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転生した主人公が次元神になる外伝  作者: ヘルカイザー
知恵の女神と偽りの次元神

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第15話 知恵の女神の疑念


 事件から数日後。


 アテナの机には、マイナスエネルギー貯蔵庫の初期資料が積み重ねられていた。


 必要な箇所を開くために挟んだ紙が、あちこちから覗いている。


 手前には、まだ何も書いていない一枚を置いた。


 アテナは、その白い紙を見つめていた。


 何から記せばよいのかを、考えている。


 回廊で聞いた声は、今も思い出せた。ヘルカイザーが顔を向け、いつものように挨拶したことも、鮮明だった。


 何度呼びかけても、彼は止まらなかった。


 その記憶から書き始めれば、紙は、すぐに問いで埋まるだろう。


 どうして。


 なぜ、あのようなことを。


 アテナは、ゆっくりと息を吐いた。


 問いを置くだけでは足りない。それを確かめるために、何を知っているのかを記さなければならなかった。


 机の端から、最も古い図面を引き寄せる。


 記憶だけを、都合のよい順番で並べたくはなかった。


「……最初から、確認しましょう」


 彼女は、これまでの出来事を一つずつ書き並べた。


 ヘルカイザーとの出会い。研究の日々。人間だった頃の話。貯蔵庫の構想。そして完成。多くの魂が救われたこと。


 書いた言葉の脇へ、関係する資料を置く。


 出会った日のすべてに、記録があるわけではなかった。


 噴水の前で、誰がどの言葉を先に口にしたか。その細かなところまで、資料だけで確かめることはできない。


 けれど、持ち帰って書いた図が残っている。


 読み直した資料の箇所も、書き留めてある。


 アテナは、それを見ながら、分かる範囲を記した。


 自分の記憶から書いているところには、そう分かるように言葉を添える。


 彼について感じたことと、実際に見たことも、同じ一文にしてしまわないようにした。


 以前は優しかった。


 それだけでは、どこで何が変わったのかを確かめられない。


 何を聞き、何を見て、そのように思ったのか。


 アテナは、最初の行へ戻って、もう少し具体的な言葉を書いた。


 さらに、神々の侮辱と、あの事件。


 その箇所へ筆が進むと、手が止まった。


 紙の上では、短く並ぶ出来事だった。


 侮辱された。包みを捨てられた。相手を苦しめた。


 それだけを続けて読めば、一つの説明ができてしまう。


 けれど、自分が見たものは、それで説明できるだろうか。


 アテナは、書いた言葉を読み返した。


「……違いますね」


 アテナは、静かに首を振った。


 ヘルカイザーは、偽物の神と呼ばれても本当に気にしていなかった。


 自分で作った力だから、そのとおりだと答えた。


 あのとき、自分は、彼が無理をしているのではないかと尋ねた。相手を心配させまいとして、笑っているのだろうかと考えた。


 けれど、その返事の後にも、彼の関心は自然に図面へ戻った。


 意見を聞いてほしいところがあると話し始めた。その案を説明する声にも、作った楽しさがあった。


 今、悲しい結末を見たからといって、そのときの姿まで別のものへ書き換えたくはなかった。


 彼を変えた原因が、神々への恨みだとは思えない。


 回廊でも、彼が怒った理由は、はっきりしていた。


 アテナから託された包みを、神が捨てた。


 その信頼を踏みにじったのだと、彼は説明した。


 偽物と呼ばれたから腹を立てたのではなかった。人間だったことを隠したがっていたわけでもない。


 アテナは、その違いを、紙へ残した。


 自分のために怒ったのだと考えると、胸が痛む。


 けれど、その痛みを理由に、彼の行為を小さく扱うことはできなかった。


 資料を捨てたことと、その相手へ彼がしたこと。


 どちらにも、目を向ける必要がある。


 アテナは、次の行へ筆を進めた。


 しかも、あの事件では取り乱したわけではなかった。自分が正しいと信じ、アテナがどれほど懇願しても止まらなかった。


 こちらの声が届いていなかったのではない。


 ヘルカイザーは、返事をした。


 やめてほしいと求めていることを知り、その上で、今回はできないと答えた。


 そのときの穏やかな声が、耳に残っている。


 急に何も分からなくなって、後から気づいたのだという話ではなかった。


 終わった後にも、自分は自分だと言った。


 アテナは、その言葉を、紙へ書こうとして止まった。


 友人へ向けた笑顔を、思い出す。


 そこに親しさが残っていることと、彼が行為を疑っていないことが、同時にあった。


「……価値観そのものが、変わってしまった……?」


 書きかけの一行を読み直した。


 まだ、それだけで原因が分かったわけではない。


 何かを経験すれば、考え方が変わることはある。研究を進める中で、以前の案を捨て、新しい答えを選ぶこともある。


 ヘルカイザーは、何度も、そのように図面を直してきた。


 だから、変わったという言葉だけでは、説明にならない。


 何が、その判断へ働いたのか。


 いつから、どのように変わり始めていたのか。


 アテナは、机へ並べた研究記録に目を向けた。


 回廊の事件は、突然目の前へ現れた。


 けれど、それより前に、何もなかったと言えるだろうか。


 庭園で、久しぶりに資料を見せてもらった日を思い出した。


 回収量と処理範囲についての計算が、幾つも並んでいた。


 熱心な説明を聞きながら、気になることがあった。


 救おうとしているのは、数字ではなく魂そのもの。


 そう伝えると、彼は、確かにそのとおりだと頷いた。


 アテナは、ほっとした。


 話を聞いてくれたのだから、これからも一緒に考えられると思った。


 けれど、頷いた後に、彼が何を考えたのかまでは尋ねていなかった。


 同じ言葉を大切だと答えても、その先で選ぶ方法まで、同じになるとは限らなかったのだろうか。


 アテナは、その疑問も書き留めた。


 今、ここで、彼が考えたことを想像だけで埋めるつもりはない。


 ただ、自分が確かめていなかったところとして、残した。


 それから、もう一度、初期の資料を開いた。


     ◇


 考えを重ねるうち、アテナは貯蔵庫の構造図へ目を留めた。


 負のエネルギーを分離し、別の空間へ移して蓄える。


 何度も説明を聞き、何度も見比べた図だった。


 アテナは、紙を手前へ寄せた。


 装置がどう働いたかを確認するために、見てきた箇所がある。


 魂へどのような変化があったか。それを確かめるための記録もある。


 その先へ、もう一度、目を向けた。


「……この接続……」


 貯蔵庫は独立した装置ではない。


 ヘルカイザー自身の次元神の力と、直接繋がっていた。


 知っていたことだった。


 その力を扱う仕組みがあるから、装置が働く。


 彼女は、そのことを説明され、研究の中でも考えてきた。


 けれど、今、別の問いから見ると、同じ接続が違う意味を持った。


 移したものは、蓄えられている。


 それは、ヘルカイザーの力と繋がった空間だった。


 その繋がりを通じて、何が彼へ届くのだろう。


 アテナは、構造図を押さえた。


「……まさか……!」


 貯蔵された負のエネルギーが、その経路を通じて彼へ流れ込んでいたのではないか。


 顔を上げかけて、もう一度、図へ目を戻した。


 思いついただけで、原因と決めることはできない。


 確かめるものが必要だった。


 アテナは、関係する記録を探した。


 装置の動きについて書かれた紙を、一枚ずつ見ていく。


 以前に読んだときは、何を気にしていたかを思い出した。


 分離した結果。蓄えられた量。魂の状態。


 それらに関係する数字と、今、探している流れについての記述を、照らし合わせた。


 アテナは、古い記録と現在の計測値を照らし合わせた。


 わずかな流入。長期の稼働。増え続ける貯蔵量。


 一つひとつは小さく見える。しかし、積み重ねれば無視できない。


 彼女は、流入を示す箇所に指を置いた。


 見つけたからといって、すぐに次の紙へ進めなかった。


 ここへ、記録されている。


 自分が今、ようやく疑ったことの手がかりが、紙の上にあった。


 アテナは、その前後を読み直した。


 装置が動いているという確認と、自身へ流れ込んでいるという記録は、同じ意味ではない。


 研究が続けられているからといって、その流れが何も及ぼさないとは言えない。


 彼女は、手元の一枚へ、確認できたことを書き出した。


 何が流れているのか。


 どの繋がりを通り、いつから記録に残っているのか。


 その日だけの数字を見て終わらせず、前と後を並べる。


 流れ込みを、長い時間の中へ置き直した。


 それでも、その紙だけで、影響の全てを語ることはできなかった。


 アテナは、筆を止めた。


 流入がある。


 では、それは、彼の判断へ何をもたらすのか。


 そこを確かめなければ、今回の問いには答えられない。


 構造図の隣へ、出来事を書いた紙を置く。


 貯蔵庫が働いていた時間と、自分が友人について見ていたことを、同じ机へ並べた。


 初めて魂を救ったときの笑顔がある。


 回収量を重視し始めた資料がある。


 そして、回廊で、自分の制止を聞いても止まらなかった判断がある。


 アテナは、何度も視線を往復させた。


「……ヘルカイザーさん……」


 名前を呼んでも、返事はない。


 いつもなら、この箇所はどう考えたのかと尋ねるところだった。


 彼も、資料を覗き込み、説明を始めただろう。


 今、その資料を調べているのは、彼に何が起きたかを知るためだった。


 アテナは、胸の痛みを抱えたまま、もう一度記録へ目を戻した。


 分かったことを、見なかったことにはできない。


 願った答えでなくても、確かめていかなければならなかった。


 彼女は、ようやく原因の輪郭を掴み始めていた。


     ◇


 さらに調査を進めたアテナは、魂へ負のエネルギーが長く浸透した場合について記された資料を調べた。


 必要な記述へ目を向け、前の箇所へ戻る。


 一行だけを抜き出せば、別の意味に読んでしまうかもしれない。


 どのような状態について述べられているのか。何をもって変化とするのか。


 彼女は、言葉の前後を確かめながら読んだ。


 ヘルカイザーは、生まれながらの神ではない。


 自分で神に近い力を作り上げたと、彼自身が話していた。


 その来歴を、侮るためではなく、何を確かめる必要があるかを考えるために思い返す。


 神々について知っている説明を、そのまま重ねてよいとは限らない。


 初めて力を感じたときから、その違いはあった。


 アテナは、資料と、実際の記録を比べた。


 似ている言葉があるだけで、全て同じだと決めることはしなかった。


 今、彼について確認できているものは何か。


 その問いへ戻りながら、読み進めていった。


 最初は、微細な影響。


 考え方の重心が少しずつ変わる。


 やがて、その存在が当然だと考える基準そのものが、変質していく。


 アテナは、そこで、読む手を止めた。


 基準が変わる。


 口調や、姿が急に変わるとは書かれていない。


 自分が友人の何を見て、安心していたかを考えた。


 丁寧に話してくれた。


 顔を合わせると、嬉しそうに笑った。


 意見を伝えると、真剣に聞いて頷いた。


 それらは、確かに見た姿だった。


 けれど、そこに親しさがあることと、判断する基準が変わっていないことは、同じではない。


 アテナは、ゆっくりと、次の行を読んだ。


 本人には、研究や経験によって考えが進歩したように思えるかもしれない。


「……そんな……」


 アテナの手が震えた。


 彼は、変わってしまったと思っていないのかもしれない。


 自分で考えた結論だから、正しいと思っている。


 その結論を選ぶ自分自身に、何が働いていたかを知らなければ、どうなるだろう。


 アテナは、回廊で聞いた返事を思い出した。


 自分は自分。


 その言葉に、迷いはなかった。


 彼女は、資料の端を押さえ直した。


 読み間違えていないだろうか。


 そう思って、前の記述へ戻った。


 最初から、大きな異常として現れるのではない。


 長く触れ続けるうちに、考え方の中へ入り込む。


 だから、本人が以前の目的を口にすることと、変化が進んでいることは、両立し得る。


 アテナは、その説明を、出来事の記録と比べた。


 思い出すのは、救われた魂の数よりもエネルギーの回収量を重視し始めたヘルカイザーの姿。


 そして、友人の信頼を裏切った神を、三時間にわたって苦しめ続けた彼の笑顔。


 苦しむ相手がいると伝えた。


 彼は、死なないから大丈夫だと答えた。


 死ななければよいという話ではないと、自分は叫んだ。


 同じ事実を見ていたはずだった。


 相手が苦しんでいることを、彼が知らないのではなかった。


 ただ、その事実から、止めなければならないという判断へ進まない。


 アテナは、紙へ目を落とした。


 目の前で起きていることを伝えれば分かってくれると、何度も言葉を尽くした。


 けれど、彼は、その先で選ぶ答えを変えなかった。


 単に説明が足りなかったからなのだろうかと、繰り返し考えていた。


 今は、その問いにも、別の重さが加わっている。


 同じことを知っても、同じ判断には至らない。


 その基準が、長い時間の中で変わっていたのなら。


 アテナは、目を閉じた。


 もっと早くと考える気持ちを、止めることができなかった。


「……もし、もっと早く……」


 流入経路を調べ直すことができていたなら。


 装置を停止できていたなら。


 まだ価値観が完全に変わりきる前だったなら、対処できる余地があったかもしれない。


 庭園で、回収量を重視していることに気づいた日があった。


 自分は、気になったことを伝えた。


 その言葉を聞いた彼が、どこへ考えを進めたのかを、もっと尋ねていたなら。


 構造図を、装置の働きを確かめるためだけでなく、彼自身へ何が届くかという問いで見直していたなら。


 資料を一緒に読む機会を、もう少し多く持てていたなら。


 アテナは、机へ置いた手を握った。


 どれも、今から過去へ向けることしかできない問いだった。


 こうしていれば、必ず助けられたと言えるわけではない。


 それでも、まだ調べられる時間があったことを、考えずにはいられなかった。


 しかし今、ヘルカイザーは既に自分の考えを疑っていない。


 アテナは、もう一度資料を開いた。


 その段階へ至ったときに、何ができるか。


 流れ込みを止めれば、それだけで以前の判断へ戻るのだろうか。


 彼女は、その答えを探した。


 止めることと、既に起きた変化を元へ戻すことを、同じものとして扱いたくはなかった。


 装置の接続をどうするかという話だけで、解ける問題なのか。


 読み返すたび、そこを確かめた。


 流入の記録を読み、浸透についての資料へ戻る。


 どこかに、違う結論へ繋がる記述はないだろうか。


 そう願いながらも、書かれていない方法を、自分の願いで作るわけにはいかなかった。


 アテナは何度も検討し、別の方法を探した。


 読んだ紙を脇へ置き、別の資料を開く。


 前に見つけた説明が、どの範囲までを述べていたかを、もう一度確認する。


 初期の影響と、既に定着した価値観。その違いを、読み落としていないだろうか。


 今の彼を、まだその前の段階として扱える根拠があるだろうか。


 アテナは、回廊での言葉へ戻った。


 自分の求めを知り、続けると決めた。


 終わってからも、誤りとしては語らなかった。


 悲しかったから、そう見えただけではない。


 彼が何を言い、何を選んだかは、今も思い出せた。


 その事実を、違うもので覆うことはできなかった。


 それでも、結論は変わらなかった。


 完全に侵食された価値観を、以前の状態へ戻す方法は存在しない。


 アテナは、その一文を、すぐには自分の紙へ写せなかった。


 机の上へ、まだ開ける資料が残っているような気がした。


 読み直せば、別の意味になるのではないか。


 確認していない箇所を探し、もう一度、紙を動かした。


 けれど、調べた内容が変わるわけではなかった。


 願いが強いことは、別の方法がある証拠にはならない。


 アテナは、筆を置いた。


 どこかで、元に戻るはずだと思っていた。


 何が起きたのかさえ分かれば、その原因を取り除き、また以前のように話せるのではないかと願っていた。


 その願いと、資料から確かめた結論が、今、同じところへ収まらなかった。


「……ああ……」


 アテナは資料を抱きしめた。


 紙が、胸元で小さく音を立てた。


 初期の図面も、その中にある。


 何も分からなかったところから、二人で考えた記録だった。


 嬉しかった日のことまで、失いたくはなかった。


 けれど、その日々へ戻る方法を、ここで見つけることはできなかった。


「……私も、あの装置が完成したとき、あんなに喜んだのに……」


 声にすると、涙がこぼれた。


 初めて、苦しくないという言葉が聞こえた。


 ヘルカイザーが確認を終えるのを待ち、成功だと聞いて、顔を上げた。


 素晴らしい発明だと、心から伝えた。


 あの喜びを、嘘だったことにはできない。


 あの発明が実際に魂を救ったのは、紛れもない事実だ。


 だからこそ、喜んだこと自体が間違いだったとも思えない。


 けれど、友人自身がその代償を負ってしまった。


 アテナは、資料を持つ手に力を込めた。


 何のために作ったのかを、二人で何度も話した。


 大切な思いまで失わせてはいけないと、自分は伝えた。


 その研究を続ける彼へ、何が流れ込んでいるのかを、もっと気にしていれば。


 答えのない仮定が、また浮かぶ。


 今から過去を変えられないことは、分かっていた。


 それでも、言葉にならない後悔が、胸へ込み上げた。


「……ごめんなさい……」


 涙が落ちた。


 返事を求めて呼びかけたのではなかった。


 ここに、ヘルカイザーはいない。


 彼が今、どのようにこの研究を考えているのかも、まだ本人から聞けていない。


 アテナは、しばらく、資料を抱えたまま俯いていた。


 泣けば、結論が変わるわけではない。


 けれど、今知ったことを、すぐに平静な顔で読み進めることもできなかった。


 紙の上の線は、変わらない。


 初めて見たときと同じ位置に、接続が描かれている。


 それを見て喜んだ自分も、今、胸を痛めている自分も、同じ研究に向き合っている。


 アテナは、やがて、ゆっくりと顔を上げた。


 資料を机へ戻す。


 角が曲がらないように、そっと置いた。


 悲しかったからといって、記録を投げ出すわけにはいかなかった。


 ここには、調べたことがある。


 次に彼と話すためにも、残しておかなければならない。


     ◇


 そしてアテナは、もう一つの疑問に気づいた。


 回廊で見た、あの包み。


 そのことを書き留めようとして、彼女は、これまでに友人へ送ろうとしたものを思い返した。


 資料を選び、宛名を書き、誰かへ託したことがある。


 渡したかったのは、紙だけではなかった。


 読んだ感想を聞きたかった。その続きを、一緒に考えたかった。


 だから、先に届けてもらえればよいと思った。


 その思いを、彼は、どこまで知っていたのだろう。


 回廊で包みを抱えたとき、ヘルカイザーは、気にかけてくれていたのだと礼を言った。


 アテナは、その声を思い出した。


 あの包み。


 届かなかった手紙。


 研究中だと断られた面会。


 机へ置いた出来事の記録を、手前へ戻した。


 それぞれ、そのときには、事情があると思っていた。


 仕事が忙しい。


 研究に集中している。


 今は、面会を控えてほしい。


 どれも、あり得ない話ではなかった。


 自分にも執務があった。ヘルカイザーが、考え始めると熱心に取り組むことも知っている。


 その説明に、相手を責める理由は見つからなかった。


 だから、待った。


 都合がよくなったときに、また会おうと思った。


「……どうして、あれほど行き違いが続いたのでしょう……」


 アテナは、自分の記憶から、確かめられるところを選んだ。


 手紙を書いた。


 届けてほしいと頼んだ。


 その相手は、引き受けた。


 けれど、ヘルカイザーが受け取って読んだ場面を、自分で見たわけではない。


 資料についても、渡したと返事を聞いたことがある。


 その返事を、届いたという事実として考えていた。


 アテナは、筆を止めた。


 頼んだことを信じた。そのこと自体を、今、愚かだったと片づけることはできなかった。


 相手が丁寧に引き受ければ、自分は礼を言い、仕事へ戻った。


 普通のやり取りとして、それが成り立つと思っていた。


 けれど、回廊での包みについては、彼自身が、捨てられたのだと説明した。


 自分が託したものと、手渡されるまでの間に、何があったのか。


 そこには、調べていない時間がある。


 アテナは、その箇所へ、短く印をつけた。


 偶然かもしれない。仕事が忙しかったのも事実だ。


 しかし、同じ神が何度も関わっていることに、違和感を覚えた。


 頼んだ場面を、一つずつ思い返す。


 包みを受け取った声。


 届いたかと尋ねたときの返事。


 研究室の近くで、自分を呼び止めた姿。


 その顔が、いくつかの記憶に重なった。


 アテナは、そこで、すぐに断定する言葉を書かなかった。


 同じ相手が関わったから、全て嘘だったとは、まだ言えない。


 届かないものが一つあったからといって、ほかの出来事まで同じだったと決めることもできない。


 けれど、何も気にせずに済ませてよいとは、もう思えなかった。


 面会を控えてほしいと、本当にヘルカイザーが言ったのだろうか。


 自分が訪ねたことは、彼へ伝わっていただろうか。


 新しい研究の話を楽しみにしていると託した言葉は、どうなったのか。


 アテナは、その問いを書き留めた。


 まだ証拠はない。


 ただ、調べる必要がある。


 疑いが浮かんだだけで、誰かを責めるために動きたくはなかった。


 知っていることと、確かめたいことを、混ぜてしまってはならない。


 そのために、今、紙へ記している。


 けれど、疑いを持った自分が嫌だからといって、問いを消すわけにもいかなかった。


 アテナは、包みについての一行を見た。


 自分が信頼して託したことは、本当だ。


 ヘルカイザーが、その信頼を裏切った相手へ怒っていたことも、目の前で見た。


 ならば、どのような裏切りがあったのかは、確かめるべきことだった。


 同時に、それが分かっても、彼がしたことの全てが正しくなるわけではない。


 そこも、曖昧にしたくなかった。


 アテナは、出来事を並べた紙と、流入について調べた紙を見比べた。


 会えない時間が続いたこと。


 その間にも、研究が続き、負のエネルギーが流れ込んでいたこと。


 今は、その両方を考えなければならない。


 それでも、全てを一つの答えへ急いで繋げるつもりはなかった。


 何が起きたかを、まだ知らないところがある。


 自分が会いに行こうとしていたことを、彼が知らなかった可能性もある。


 その問いは、今、本人へ向けなければ答えられないものとして残った。


 それ以上に、今はヘルカイザー自身が何をしようとしているのか、直接確かめなければならなかった。


 世界規模の構想を、進めていた。


 庭園で見せられた資料には、広い範囲と、大きな回収量についての計算があった。


 自分は、それを聞き、気になることを伝えた。


 その後、どこまで案が変わったのか。


 今、何を実現しようとしているのか。


 本人の答えを聞かずに、知ったつもりになってはいけない。


 アテナは、必要な資料を手元へ集めた。


 最初に開いてもらいたいものを、上へ置く。


 流入の記録と、長い浸透がもたらす影響について調べたものを、説明できる順番へ整えた。


 以前も、こうして、彼へ見せる資料を選んだ。


 違う問いを向けられるのが、楽しみだった。


 今は、何と答えられるかを考えると、怖かった。


 また、穏やかに頷かれるかもしれない。


 話を聞いた上で、自分の研究は正しいと言われるかもしれない。


 そのとき、自分は、何を伝えられるだろう。


 アテナは、紙を揃える手を止めた。


 怖いからといって、間に誰かを置き、伝えてもらうだけで済ませたくはなかった。


 確かめたいのは、彼自身の考えだった。


 その声を、自分で聞かなければならない。


「……私は、あなたと向き合います」


 声にすると、悲しさがなくなったわけではなかった。


 涙の跡も、まだ残っている。


 戻す方法はないという結論が、急に軽くなることもなかった。


 それでも、今から話すことに意味がないとは思いたくなかった。


 彼が何をしようとしているかを聞く。


 危ういと思うところを伝える。


 認められない行為は、認められないと言う。


 以前と同じ答えを返してくれる保証がなくても、それをやめる理由にはしたくなかった。


 彼を元へ戻せると信じているからではない。


 アテナは、最初の図面を、机の上へ残した。


 持っていく資料とは別に、置いておきたかった。


 あの時間が楽しかったことも、魂を救えたときに喜んだことも、これから伝える言葉のために消す必要はない。


 思い出を否定しなければ、今の彼へ反対できないわけではなかった。


 大切な相手だからこそ、分からないことを尋ねた。


 研究の問題に気づけば、そのままにしなかった。


 これからも、自分は、そのように彼と話したい。


 その願いが、今は、以前よりも痛かった。


 アテナは、持っていく紙を、もう一度読み直した。


 ここに書いたことを、どこまで伝えられるだろう。


 彼が自分の判断を変えないとしても、調べた内容を隠して帰るつもりはなかった。


 友人だから何でも肯定するという関係には、したくなかった。


 知恵を交わすときには、違う見方も伝えてきた。


 今は、彼の研究だけではなく、その行為についても、言わなければならないことがある。


 回廊で伝えきれなかったからといって、もう一度言葉にすることを諦めたくはなかった。


 アテナは、資料を抱えて立ち上がった。


 研究室へ向かうことを考えると、胸が強く鼓動した。


 あの扉の向こうには、今も、ヘルカイザーがいる。


 机へ図面を広げ、次に作るものを考えているのかもしれない。


 その姿を知っているからこそ、笑顔だけを見て帰ってはいけないと思った。


 何を正しいと信じ、何を選ぼうとしているのか。


 そこへ、言葉を向けなければならなかった。


 大切な友人だからこそ、その間違いを見過ごせないからだった。

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