第16話 交わらない正義
研究室の扉の前で、アテナは足を止めた。
抱えてきた資料の端へ、指を添え直す。
順番は、執務室で何度も確かめた。流入を示す記録。その流れが長く続いたこと。そして、魂へ浸透した負のエネルギーが、判断の基準へ及ぼす影響。
どれも、友人に知ってほしいことだった。
けれど、ここへ来るまでの間に考えた説明が、扉を前にすると、うまく繋がらなくなった。
少し前までなら、新しい資料を持ってきたと告げればよかった。
彼は喜んで迎え、机の上を空けてくれただろう。図を覗き込み、気になるところへ目を留め、まだ自分が思いついていなかった問いを口にする。
その時間を、アテナも楽しみにしていた。
今日持ってきた紙に、彼は、どのような顔を向けるのだろう。
回廊の光景が、胸をよぎった。
自分が何度も止めてほしいと訴えたことも、彼が、その声を聞きながら続けたことも、忘れてはいない。
それでも、扉の向こうにいる相手へ、自分で尋ねるために来た。
アテナは、小さく息を吸った。
「……ヘルカイザーさん?」
研究室の扉を叩くアテナの声は、少し震えていた。
言い終えてから、持っている資料へ目を落とす。
紙の上の文字が変わることはない。何を調べたかも、何を確かめたいかも、なくなってはいなかった。
そのことを思いながら、返事を待った。
「おや? アテナさんでしたか♪ どうぞ、お入りください♪」
返ってきた声には、聞き慣れた明るさがあった。
アテナは、一瞬、胸が緩むのを感じた。
自分だと分かって、入ってよいと答えてくれた。その声を聞くことが、今も嬉しい。
けれど、その嬉しさだけで、来た理由を忘れるわけにはいかなかった。
彼女は、扉を開いた。
部屋の中には、変わらない光景が広がっていた。机いっぱいの設計図。新しい発明品。そして、嬉しそうにこちらを迎える小さな白いドラゴン。
置かれている紙の形も、机から覗く道具も、研究を続けていたことを示している。
それを見て、何を作ったのかと尋ねそうになった。
彼が楽しんで説明する姿を、アテナは知っている。その話を聞く自分の顔まで、思い出せた。
今も、ここには、そのように話せるものがあるのだろう。
何もかもが失われたような部屋ではなかった。
だからこそ、目の前の姿と、自分が調べたことを、同時に見つめるのがつらかった。
「お久しぶりですねぇ♪」
「……はい」
アテナは、彼の笑顔を見つめた。
あの事件などなかったかのような穏やかさ。
しかし、奥に広がる漆黒の貯蔵庫を見ると、胸の痛みは消えなかった。
初めて完成したときにも、ここで、二人は同じ装置を見ていた。
苦しむ魂から怨みや憎しみを取り去り、大切な思いを損なわずに済むようにする。そのために、何度も資料を読み、考えを交わした。
救われた魂の言葉も、覚えている。
あれは、確かに成功だった。
その事実を否定したいのではない。喜んだ自分を正当化するために、今見えている危険を無視したいのでもなかった。
この装置と彼自身の間で、何が起きているか。
それについて、話さなければならない。
アテナは、抱えていた資料へ目を落としてから、顔を上げた。
「……研究について、お話を伺えますか?」
「もちろんですよ♪」
ヘルカイザーは、嬉しそうに設計図を広げた。
すぐに答えが返ってきたことに、アテナは、かすかな希望を感じた。
少なくとも、話を聞く機会はある。
研究を見せたくないと拒まれたのではなかった。彼は、自分の考えていることを知ってもらおうとしている。
そのことを大切にしながら、差し出された紙へ視線を向けた。
以前、庭園で見た資料よりも、構想が具体的になっている。
計算の並びを追い、どこからどこへ向かうものかを確かめた。
そこには、世界規模のマイナスエネルギー回収と、一つの集約先について記されていた。
『集約先――自分自身』
「…………!」
アテナの指が止まる。
最初は、その短い文字列から目を動かせなかった。
読み違えたのだろうか。
前に書かれた説明へ視線を戻し、もう一度、その先へ進む。
やはり、同じ言葉がある。
自分自身。
装置の外へ漏れる流れを抑えるための記述でも、既に起きている流入を記録しただけの箇所でもなかった。
彼は、そこを、集める先として記している。
アテナは、紙を押さえたまま、ヘルカイザーを見た。
「……これは、どういう意味ですか?」
「そのままですよ♪ 世界中のマイナスエネルギーを自分へ集めるんです♪」
訂正は、なかった。
彼が示した文字と、その口から語られた目的は、同じだった。
アテナは、返事をしようとして、うまく声を出せなかった。
流れ込みについて、知ってもらうために資料を持ってきた。
自分へ負のエネルギーが届いていることを、研究の危険として伝えたかった。
けれど、彼は、その先へ集める案を、嬉しそうに説明している。
同じものを見ているはずなのに、今、その位置が、あまりにも遠かった。
「……まさか……」
「この世のマイナスエネルギーを自分に集中させれば、世界は平和になるでしょう?♪」
彼の声は、疑いなく明るかった。
答えを迫っている声ではない。
長く考えてきた案を友人へ見せ、その意義を説明している。
アテナには、その様子が分かった。
何かを作り、うまく働けば喜び、もっとよくできると思えば目を輝かせる。その姿を、これまで何度も見てきた。
だから、この言葉も、相手を困らせるための冗談ではないと分かってしまう。
彼は、本気で平和を願っている。
そして、そのために、ここへ集めようとしている。
アテナは、慎重に言葉を選んだ。
「……あなたは、貯蔵庫から自分へエネルギーが流入していることをご存じだったのですか?」
まず、そこを確認しなければならなかった。
自分の調査で知ったことを、彼がどこまで把握しているのか。
記録に残っているというだけで、今の理解まで決めつけるつもりはない。
彼自身の答えを待った。
「ええ♪ 以前から確認していますよ♪」
アテナは、資料を持つ指へ力が入るのを感じた。
知らなかったのではない。
その流れを、確かめていた。
では、なぜ。
問いが、胸の内から、声になってこぼれた。
「……でしたら、どうして……!」
「装置の稼働に問題がありませんでしたのでねぇ♪」
装置。
アテナは、彼の言葉を、頭の中でもう一度聞いた。
貯蔵庫が動いている。魂から負のエネルギーを取り去り、蓄える仕組みが働いている。
それを確かめたことは、分かる。
けれど、調べたかったのは、そのことだけではなかった。
接続の先にいる彼へ、何が起きているのか。
そこを見過ごしたまま、問題はないという答えにはできない。
アテナは、机へ資料を置いた。
「……装置ではありません。あなた自身の問題なのです!」
思ったよりも、強い声が出た。
その響きが部屋へ落ちた後、アテナは、短く息を整えた。
強く言うだけで分かってもらえるとは思っていない。
何を調べ、何を心配しているかを、示さなければならなかった。
彼女は、調査した資料を差し出した。
負のエネルギーは、単なる力ではない。長く流入すれば価値観に影響を与える。ヘルカイザーは既に、以前と異なる判断をするようになっている。
伝える順番を考えてきた言葉が、今度は、少しずつ繋がった。
わずかな流れでも、長い時間がある。
その間に、貯蔵量も増え続けていた。
一度の計測だけを見てよいという話ではない。
アテナは、流入の記録を指し、それに関係する箇所を開いた。
何が資料から確かめられることで、何を自分が実際に見たのか。その違いも、できるだけ丁寧に伝えた。
回廊でのことを口にすると、喉が詰まりそうになった。
それでも、そこだけを曖昧にはできない。
アテナの訴えを知りながら、彼は、苦しめる行為を続けた。
何が起きているかを見ていなかったからではない。その行為を、必要だと考えていた。
以前との違いを伝えるために、その事実を置いた。
ヘルカイザーは熱心に資料を読んだ。
文字を追う姿に、アテナは、声を止めた。
読み終える前に、答えを求めたくはなかった。
彼が資料の次の箇所へ目を移すのを待つ。
そこに、いつもの真剣さがある。
自分が持ってきた調査を、雑に扱っているのではなかった。
それならば、伝わるところがあるかもしれない。
ほんのわずかでも、今進めている方法を考え直す理由にしてもらえるだろうか。
アテナは、紙の端を見つめながら、その答えを待った。
「……なるほどですねぇ♪ さすがアテナさんです♪」
感心した声だった。
調べたことの価値を認め、知恵を喜んでいる。
その言葉を聞いた瞬間、アテナの胸に、昔と同じ嬉しさが浮かびかけた。
けれど、続く答えを聞く前に、それを安心へ変えることはできなかった。
何を理解し、その上で何を選ぶのか。
今、聞かなければならないのは、そこだった。
しかし、結論は変わらなかった。
「ですが、自分は長い研究の末に、この答えへ辿り着いたんですよ♪研究が進めば、考え方が変わることもあるでしょう?♪」
アテナは、返事を探した。
研究を重ねて考え方が変わること自体を、否定したいのではない。
自分たちも、初めに思いついた案を、そのまま正しいものとして扱ってきたわけではなかった。
調べた結果から図面を直し、互いの指摘で、もっとよい方法へ進んできた。
その変化を、彼は、今も大切にしているのだろう。
けれど、その説明の中に、流入が判断へ及ぼした影響は、研究を止める理由として置かれていなかった。
自分で考えたから。
長く研究を続けて出した答えだから。
その答えを選ぶ自分に、何が働いていたのかを伝えても、彼は、それを誤りだとは考えない。
「……そういう問題ではありません……」
言葉が、小さくなった。
今、読み上げた記述を、もう一度繰り返すべきだろうか。
影響があることを、もっと詳しく説明すればよいのだろうか。
アテナは、彼が読み終えた資料へ目を落とした。
説明は、聞いてくれた。
紙にも、目を通した。
その上で、辿り着いた答えだと言っている。
知ってもらえば同じところへ戻れるという願いだけでは、この先の言葉を見つけられなかった。
彼女は、机に広げられた設計図を見た。
世界中から、彼自身へ。
この構想で、何を救い、どのような方法を選ぶつもりなのか。
問いを、そこへ向け直した。
アテナは、一つの問いを投げかけた。
「苦しむ魂を救うことが目的だったのですよね?」
「もちろんです♪」
返事に、迷いはなかった。
その目的を捨てたとは、彼も思っていない。
救えたときに嬉しそうに笑った友人の姿が、思い浮かぶ。
今の返事にも、同じ言葉がある。
けれど、それだけでは、もう十分ではなかった。
アテナは、次の問いを口にした。
「では、誰かが苦しむことになっても、エネルギーを集め続けるのですか?」
尋ね終えると、胸が強く鼓動した。
違うと言ってほしかった。
そこは、考え直さなければならないと答えてほしかった。
研究を喜んできた日々に、何度も大切にしてきたものがある。
魂が何を感じているかを見ず、量の話だけで進めてはいけない。
庭園でも、自分は、それを伝えた。
彼は、そのとき、頷いてくれた。
今、その頷きの先にある考えを、聞いている。
「全体として、より多くの魂を救えるのであれば、その方法を選ぶ価値はあると思いますよ♪」
アテナは、言葉を失った。
彼は、本気でそう考えている。
それが、何より恐ろしかった。
苦しむ誰かがいることを、忘れているのではなかった。
問いの中にあったその条件を知り、全体の結果を理由として、選ぶ価値があると答えた。
自分が心配していたことへ、彼は、まっすぐ答えている。
その返事を、アテナが聞き違えたことにはできなかった。
机の上には、同じ資料がある。
二人は、それを読むことができる。
使われている言葉の意味も、知らないわけではない。
それでも、その先で選ぶものが違っていた。
アテナは、指先をゆっくりと引いた。
何か言わなければと思うほど、声が出なかった。
そこへ、もっと多くという説明を重ねられても、今の答えを認めることはできない。
その一人が苦しむことを、正しい結果へ進む途中だからと済ませたくはなかった。
自分は、何を伝えればよいのだろう。
アテナは、目の前の友人を見つめた。
優しく応じてくれる顔がある。
自分の問いを、面倒だと退けている顔ではない。
だからこそ、まだ聞いてもらえることと、答えが変わることの間にある距離が、胸へ迫った。
◇
「……お願いします。マイナスエネルギーの集約を、やめてください」
アテナは、まっすぐに友人を見つめた。
資料を読む前へ戻って、同じ説明を繰り返すことはしなかった。
危険については、伝えた。
彼が何を知り、何を考えているかも、聞いた。
その上で、今、やめてほしいと願っている。
研究を大切にしていることは、知っていた。
長い時間を費やし、幾つもの案を考え、この設計図へ辿り着いたことも、分かる。
けれど、そこへ向かう歩みを見てきたからといって、このまま進んでほしいとは言えなかった。
研究を否定されるつらさよりも、今、それを続けた先にあるものを考えてほしかった。
アテナは、返事を待った。
「……ふむ」
ヘルカイザーは、少し考えてから穏やかに答えた。
「申し訳ありませんねぇ♪ それだけは、できません♪」
胸の奥が、冷たくなった。
断られる可能性を、考えてこなかったわけではない。
調べた結論を見つめたときから、以前の彼へ戻ることを願うだけではいけないと、自分へ言い聞かせていた。
それでも、今の言葉を聞くまでは、どこかで待っていたのだろう。
友人の願いとして、考えてくれるかもしれない。
少しだけでも、ここで止まると答えてくれるかもしれない。
その願いへ向けて、できないという返事があった。
「……どうして……!」
「世界を平和にするためですからねぇ♪」
初めから変わらない目的が、もう一度告げられた。
世界を平和にする。
かつてなら、その言葉を聞いて、自分も力になりたいと思っただろう。
今も、苦しみのない世界を望むことそのものへ、反対したいのではなかった。
けれど、同じ目的を口にするだけでは、その方法を認める理由にならない。
誰かが苦しむことになっても選ぶという答えを、既に聞いている。
その上で、平和のためだと語る彼へ、アテナは、すぐに次の言葉を返せなかった。
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
机の上へ置いた自分の手が、視界に入る。
少し前まで、同じ場所へ紙を並べるとき、そこにためらいはなかった。
その線はどうなっているのか。こちらの案は、考えてみただろうか。
問いを向けるたび、研究の続きが開けるように感じていた。
以前なら、意見が違っても話し合いを続けられた。
互いの知恵を喜び、間違いに気づけば修正した。
初めから全ての考えが同じだったから、親しくなれたわけではない。
違う見方があることが、楽しかった。
自分の知らなかったものを教えられ、彼が思いつかなかったことを伝えた。
そのやり取りが、二人の研究を進めていた。
しかし今、ヘルカイザーは自分の研究を止める理由を認めなかった。
アテナは、自分の資料へ目を向けた。
持ってきた紙は、まだ机にある。
順番を変え、別の箇所を先に見せれば、答えが違っただろうか。
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
けれど、それだけではないことも、今は分かっている。
彼は読んだ上で、答えた。
アテナの心配を知らずに進もうとしているのではなかった。
説明の順番だけを直し続ければ、いつか以前の返事へ辿り着けると思うことはできない。
それでも、机を挟んだこの距離を、遠いと認めるのは、つらかった。
部屋の中には、新しい図面がある。
そこへ、自分の手で修正を書き加える未来を、アテナは楽しみにしていた。
今日も、ここへ来るまでは、何かを伝えるために紙を揃えた。
同じように訪ねてきたはずなのに、その先が繋がらない。
アテナは、目を伏せた。
そのとき、ヘルカイザーが、別の紙へ手を伸ばした。
ふと彼は、古い噴水の設計図を取り出した。
アテナは、息を止めた。
見覚えのある線だった。
今、広がっている世界規模の構想とは違う、小さな仕組みの図。
その紙が、まだここにあった。
「こちら、覚えていらっしゃいますか?♪」
「……もちろんです」
すぐに、返事が出た。
忘れるはずがなかった。
あのとき、ここはどうかと指した場所も、彼が工夫したところを説明した声も、思い出せる。
まだ、この研究室で過ごした時間が少なかった頃だった。
一つの仕掛けを前に、考えを交わすのが楽しかった。
アテナは、紙の端へ視線を移した。
古い図面を、彼も捨てていなかった。
覚えているかと聞いた声にも、懐かしさがある。
自分だけが大切にしていた記憶ではなかったのだと分かり、胸が、いっそう痛くなった。
「あのときは、随分と水が飛び散りましたねぇ♪」
その言葉と一緒に、あの日の光景が戻った。
水の動きを見ようとしていた。
思ったよりも勢いがあり、気づいたときには、顔へかかっていた。
驚きと、その後の可笑しさを、今も覚えている。
ヘルカイザーも、その同じ瞬間を思い出しているのだろう。
彼の笑顔へ目を向けると、アテナの顔にも、少しだけ笑みが浮かんだ。
アテナは、涙混じりに笑った。
「……私の顔に、かかってしまいましたね……」
言い終わると、目の奥が熱くなった。
楽しかった。
今、そう言うことに、嘘はなかった。
悲しい話をするために来たからといって、あの時間を、初めから間違っていたものへ変えることはできない。
自分は、彼の研究に出会えて嬉しかった。
彼と話すことを楽しみにし、一緒に考えることを喜んだ。
その記憶が、古い紙の線を見ただけで、こんなにも鮮やかに戻ってくる。
懐かしい記憶は、今も二人に残っている。
だからこそ、今の対話は悲しかった。
彼が思い出を失ったのなら、初めから何も知らない相手として、自分は話そうとしたのだろうか。
けれど、そうではなかった。
彼も覚えている。
同じ出来事を懐かしく語り、そのときの自分へ、親しみを向けている。
それでも、先ほどの答えは変わらない。
アテナは、噴水の図面と、新しい設計図を見た。
どちらも、彼の研究だった。
古いものを大切に思う気持ちを、今の方法へ頷く理由にはできなかった。
同じように、今の考えを認められないからといって、あの図面を前に笑った自分を、消したくもなかった。
アテナは、目元を拭った。
声を出すまでに、少し時間がかかった。
伝えたいことは、初めから変わっていない。
けれど、今、言葉にしなければ、懐かしさの中へ隠して帰ってしまいそうだった。
「……ヘルカイザーさん。私は、あなたの才能を尊敬しています」
取り繕うための言葉ではなかった。
彼が作ったものを見て、驚いたことがある。
自分にはなかった考え方を聞き、もっと知りたいと思ったことがある。
その力で救われた魂がいることも、知っている。
今でも、そこへ向ける敬意を失ったわけではなかった。
だからこそ、次に伝える言葉を、それと一緒に聞いてほしかった。
「おやおや♪ ありがとうございます♪」
ヘルカイザーは、嬉しそうに礼を言った。
その返事を聞きながら、アテナは、指を握り込んだ。
喜んでくれたことが嬉しい。
それでも、ここで話を終えれば、今日、自分が何を伝えに来たのかが、消えてしまう。
彼女は、友人をまっすぐ見た。
「……ですが、今のあなたの考えを認めることはできません」
言い終えるまで、目を逸らさなかった。
古い図面が、視界の端にあった。
その思い出を大切にしながら、今は、同意できないと伝えている。
自分が何を思っているかを、彼も知っている必要がある。
友人だから、言いにくかった。
その同じ理由で、黙っていてはいけないと思った。
「……そうですかぁ」
ヘルカイザーは、静かに頷いた。
驚いて、言葉の意味を尋ね直すことはなかった。
アテナが認められないと考えていることを、そのまま聞いた。
その静けさの中で、彼女は、次の返事を待った。
考え直す余地が、まだ残っているのだろうか。
ここから、別の話し方が見つかるだろうか。
「残念ですが、考え方は人それぞれですからねぇ♪」
穏やかな言葉が、机を挟んで届いた。
アテナは、唇を開きかけた。
けれど、すぐには、何も言えなかった。
考え方が違う。
確かに、自分たちは、同じ答えを選ばなかった。
その違いを、彼は、今、そう語った。
しかし、研究室の外にまで及ぶ構想がある。
その方法を選ぶ先には、自分たち以外の魂がいる。
自分が賛成しないと伝え、彼が違う考えを選んだと言えば、それで済む話なのだろうか。
アテナの胸には、そうではないという思いがあった。
けれど、その思いを、もう一度問いにして向けても、先ほどの答えへ戻るのだろう。
より多くを救うためなら、その方法を選ぶ価値がある。
世界を平和にするためだから、やめられない。
彼が、そう考えていることは、聞いた。
自分も、認められないと伝えた。
同じ言葉を繰り返せば、その距離がなくなるとは、今は言えなかった。
アテナは、もう何も言えなかった。
◇
机の上には、持ってきた資料と、彼が広げた設計図が並んでいた。
それを見ていると、まだ話の途中であるように思えた。
紙を閉じる必要などなく、ここから、二人で新しい案を考えればよい。
そんな時間へ、手を伸ばしたくなる。
けれど、今日は、集約をやめるという返事を聞けなかった。
アテナは、その事実を、曖昧にしたまま帰りたくはなかった。
会えたことは嬉しかった。
説明を聞けたことにも、意味がある。
何を考えているかを、自分の耳で確かめることができた。
それでも、心配していたことがなくなったわけではなかった。
むしろ、記録だけでは分からなかった彼の選択が、今、はっきりと目の前にある。
アテナは、噴水の図面へ、最後にもう一度目を向けた。
同じ記憶を、二人とも大切にしている。
そのことが、今日の答えを変えないと知るのは、つらかった。
自分は、彼の研究が楽しかったからこそ、何でも頷いてきたわけではない。
気になるところがあれば尋ね、違うと思えば伝えた。
それを、彼も喜んでくれた。
今も、伝えたこと自体を責められはしなかった。
ただ、その言葉が、研究を止める理由にはならなかった。
アテナは、ゆっくりと姿勢を正した。
ここで、彼の答えを聞かなかったことにして、以前のような話を続けることはできなかった。
研究室を出るとき、ヘルカイザーはいつものように丁寧に頭を下げた。
その動きも、覚えていたとおりだった。
訪ねてきた友人を送り出す、親しみのある仕草。
扉へ向かったアテナは、そこで、少しだけ立ち止まった。
「また、お話しできて楽しかったですよ♪」
胸が、強く痛んだ。
その言葉まで、嘘だとは思えなかった。
彼にとっても、自分と話せた時間は、嬉しいものだったのだろう。
資料を読み、研究を見せ、古い噴水のことを語った。
そこで交わした親しさは、確かにあった。
アテナも、会いたいと思っていた。
訪ねるまで怖かったことと、会えて嬉しかったことが、今、一緒に胸の中にある。
だから、返す言葉を、嘘にはしたくなかった。
「……私も、お会いできて良かったです……」
声が、少し震えた。
答えが違っても、会わなければよかったとは思えない。
彼自身の言葉を聞いた。
自分が調べたことも、考えていることも、伝えた。
何も確かめずに、誰かの説明だけを信じて待っていた時間とは違う。
今日の話を、これから考えるために、持ち帰らなければならなかった。
アテナは、静かに一礼した。
扉が閉まった後、アテナはその前で長く立ち尽くした。
もう、彼の顔は見えない。
それでも、さきほどの声が、耳の奥に残っていた。
世界を平和にするため。
考え方は人それぞれ。
どちらも、穏やかに告げられた言葉だった。
もし、何も知らずにその声だけを聞けば、いつもの研究の話をしているように思えただろう。
アテナは、胸元へ手を添えた。
流入の影響を知ってほしいと願った。
その危険を伝えれば、少なくとも、集めることをやめてくれるかもしれないと思った。
けれど、彼は、それを、自分が長い研究の末に選んだ答えだと語った。
自分の目的と、その方法の間に、止まらなければならない理由を見つけていなかった。
今は、どこが違っているかを、知ってしまった。
アテナは、ゆっくりと息を吐いた。
泣きたいと思った。
扉を開け直し、もう一度、お願いしたくもなった。
けれど、先ほどの対話がなかったことにはならない。
友人としての言葉を向ければ、必ず応じてくれるという関係へ、願いだけで戻ることはできなかった。
そのことを認めるのに、時間が必要だった。
扉の前から、すぐには動けなかった。
この向こうには、まだ友人がいる。
自分を喜んで迎え、懐かしい話をし、別れ際に礼を言った相手がいる。
大切でなくなったから、反対したのではなかった。
その大切な相手が、自分には認められない方法を選ぼうとしている。
アテナは、目を閉じた。
戻す方法がないという結論は、今日、彼と話せたことで消えたわけではない。
同じように、今の研究を続けてよいと、自分の考えが変わったわけでもなかった。
どうすればよいかは、これから考えなければならない。
今、ここで、全ての答えを持っているわけではない。
それでも、見過ごしてはいけないことだけは、はっきりしていた。
「……それでも……止めなければなりません……」
声は、扉の前へ、小さく落ちた。
彼が自分を嫌ったのなら、話は、もっと単純に見えただろうか。
けれど、親しみが残っていることは、今の研究を安全にする理由にはならなかった。
その声が好きだから。
会えて嬉しかったから。
懐かしい図面を、彼も大切に持っていたから。
どれも、アテナにとって、本当のことだった。
その本当の気持ちを抱えながら、なお、続けてほしくないと考えている。
ここへ来る前に、自分へ誓ったことを思い出した。
認められない行為は、認められないと伝える。
以前の返事を聞ける保証がなくても、向き合うことをやめない。
今日は、それを伝えた。
そして、彼も、自分の答えを返した。
アテナは、その答えを持ったまま、ようやく扉から目を離した。
友人だからこそ、譲れないものがある。
二人はもう、同じ結論を見つめてはいなかった。




