第14話 踏みにじられた信頼
研究が一区切りついた日、ヘルカイザーは神界の回廊を歩いていた。
机へ残してきた紙には、次に調べたいことが並んでいる。
集約先を自分自身とする計画は、もう決めていた。そのために何を作るか、どこから手をつけるかを考えることが、今の彼には楽しみだった。
歩きながらも、頭の中では、図面へ加えたい線が増えていく。
「……さてさて♪ 次は、どのような装置を作りましょうかねぇ♪」
考えているのは、相変わらず発明のことだった。
回廊には、窓から明るい光が差し込んでいた。
ヘルカイザーは、少し歩調を緩める。
いったん図面から離れると、別の順番で考えられることがある。紙の上では残していた形を、頭の中で置き直してみる。
自分で作った力を、さらに役立てるにはどうすればよいか。
その問いを楽しみながら、先へ進んでいた。
そのとき、前方から不機嫌そうな声が聞こえた。
「……まったく。また、あの偽物へ……」
一人の神が、小さな包みを握っている。
声は、低かった。
何かを面倒がっているような調子だったが、ヘルカイザーは、すぐには話しかけなかった。
こちらを見て話しているわけでもない。
自分についての言葉であったとしても、急いで返事をする用事はなかった。
「……おや?」
自分への悪口だろうか。ヘルカイザーは、特に気に留めなかった。
しかし、神が持っている包みを見た瞬間、足が止まった。
『ヘルカイザーさんへ』
丁寧な文字。
見覚えがあった。
図面の脇へ、気になったことを書き添えてくれた文字だった。
資料を読むときに、彼女が何を考えたのかを伝える言葉。次に確かめたい箇所へ、忘れないように残した短い問い。
研究室で、何度も見ている。
ヘルカイザーは、その宛名へ目を留めた。
自分へ渡すためのものが、ここにある。
「……アテナさんの文字ですねぇ」
小さく呟いた声は、神へ届かなかったらしい。
相手は、まだ包みを見下ろしていた。
神は苛立たしげに包みを振り、緩んだ紐を見て舌打ちした。
「……こんなもの、届ける価値などない」
そして、床へ投げ捨てた。
包みが落ちる音がした。
紐の緩んだところから、白い紙が滑り出した。重なっていたものが崩れ、床へ広がる。
ヘルカイザーは、その動きを見ていた。
今の言葉は、資料を調べた上での評価ではなかった。
中身に目を通す様子さえなかった。
届ける前に、届ける価値がないと決めた。
紙が散らばる。それを拾おうともしない。神はむしろ足先で乱暴に押しやり、その場を離れようとした。
床を擦った紙の端が、折れた。
神は、その方へ顔を向けなかった。
ヘルカイザーは、相手が踏み出す先へ近づいた。
「……おやおや♪」
穏やかな声が響く。
「…………っ!?」
振り返った神の前に、小さな白いドラゴンが立っていた。
「こんにちは♪」
「……ヘルカイザー……!」
神は、目を見開いた。
先ほどまでいなかったはずの相手がいる。その視線が、手元ではなく床へ向いたことにも気づいた。
散らばった紙は、まだそこにあった。
取り繕うための言葉を探すように、神の口が動く。
ヘルカイザーは、返事を待つ前に、床へ顔を向けた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうかねぇ♪」
ヘルカイザーは包みを丁寧に拾い上げ、散らばった紙を重ねた。
まず、すぐ近くの一枚を拾う。
床へ向いていた面を確かめ、ほかの紙と揃えた。
押しやられたものにも前脚を伸ばす。折れた端を、無理に引っ張らないように戻した。
アテナの書き込みが見えた。
読むための順番も考えてあったのだろう。紙の重なり方を見て、彼は、それらを丁寧に持ち直した。
神は、黙ってその様子を見ていた。
ヘルカイザーが紙を集める間にも、謝る言葉は出てこなかった。
最後の一枚を拾うと、彼は、相手へ顔を上げた。
「アテナさんは、こちらを自分へ届けてほしいと、あなたに託されたのでしょう?♪」
「……そ、それがどうした!」
ヘルカイザーは、小さく頷いた。
少なくとも、自分が勝手に取り違えていたわけではない。
届けるために預かったものだと、相手自身が認めた。
彼は、腕の中の紙へ一度目を落とす。
アテナが選び、揃え、自分へ向けて託したものだった。
「それなのに、なぜ捨ててしまわれたのでしょうか?♪」
神は、開き直ったように叫んだ。
「貴様のような偽物に、渡す価値などない!」
「……ふむふむ」
「作られた神の分際で! 神界に相応しくないと、何度言わせるつもりだ!」
声が、回廊へ響いた。
ヘルカイザーは、相手の顔を見ていた。
人間だったことも、力を自分で作ったことも、事実だった。以前から、自分でも話している。
それを口にされたからといって、恥じたり、傷ついたりはしなかった。
神は、彼の表情に、期待した反応が現れないのを見た。
また、いつものように図面へ戻ってしまうつもりなのか。
そんな苛立ちが、声に重なっていた。
ヘルカイザーは、何とも思わなかった。
自分への侮辱なら、以前から何度も聞いている。まったく興味はない。
しかし、今度は違う。
彼は、自分へ向けた悪口の意味を聞き直したいのではなかった。
アテナから預かったものを、なぜ捨てたのかと尋ねている。
神が自分をどう呼ぼうと、その答えにはならない。
彼女がこの相手へ包みを渡したとき、何を思ったかは想像できた。
届けてもらえると思ったはずだ。
引き受けたという返事を聞き、安心したのだろう。
そのために、紙を託した。
ヘルカイザーは、包みの宛名へ目を向けた。
友人が自分を気にかけてくれた、その言葉がある。
「……アテナさんは、あなたを信頼していたのでしょう?♪」
「…………!」
神の言葉が止まった。
初めて、その問いに視線を逸らした。
ヘルカイザーは、その反応を見た。
託されたことを知らなかったのではない。別のものと間違えたのでもない。
何を任されたかを知ったまま、床へ捨てた。
「その信頼を、あなたは踏みにじったわけですねぇ♪」
ヘルカイザーは、にっこりと微笑んだ。
彼は確かに怒っていた。
自分のことを偽物と呼ばれたからではない。神界に相応しくないと言われたからでもない。
大切な友人の善意が、目の前で捨てられた。
それだけは、許せなかった。
アテナの信頼を裏切ったことへ、怒りが向いていた。
けれど、その怒りを理由に何をしてよいかという判断は、もう以前のままではなかった。
ヘルカイザーは、拾った資料を、巻き込まれない位置へ置いた。
床から遠ざけ、紙の端を揃える。
その丁寧さを見て、神は、一瞬、まだ話が終わる余地があるように感じた。
しかし、顔を上げたヘルカイザーの笑みは、そのままだった。
「……少々、お仕置きが必要かもしれませんねぇ♪」
「……何を……?」
神が力を解き放つ。しかしヘルカイザーは小さく前脚を動かしただけだった。
空間が固定され、神の身体は一歩も動けなくなった。
踏み出そうとした足が、進まない。
神は、自分の身体へ視線を落とした。
もう一度力を込める。それでも、距離は変わらなかった。
先ほどまで、立ち去ろうとしていた回廊が見える。
そこへ、足を運ぶことができない。
「……は、離せ!」
「おやおや♪ そんなに慌てなくても大丈夫ですよ♪」
声は、落ち着いていた。
ヘルカイザーは、神が動けないことを確かめた。
叫ばれても、口調を変えなかった。
自分が何をしようとしているかは、決まっていた。
相手に反省してもらう。
そのために苦しめることを、彼は、必要な行為として選んでいた。
怒りに任せて手が勝手に動いているのではない。
相手を見て、次の行動を決めている。
その選択の中に、ここで止まるべきだという判断がなかった。
ヘルカイザーは、一つの薬を取り出した。
人間だった頃に、既に完成させていた発明品。
『シナナクナール』。
神は、見慣れない薬へ目を向けた。
何をされるのか分からないまま、動けないという事実だけがある。
ヘルカイザーは、いつものように、発明品について説明した。
「こちらを使えば、三時間ほど死なずに済むんですよ♪」
神は、その言葉を、すぐには理解できなかった。
死なずに済む。
それを、なぜ、今、説明するのか。
問いを口にするより先に、ヘルカイザーの穏やかな顔へ、恐怖が向いた。
「……ま、待て……!」
神の声が震えた。
「謝る! 謝るから……!」
「ふむふむ。それは良かったですねぇ♪」
ヘルカイザーは、なおも笑っていた。
「ですが、してしまったことは、なくなりませんからねぇ♪」
謝罪の言葉を聞かなかったのではない。
その返事をした上で、続けると決めていた。
紙を拾い直したからといって、投げ捨てた行為が消えるわけではない。謝ると言ったからといって、友人を裏切ったことまでなくなるわけではない。
その事実を、彼は、苦しめ続ける理由へ繋げていた。
やめるための言葉は、相手から返ってきても、彼の判断を変えなかった。
神は、もう一度声を上げた。
しかし、拘束は解かれなかった。
薬が投与された。
その直後、回廊に悲鳴が響いた。
◇
アテナが駆けつけたのは、悲鳴と、聞き覚えのある次元神の力を感じ取ったからだった。
声のした方へ、足を速める。
ヘルカイザーの力だと分かった。
けれど、なぜ、その近くから苦しむ声が聞こえるのかが分からなかった。
何かが起きている。
そう思いながら、曲がり角へ向かった。
「……ヘルカイザーさん!?」
曲がり角を抜けたアテナは、その場に立ち尽くした。
拘束された神。逃げ場のない恐怖。
その傍らで、笑顔を浮かべる友人。
目の前の光景を、すぐには理解できなかった。
彼を見つけた。
それなのに、再会を喜ぶ言葉が、出てこない。
苦しんでいる声が聞こえる。そのすぐそばに、よく知った白い姿がある。
アテナは、神とヘルカイザーを交互に見た。
「おや、アテナさん♪ お久しぶりですねぇ♪」
明るい挨拶だった。
研究室で顔を上げたときにも、庭園で名前を呼んだときにも聞いた声だった。
今、その声が、苦しむ相手の隣から返ってくる。
アテナは、一歩近づいた。
「……何を……しているのですか……?」
「あなたの信頼を裏切った方に、反省していただいているところですよ♪」
説明された言葉が、胸へ落ちた。
自分の信頼を裏切った。
反省してもらっている。
その二つと、目の前で起きていることが、アテナには繋がらなかった。
何があったのか、聞かなければならない。
そう思う一方で、聞いてからでなければ止められないことではないとも分かった。
相手は、今、苦しんでいる。
アテナは床に置かれた包みに気づいた。
自分が用意した、ヘルカイザー宛てのものだった。
紙の端に、折れた跡がある。
けれど、宛名は読めた。
自分で書いた文字だった。資料を選び、順番を考え、丁寧に包んだ。
彼に読んでもらえると思って、託したものだ。
それが、なぜ、ここに置かれているのだろう。
「……それは……!」
「ありがとうございます、アテナさん♪ 自分のことを気にかけてくださっていたのですねぇ♪」
ヘルカイザーは、本当に喜んでいた。
拾った資料を見て、自分へ送ろうとしてくれたと分かった。そのことが嬉しかった。
彼の礼にも、笑顔にも、偽りはなかった。
アテナには、その喜びが分かるからこそ、何を言えばよいのか、一瞬、言葉が詰まった。
本来なら嬉しい再会のはずだった。
資料を受け取ってくれた。
喜んでくれた。
その先には、同じ紙を囲んで話す時間があるはずだった。
今は、彼の後ろから、苦しみを訴える声が聞こえている。
アテナは、包みから視線を戻した。
届けられたものの話をするより先に、止めなければならなかった。
アテナは必死に叫んだ。
「今すぐ、その方を解放してください!」
「おや? どうしてですか?♪」
ヘルカイザーは、首を傾げた。
反発して声を荒らげたのではない。
なぜ解放する必要があるのかを、尋ねている。
その穏やかさに、アテナは息を詰めた。
自分が何を見て、何を伝えているかが、届いていないように感じた。
「苦しんでいるではありませんか!」
「ええ♪ ですが、ご安心ください。シナナクナールを投与しましたので、しばらく死ぬ心配はありませんよ♪」
安心させようとする声だった。
薬を使ったことを隠すのでも、行為そのものを誤魔化すのでもない。
彼は、死なないことを、今の状況を続けてよい理由として説明している。
アテナは、目の前の友人を見つめた。
それを聞いて、安心できるはずがなかった。
「……違います!」
アテナの声が震えた。
「死ななければ何をしても良いわけではありません!」
言葉を終えると、短く息を吸った。
苦しみを取り除くために、二人で研究した。
魂の状態を見て、何が起きているかを確かめた。
そのときには、苦しみが増すなら続けてはいけないと、同じ目的を持って話せた。
今、目の前の相手は、苦しめるために死なない方法を使っている。
アテナは、拘束された神へ顔を向けた。
その神が自分に何をしたのかは、まだ全て分かっていない。
けれど、解放してほしいという言葉を伝えるために、その全てを知る必要はなかった。
彼女は言葉で止めようとした。拘束を解こうともした。しかし、次元神の力に阻まれ、どうすることもできなかった。
近づこうとして、そこで動きを止める。
力の繋がりを見ようとした。どこへ働きかければ解けるのか、目を向けた。
けれど、知っているものと同じようには扱えない。
初めて彼の力を感じたとき、神々のものと似ているのに違うと思った。その違いが、今、目の前にあった。
説明を聞きたいと思った力へ、今は、拘束を解くために向き合っている。
アテナは、一度、手を止めた。
無理に働きかけて、苦しんでいる相手へ別の負担をかけたくはなかった。
それでも、何もせずに見ているわけにはいかない。
もう一度、ヘルカイザーへ向き直った。
「その方がしたことについては、確かめます。ですから、まず、やめてください」
ヘルカイザーは、彼女の言葉を聞いていた。
「アテナさんが、こちらを託されたのでしょう?♪」
視線が、包みへ向いた。
「それを、あの方は捨ててしまわれたのですよ♪」
アテナは、唇を結んだ。
紙の折れたところへ、目が向く。
託したものが、捨てられた。
その言葉の意味を、考える時間は必要だった。
しかし、今、それを理由に、彼を肯定することはできなかった。
「だからといって、苦しめてよいことにはなりません」
彼女は、はっきりと伝えた。
ヘルカイザーは、困ったように小さく首を傾げた。
理解できない言葉を聞いた顔ではなかった。
聞いた上で、自分の判断を変えない顔だった。
その間にも、神の声が響いた。
アテナは、そちらを見た。
また、拘束へ意識を向ける。どこか、手を届かせられる箇所はないだろうか。
分からないままでも、諦めたくはなかった。
けれど、彼が固定した空間は、彼女の願いによって緩むものではなかった。
「……お願いします。もうやめてください……!」
ヘルカイザーは穏やかに首を振る。
「申し訳ありませんねぇ♪ 今回は、それはできません♪」
謝る声と、断る内容が、同じ明るさで返ってきた。
アテナの願いを聞かなかったわけではない。
何を求められているか、分かっていた。
それでも、続けることを選んだ。
アテナは、彼の顔から目を離せなかった。
以前、図面の問題を伝えたときには、耳を傾け、考え直してくれた。
今も、話は聞いている。
ただ、そこから選ぶ答えが、彼女の知っているものへ繋がらなかった。
もう一度呼びかけた。
彼女の声は、広い回廊へ響いた。
◇
彼は、薬の効果が尽きるまで止まらなかった。
およそ三時間。
アテナは、その時間を、ただ同じ場所へ立ったまま過ごしたのではなかった。
言葉を変えた。
なぜ止めたいのかを、伝えようとした。
友人の善意を守るためだと言うなら、自分の願いを聞いてほしかった。
自分は、こんなことを望んでいない。
その方がしたことが間違いでも、今、苦しめていることが正しくなるわけではない。
何度も、同じところへ戻って伝えた。
ヘルカイザーは、その声に返事をした。
聞こえないふりをしたのではなかった。
彼女の話を聞き、その上で、やめないと答えた。
アテナは、拘束された相手へ目を戻す。
声が弱まると、それが安らいだからではないことが分かった。
助けを求める顔を見て、また、ヘルカイザーの名を呼んだ。
時間は、長かった。
ほんの少し前まで、会えたら何を話そうかと考えていた相手へ、同じ願いを繰り返している。
研究の話を聞きたい。
新しい図面を見せてほしい。
そのために用意していた言葉が、今は、どれも使えなかった。
やめてほしい。
目の前の苦しみを、これ以上続けないでほしい。
今、自分が彼へ求めていることは、それだった。
アテナは、途中で、包みの方を見た。
紙は、きちんと重ね直されていた。
ヘルカイザーが拾い、大切に扱ったことは分かる。
友人の善意を喜び、それを踏みにじった相手へ怒る。
その気持ちが全て分からないのではなかった。
けれど、そこから、なぜ、この行為が選ばれるのか。
彼にとって、それが、どうして止められないほど正しいことなのか。
アテナは、その答えを見つけられなかった。
相手の声へ、意識を戻す。
考えている間にも、助けなければならない相手がいる。
彼女は、また働きかけられるところを探した。
手が届かない。
その事実が、言葉を尽くすたびに重くなっていった。
ヘルカイザーは、アテナへ怒鳴ることも、彼女を同じように拘束することもしなかった。
その場にいる者を見境なく襲っていたのではない。
彼が苦しめているのは、自分で包みを捨てた神だった。
何をした相手へ、何をするかを選んでいる。
だから、相手を取り違えているのだと説明して終われる状況でもなかった。
アテナは、自分が止めたいと望んでいることを、もう一度伝えた。
彼は、その願いよりも、続けるべきだという自分の判断を選んだ。
彼女の目の前で、何度も。
長い時間の後、拘束が解かれた。神は生きていたが、まともに話すこともできないほど衰弱していた。
空間の固定が解けたと分かった瞬間、アテナは動いた。
今度は、近づくことができる。
声をかけ、状態を確かめる。
返事は、十分には返ってこなかった。
アテナは駆け寄り、治療を手配した。
まず、この相手を助けなければならない。
ヘルカイザーに尋ねたいことも、包みについて確かめたいことも、頭の中にあった。
けれど、その全てを、今ここで終わらせるわけにはいかない。
アテナは、必要なことを伝え、衰弱した神へ目を向けた。
生きている。
その事実だけで、よかったと言える状況ではなかった。
先ほど、ヘルカイザーへ叫んだ言葉が、胸へ戻ってきた。
死ななければ、何をしてもよいわけではない。
今の姿が、その言葉の意味を、目の前へ残していた。
ヘルカイザーは、丁寧に包みを抱え直した。
紙が落ちないように、持つ位置を直している。
その仕草へ目が向き、アテナは、息を詰めた。
研究資料を扱うときの、見慣れた丁寧さだった。
この光景の後でも、その手つきは変わらない。
「……アテナさん。こちら、大切にさせていただきますよ♪」
声には、感謝があった。
その礼を、今、喜んで聞くことができなかった。
「……私は、こんなことを望んでいません……!」
アテナの涙が落ちた。
ヘルカイザーは、彼女へ顔を向けた。
包みを大切にしたいという自分の気持ちと、彼女が悲しんでいることは、彼の中で、同じ答えになっていなかった。
アテナは、涙を拭うより先に、彼を見た。
何をしていたのかは、見た。
何を理由にしたのかも、聞いた。
それでも、どうしてこの友人が、その行為を正しいと信じていたのかが分からない。
「……あなたは、本当に以前と同じヘルカイザーさんなのですか……?」
「もちろんですよ♪ 自分は自分ですからねぇ♪」
その答えに、迷いはなかった。
だからこそ、アテナは恐ろしくなった。
別の誰かだと言われたのなら、理由を探す場所も違ったかもしれない。
何をしたか分かっていないのなら、目の前のことを説明する道もあったかもしれない。
けれど、彼は、自分が何をしたかを知っている。
止めてほしいという言葉も聞いた。
その上で、自分は自分だと、穏やかに答えている。
アテナは、彼の顔を見つめた。
大切な友人へ向けられる笑顔が、そこにあった。
それだけでは、もう、安心できなかった。
◇
やがてヘルカイザーは研究室へ戻り、包みを開いた。
机へ置く前に、紙を広げられる場所を空けた。
拾ったときに曲がっていたところを直し、一枚ずつ重ねる。
研究室には、いつもの資料が並んでいた。
今日持ち帰ったものも、その隣へ置かれる。
中にあったのは、懐かしいアテナの文字で書かれた研究資料だった。
ヘルカイザーは、最初の一行から読んだ。
どの箇所に関係する話なのか、少しずつ分かる。
途中に、彼女が気になった点もある。
同じ紙へ顔を寄せて説明を聞くときの声が、思い出された。
ここを見てほしかったのだろう。
そう考えながら、前の資料を隣へ引き寄せた。
「……いやはや、相変わらず素晴らしいですねぇ♪」
その喜びにも、偽りはない。
アテナが調べ、自分へ渡したいと思って選んだものだった。
そのことが、読んでいて分かった。
彼は、気になった箇所へ目を留めた。
こちらは、次に話してみたい。
自分の考えたことも示せば、彼女から、また問いが返ってくるかもしれない。
そんなふうに、続きを考えた。
回廊で彼女が涙を落としたことを、忘れていたわけではなかった。
止めてほしいと言われたことも、覚えている。
けれど、その記憶が、自分の行為を誤りとして考え直すところへは繋がらなかった。
だが、神への拷問を間違っていたとは、今も思っていなかった。
彼の中では、友人の資料を大切にすることと、その信頼を裏切った相手へ行ったことが、並んで成立していた。
片方だけが本当で、もう片方は演じていたのではない。
どちらも、自分で選んだ行為だった。
ヘルカイザーは、紙の順番を整えた。
研究の途中で読める位置へ、アテナの資料を残しておく。
自分の計画も、そのそばにある。
新しく書いた集約先の一文を見てから、彼女の問いへ視線を戻した。
今日も、まだ考えたいことがあった。
アテナは一人、回廊に残った。
治療のために運ばれた神の姿は、もう、目の前にはなかった。
ヘルカイザーも去った。
広い回廊へ、静けさが戻っている。
アテナは、先ほどまで拘束があった場所を見つめた。
声をかけても、解くことができなかった。
何度もやめてほしいと伝えた。
その声へ返事をした友人は、止まらなかった。
手元に、託した包みはない。
ようやく彼の手へ届いたのだと、こんな形で知った。
本当なら、そのことを嬉しく思いたかった。
資料を見てもらい、どこが気になったかを聞きたかった。
けれど、今、彼へ尋ねなければならないことは、それだけではなくなっていた。
アテナは、ゆっくりと息をした。
泣いたままで、何も分からないと立ち尽くしていたくはない。
何が起きたのかを見た。
それでも、友人の中で何が起きていたのかは、まだ分からない。
知っている笑顔を見ただけで、大丈夫だと思っていた。
話を聞いてくれたことに、安心していた。
その相手が、今日、自分の言葉を聞きながら、苦しめることを選び続けた。
アテナは、目を閉じた。
その違いから、目を逸らすわけにはいかなかった。
「……調べなければ……」
友人に、何が起きたのかを。
小さく声にすると、ようやく、次にしなければならないことへ意識が向いた。
まだ、原因を決めることはできない。
彼が人間だった頃のことも、貯蔵庫を作った日のことも、自分は知っている一部を聞いただけだった。
知らない時間も、ある。
最近、会えずにいた間にも、研究は続いていた。
その時間に、何があったのだろう。
何を見て、どのように考えるようになったのだろう。
アテナは、顔を上げた。
以前と同じだという彼の返事を、そのまま、自分の答えにはできなかった。
目の前で見たことを、忘れないようにしなければならない。
そして、思い出だけで埋めずに、確かめなければならない。
彼は、間違いなく大切な友人だった。
だからこそ、今日の行為を、仕方のないこととして見過ごすことはできなかった。
アテナは、静かな回廊を歩き始めた。




