第18話 届かぬ光
研究室を、黄金の光と漆黒の力が包み込んだ。
机の上に広がる設計図が、二つの色に照らされる。
つい先ほどまで、ここで、研究を止めてほしいと頼んでいた。
そのときと同じ距離に、ヘルカイザーはいる。
けれど今、その間を通るのは、考えを伝える言葉だけではなかった。
「……っ!」
アテナは、幾重もの術式を展開していた。
封印。遮断。空間の固定。
ヘルカイザーを傷つけずに研究を止めるため、彼女が持つ知恵を注ぎ込んだ方法だった。
両手を前へ保ち、光の繋がりへ意識を向ける。
一つの術式が届く道を、別の術式で支える。彼の力に逸らされるなら、ただ同じ場所へ放ち続けるのでは意味がなかった。
どこで道が変わったのかを見た。
どこへ働きかければ、目的の接続へ近づけるのかを考えた。
光を強めるだけで、分からないところを押し通そうとはしない。
そのために、構造図を調べた。
そのために、ここまで考えてきた。
アテナは、貯蔵庫へ視線を向けた。
止めるべき流れは、今も、目の前にあった。
「……ヘルカイザーさん! もう、やめてください!」
「おやおや♪ 素晴らしい術式ですねぇ♪」
彼は、心から感心したように微笑んだ。
その声に、アテナは、ほんの一瞬、息を詰めた。
研究を一緒に見ていたときにも、彼は、工夫した箇所を見つけると、同じように喜んでくれた。
今も、その知恵を認めている。
けれど、認めたから道を開いてくれるわけではない。
アテナは、術式から意識を逸らさなかった。
黄金の光が貯蔵庫へ向かう。しかし、光の軌道は空間ごと折り曲げられ、別の次元へ流されてしまった。
届くと思った先で、光が消える。
力が足りず、途中で薄れたのではなかった。
アテナの目には、向かっていた場所が見えている。
それなのに、光が通る先だけが変えられた。
「……そんな……!」
声を漏らしながらも、彼女は、視線を動かした。
今、何が起きたか。
驚いているだけでは、次も同じことになる。
接続へ届かせたいなら、そこまでの空間が変わることにも、対処しなければならなかった。
アテナは、術式を変えた。
今度は周囲の空間を固定し、次元神の力が作用する範囲そのものを制限する。
狙う先だけではなく、その周囲へ意識を広げた。
先に道を定め、それを保った中で、流れを止める。
幾つもの術式を、同時に崩さず繋いでいく必要がある。
視界の端に、机の角がある。
その奥には、貯蔵庫がある。
いつもなら、手を伸ばす向きを考えるための、動かない目印だった。
今は、見える位置だけを信じてはいけない。そこへ向かう道が、彼の力で変えられる。
アテナは、自分の術式が作る範囲を、順に確かめた。
床へ届いた光。壁を辿る線。頭上へ広がった形。
その全てを見ながら、中心にいる彼への注意も保つ。
どこか一つへ意識を奪われれば、別の箇所で何が起きたかを見失う。
アテナは、奥歯を噛み、術式を繋いだ。
指先が、わずかに震えた。
アテナは、息を吐き、光を整えた。
床。壁。天井。あらゆる方向へ光が広がり、やがて球状の封印が形成された。
黄金の線が、周囲を閉じていく。
見える形だけを作ったのではない。
空間へ働く力を抑えるために、必要なところへ術式を行き渡らせた。
その内側を見つめる。
ヘルカイザーの白い姿が、光の向こうにあった。
「……今です!」
ヘルカイザーの周囲の揺らぎが、わずかに弱まる。
アテナは、その変化を見逃さなかった。
まだ、全てが止まったわけではない。
それでも、届かなかった先へ近づけるかもしれない。
両手へ、もう一度、意識を集めた。
「……成功……?」
しかし、結界の内側から穏やかな声が返った。
「いやはや、さすがアテナさんです♪」
アテナは、顔を上げた。
聞こえた声に、苦しげな響きはない。
次の瞬間、結界に亀裂が入った。
パキッ。
小さな音が、やけにはっきりと聞こえた。
アテナの目が、その線を追う。
保たなければ。
そう考えるより早く、亀裂は、黄金の面へ広がっていった。
そして、黄金の光は砕け散った。
さきほどまで、球を作っていた線が、形を失う。
光の断片が視界を横切り、アテナは、反射的に息を止めた。
目の前には、もう、同じ封印はなかった。
「……そんな……!」
「ですが、少々足りませんでしたねぇ♪」
ヘルカイザーは、何事もなかったように浮かんでいた。
アテナは、彼の姿と、散っていく光を見た。
術式の意味は、理解されていた。
組み立ての工夫も、認められていた。
その上で、彼の力は、それを越えた。
知恵を尽くしたことが、届いたという結果へ繋がらない。
その事実を、今は、自分の目で見ていた。
◇
アテナは次に、貯蔵庫そのものの接続へ術式を伸ばした。
広い範囲を保つために使っていた意識を、目的の繋がりへ戻す。
見えている白い身体を狙うのではない。
そこへ流れているものを、止める。
最初から変えていない目的を、もう一度、自分へ確かめた。
彼の力へ正面から封印を重ねるだけでは、砕かれる。
ならば、流れが通っている接続へ。
黄金の線が、貯蔵庫の方へ伸びた。
ほんの一瞬だけ、漆黒のエネルギーの流れが弱まった。
アテナの目が、その変化を捉える。
動いた。
今、自分の術式が、止めたいところへ働いた。
「……いける……!」
言い終える前から、光を保とうとした。
ここを止められれば、少なくとも、流れ込みは止まる。
以前へ戻せないことを知っていても、今の実験を止める意味はある。
アテナは、その細い変化へ意識を集中した。
しかし、ヘルカイザーはすぐに気づいた。
「おや? そちらでしたかぁ♪」
小さな前脚が動く。
アテナは、光を繋ぎ留めようとした。
けれど、変化は、その指先の意志を待ってはくれなかった。
術式は消え、負のエネルギーの流れが元に戻った。
弱まったはずの黒い流れが、再び続いていく。
ほんの一瞬前に、止められるかもしれないと思った場所だった。
今は、そこへ伸ばした術式そのものがない。
「……くっ……!」
アテナは、息を荒げた。
両手を前へ出し続けていることが、重く感じられた。
指先だけではない。
術式を組み、変え、届かせる道を考え続けた意識も、少しずつ疲れている。
それでも、目を伏せることはできなかった。
今、手を下ろせば、目の前の流れを止めるものがなくなる。
アテナは、次に使える方法を探した。
相手を傷つける術式は使っていない。それでも、これ以上の方法が見つからない。
同じ手順を、もう一度繰り返すだけでは足りない。
彼は、どこへ働きかけているかを見ている。
気づけば、その道を塞ぐことができる。
そして彼女は気づいた。
ヘルカイザーの力は、以前よりもはるかに強くなっている。
初めて彼と出会った頃の力を、そのまま相手にしているのではなかった。
今、目の前には、長く研究を続けてきた彼がいる。
さらに、自分へ集める流れを増やした彼がいる。
次元神としての力に加え、膨大なマイナスエネルギーが集められている。
アテナは、貯蔵庫から届く漆黒を見た。
自分の術式を続ければ、そのうち相手が使える力を失うという見通しを、ここへ置くことはできなかった。
しかも、その源となる負のエネルギーは、世界中で生まれ続ける。
事実上、底が見えない。
その事実を考えると、胸が冷えた。
それほど集められるからこそ、研究を止めなければならないと思って来た。
けれど、その集まる力が、今、自分の術式を阻んでいる。
アテナは、苦しい呼吸を整えようとした。
彼の顔は、変わらず穏やかだった。
自分が何を心配しているのか、どこまで伝わっているのだろう。
光を保ったまま、彼女は、もう一度問いかけた。
「……ヘルカイザーさん……本当に、それで世界が平和になると思っているのですか……?」
「もちろんですよ♪ 自分が引き受ければ、他の方々は苦しまずに済むでしょう?♪」
彼の中では、その答えが繋がっている。
苦しみを生むものを集めれば、ほかの者たちは苦しまなくなる。
だから、自分へ集める。
アテナは、その考えを聞いた上で、なお、頷けなかった。
魂を救うという話を、初めてした頃のことが浮かぶ。
大切な思いまで失わせてはいけないと伝えた。
心にあるものの意味を見ず、ただなくせばよいという方法には、したくなかった。
「……悲しみや怒りも、生きる者にとって意味のある感情です!」
「ふむふむ。そのお気持ちは分かります♪」
彼は穏やかに頷く。
「ですが、自分が集めるのは苦しみを生み出すマイナスエネルギーですからねぇ♪」
アテナは首を振った。
言葉の上では、考慮していると答えられる。
けれど、それで、今進めている方法の危険がなくなるわけではなかった。
彼自身の判断は、既に変わっている。
そして、全体のためなら誰かを苦しめる方法にも価値があると、はっきり答えた。
そのことを、話の外へ置いたまま、平和のためだと認めることはできない。
「……たとえ多くの魂を救えるとしても、誰かを傷つけて良い理由にはなりません!」
声が、研究室へ響いた。
アテナは、荒くなった呼吸の間で、彼の返事を待った。
互いに、何のための研究かを語っている。
それでも、そのために許してよい行為について、同じところへ立てない。
ヘルカイザーは、静かに問いかけた。
「……では、アテナさん。どうして自分だけが、研究をやめなければならないのでしょうかねぇ?」
アテナは、彼を見つめた。
自分だけが。
その問いに、ここまで続けてきた研究への思いがある。
彼は、自分の選んだ方法を、間違いだとは考えていない。
だから、止められる理由を、受け入れてはいなかった。
資料を示し、言葉を尽くし、今は術式まで使っている。
そのどれによっても届かなかった思いが、胸へ込み上げた。
「……あなたが、私の大切な友人だからです……!」
アテナの涙が落ちた。
友人だから、何をしても認める。
そのような言葉を、返したかったのではなかった。
大切な相手が、今、間違った方法を選んでいると思う。
そのことを知りながら、親しくしていたいからと黙っていることはできなかった。
「友人だからこそ、間違った道へ進むのを見過ごせないのです……!」
その言葉に、ヘルカイザーは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……友人、ですかぁ♪」
かつて研究を共に喜び、人間だった頃の辛い話に耳を傾けてくれた女神。
その彼女が、今、自分の目指す平和を否定している。
彼には、そう思えた。
アテナが自分を大切に思っていることと、目の前で研究を止めようとしていることは、どちらも分かる。
けれど、それを、研究の誤りを認める理由にはできなかった。
自分が救おうとしている魂がいる。
そのために選んだ方法がある。
そして、かつてその研究を喜んだ友人の光が、今、その接続を断とうとしている。
ヘルカイザーは、彼女へ、穏やかな声を向けた。
「……アテナさん。あなたは、自分を裏切ったのですねぇ♪」
「…………っ!」
その一言は、どんな攻撃より深く彼女の胸を貫いた。
アテナは、息の仕方を忘れたように、彼を見つめた。
裏切った。
彼の口から、その言葉を聞くとは思いたくなかった。
ここへ来る前から、分かっていたはずだった。
彼の望まないことをする。
そのために、親しかった研究へ、力を向ける。
喜んでもらえるはずのない行為だと、自分へ言い聞かせていた。
それでも、実際にその声で告げられると、胸の奥が、ひどく痛んだ。
「……違います……! 私は、あなたを……!」
けれど、言葉は続かなかった。
何を伝えれば、その言葉を取り消してもらえるのだろう。
大切に思っているとは、既に伝えた。
傷つけたいのではないことも、彼は知っていると答えた。
それでも、今の行為は、彼にとって裏切りなのだった。
アテナは、涙の向こうに、白い姿を見ていた。
◇
ヘルカイザーは、アテナの心に満ちたマイナスエネルギーを感じ取っていた。
深い悲しみ。後悔。自責。そして、大切な友人を失いたくないという恐れ。
彼女が自分を憎んでいるわけではないことも、分かっていた。
その心から伝わるものは、目の前の涙とも、震える声とも、矛盾していなかった。
だから、最初から殺すつもりなどなかった。
自分の研究を妨げることは、止める。
けれど、そのことだけで、彼女の命を奪わなければならないとは思わない。
裏切られたと感じていても、過去に向けられた優しさを忘れるわけではない。
ヘルカイザーは、まだ形を保とうとしている黄金の光へ視線を向けた。
アテナは、引くつもりがない。
言葉だけでやめてもらえないことは、彼にも分かった。
「……アテナさん」
彼は、小さく前脚を上げた。
空間が固定される。
アテナは、光を動かそうとした。
けれど、それまでとは違う感触があった。
組み直した術式を、次の先へ伸ばせない。
黄金の術式は、一つずつ力を失った。
さきほどまでは、届かないなら別の道へ向かわせようと考えられた。
今は、その道そのものがない。
「……っ!?」
アテナは何度も突破を試みた。しかし、どの方向にも進めない。
視線を変え、術式の向きを変える。
見える貯蔵庫へ近づけようとしても、彼の周囲へ届かせようとしても、光は、進む先を得られなかった。
次元そのものが隔てられ、術式が届く経路もない。
アテナの呼吸が、さらに乱れた。
ここで終われば、彼の研究は止まらない。
そのことが分かるからこそ、まだ、両手を下ろしたくはなかった。
「……まだ……!」
最後の力を振り絞って放った光が、静かにほどけていく。
弾き返され、自分を傷つける光にはならなかった。
ただ、形を保てなくなる。
指先から続いていたものが、薄れ、消えた。
その瞬間、アテナは膝をついた。
床へ触れた感触が、はっきりとあった。
両手を、わずかに下ろす。
光を保つために張り詰めていた意識が、途切れた。
顔を上げても、黒い流れは、止まっていなかった。
「……私では……止められない……」
涙が頬を伝った。
考えなかったわけではない。
傷つけずに止めるため、知っている仕組みを確かめ、術式を組んだ。
届かないたび、別の方法を探した。
それでも、今、ここで彼を止めることはできなかった。
その結論を、自分の声で口にしたくはなかった。
けれど、目の前から、消えた光は戻らない。
ヘルカイザーはゆっくりと降り立ち、穏やかに尋ねた。
「……大丈夫ですか、アテナさん?♪」
アテナは、顔を上げた。
自分の術式を止めた相手が、心配そうに声をかけている。
さきほどまでの出来事と、その優しさを、うまく一つのものとして見られなかった。
「……どうして……私を、殺さないのですか……?」
「おや? 妙なご質問ですねぇ♪」
彼は首を傾げた。
「自分がアテナさんを殺す理由など、ありませんよ♪」
アテナは、彼を見つめた。
その言葉にも、迷いはなかった。
研究を止めるつもりはないと答えたときと同じように、命を奪う理由はないと言った。
「……でも……私は、あなたを止めようと……」
「ええ。裏切られたとは思っていますよ♪」
胸が、また痛んだ。
取り消されたのではない。
彼は、今も、そのように思っている。
ヘルカイザーは、穏やかに続けた。
「ですが、それと命を奪うことは別のお話ですからねぇ♪」
そして、少し懐かしそうに微笑む。
「昔、屋台を燃やされたお話をしたとき、あなたは親身になって聞いてくださいましたねぇ♪」
「…………っ」
アテナは、唇を震わせた。
覚えている。
彼が人間だった頃の話を、自分は聞いた。
作ったものを喜ぶだけではなく、その前にあった日々についても、知りたいと思った。
話してくれたことが嬉しかった。
そのとき自分が何を感じ、どのような声を返したかまで、思い出せた。
「そのことは、今も覚えていますよ♪」
アテナは顔を伏せた。
彼は、かつての友人だった。
そして今も、確かに同じ人物だった。
けれど、その価値観を元へ戻すことはできない。
思い出が残っていることは、その結論を覆すものではなかった。
かつて親しく話した事実が、今も彼の中で大切にされている。
だから、自分を殺さないと語る。
けれど、その同じ友人が、今の研究を認められないと訴えても、彼は、止めようとはしない。
何もかも失ったのではないからこそ、失われたものの大きさが、胸へ迫った。
アテナは、静かに息を吸った。
涙が、また一つ、落ちた。
◇
「……もう、自分の研究を止めようとなさらないでください♪」
アテナは、ゆっくりと顔を上げた。
今、その願いへ頷けば、これ以上、力を向け合わずに済むのかもしれない。
彼も、自分が憎んでいないことを知っている。
親しみまで消えたわけではない。
けれど、そのために、今の研究を見過ごすとは答えられなかった。
「……それは……できません……」
アテナは涙を拭いながら答えた。
「……私は、今の研究を認められません」
力で止められなかったことと、認めることは、同じではない。
立ち上がる力がすぐに戻らなくても、その答えだけは、変えたくなかった。
彼の前で、もう一度、はっきりと告げた。
「……そうですかぁ」
ヘルカイザーは、しばらく考えた。
アテナは、その顔を見ていた。
ここから、どのような答えが返ってくるのだろう。
もう一度、やめてほしいと頼まれるのか。
それとも、何も変わらないまま研究を続けると語るのか。
そして、黒い翼を静かに広げる。
「それなら、しばらく距離を置いた方が良さそうですねぇ♪」
アテナは、息を止めた。
距離を置く。
その言葉が、今の研究室の広さを越えて、胸へ響いた。
また都合が合うときに会おうという、以前の別れ方とは違う。
彼は、自分の反対を聞いた上で、離れると答えた。
「……どちらへ……?」
「自分の世界へ帰ることにしますよ♪」
アテナは、その意味を理解できなかった。
彼が口にする「世界」が、どこにあるのか知らなかったからだ。
人間だった頃のことは聞いた。
どのようなものを作り、どのような目に遭ったのかも、話してくれた。
けれど、今、その行き先を思い浮かべることはできなかった。
帰ってしまえば、どこを訪ねればよいのだろう。
手紙を届けたいときには、どうすればよいのだろう。
問いが浮かぶよりも早く、身体が動いた。
「……待ってください……!」
彼女は手を伸ばした。
さきほどまで術式を支えていた手には、もう、黄金の光はなかった。
ただ、行ってしまう友人へ向けて、伸ばした。
「……まだ、お話ししたいことが……!」
伝えたことは、たくさんある。
調べた記録。危険だと思う理由。研究をやめてほしいという願い。
それでも、これで話し終えたとは思えなかった。
今日ここで、別れなければならないとは考えたくなかった。
ヘルカイザーは、優雅に翼を広げ、右の前脚を胸元へ添えた。
執事のように、丁寧に頭を下げる。
アテナの指先が、宙で止まった。
その仕草は、彼らしかった。
最後まで、乱暴に背を向けるのではない。
親しかった相手へ、丁寧に別れを告げようとしている。
「アテナさん。あなたとの時間は、とても楽しかったですよ♪」
「…………」
アテナは、返事を探した。
自分も楽しかった。
それは、今も変わらない。
けれど、その言葉を返せば、そのまま別れを認めてしまうように思えた。
言いたいことがあるのに、声にならなかった。
「研究について語り合ったことも、噴水の実験で失敗したことも。どれも、大切な思い出です♪」
アテナの目に、涙が溜まった。
同じ思い出を、彼も覚えている。
噴水の前で笑ったことも、図面を並べた時間も、彼にとって大切なものだった。
それならば。
その気持ちが、今も残っているのならば。
「……でしたら……!」
「どうか、お元気で♪」
次の瞬間、次元が静かに歪んだ。
アテナは、伸ばした手を、さらに前へ動かした。
声を出さなければと思った。
行かないでほしいと、まだ伝えきれていない。
けれど、目の前の姿が、薄くなる。
白い身体が薄れていく。黒い翼が揺れる。
つい先ほどまで、ここにいた。
自分へ語りかけ、丁寧に頭を下げていた。
その姿へ、指先は届かなかった。
そして、ヘルカイザーの姿は完全に消えた。
「……ヘルカイザー……さん……?」
アテナの声に、返事はなかった。
彼女は、手を伸ばしたまま、消えた場所を見ていた。
そこへ、もう一度、小さな白い姿が現れるのではないかと思った。
まだ説明していないことがあると、いつもの声で話し始めるのではないかと、待ってしまった。
けれど、何も起きなかった。
黒い翼も、穏やかな笑顔も、そこにはない。
アテナは、ゆっくりと手を下ろした。
机の上の紙へ、視線が落ちる。
さきほどの光がなくなると、設計図は、いつもの色に見えた。
こちらから尋ねれば、向こうから説明が返ってくる。そのやり取りのために使ってきた場所が、今も残っている。
けれど、紙の向こうへ目を上げても、彼はいなかった。
アテナは、返事を待っている自分に気づいた。
ここを離れると告げられた。姿が消えるところも見た。
それなのに、この部屋にいると、彼の声が返るはずだと、身体が覚えていた。
もう一度呼べば、聞こえるのではないか。
そう思う気持ちのまま、しばらく、その場所へ目を向けていた。
◇
神々の誰も知らない場所。
無数の言葉が行き交う、人間たちの交流の場。
『なんでもありのスレッド』。
参加者たちが親しみを込めて「世界」や「星」と呼んでいた場所へ、ヘルカイザーは戻っていた。
神々はインターネットのスレッドというものを知らない。
だから、その場所を探そうという発想さえ生まれなかった。
彼が帰ると言った先は、アテナの知っている神界のどこかではない。
庭園を歩いても、研究室の扉を叩いても、その姿を見つけられる場所ではなかった。
けれど、ヘルカイザーには、懐かしいところだった。
行き交う言葉と、その場所の気配へ、意識を向ける。
「……いやはや、懐かしいですねぇ♪」
ヘルカイザーは静かに微笑んだ。
戻ってきたという実感があった。
神界で過ごした時間も、アテナとの研究も、消えたわけではない。
けれど、今は、ここで続きを考えられる。
「さてさて、こちらで研究を続けましょうかねぇ♪」
世界中のマイナスエネルギーを、自分へ。
その目的は、神界を離れても、変わらなかった。
アテナに止められたからといって、自分の答えが誤りになったとは考えていない。
術式を向けられたことも、反対された言葉も、覚えている。
それでも、研究を続けるという選択は、そのままだった。
彼は神々への侮辱を思い出しもしなかった。ただ、時折、アテナの笑顔が脳裏に浮かんだ。
自分の説明を聞き、嬉しそうに図面を覗き込んだ顔。
新しい案へ目を留め、考えを返してくれた声。
その記憶には、今も、楽しさがあった。
最後に向けられた光だけで、全てを塗り潰すことはなかった。
ただ、同じ研究を喜べなくなったことが、残念だった。
「……残念でしたねぇ、アテナさん……」
そう呟いた後、ヘルカイザーは、再び研究へ意識を戻した。
彼女の言葉を覚えていることと、求められたとおりに止めることは、彼の中では繋がらない。
自分には、進めるべき理由がある。
その答えを、もう、疑ってはいなかった。
それでも、彼は研究を続ける。
世界中のマイナスエネルギーを、自分へ集めるために。
神界では、アテナが研究室に残された古い噴水の設計図を抱きしめていた。
さきほどまで、二人の間にあった紙だった。
覚えているかと尋ねられ、もちろんだと答えた。
水が顔へかかった日のことを、彼と一緒に思い出した。
今、紙を持つのは、自分だけだった。
目の前に広げても、ここはどう考えたのかという声は返ってこない。
アテナは、腕の中へ、そっと図面を寄せた。
紙が、小さく音を立てる。
大切な思い出だったと、彼も言った。
その言葉を聞いたばかりなのに、もう、どこへ返事を届ければよいのかも分からなかった。
「……ごめんなさい……本当に……」
声が、震えた。
今の研究を認められないという答えは、変わっていない。
それでも、もっと早く気づけなかったことも、止められなかったことも、胸の中で消えなかった。
アテナは、古い図面を抱いたまま、顔を伏せた。
その謝罪は、もう彼へ届かなかった。




