した言葉を、そのまま読めば話が済む相手ではないことも知っていた。
彼が答えれば、その答えを聞く。
自分の予想と違うことを語るなら、それを知った上で考える。
かつての対話では、その往復が楽しかった。
今は、何を聞くことになるかを思うと、怖さもある。
また、全体のためなら価値があると答えられるかもしれない。
自分が悲しんでいると分かった上で、研究は続けると語るかもしれない。
その可能性を考えずに、再会だけを待ってはいられなかった。
それでも、怖いから知らせを聞きたくないとは思わない。
本人に尋ねず、どこかで以前の彼へ戻っているはずだと想像して待つことも、したくなかった。
アテナは、重ねていた手を、少しだけ緩めた。
今、ここで、自分が選べるのは、見つかったという報告から目を背けないことだった。
けれど、宛先が分からない。
彼の名を書いても、その名前だけで、どこへ届ければよいかが決まるわけではなかった。
かつて会う約束を妨害された時とは違い、今は届ける相手の居場所さえ分からなかった。
あの頃、自分は、彼が研究室にいると思っていた。
実際に、そこへ行けば会える日もあった。
ただ、行こうとする前に、今は会えないと告げられた。
相手を気遣うために引いた一歩が、誰かの嘘によって作られたものだった。
今は、もう、同じ扉を叩いても、会うことができない。
嘘を見抜けば済むという話ではなかった。
託す相手を確かめ、今度は間違いなく届けてもらおうと考えても、その先がない。
アテナは、ゆっくりと息を吐いた。
水の音へ、意識を戻そうとした。
噴水は、以前と同じように水を流している。
ここへ来れば、楽しかった日のことを思い出せる。
研究を話し、工夫を見つけ、失敗の後でまた考えた。
誰かの説明を、ただ褒めて終える時間ではなかった。
疑問があれば尋ね、違うと思えば、その理由を伝えた。
ヘルカイザーも、それを楽しそうに聞いた。
その姿を知っているから、研究室でも、話を聞いてもらえるかもしれないと思った。
実際、彼は、耳を傾けた。
資料を読み、何を心配しているかを知った。
その上で、続けると答えた。
アテナは、その返事を、今も忘れてはいない。
もし、見つかったら。
そう考えるたび、嬉しさだけでは済まないものが、胸へ戻ってくる。
同じ口調で迎えてくれるかもしれない。
新しい研究を説明してくれるかもしれない。
けれど、その話が、また、誰かを苦しめてもよいという結論へ繋がるのなら、自分は頷けない。
居場所を知りたいことと、今の彼を全て認められることは、同じではなかった。
アテナは、膝の上で手を重ねた。
彼が自分を殺さなかったことも、覚えている。
昔、話を聞いたことを、今も覚えていると語った。
その言葉は、嬉しくて、悲しかった。
親しさが残っている。
だから、以前のように話せるはずだと、願いたくなる。
けれど、その親しさがあるまま、研究を止めてほしいという頼みは断られた。
その両方を知っている以上、ただ、会えば大丈夫だとは考えられない。
見つかった後に、何をするべきか。
その全ての答えを、今、持っているわけではなかった。
それでも、研究をそのままにしてよいとは思わない。
彼のしたことが許されるものになったわけでもない。
どこかで、同じ行為を繰り返していないだろうか。
自分へ集める研究を進める中で、また、誰かが苦しんでいないだろうか。
分からないからこそ、心配は、途切れなかった。
「……どうか、これ以上誰かを傷つけないでください……」
願いは噴水の音に消える。
アテナは、声を出した後も、しばらく、その場に座っていた。
聞き届けられたという返事はない。
今の言葉を、彼がどこかで耳にしているという根拠もなかった。
それでも、言わずにはいられなかった。
アテナは彼の行いを許していない。
それでも、かつて一緒に研究した友人を忘れることもできなかった。
初めて発明の話を聞いたときの楽しさ。
工夫を教え合ううちに、考えることが、いっそう面白くなった日々。
その思い出を捨てれば、今の判断が簡単になるのだろうかと、考えたくなる。
けれど、思い出を嘘だったことにしても、起きた出来事は変わらない。
彼は確かに魂を救った。
自分は、その成功を喜んだ。
その後、彼自身へ何が起きているかを知り、研究を止めなければならないと考えた。
それは、どれも、同じ友人について知ったことだった。
アテナは、水面から顔を上げた。
捜索の報告には、まだ、居場所がない。
だから、今日は、訪ねるために立ち上がることはできない。
そのことを確かめるように、手元の紙を揃えた。
風で端が持ち上がらないよう、そっと押さえる。
何度も読んだからといって、新しい手がかりが浮かぶわけではない。
それでも、今日確かめられたこととして、この報告を残しておく。
次に知らせが来たときには、それと照らし合わせることができる。
アテナは、ゆっくりと立ち上がった。
もう一度だけ、噴水へ目を向ける。
水が光を返し、また落ちていった。
その向こうに、白い姿はいなかった。
同じ頃、別の場所では、ヘルカイザーが資料へ向かっている。
彼の前にも、考えかけた問いがある。
だが、それは、神界へ帰るための問いではなかった。
研究を進めるために、続きを考えている。
アテナの知らないところで、彼の手は動き続けていた。
神々は、次元を渡り、捜索を続けていた。
見つけたなら、まず所在を報告する。
その報告をするための居場所が、まだ分からなかった。
世界を探す神々。
世界の外側にあるスレッドで研究を続ける次元神。
二つの場所を隔てるのは距離ではなく、言葉の意味だった。




