第17話 知恵の女神の決断
神界の夜明け。
窓から差し込む光が、執務室の床をゆっくりと明るくしていった。
机の端へ置いた紙にも、淡い色が戻り始める。けれど、そこに並ぶ記録を、アテナは、新しい気持ちで読み直せるわけではなかった。
夜が明けても、彼から聞いた答えは変わらない。
アテナは、執務室の机に広げられた研究資料を見つめていた。
かつて二人で完成を喜んだ、マイナスエネルギー貯蔵庫。
その装置から負のエネルギーが流れ込み、ヘルカイザーの価値観は完全に変わってしまった。
もう、元へ戻す方法はない。
その結論を書き留めた紙を、指で押さえる。
何度読んでも、目が自然に、その前後へ向かった。ここまで調べたことのどこかに、まだ見落とした意味があるのではないかと、確かめたくなる。
けれど、願いを重ねても、書かれたことが別の答えへ変わることはなかった。
アテナは、紙から、ゆっくりと手を離した。
研究室で、彼は、自分の目を見て答えた。
流入を知っていたこと。装置の稼働に問題がないと考えたこと。そして、世界中のマイナスエネルギーを、自分自身へ集めようとしていること。
自分が調査した内容にも、目を通してくれた。
その上で、彼は、それでも進めるのだと語った。
聞き違いや、伝え損ねた言葉だけを探し続けることは、もうできなかった。
彼が何も知らないからだと思えば、教えるために資料を揃えればよい。
今は、それだけの話ではない。
同じ記録を読み、同じ危険について話しながら、選ぶ方法が違ってしまった。
アテナは、椅子に座り直した。
窓の外へ目を向けても、胸の重さは変わらなかった。
少し前まで、明るくなる空を見るたび、今日こそ研究室を訪ねられるだろうかと考えた。新しい資料を見せたかった。彼の話を聞きたかった。
忙しくて会えないのなら、また機会を作ればよい。
そう思って過ごしてきた時間がある。
今は、訪ねて話せば、それで安心できるとは言えない。
それでも、会わずにいればよいということにはならなかった。
机の上には、届かなかったものについての記録も置いてある。
手紙。託した資料。面会を断られたときに聞いた説明。
そこに残った疑問を、忘れたわけではなかった。
ただ、今すぐその全てを調べ終えなければ、ヘルカイザー自身へ向き合えないのだとは思わない。
彼が何をしようとしているかは、既に本人から聞いた。
その研究は、待っている間にも進んでいく。
しかし、彼が世界中のマイナスエネルギーを自分へ集中させる研究を続ける以上、これ以上の危険を見過ごすわけにはいかなかった。
アテナは、構造図を手前へ寄せた。
ここへ繋がっている。
流れは、この経路を通って、彼自身へ届く。
図面の線を追うと、かつて同じところを指し、仕組みを教えてもらったときの声が思い浮かんだ。
その知識を、今、研究を止めるために使おうとしている。
指先が、紙の上で止まった。
彼は、どう思うだろう。
嬉しそうに見せてくれた図面だった。自分も、もっと教えてほしいと身を寄せて聞いた。
それを覚えているのは、アテナだけではない。
昨日も、古い噴水の図面を見せてくれた。
友人と過ごした日を大切にしている相手へ、その研究を認められないと伝えた。
今度は、言葉だけではなく、実際に止めることまで考えている。
つらくないはずがなかった。
アテナは、机へ置いた手を握った。
元へ戻せないから、何もできない。
そう考えてしまえば、この図面を閉じることはできるだろう。
けれど、これから進めようとしている研究まで、止められないと決まったわけではない。
以前の価値観へ戻すことと、今、エネルギーを集める行為を止めることは、同じ問題ではなかった。
望んでいた答えを得られなかったからといって、これからの危険を、そのままにしてよい理由にはならない。
アテナは、そのことを、自分へ確かめるように考えた。
手を伸ばした先には、仕組みを描いた線がある。
彼の身体を傷つける必要はない。
集めるための接続へ働きかけ、流れを止めることを考えなければならなかった。
もちろん、それを彼が望まないことも分かっている。
やめてほしいと頼み、できないと答えられたばかりだった。
それでも、必要ならば、もう一度、自分の意思で止めてほしいと伝える。
その返事を聞かず、何も告げないまま動こうとは思わなかった。
アテナは、図面へ視線を戻した。
知らない仕組みに、願いだけを向けるわけにはいかない。
何を止めたいのか。そのために、どこへ術式を届かせなければならないのか。
接続を辿りながら、考えを詰める。
初期の設計と、その後の記録を並べ、食い違うところへ目を留めた。
分かっている範囲を越えて、都合よく働くはずだと考えることはできない。
自分が知っていることを、できるだけ正確に使う必要があった。
ヘルカイザーの力が、ただ強いだけのものではないことも、知っている。
空間へ働きかける彼を前に、見える装置へ光を向けるだけで届くとは限らない。
だからこそ、経路を考えた。
アテナは、紙の端へ、小さく指を添えた。
以前なら、考えついた方法を、彼に見せて意見を聞いた。
ここが難しいのではないかと尋ねられれば、一緒に考え直した。
その相手を止めるための術式を、今は、一人で組み立てなければならない。
胸が痛むたび、手を止めたくなった。
けれど、その痛みを理由に、図面を閉じることはしなかった。
「……ヘルカイザーさん」
アテナは、静かに顔を上げた。
呼びかけても、ここからは届かない。
それでも、彼の名を口にすると、何のために考えているのかが、はっきりした。
研究を嫌いになったからではない。
彼を苦しめたいのでも、出会ったことを後悔しているのでもなかった。
大切な友人が、危うい方法を正しいと考え、そのまま進もうとしている。
それを、知ってしまった。
「……私は、あなたを止めなければなりません」
小さな声だった。
誰かへ認めてもらうための宣言ではない。
これから向き合う相手が、かつてと同じ笑顔を向けてくれたとしても、自分の判断を曖昧にしないための言葉だった。
アテナは、もう一度、構造図へ目を向けた。
朝の光が、その紙の上まで届いていた。
◇
その頃、研究室ではヘルカイザーが実験を進めていた。
机には、アテナへ見せた構想が広げられている。
世界中のマイナスエネルギーを、一つの先へ集める。
紙に記したその考えを、彼は、改めて見直していた。
昨日、アテナが伝えたことを、忘れたわけではなかった。
調べた資料は、実に丁寧だった。接続についても、流入についても、長い時間の中で何が起きるかを考え、説明してくれた。
その知恵へ向けた感心は、本当だった。
けれど、それを読んだからといって、自分が進めようとしている方法を、やめるべきだとは思わなかった。
研究を重ね、考えてきた。
より多くの魂を救うために、この接続を使うことができる。
彼にとって、今、確かめたいのは、その実現へ向けた働きだった。
「ふむふむ……なるほどですねぇ♪」
小さな前脚が、図面のそばを動く。
貯蔵庫と、自分自身の次元神の力。
その接続を利用すれば、世界に存在するマイナスエネルギーをより効率的に集められる。
既に、流れがあることは確認している。
それを、ただ起きているものとして記録するだけで終える必要はなかった。
自分へ繋がっているのなら、その仕組みを、研究のために使えばよい。
ヘルカイザーは、貯蔵庫の方へ顔を向けた。
漆黒の奥へ、視線を進める。
そこへ蓄えられたものと、自分自身を結ぶ経路がある。
世界規模の構想を実現するために、まず、目の前にあるその流れを確かめる。
彼の中では、その順序が自然に定まっていた。
「……まずは、こちらから試しましょうかねぇ♪」
彼は自らの意思で、貯蔵庫から流れ込むエネルギーを増やした。
以前とは違う。
かつては、装置の接続によって少しずつ流れ込んでいた。今は彼自身が望み、積極的に集めている。
ヘルカイザーは、その変化へ注意を向けた。
何かが起きているのを知らず、背を向けているのではない。
自分の選んだ操作で、流れが変わる。
その働きを、実験として見ていた。
漆黒のエネルギーが、小さな白い身体へ吸い込まれていく。
白い身体と、黒い流れ。
その境目を前にしても、彼の顔へ恐れは浮かばなかった。
装置の動きと、自分へ集まるものを、順に確かめる。
望んだ方向へ実験が進んでいるという実感が、胸にあった。
「……いやはや、なかなか良いですねぇ♪」
その顔には、いつもの笑顔があった。
初めて魂が楽になったときにも、彼は、研究の成果を喜んだ。
今も、成功へ近づくことを喜んでいる。
その二つの喜びが、彼の中で途切れているわけではなかった。
だから、やめるべきだという答えへ、ここから考えが向かうことはない。
もっと多くを救うために、進める。
彼は、そのために、自分自身へエネルギーを集めていた。
◇
アテナは、貯蔵庫の稼働記録に異変を見つけた。
流入を示す箇所へ目を留め、前の記録へ戻る。
読み違いではないかと、並びを確かめた。
長く稼働していた間に、少しずつ積み重なったものを見ているのではなかった。
今、増えている。
「……流入量が、増えている……!」
声にすると、胸が強く鼓動した。
指を置いた箇所から、もう一度、記録を辿る。
装置が長く稼働したためだけでは説明できない変化。
彼は既に、自分自身へマイナスエネルギーを集め始めている。
研究室で見せられた、集約先の文字が浮かんだ。
あの図面は、遠い未来について語っただけのものではなかった。
自分がやめてほしいと頼み、断られた後にも、彼は、自分の考えた方法へ進んでいる。
アテナは、椅子から立ち上がった。
資料の端が、手の下でずれる。
それを直してからと思いかけ、手を止めた。
必要な仕組みは、確かめた。
向こうで何が起きているかを、自分の目で見なければならない。
「……止めなければ……!」
アテナは、研究室へ急いだ。
廊下を進みながら、もう一度、考える。
増えた流入を止める。
そのために、まず、彼へ直接頼む。
昨日と同じ返事かもしれない。それでも、今起きていることを前に、もう一度尋ねる必要があった。
自分は、彼が望んで操作していると考えている。
ならば、その自分の意思でやめることも、選んでほしかった。
友人の研究を、力で妨げる。
朝から考えていたその行為が、近づく扉と一緒に、現実の重さを持ち始める。
アテナは、足を緩めなかった。
嫌われることが怖くないわけではない。
彼が残念そうに目を伏せるところを、見たくもなかった。
けれど、それを避けるためだけに、今の変化を見なかったことにはできなかった。
研究室の扉へ辿り着く。
昨日も、ここで足を止めた。
同じ場所なのに、今は、胸の鼓動がいっそう速かった。
「……ヘルカイザーさん!」
扉の向こうから、明るい声が返ってくる。
「おやおや♪ アテナさんでしたか♪ どうぞ、お入りください♪」
その声を聞きながら、アテナは、扉を開けた。
研究室の奥では、以前よりも濃くなった漆黒のエネルギーが渦巻いていた。
視線が、そこへ引き寄せられる。
記録にあった増加が、今は、目の前にあった。
流れている。
装置と彼を結ぶ先で、実験が続いている。
アテナは、入口で一度、息を整えた。
駆けつけた勢いのまま、言葉を重ねてはいけない。
何をしているかを尋ね、その返事を聞く必要がある。
アテナは、静かに尋ねる。
「……もう、始めていたのですね」
「ええ♪ ちょうど実験を始めたところなんですよ♪」
彼は、隠さなかった。
自分が何を見ているかを知り、そのとおりだと答えた。
アテナへ向ける顔にも、後ろめたさはない。
実験をしているところへ友人が来た。
彼にとっては、そのような時間なのだろう。
その自然さが、アテナには悲しかった。
「……やめてください」
「おや?」
「もう、それ以上は……!」
奥で渦巻く黒い流れへ、目が向く。
以前よりも濃い。
今も、その先へ届いていく。
それを見ながら、落ち着いて待つことは難しかった。
けれど、叫べば操作が止まるわけではない。
アテナは、彼の顔へ視線を戻した。
ヘルカイザーは、穏やかに首を傾げた。
「ご心配いただき、ありがとうございます♪ ですが、この研究が完成すれば、もっと多くの魂を救えますからねぇ♪」
心配していることは、分かっている。
それでも、続ける。
昨日聞いた答えと、同じところへ向かう言葉だった。
アテナは、唇を噛みかけ、すぐに息を吸った。
その先にある成果の話だけで、今の彼に起きていることを済ませてほしくはなかった。
長く流れ込み、価値観へ影響が及んだ。
そのことは、既に伝えている。
さらに自分の意思で増やすという行為を、これ以上、見ていたくなかった。
「……あなた自身が、どれほど危険な状態なのか……!」
「ふむふむ。ですが、自分が引き受ければ、他の方々は苦しまずに済むのでしょう?♪」
あまりに自然な返答だった。
アテナの胸が痛んだ。
自分が引き受ける。
その言葉だけを聞けば、他者のために身を差し出す、優しい答えのようにも思える。
けれど、今、目の前で進んでいるのは、それだけで語れることではなかった。
彼自身の判断が、既に変わっている。
その彼が、誰かが苦しむ方法であっても、全体のためなら選ぶ価値があると答えた。
その先へ、さらに力を集めようとしている。
自分が望んで引き受けるのだから大丈夫だという言葉では、その危険は消えなかった。
アテナは、喉の奥へ込み上げたものを、ゆっくりと押し戻した。
彼を以前へ戻すことを、今、約束できるわけではない。
そう願えば叶うと、自分へ言い聞かせることもできない。
それでも、ここから先へ進ませてはいけないと思っている。
その判断を、最後まで、言葉にして伝えたかった。
アテナは、一歩、机の方へ近づいた。
図面へ手を伸ばすためではない。
彼自身を見て、頼むためだった。
「……最後に、もう一度だけお願いします。ご自分で、研究を止めてください」
ゆっくりと、言い終えた。
最後という言葉を、軽く使いたくはなかった。
聞いてくれなければ何かを壊してやると、脅したかったのでもない。
ここで彼が、自分の考えで手を止める。
その選択を、なお、求めていた。
アテナは、返事を待った。
顔を見つめていると、以前、仕組みの難しいところを尋ねたときの姿が重なる。
分からないまま進めるのはよくないと、彼も、何度も考え直してきた。
そうした日々を知っているからこそ、待つ時間が苦しかった。
「申し訳ありませんねぇ♪ それは、できません♪」
返事は、変わらなかった。
アテナの手が、小さく震えた。
研究を止めない。
今、目の前にある流れを、自分の意思では止めない。
彼は、そう答えた。
しばらくの沈黙。
奥のエネルギーが、静まることはなかった。
ここで何もしなければ、実験は続く。
もう少しだけ待てば、何も言わずに止めてくれるだろうかという考えへ、逃げたくなる。
けれど、彼自身の返事を聞いたばかりだった。
アテナは、自分の指先を見た。
その手で、幾つもの資料を一緒に開いた。
彼の説明へ頷き、思いついたことを指し示した。
今、その同じ手を、研究を止めるために使う。
そして、アテナは両手を前へ出した。
淡い光が、彼女の周囲へ集まる。
まだ、相手へ向けて放ってはいない。
自分が何をするつもりなのかを、告げるための時間があった。
アテナは、彼から目を逸らさなかった。
「……でしたら、私が止めます」
「……おや?」
ヘルカイザーの視線が、彼女の両手と、その周囲の光へ向いた。
いつもの研究についての提案とは違う。
アテナは、実際に、流れを止めようとしている。
そのことが、今、二人の前にはっきりと置かれた。
「これ以上、誰かが傷つくことを見過ごすわけにはいきません」
言いながら、アテナは、光を保った。
怒りに任せて彼を狙うためのものではない。
接続へ働きかけるため、考えてきた術式だった。
何を望まれていないかは、分かっている。
それでも、その不快を避けることより、今、流入を止めることを選ぶ。
ヘルカイザーは、しばらく彼女を見つめていた。
アテナも、視線を返した。
その間にも、言わずに済んだかもしれない言葉を探したくなる。
別の頼み方をしていればよかったのか。
今、光を消せば、さきほどまでの穏やかな会話へ戻れるのか。
けれど、それを選ぶことは、研究を続ける彼へ、そのまま向き合うことだった。
認められないと答えた自分が、今、何をするかを決めなければならなかった。
「……なるほどですねぇ♪」
そして、寂しそうに微笑んだ。
「……それは、残念ですねぇ♪」
その表情を見て、アテナの胸が締めつけられた。
彼が、自分の言葉を理解していないのではなかった。
聞いた上で、残念だと答えている。
友人と研究について話す時間が、今、違うものへ変わろうとしていた。
アテナは、震える息を吐いた。
つらいから、ここでやめる。
その答えだけは、選べなかった。
◇
最初に動いたのは、アテナだった。
両手の前へ集まっていた光が、はっきりとした形を持つ。
黄金の術式が研究室へ広がる。目的は、ヘルカイザーの身体を傷つけることではない。
貯蔵庫と次元神の力を結ぶ経路を遮断し、マイナスエネルギーの流入を止めること。
構造図で確かめた接続を、頭の中でもう一度辿る。
目の前に見える黒さへ、力をぶつければよいのではなかった。
どこを通り、どこへ届いているのか。
その繋がりへ向けて、術式を伸ばした。
黄金の線が、机の向こうへ広がっていく。
以前なら、その光の組み立てを、彼と並んで眺めたかもしれない。
今は、向かい合ったまま、届く先を見ていた。
アテナは、指先をわずかに動かした。
途中で乱れれば、狙ったところへ働かない。
急ぎたい気持ちを抑え、必要な形を保った。
しかし――。
「おやおや♪ よく考えられた術式ですねぇ♪」
ヘルカイザーが小さく前脚を動かす。
空間が歪み、黄金の光は目的の場所へ届く前に逸らされた。
アテナの目の前で、術式の向かう先が変わる。
組み立てた形だけを見ていれば、そのまま届くように思えた。
けれど、通っていくはずの道が、同じままではなかった。
光が曲がる。
繋ごうとした先へ、届かない。
「……っ!?」
アテナは、息を詰めた。
術式を消し飛ばされた衝撃を、身に浴びたわけではない。
自分の放ったものが、目指した場所から逸れた。
そのことを、まず、正確に見なければならなかった。
彼の前脚へ視線が向き、次いで、歪んだ空間へ戻る。
予想していなかった力ではない。
それでも、実際に止めようとして使ったとき、届かないという事実は、胸へ鋭く迫った。
アテナは術式を組み直す。それでも、次元神の力が道を塞ぐ。
もう一度、どこへ向かわせるかを考えた。
さきほどと同じ形を、そのまま強くするだけでは、同じところへ逸らされる。
黄金の線を追い、目的の接続へ近づけるよう、組み立てを改める。
目の前の研究室は変わらない。
机も、図面も、貯蔵庫も見えている。
それなのに、見えている先へ光を届かせる道が、彼の力によって閉ざされる。
アテナは、その違いへ、何度も目を向けた。
目標を見失ったのではない。
彼に届かせる意志が弱いのでもない。
自分が組んだ術式と、空間へ作用する彼の力が、今、同じ場所で向き合っている。
その結果として、道が塞がれていた。
「……くっ……!」
両手へ、力が入る。
焦れば、光の形が乱れる。
そのことを知っていても、黒い流れを見ていると、早く止めなければと思わずにはいられなかった。
アテナは、短く息を吐いた。
彼の身体を傷つける方法へ、目的を変えるつもりはない。
今止めたいのは、集め続けているその経路だった。
届かなかったからといって、その問いを忘れるわけにはいかない。
「無理をなさらないでください、アテナさん♪」
穏やかな声がした。
アテナは、顔を上げた。
彼は、本当に彼女の身を案じていた。
だが、研究を止めるつもりはない。
その二つが、同じ声の中にある。
ここで自分が手を下ろせば、彼は、気遣ってくれるだろう。
だからといって、貯蔵庫から届くものを、自分の意思で止めるわけではない。
アテナは、そのことを分かっていた。
声の優しさへ身を委ね、もうよいと答えることはできなかった。
「……私は引きません!」
黄金の光が、さらに強く輝く。
アテナは、もう一度、術式へ意識を向けた。
届かない場所があるなら、その働きを見なければならない。
怖いと思う気持ちも、傷つけたくないという願いも、消えたわけではなかった。
それでも、手を下ろさなかった。
ここへ来る前、自分で決めたことを、今は、実際の行為として続けている。
ヘルカイザーは、その決意を見つめていた。
かつて自分を励まし、研究を喜んでくれた友人。
その彼女が、今、自分を止めようとしている。
目の前の光が、間違って自分へ向けられたわけではないことは、分かっていた。
何をするつもりかを、彼女は、はっきりと告げた。
自分でやめてほしいと頼み、断られたから、今度は、自分が止めると言った。
その言葉どおりに、術式を使っている。
ヘルカイザーは、彼女へ視線を戻した。
アテナが何を心配しているかは、昨日の資料からも、今の言葉からも知っている。
その知恵を軽んじたわけではない。
けれど、自分には、続けなければならない研究があった。
世界から苦しみを減らすために、ここまで考え、形にしてきた。
アテナにも、その意味を分かってほしかった。
それなのに、目の前では、その方法を妨げるために、黄金の光が伸びている。
彼にとって、それは、残念なことだった。
「……友人だと思っていた方が、自分の研究を力ずくで止めようとなさるとは……」
アテナの肩が、小さく震えた。
友人だと思っていた。
その言葉が、胸へ落ちる。
光を保ったまま、彼女は、彼を見た。
自分は、友人でなくなったつもりなどない。
今も、大切に思っている。
その気持ちがあるから、止めたいと願い、ここに立っていた。
けれど、実際に力を使っていることも、本当だった。
心配しているという言葉だけで、自分の行為を、彼にとって何の痛みもないものへ変えることはできない。
アテナは、その事実を前にしながら、なお、伝えたかった。
「……私は、あなたを傷つけたいのではありません!」
彼の身体へ向けた術式ではない。
接続を止め、流入を遮るためのものだ。
そのことは、彼も見ているはずだった。
それでも、言葉にしなければいられなかった。
嫌いになったから、ここへ来たのではない。
苦しめることを望んで、両手を前へ出したのではなかった。
「ええ♪ それは分かっていますよ♪」
返事は、すぐにあった。
アテナは、息を止めた。
分かっている。
その言葉を聞いたからといって、安堵はできなかった。
分かっていないから拒んでいるのなら、まだ説明を重ねられたのかもしれない。
今、彼は、自分の意図を知っていると答えた。
その上で、黄金の光が通る道を塞いでいる。
友人を傷つけたくないという願いが、同じ結論を選ぶ理由にはならなかった。
しかし、彼は静かに告げた。
「……ですが、自分の研究を邪魔していただくわけにはいきませんねぇ♪」
アテナは、両手を下ろさなかった。
聞いた答えを、今度こそ、行為として向けられるのだと分かった。
彼にとって、自分は、研究を止めようとしている相手だ。
その研究を守るために、彼も力を使う。
どちらも、何をしようとしているかを知らないままではなかった。
互いの言葉を聞き、望んでいることを知り、その上で、ここに立っている。
アテナは、唇を引き結んだ。
怖くないわけではない。
この先、彼と力を向け合うことになると考えるだけで、胸が痛んだ。
それでも、光を消すことはできなかった。
ヘルカイザーの小さな身体が、向かいにある。
見慣れた白い姿だった。
研究を話すときの明るい声も、先ほど自分を気遣った穏やかさも、そこに残っている。
その相手の前で、アテナは、止めるための術式を保っていた。
黒い翼が広がる。
机の上へ落ちる影が、ゆっくりと形を変えた。
アテナは、目を逸らさなかった。
自分が何を止めようとしているかを、最後まで見ていなければならない。
漆黒のエネルギーが、研究室を包み込む。
黄金の光は、その中で、なお、形を保とうとしていた。
同じ机の前で、知恵を交わした日々がある。
その記憶を、どちらも忘れたわけではなかった。
けれど今、研究を続けるために伸ばされる力と、それを止めるための術式が、同じ空間へ向かっている。
アテナは、両手へ意識を集めた。
ヘルカイザーも、彼女の光を見つめていた。
そして、かつて知恵を分かち合った二人は、初めて真正面から力をぶつけ合った。




