第15話 知恵の女神の疑念
事件から数日後。
アテナの机には、マイナスエネルギー貯蔵庫の初期資料が積み重ねられていた。
必要な箇所を開くために挟んだ紙が、あちこちから覗いている。
手前には、まだ何も書いていない一枚を置いた。
アテナは、その白い紙を見つめていた。
何から記せばよいのかを、考えている。
回廊で聞いた声は、今も思い出せた。ヘルカイザーが顔を向け、いつものように挨拶したことも、鮮明だった。
何度呼びかけても、彼は止まらなかった。
その記憶から書き始めれば、紙は、すぐに問いで埋まるだろう。
どうして。
なぜ、あのようなことを。
アテナは、ゆっくりと息を吐いた。
問いを置くだけでは足りない。それを確かめるために、何を知っているのかを記さなければならなかった。
机の端から、最も古い図面を引き寄せる。
記憶だけを、都合のよい順番で並べたくはなかった。
「……最初から、確認しましょう」
彼女は、これまでの出来事を一つずつ書き並べた。
ヘルカイザーとの出会い。研究の日々。人間だった頃の話。貯蔵庫の構想。そして完成。多くの魂が救われたこと。
書いた言葉の脇へ、関係する資料を置く。
出会った日のすべてに、記録があるわけではなかった。
噴水の前で、誰がどの言葉を先に口にしたか。その細かなところまで、資料だけで確かめることはできない。
けれど、持ち帰って書いた図が残っている。
読み直した資料の箇所も、書き留めてある。
アテナは、それを見ながら、分かる範囲を記した。
自分の記憶から書いているところには、そう分かるように言葉を添える。
彼について感じたことと、実際に見たことも、同じ一文にしてしまわないようにした。
以前は優しかった。
それだけでは、どこで何が変わったのかを確かめられない。
何を聞き、何を見て、そのように思ったのか。
アテナは、最初の行へ戻って、もう少し具体的な言葉を書いた。
さらに、神々の侮辱と、あの事件。
その箇所へ筆が進むと、手が止まった。
紙の上では、短く並ぶ出来事だった。
侮辱された。包みを捨てられた。相手を苦しめた。
それだけを続けて読めば、一つの説明ができてしまう。
けれど、自分が見たものは、それで説明できるだろうか。
アテナは、書いた言葉を読み返した。
「……違いますね」
アテナは、静かに首を振った。
ヘルカイザーは、偽物の神と呼ばれても本当に気にしていなかった。
自分で作った力だから、そのとおりだと答えた。
あのとき、自分は、彼が無理をしているのではないかと尋ねた。相手を心配させまいとして、笑っているのだろうかと考えた。
けれど、その返事の後にも、彼の関心は自然に図面へ戻った。
意見を聞いてほしいところがあると話し始めた。その案を説明する声にも、作った楽しさがあった。
今、悲しい結末を見たからといって、そのときの姿まで別のものへ書き換えたくはなかった。
彼を変えた原因が、神々への恨みだとは思えない。
回廊でも、彼が怒った理由は、はっきりしていた。
アテナから託された包みを、神が捨てた。
その信頼を踏みにじったのだと、彼は説明した。
偽物と呼ばれたから腹を立てたのではなかった。人間だったことを隠したがっていたわけでもない。
アテナは、その違いを、紙へ残した。
自分のために怒ったのだと考えると、胸が痛む。
けれど、その痛みを理由に、彼の行為を小さく扱うことはできなかった。
資料を捨てたことと、その相手へ彼がしたこと。
どちらにも、目を向ける必要がある。
アテナは、次の行へ筆を進めた。
しかも、あの事件では取り乱したわけではなかった。自分が正しいと信じ、アテナがどれほど懇願しても止まらなかった。
こちらの声が届いていなかったのではない。
ヘルカイザーは、返事をした。
やめてほしいと求めていることを知り、その上で、今回はできないと答えた。
そのときの穏やかな声が、耳に残っている。
急に何も分からなくなって、後から気づいたのだという話ではなかった。
終わった後にも、自分は自分だと言った。
アテナは、その言葉を、紙へ書こうとして止まった。
友人へ向けた笑顔を、思い出す。
そこに親しさが残っていることと、彼が行為を疑っていないことが、同時にあった。
「……価値観そのものが、変わってしまった……?」
書きかけの一行を読み直した。
まだ、それだけで原因が分かったわけではない。
何かを経験すれば、考え方が変わることはある。研究を進める中で、以前の案を捨て、新しい答えを選ぶこともある。
ヘルカイザーは、何度も、そのように図面を直してきた。
だから、変わったという言葉だけでは、説明にならない。
何が、その判断へ働いたのか。
いつから、どのように変わり始めていたのか。
アテナは、机へ並べた研究記録に目を向けた。
回廊の事件は、突然目の前へ現れた。
けれど、それより前に、何もなかったと言えるだろうか。
庭園で、久しぶりに資料を見せてもらった日を思い出した。
回収量と処理範囲についての計算が、幾つも並んでいた。
熱心な説明を聞きながら、気になることがあった。
救おうとしているのは、数字ではなく魂そのもの。
そう伝えると、彼は、確かにそのとおりだと頷いた。
アテナは、ほっとした。
話を聞いてくれたのだから、これからも一緒に考えられると思った。
けれど、頷いた後に、彼が何を考えたのかまでは尋ねていなかった。
同じ言葉を大切だと答えても、その先で選ぶ方法まで、同じになるとは限らなかったのだろうか。
アテナは、その疑問も書き留めた。
今、ここで、彼が考えたことを想像だけで埋めるつもりはない。
ただ、自分が確かめていなかったところとして、残した。
それから、もう一度、初期の資料を開いた。
◇
考えを重ねるうち、アテナは貯蔵庫の構造図へ目を留めた。
負のエネルギーを分離し、別の空間へ移して蓄える。
何度も説明を聞き、何度も見比べた図だった。
アテナは、紙を手前へ寄せた。
装置がどう働いたかを確認するために、見てきた箇所がある。
魂へどのような変化があったか。それを確かめるための記録もある。
その先へ、もう一度、目を向けた。
「……この接続……」
貯蔵庫は独立した装置ではない。
ヘルカイザー自身の次元神の力と、直接繋がっていた。
知っていたことだった。
その力を扱う仕組みがあるから、装置が働く。
彼女は、そのことを説明され、研究の中でも考えてきた。
けれど、今、別の問いから見ると、同じ接続が違う意味を持った。
移したものは、蓄えられている。
それは、ヘルカイザーの力と繋がった空間だった。
その繋がりを通じて、何が彼へ届くのだろう。
アテナは、構造図を押さえた。
「……まさか……!」
貯蔵された負のエネルギーが、その経路を通じて彼へ流れ込んでいたのではないか。
顔を上げかけて、もう一度、図へ目を戻した。
思いついただけで、原因と決めることはできない。
確かめるものが必要だった。
アテナは、関係する記録を探した。
装置の動きについて書かれた紙を、一枚ずつ見ていく。
以前に読んだときは、何を気にしていたかを思い出した。
分離した結果。蓄えられた量。魂の状態。
それらに関係する数字と、今、探している流れについての記述を、照らし合わせた。
アテナは、古い記録と現在の計測値を照らし合わせた。
わずかな流入。長期の稼働。増え続ける貯蔵量。
一つひとつは小さく見える。しかし、積み重ねれば無視できない。
彼女は、流入を示す箇所に指を置いた。
見つけたからといって、すぐに次の紙へ進めなかった。
ここへ、記録されている。
自分が今、ようやく疑ったことの手がかりが、紙の上にあった。
アテナは、その前後を読み直した。
装置が動いているという確認と、自身へ流れ込んでいるという記録は、同じ意味ではない。
研究が続けられているからといって、その流れが何も及ぼさないとは言えない。
彼女は、手元の一枚へ、確認できたことを書き出した。
何が流れているのか。
どの繋がりを通り、いつから記録に残っているのか。
その日だけの数字を見て終わらせず、前と後を並べる。
流れ込みを、長い時間の中へ置き直した。
それでも、その紙だけで、影響の全てを語ることはできなかった。
アテナは、筆を止めた。
流入がある。
では、それは、彼の判断へ何をもたらすのか。
そこを確かめなければ、今回の問いには答えられない。
構造図の隣へ、出来事を書いた紙を置く。
貯蔵庫が働いていた時間と、自分が友人について見ていたことを、同じ机へ並べた。
初めて魂を救ったときの笑顔がある。
回収量を重視し始めた資料がある。
そして、回廊で、自分の制止を聞いても止まらなかった判断がある。
アテナは、何度も視線を往復させた。
「……ヘルカイザーさん……」
名前を呼んでも、返事はない。
いつもなら、この箇所はどう考えたのかと尋ねるところだった。
彼も、資料を覗き込み、説明を始めただろう。
今、その資料を調べているのは、彼に何が起きたかを知るためだった。
アテナは、胸の痛みを抱えたまま、もう一度記録へ目を戻した。
分かったことを、見なかったことにはできない。
願った答えでなくても、確かめていかなければならなかった。
彼女は、ようやく原因の輪郭を掴み始めていた。
◇
さらに調査を進めたアテナは、魂へ負のエネルギーが長く浸透した場合について記された資料を調べた。
必要な記述へ目を向け、前の箇所へ戻る。
一行だけを抜き出せば、別の意味に読んでしまうかもしれない。
どのような状態について述べられているのか。何をもって変化とするのか。
彼女は、言葉の前後を確かめながら読んだ。
ヘルカイザーは、生まれながらの神ではない。
自分で神に近い力を作り上げたと、彼自身が話していた。
その来歴を、侮るためではなく、何を確かめる必要があるかを考えるために思い返す。
神々について知っている説明を、そのまま重ねてよいとは限らない。
初めて力を感じたときから、その違いはあった。
アテナは、資料と、実際の記録を比べた。
似ている言葉があるだけで、全て同じだと決めることはしなかった。
今、彼について確認できているものは何か。
その問いへ戻りながら、読み進めていった。
最初は、微細な影響。
考え方の重心が少しずつ変わる。
やがて、その存在が当然だと考える基準そのものが、変質していく。
アテナは、そこで、読む手を止めた。
基準が変わる。
口調や、姿が急に変わるとは書かれていない。
自分が友人の何を見て、安心していたかを考えた。
丁寧に話してくれた。
顔を合わせると、嬉しそうに笑った。
意見を伝えると、真剣に聞いて頷いた。
それらは、確かに見た姿だった。
けれど、そこに親しさがあることと、判断する基準が変わっていないことは、同じではない。
アテナは、ゆっくりと、次の行を読んだ。
本人には、研究や経験によって考えが進歩したように思えるかもしれない。
「……そんな……」
アテナの手が震えた。
彼は、変わってしまったと思っていないのかもしれない。
自分で考えた結論だから、正しいと思っている。
その結論を選ぶ自分自身に、何が働いていたかを知らなければ、どうなるだろう。
アテナは、回廊で聞いた返事を思い出した。
自分は自分。
その言葉に、迷いはなかった。
彼女は、資料の端を押さえ直した。
読み間違えていないだろうか。
そう思って、前の記述へ戻った。
最初から、大きな異常として現れるのではない。
長く触れ続けるうちに、考え方の中へ入り込む。
だから、本人が以前の目的を口にすることと、変化が進んでいることは、両立し得る。
アテナは、その説明を、出来事の記録と比べた。
思い出すのは、救われた魂の数よりもエネルギーの回収量を重視し始めたヘルカイザーの姿。
そして、友人の信頼を裏切った神を、三時間にわたって苦しめ続けた彼の笑顔。
苦しむ相手がいると伝えた。
彼は、死なないから大丈夫だと答えた。
死ななければよいという話ではないと、自分は叫んだ。
同じ事実を見ていたはずだった。
相手が苦しんでいることを、彼が知らないのではなかった。
ただ、その事実から、止めなければならないという判断へ進まない。
アテナは、紙へ目を落とした。
目の前で起きていることを伝えれば分かってくれると、何度も言葉を尽くした。
けれど、彼は、その先で選ぶ答えを変えなかった。
単に説明が足りなかったからなのだろうかと、繰り返し考えていた。
今は、その問いにも、別の重さが加わっている。
同じことを知っても、同じ判断には至らない。
その基準が、長い時間の中で変わっていたのなら。
アテナは、目を閉じた。
もっと早くと考える気持ちを、止めることができなかった。
「……もし、もっと早く……」
流入経路を調べ直すことができていたなら。
装置を停止できていたなら。
まだ価値観が完全に変わりきる前だったなら、対処できる余地があったかもしれない。
庭園で、回収量を重視していることに気づいた日があった。
自分は、気になったことを伝えた。
その言葉を聞いた彼が、どこへ考えを進めたのかを、もっと尋ねていたなら。
構造図を、装置の働きを確かめるためだけでなく、彼自身へ何が届くかという問いで見直していたなら。
資料を一緒に読む機会を、もう少し多く持てていたなら。
アテナは、机へ置いた手を握った。
どれも、今から過去へ向けることしかできない問いだった。
こうしていれば、必ず助けられたと言えるわけではない。
それでも、まだ調べられる時間があったことを、考えずにはいられなかった。
しかし今、ヘルカイザーは既に自分の考えを疑っていない。
アテナは、もう一度資料を開いた。
その段階へ至ったときに、何ができるか。
流れ込みを止めれば、それだけで以前の判断へ戻るのだろうか。
彼女は、その答えを探した。
止めることと、既に起きた変化を元へ戻すことを、同じものとして扱いたくはなかった。
装置の接続をどうするかという話だけで、解ける問題なのか。
読み返すたび、そこを確かめた。
流入の記録を読み、浸透についての資料へ戻る。
どこかに、違う結論へ繋がる記述はないだろうか。
そう願いながらも、書かれていない方法を、自分の願いで作るわけにはいかなかった。
アテナは何度も検討し、別の方法を探した。
読んだ紙を脇へ置き、別の資料を開く。
前に見つけた説明が、どの範囲までを述べていたかを、もう一度確認する。
初期の影響と、既に定着した価値観。その違いを、読み落としていないだろうか。
今の彼を、まだその前の段階として扱える根拠があるだろうか。
アテナは、回廊での言葉へ戻った。
自分の求めを知り、続けると決めた。
終わってからも、誤りとしては語らなかった。
悲しかったから、そう見えただけではない。
彼が何を言い、何を選んだかは、今も思い出せた。
その事実を、違うもので覆うことはできなかった。
それでも、結論は変わらなかった。
完全に侵食された価値観を、以前の状態へ戻す方法は存在しない。
アテナは、その一文を、すぐには自分の紙へ写せなかった。
机の上へ、まだ開ける資料が残っているような気がした。
読み直せば、別の意味になるのではないか。
確認していない箇所を探し、もう一度、紙を動かした。
けれど、調べた内容が変わるわけではなかった。
願いが強いことは、別の方法がある証拠にはならない。
アテナは、筆を置いた。
どこかで、元に戻るはずだと思っていた。
何が起きたのかさえ分かれば、その原因を取り除き、また以前のように話せるのではないかと願っていた。
その願いと、資料から確かめた結論が、今、同じところへ収まらなかった。
「……ああ……」
アテナは資料を抱きしめた。
紙が、胸元で小さく音を立てた。
初期の図面も、その中にある。
何も分からなかったところから、二人で考えた記録だった。
嬉しかった日のことまで、失いたくはなかった。
けれど、その日々へ戻る方法を、ここで見つけることはできなかった。
「……私も、あの装置が完成したとき、あんなに喜んだのに……」
声にすると、涙がこぼれた。
初めて、苦しくないという言葉が聞こえた。
ヘルカイザーが確認を終えるのを待ち、成功だと聞いて、顔を上げた。
素晴らしい発明だと、心から伝えた。
あの喜びを、嘘だったことにはできない。
あの発明が実際に魂を救ったのは、紛れもない事実だ。
だからこそ、喜んだこと自体が間違いだったとも思えない。
けれど、友人自身がその代償を負ってしまった。
アテナは、資料を持つ手に力を込めた。
何のために作ったのかを、二人で何度も話した。
大切な思いまで失わせてはいけないと、自分は伝えた。
その研究を続ける彼へ、何が流れ込んでいるのかを、もっと気にしていれば。
答えのない仮定が、また浮かぶ。
今から過去を変えられないことは、分かっていた。
それでも、言葉にならない後悔が、胸へ込み上げた。
「……ごめんなさい……」
涙が落ちた。
返事を求めて呼びかけたのではなかった。
ここに、ヘルカイザーはいない。
彼が今、どのようにこの研究を考えているのかも、まだ本人から聞けていない。
アテナは、しばらく、資料を抱えたまま俯いていた。
泣けば、結論が変わるわけではない。
けれど、今知ったことを、すぐに平静な顔で読み進めることもできなかった。
紙の上の線は、変わらない。
初めて見たときと同じ位置に、接続が描かれている。
それを見て喜んだ自分も、今、胸を痛めている自分も、同じ研究に向き合っている。
アテナは、やがて、ゆっくりと顔を上げた。
資料を机へ戻す。
角が曲がらないように、そっと置いた。
悲しかったからといって、記録を投げ出すわけにはいかなかった。
ここには、調べたことがある。
次に彼と話すためにも、残しておかなければならない。
◇
そしてアテナは、もう一つの疑問に気づいた。
回廊で見た、あの包み。
そのことを書き留めようとして、彼女は、これまでに友人へ送ろうとしたものを思い返した。
資料を選び、宛名を書き、誰かへ託したことがある。
渡したかったのは、紙だけではなかった。
読んだ感想を聞きたかった。その続きを、一緒に考えたかった。
だから、先に届けてもらえればよいと思った。
その思いを、彼は、どこまで知っていたのだろう。
回廊で包みを抱えたとき、ヘルカイザーは、気にかけてくれていたのだと礼を言った。
アテナは、その声を思い出した。
あの包み。
届かなかった手紙。
研究中だと断られた面会。
机へ置いた出来事の記録を、手前へ戻した。
それぞれ、そのときには、事情があると思っていた。
仕事が忙しい。
研究に集中している。
今は、面会を控えてほしい。
どれも、あり得ない話ではなかった。
自分にも執務があった。ヘルカイザーが、考え始めると熱心に取り組むことも知っている。
その説明に、相手を責める理由は見つからなかった。
だから、待った。
都合がよくなったときに、また会おうと思った。
「……どうして、あれほど行き違いが続いたのでしょう……」
アテナは、自分の記憶から、確かめられるところを選んだ。
手紙を書いた。
届けてほしいと頼んだ。
その相手は、引き受けた。
けれど、ヘルカイザーが受け取って読んだ場面を、自分で見たわけではない。
資料についても、渡したと返事を聞いたことがある。
その返事を、届いたという事実として考えていた。
アテナは、筆を止めた。
頼んだことを信じた。そのこと自体を、今、愚かだったと片づけることはできなかった。
相手が丁寧に引き受ければ、自分は礼を言い、仕事へ戻った。
普通のやり取りとして、それが成り立つと思っていた。
けれど、回廊での包みについては、彼自身が、捨てられたのだと説明した。
自分が託したものと、手渡されるまでの間に、何があったのか。
そこには、調べていない時間がある。
アテナは、その箇所へ、短く印をつけた。
偶然かもしれない。仕事が忙しかったのも事実だ。
しかし、同じ神が何度も関わっていることに、違和感を覚えた。
頼んだ場面を、一つずつ思い返す。
包みを受け取った声。
届いたかと尋ねたときの返事。
研究室の近くで、自分を呼び止めた姿。
その顔が、いくつかの記憶に重なった。
アテナは、そこで、すぐに断定する言葉を書かなかった。
同じ相手が関わったから、全て嘘だったとは、まだ言えない。
届かないものが一つあったからといって、ほかの出来事まで同じだったと決めることもできない。
けれど、何も気にせずに済ませてよいとは、もう思えなかった。
面会を控えてほしいと、本当にヘルカイザーが言ったのだろうか。
自分が訪ねたことは、彼へ伝わっていただろうか。
新しい研究の話を楽しみにしていると託した言葉は、どうなったのか。
アテナは、その問いを書き留めた。
まだ証拠はない。
ただ、調べる必要がある。
疑いが浮かんだだけで、誰かを責めるために動きたくはなかった。
知っていることと、確かめたいことを、混ぜてしまってはならない。
そのために、今、紙へ記している。
けれど、疑いを持った自分が嫌だからといって、問いを消すわけにもいかなかった。
アテナは、包みについての一行を見た。
自分が信頼して託したことは、本当だ。
ヘルカイザーが、その信頼を裏切った相手へ怒っていたことも、目の前で見た。
ならば、どのような裏切りがあったのかは、確かめるべきことだった。
同時に、それが分かっても、彼がしたことの全てが正しくなるわけではない。
そこも、曖昧にしたくなかった。
アテナは、出来事を並べた紙と、流入について調べた紙を見比べた。
会えない時間が続いたこと。
その間にも、研究が続き、負のエネルギーが流れ込んでいたこと。
今は、その両方を考えなければならない。
それでも、全てを一つの答えへ急いで繋げるつもりはなかった。
何が起きたかを、まだ知らないところがある。
自分が会いに行こうとしていたことを、彼が知らなかった可能性もある。
その問いは、今、本人へ向けなければ答えられないものとして残った。
それ以上に、今はヘルカイザー自身が何をしようとしているのか、直接確かめなければならなかった。
世界規模の構想を、進めていた。
庭園で見せられた資料には、広い範囲と、大きな回収量についての計算があった。
自分は、それを聞き、気になることを伝えた。
その後、どこまで案が変わったのか。
今、何を実現しようとしているのか。
本人の答えを聞かずに、知ったつもりになってはいけない。
アテナは、必要な資料を手元へ集めた。
最初に開いてもらいたいものを、上へ置く。
流入の記録と、長い浸透がもたらす影響について調べたものを、説明できる順番へ整えた。
以前も、こうして、彼へ見せる資料を選んだ。
違う問いを向けられるのが、楽しみだった。
今は、何と答えられるかを考えると、怖かった。
また、穏やかに頷かれるかもしれない。
話を聞いた上で、自分の研究は正しいと言われるかもしれない。
そのとき、自分は、何を伝えられるだろう。
アテナは、紙を揃える手を止めた。
怖いからといって、間に誰かを置き、伝えてもらうだけで済ませたくはなかった。
確かめたいのは、彼自身の考えだった。
その声を、自分で聞かなければならない。
「……私は、あなたと向き合います」
声にすると、悲しさがなくなったわけではなかった。
涙の跡も、まだ残っている。
戻す方法はないという結論が、急に軽くなることもなかった。
それでも、今から話すことに意味がないとは思いたくなかった。
彼が何をしようとしているかを聞く。
危ういと思うところを伝える。
認められない行為は、認められないと言う。
以前と同じ答えを返してくれる保証がなくても、それをやめる理由にはしたくなかった。
彼を元へ戻せると信じているからではない。
アテナは、最初の図面を、机の上へ残した。
持っていく資料とは別に、置いておきたかった。
あの時間が楽しかったことも、魂を救えたときに喜んだことも、これから伝える言葉のために消す必要はない。
思い出を否定しなければ、今の彼へ反対できないわけではなかった。
大切な相手だからこそ、分からないことを尋ねた。
研究の問題に気づけば、そのままにしなかった。
これからも、自分は、そのように彼と話したい。
その願いが、今は、以前よりも痛かった。
アテナは、持っていく紙を、もう一度読み直した。
ここに書いたことを、どこまで伝えられるだろう。
彼が自分の判断を変えないとしても、調べた内容を隠して帰るつもりはなかった。
友人だから何でも肯定するという関係には、したくなかった。
知恵を交わすときには、違う見方も伝えてきた。
今は、彼の研究だけではなく、その行為についても、言わなければならないことがある。
回廊で伝えきれなかったからといって、もう一度言葉にすることを諦めたくはなかった。
アテナは、資料を抱えて立ち上がった。
研究室へ向かうことを考えると、胸が強く鼓動した。
あの扉の向こうには、今も、ヘルカイザーがいる。
机へ図面を広げ、次に作るものを考えているのかもしれない。
その姿を知っているからこそ、笑顔だけを見て帰ってはいけないと思った。
何を正しいと信じ、何を選ぼうとしているのか。
そこへ、言葉を向けなければならなかった。
大切な友人だからこそ、その間違いを見過ごせないからだった。




