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転生した主人公が次元神になる外伝  作者: ヘルカイザー
知恵の女神と偽りの次元神

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第17話 知恵の女神の決断



 神界の夜明け。


 窓から差し込む光が、執務室の床をゆっくりと明るくしていった。


 机の端へ置いた紙にも、淡い色が戻り始める。けれど、そこに並ぶ記録を、アテナは、新しい気持ちで読み直せるわけではなかった。


 夜が明けても、彼から聞いた答えは変わらない。


 アテナは、執務室の机に広げられた研究資料を見つめていた。


 かつて二人で完成を喜んだ、マイナスエネルギー貯蔵庫。


 その装置から負のエネルギーが流れ込み、ヘルカイザーの価値観は完全に変わってしまった。


 もう、元へ戻す方法はない。


 その結論を書き留めた紙を、指で押さえる。


 何度読んでも、目が自然に、その前後へ向かった。ここまで調べたことのどこかに、まだ見落とした意味があるのではないかと、確かめたくなる。


 けれど、願いを重ねても、書かれたことが別の答えへ変わることはなかった。


 アテナは、紙から、ゆっくりと手を離した。


 研究室で、彼は、自分の目を見て答えた。


 流入を知っていたこと。装置の稼働に問題がないと考えたこと。そして、世界中のマイナスエネルギーを、自分自身へ集めようとしていること。


 自分が調査した内容にも、目を通してくれた。


 その上で、彼は、それでも進めるのだと語った。


 聞き違いや、伝え損ねた言葉だけを探し続けることは、もうできなかった。


 彼が何も知らないからだと思えば、教えるために資料を揃えればよい。


 今は、それだけの話ではない。


 同じ記録を読み、同じ危険について話しながら、選ぶ方法が違ってしまった。


 アテナは、椅子に座り直した。


 窓の外へ目を向けても、胸の重さは変わらなかった。


 少し前まで、明るくなる空を見るたび、今日こそ研究室を訪ねられるだろうかと考えた。新しい資料を見せたかった。彼の話を聞きたかった。


 忙しくて会えないのなら、また機会を作ればよい。


 そう思って過ごしてきた時間がある。


 今は、訪ねて話せば、それで安心できるとは言えない。


 それでも、会わずにいればよいということにはならなかった。


 机の上には、届かなかったものについての記録も置いてある。


 手紙。託した資料。面会を断られたときに聞いた説明。


 そこに残った疑問を、忘れたわけではなかった。


 ただ、今すぐその全てを調べ終えなければ、ヘルカイザー自身へ向き合えないのだとは思わない。


 彼が何をしようとしているかは、既に本人から聞いた。


 その研究は、待っている間にも進んでいく。


 しかし、彼が世界中のマイナスエネルギーを自分へ集中させる研究を続ける以上、これ以上の危険を見過ごすわけにはいかなかった。


 アテナは、構造図を手前へ寄せた。


 ここへ繋がっている。


 流れは、この経路を通って、彼自身へ届く。


 図面の線を追うと、かつて同じところを指し、仕組みを教えてもらったときの声が思い浮かんだ。


 その知識を、今、研究を止めるために使おうとしている。


 指先が、紙の上で止まった。


 彼は、どう思うだろう。


 嬉しそうに見せてくれた図面だった。自分も、もっと教えてほしいと身を寄せて聞いた。


 それを覚えているのは、アテナだけではない。


 昨日も、古い噴水の図面を見せてくれた。


 友人と過ごした日を大切にしている相手へ、その研究を認められないと伝えた。


 今度は、言葉だけではなく、実際に止めることまで考えている。


 つらくないはずがなかった。


 アテナは、机へ置いた手を握った。


 元へ戻せないから、何もできない。


 そう考えてしまえば、この図面を閉じることはできるだろう。


 けれど、これから進めようとしている研究まで、止められないと決まったわけではない。


 以前の価値観へ戻すことと、今、エネルギーを集める行為を止めることは、同じ問題ではなかった。


 望んでいた答えを得られなかったからといって、これからの危険を、そのままにしてよい理由にはならない。


 アテナは、そのことを、自分へ確かめるように考えた。


 手を伸ばした先には、仕組みを描いた線がある。


 彼の身体を傷つける必要はない。


 集めるための接続へ働きかけ、流れを止めることを考えなければならなかった。


 もちろん、それを彼が望まないことも分かっている。


 やめてほしいと頼み、できないと答えられたばかりだった。


 それでも、必要ならば、もう一度、自分の意思で止めてほしいと伝える。


 その返事を聞かず、何も告げないまま動こうとは思わなかった。


 アテナは、図面へ視線を戻した。


 知らない仕組みに、願いだけを向けるわけにはいかない。


 何を止めたいのか。そのために、どこへ術式を届かせなければならないのか。


 接続を辿りながら、考えを詰める。


 初期の設計と、その後の記録を並べ、食い違うところへ目を留めた。


 分かっている範囲を越えて、都合よく働くはずだと考えることはできない。


 自分が知っていることを、できるだけ正確に使う必要があった。


 ヘルカイザーの力が、ただ強いだけのものではないことも、知っている。


 空間へ働きかける彼を前に、見える装置へ光を向けるだけで届くとは限らない。


 だからこそ、経路を考えた。


 アテナは、紙の端へ、小さく指を添えた。


 以前なら、考えついた方法を、彼に見せて意見を聞いた。


 ここが難しいのではないかと尋ねられれば、一緒に考え直した。


 その相手を止めるための術式を、今は、一人で組み立てなければならない。


 胸が痛むたび、手を止めたくなった。


 けれど、その痛みを理由に、図面を閉じることはしなかった。


「……ヘルカイザーさん」


 アテナは、静かに顔を上げた。


 呼びかけても、ここからは届かない。


 それでも、彼の名を口にすると、何のために考えているのかが、はっきりした。


 研究を嫌いになったからではない。


 彼を苦しめたいのでも、出会ったことを後悔しているのでもなかった。


 大切な友人が、危うい方法を正しいと考え、そのまま進もうとしている。


 それを、知ってしまった。


「……私は、あなたを止めなければなりません」


 小さな声だった。


 誰かへ認めてもらうための宣言ではない。


 これから向き合う相手が、かつてと同じ笑顔を向けてくれたとしても、自分の判断を曖昧にしないための言葉だった。


 アテナは、もう一度、構造図へ目を向けた。


 朝の光が、その紙の上まで届いていた。


     ◇


 その頃、研究室ではヘルカイザーが実験を進めていた。


 机には、アテナへ見せた構想が広げられている。


 世界中のマイナスエネルギーを、一つの先へ集める。


 紙に記したその考えを、彼は、改めて見直していた。


 昨日、アテナが伝えたことを、忘れたわけではなかった。


 調べた資料は、実に丁寧だった。接続についても、流入についても、長い時間の中で何が起きるかを考え、説明してくれた。


 その知恵へ向けた感心は、本当だった。


 けれど、それを読んだからといって、自分が進めようとしている方法を、やめるべきだとは思わなかった。


 研究を重ね、考えてきた。


 より多くの魂を救うために、この接続を使うことができる。


 彼にとって、今、確かめたいのは、その実現へ向けた働きだった。


「ふむふむ……なるほどですねぇ♪」


 小さな前脚が、図面のそばを動く。


 貯蔵庫と、自分自身の次元神の力。


 その接続を利用すれば、世界に存在するマイナスエネルギーをより効率的に集められる。


 既に、流れがあることは確認している。


 それを、ただ起きているものとして記録するだけで終える必要はなかった。


 自分へ繋がっているのなら、その仕組みを、研究のために使えばよい。


 ヘルカイザーは、貯蔵庫の方へ顔を向けた。


 漆黒の奥へ、視線を進める。


 そこへ蓄えられたものと、自分自身を結ぶ経路がある。


 世界規模の構想を実現するために、まず、目の前にあるその流れを確かめる。


 彼の中では、その順序が自然に定まっていた。


「……まずは、こちらから試しましょうかねぇ♪」


 彼は自らの意思で、貯蔵庫から流れ込むエネルギーを増やした。


 以前とは違う。


 かつては、装置の接続によって少しずつ流れ込んでいた。今は彼自身が望み、積極的に集めている。


 ヘルカイザーは、その変化へ注意を向けた。


 何かが起きているのを知らず、背を向けているのではない。


 自分の選んだ操作で、流れが変わる。


 その働きを、実験として見ていた。


 漆黒のエネルギーが、小さな白い身体へ吸い込まれていく。


 白い身体と、黒い流れ。


 その境目を前にしても、彼の顔へ恐れは浮かばなかった。


 装置の動きと、自分へ集まるものを、順に確かめる。


 望んだ方向へ実験が進んでいるという実感が、胸にあった。


「……いやはや、なかなか良いですねぇ♪」


 その顔には、いつもの笑顔があった。


 初めて魂が楽になったときにも、彼は、研究の成果を喜んだ。


 今も、成功へ近づくことを喜んでいる。


 その二つの喜びが、彼の中で途切れているわけではなかった。


 だから、やめるべきだという答えへ、ここから考えが向かうことはない。


 もっと多くを救うために、進める。


 彼は、そのために、自分自身へエネルギーを集めていた。


     ◇


 アテナは、貯蔵庫の稼働記録に異変を見つけた。


 流入を示す箇所へ目を留め、前の記録へ戻る。


 読み違いではないかと、並びを確かめた。


 長く稼働していた間に、少しずつ積み重なったものを見ているのではなかった。


 今、増えている。


「……流入量が、増えている……!」


 声にすると、胸が強く鼓動した。


 指を置いた箇所から、もう一度、記録を辿る。


 装置が長く稼働したためだけでは説明できない変化。


 彼は既に、自分自身へマイナスエネルギーを集め始めている。


 研究室で見せられた、集約先の文字が浮かんだ。


 あの図面は、遠い未来について語っただけのものではなかった。


 自分がやめてほしいと頼み、断られた後にも、彼は、自分の考えた方法へ進んでいる。


 アテナは、椅子から立ち上がった。


 資料の端が、手の下でずれる。


 それを直してからと思いかけ、手を止めた。


 必要な仕組みは、確かめた。


 向こうで何が起きているかを、自分の目で見なければならない。


「……止めなければ……!」


 アテナは、研究室へ急いだ。


 廊下を進みながら、もう一度、考える。


 増えた流入を止める。


 そのために、まず、彼へ直接頼む。


 昨日と同じ返事かもしれない。それでも、今起きていることを前に、もう一度尋ねる必要があった。


 自分は、彼が望んで操作していると考えている。


 ならば、その自分の意思でやめることも、選んでほしかった。


 友人の研究を、力で妨げる。


 朝から考えていたその行為が、近づく扉と一緒に、現実の重さを持ち始める。


 アテナは、足を緩めなかった。


 嫌われることが怖くないわけではない。


 彼が残念そうに目を伏せるところを、見たくもなかった。


 けれど、それを避けるためだけに、今の変化を見なかったことにはできなかった。


 研究室の扉へ辿り着く。


 昨日も、ここで足を止めた。


 同じ場所なのに、今は、胸の鼓動がいっそう速かった。


「……ヘルカイザーさん!」


 扉の向こうから、明るい声が返ってくる。


「おやおや♪ アテナさんでしたか♪ どうぞ、お入りください♪」


 その声を聞きながら、アテナは、扉を開けた。


 研究室の奥では、以前よりも濃くなった漆黒のエネルギーが渦巻いていた。


 視線が、そこへ引き寄せられる。


 記録にあった増加が、今は、目の前にあった。


 流れている。


 装置と彼を結ぶ先で、実験が続いている。


 アテナは、入口で一度、息を整えた。


 駆けつけた勢いのまま、言葉を重ねてはいけない。


 何をしているかを尋ね、その返事を聞く必要がある。


 アテナは、静かに尋ねる。


「……もう、始めていたのですね」


「ええ♪ ちょうど実験を始めたところなんですよ♪」


 彼は、隠さなかった。


 自分が何を見ているかを知り、そのとおりだと答えた。


 アテナへ向ける顔にも、後ろめたさはない。


 実験をしているところへ友人が来た。


 彼にとっては、そのような時間なのだろう。


 その自然さが、アテナには悲しかった。


「……やめてください」


「おや?」


「もう、それ以上は……!」


 奥で渦巻く黒い流れへ、目が向く。


 以前よりも濃い。


 今も、その先へ届いていく。


 それを見ながら、落ち着いて待つことは難しかった。


 けれど、叫べば操作が止まるわけではない。


 アテナは、彼の顔へ視線を戻した。


 ヘルカイザーは、穏やかに首を傾げた。


「ご心配いただき、ありがとうございます♪ ですが、この研究が完成すれば、もっと多くの魂を救えますからねぇ♪」


 心配していることは、分かっている。


 それでも、続ける。


 昨日聞いた答えと、同じところへ向かう言葉だった。


 アテナは、唇を噛みかけ、すぐに息を吸った。


 その先にある成果の話だけで、今の彼に起きていることを済ませてほしくはなかった。


 長く流れ込み、価値観へ影響が及んだ。


 そのことは、既に伝えている。


 さらに自分の意思で増やすという行為を、これ以上、見ていたくなかった。


「……あなた自身が、どれほど危険な状態なのか……!」


「ふむふむ。ですが、自分が引き受ければ、他の方々は苦しまずに済むのでしょう?♪」


 あまりに自然な返答だった。


 アテナの胸が痛んだ。


 自分が引き受ける。


 その言葉だけを聞けば、他者のために身を差し出す、優しい答えのようにも思える。


 けれど、今、目の前で進んでいるのは、それだけで語れることではなかった。


 彼自身の判断が、既に変わっている。


 その彼が、誰かが苦しむ方法であっても、全体のためなら選ぶ価値があると答えた。


 その先へ、さらに力を集めようとしている。


 自分が望んで引き受けるのだから大丈夫だという言葉では、その危険は消えなかった。


 アテナは、喉の奥へ込み上げたものを、ゆっくりと押し戻した。


 彼を以前へ戻すことを、今、約束できるわけではない。


 そう願えば叶うと、自分へ言い聞かせることもできない。


 それでも、ここから先へ進ませてはいけないと思っている。


 その判断を、最後まで、言葉にして伝えたかった。


 アテナは、一歩、机の方へ近づいた。


 図面へ手を伸ばすためではない。


 彼自身を見て、頼むためだった。


「……最後に、もう一度だけお願いします。ご自分で、研究を止めてください」


 ゆっくりと、言い終えた。


 最後という言葉を、軽く使いたくはなかった。


 聞いてくれなければ何かを壊してやると、脅したかったのでもない。


 ここで彼が、自分の考えで手を止める。


 その選択を、なお、求めていた。


 アテナは、返事を待った。


 顔を見つめていると、以前、仕組みの難しいところを尋ねたときの姿が重なる。


 分からないまま進めるのはよくないと、彼も、何度も考え直してきた。


 そうした日々を知っているからこそ、待つ時間が苦しかった。


「申し訳ありませんねぇ♪ それは、できません♪」


 返事は、変わらなかった。


 アテナの手が、小さく震えた。


 研究を止めない。


 今、目の前にある流れを、自分の意思では止めない。


 彼は、そう答えた。


 しばらくの沈黙。


 奥のエネルギーが、静まることはなかった。


 ここで何もしなければ、実験は続く。


 もう少しだけ待てば、何も言わずに止めてくれるだろうかという考えへ、逃げたくなる。


 けれど、彼自身の返事を聞いたばかりだった。


 アテナは、自分の指先を見た。


 その手で、幾つもの資料を一緒に開いた。


 彼の説明へ頷き、思いついたことを指し示した。


 今、その同じ手を、研究を止めるために使う。


 そして、アテナは両手を前へ出した。


 淡い光が、彼女の周囲へ集まる。


 まだ、相手へ向けて放ってはいない。


 自分が何をするつもりなのかを、告げるための時間があった。


 アテナは、彼から目を逸らさなかった。


「……でしたら、私が止めます」


「……おや?」


 ヘルカイザーの視線が、彼女の両手と、その周囲の光へ向いた。


 いつもの研究についての提案とは違う。


 アテナは、実際に、流れを止めようとしている。


 そのことが、今、二人の前にはっきりと置かれた。


「これ以上、誰かが傷つくことを見過ごすわけにはいきません」


 言いながら、アテナは、光を保った。


 怒りに任せて彼を狙うためのものではない。


 接続へ働きかけるため、考えてきた術式だった。


 何を望まれていないかは、分かっている。


 それでも、その不快を避けることより、今、流入を止めることを選ぶ。


 ヘルカイザーは、しばらく彼女を見つめていた。


 アテナも、視線を返した。


 その間にも、言わずに済んだかもしれない言葉を探したくなる。


 別の頼み方をしていればよかったのか。


 今、光を消せば、さきほどまでの穏やかな会話へ戻れるのか。


 けれど、それを選ぶことは、研究を続ける彼へ、そのまま向き合うことだった。


 認められないと答えた自分が、今、何をするかを決めなければならなかった。


「……なるほどですねぇ♪」


 そして、寂しそうに微笑んだ。


「……それは、残念ですねぇ♪」


 その表情を見て、アテナの胸が締めつけられた。


 彼が、自分の言葉を理解していないのではなかった。


 聞いた上で、残念だと答えている。


 友人と研究について話す時間が、今、違うものへ変わろうとしていた。


 アテナは、震える息を吐いた。


 つらいから、ここでやめる。


 その答えだけは、選べなかった。


     ◇


 最初に動いたのは、アテナだった。


 両手の前へ集まっていた光が、はっきりとした形を持つ。


 黄金の術式が研究室へ広がる。目的は、ヘルカイザーの身体を傷つけることではない。


 貯蔵庫と次元神の力を結ぶ経路を遮断し、マイナスエネルギーの流入を止めること。


 構造図で確かめた接続を、頭の中でもう一度辿る。


 目の前に見える黒さへ、力をぶつければよいのではなかった。


 どこを通り、どこへ届いているのか。


 その繋がりへ向けて、術式を伸ばした。


 黄金の線が、机の向こうへ広がっていく。


 以前なら、その光の組み立てを、彼と並んで眺めたかもしれない。


 今は、向かい合ったまま、届く先を見ていた。


 アテナは、指先をわずかに動かした。


 途中で乱れれば、狙ったところへ働かない。


 急ぎたい気持ちを抑え、必要な形を保った。


 しかし――。


「おやおや♪ よく考えられた術式ですねぇ♪」


 ヘルカイザーが小さく前脚を動かす。


 空間が歪み、黄金の光は目的の場所へ届く前に逸らされた。


 アテナの目の前で、術式の向かう先が変わる。


 組み立てた形だけを見ていれば、そのまま届くように思えた。


 けれど、通っていくはずの道が、同じままではなかった。


 光が曲がる。


 繋ごうとした先へ、届かない。


「……っ!?」


 アテナは、息を詰めた。


 術式を消し飛ばされた衝撃を、身に浴びたわけではない。


 自分の放ったものが、目指した場所から逸れた。


 そのことを、まず、正確に見なければならなかった。


 彼の前脚へ視線が向き、次いで、歪んだ空間へ戻る。


 予想していなかった力ではない。


 それでも、実際に止めようとして使ったとき、届かないという事実は、胸へ鋭く迫った。


 アテナは術式を組み直す。それでも、次元神の力が道を塞ぐ。


 もう一度、どこへ向かわせるかを考えた。


 さきほどと同じ形を、そのまま強くするだけでは、同じところへ逸らされる。


 黄金の線を追い、目的の接続へ近づけるよう、組み立てを改める。


 目の前の研究室は変わらない。


 机も、図面も、貯蔵庫も見えている。


 それなのに、見えている先へ光を届かせる道が、彼の力によって閉ざされる。


 アテナは、その違いへ、何度も目を向けた。


 目標を見失ったのではない。


 彼に届かせる意志が弱いのでもない。


 自分が組んだ術式と、空間へ作用する彼の力が、今、同じ場所で向き合っている。


 その結果として、道が塞がれていた。


「……くっ……!」


 両手へ、力が入る。


 焦れば、光の形が乱れる。


 そのことを知っていても、黒い流れを見ていると、早く止めなければと思わずにはいられなかった。


 アテナは、短く息を吐いた。


 彼の身体を傷つける方法へ、目的を変えるつもりはない。


 今止めたいのは、集め続けているその経路だった。


 届かなかったからといって、その問いを忘れるわけにはいかない。


「無理をなさらないでください、アテナさん♪」


 穏やかな声がした。


 アテナは、顔を上げた。


 彼は、本当に彼女の身を案じていた。


 だが、研究を止めるつもりはない。


 その二つが、同じ声の中にある。


 ここで自分が手を下ろせば、彼は、気遣ってくれるだろう。


 だからといって、貯蔵庫から届くものを、自分の意思で止めるわけではない。


 アテナは、そのことを分かっていた。


 声の優しさへ身を委ね、もうよいと答えることはできなかった。


「……私は引きません!」


 黄金の光が、さらに強く輝く。


 アテナは、もう一度、術式へ意識を向けた。


 届かない場所があるなら、その働きを見なければならない。


 怖いと思う気持ちも、傷つけたくないという願いも、消えたわけではなかった。


 それでも、手を下ろさなかった。


 ここへ来る前、自分で決めたことを、今は、実際の行為として続けている。


 ヘルカイザーは、その決意を見つめていた。


 かつて自分を励まし、研究を喜んでくれた友人。


 その彼女が、今、自分を止めようとしている。


 目の前の光が、間違って自分へ向けられたわけではないことは、分かっていた。


 何をするつもりかを、彼女は、はっきりと告げた。


 自分でやめてほしいと頼み、断られたから、今度は、自分が止めると言った。


 その言葉どおりに、術式を使っている。


 ヘルカイザーは、彼女へ視線を戻した。


 アテナが何を心配しているかは、昨日の資料からも、今の言葉からも知っている。


 その知恵を軽んじたわけではない。


 けれど、自分には、続けなければならない研究があった。


 世界から苦しみを減らすために、ここまで考え、形にしてきた。


 アテナにも、その意味を分かってほしかった。


 それなのに、目の前では、その方法を妨げるために、黄金の光が伸びている。


 彼にとって、それは、残念なことだった。


「……友人だと思っていた方が、自分の研究を力ずくで止めようとなさるとは……」


 アテナの肩が、小さく震えた。


 友人だと思っていた。


 その言葉が、胸へ落ちる。


 光を保ったまま、彼女は、彼を見た。


 自分は、友人でなくなったつもりなどない。


 今も、大切に思っている。


 その気持ちがあるから、止めたいと願い、ここに立っていた。


 けれど、実際に力を使っていることも、本当だった。


 心配しているという言葉だけで、自分の行為を、彼にとって何の痛みもないものへ変えることはできない。


 アテナは、その事実を前にしながら、なお、伝えたかった。


「……私は、あなたを傷つけたいのではありません!」


 彼の身体へ向けた術式ではない。


 接続を止め、流入を遮るためのものだ。


 そのことは、彼も見ているはずだった。


 それでも、言葉にしなければいられなかった。


 嫌いになったから、ここへ来たのではない。


 苦しめることを望んで、両手を前へ出したのではなかった。


「ええ♪ それは分かっていますよ♪」


 返事は、すぐにあった。


 アテナは、息を止めた。


 分かっている。


 その言葉を聞いたからといって、安堵はできなかった。


 分かっていないから拒んでいるのなら、まだ説明を重ねられたのかもしれない。


 今、彼は、自分の意図を知っていると答えた。


 その上で、黄金の光が通る道を塞いでいる。


 友人を傷つけたくないという願いが、同じ結論を選ぶ理由にはならなかった。


 しかし、彼は静かに告げた。


「……ですが、自分の研究を邪魔していただくわけにはいきませんねぇ♪」


 アテナは、両手を下ろさなかった。


 聞いた答えを、今度こそ、行為として向けられるのだと分かった。


 彼にとって、自分は、研究を止めようとしている相手だ。


 その研究を守るために、彼も力を使う。


 どちらも、何をしようとしているかを知らないままではなかった。


 互いの言葉を聞き、望んでいることを知り、その上で、ここに立っている。


 アテナは、唇を引き結んだ。


 怖くないわけではない。


 この先、彼と力を向け合うことになると考えるだけで、胸が痛んだ。


 それでも、光を消すことはできなかった。


 ヘルカイザーの小さな身体が、向かいにある。


 見慣れた白い姿だった。


 研究を話すときの明るい声も、先ほど自分を気遣った穏やかさも、そこに残っている。


 その相手の前で、アテナは、止めるための術式を保っていた。


 黒い翼が広がる。


 机の上へ落ちる影が、ゆっくりと形を変えた。


 アテナは、目を逸らさなかった。


 自分が何を止めようとしているかを、最後まで見ていなければならない。


 漆黒のエネルギーが、研究室を包み込む。


 黄金の光は、その中で、なお、形を保とうとしていた。


 同じ机の前で、知恵を交わした日々がある。


 その記憶を、どちらも忘れたわけではなかった。


 けれど今、研究を続けるために伸ばされる力と、それを止めるための術式が、同じ空間へ向かっている。


 アテナは、両手へ意識を集めた。


 ヘルカイザーも、彼女の光を見つめていた。


 そして、かつて知恵を分かち合った二人は、初めて真正面から力をぶつけ合った。

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