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転生した主人公が次元神になる外伝  作者: ヘルカイザー
知恵の女神と偽りの次元神

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第14話 踏みにじられた信頼



 研究が一区切りついた日、ヘルカイザーは神界の回廊を歩いていた。


 机へ残してきた紙には、次に調べたいことが並んでいる。


 集約先を自分自身とする計画は、もう決めていた。そのために何を作るか、どこから手をつけるかを考えることが、今の彼には楽しみだった。


 歩きながらも、頭の中では、図面へ加えたい線が増えていく。


「……さてさて♪ 次は、どのような装置を作りましょうかねぇ♪」


 考えているのは、相変わらず発明のことだった。


 回廊には、窓から明るい光が差し込んでいた。


 ヘルカイザーは、少し歩調を緩める。


 いったん図面から離れると、別の順番で考えられることがある。紙の上では残していた形を、頭の中で置き直してみる。


 自分で作った力を、さらに役立てるにはどうすればよいか。


 その問いを楽しみながら、先へ進んでいた。


 そのとき、前方から不機嫌そうな声が聞こえた。


「……まったく。また、あの偽物へ……」


 一人の神が、小さな包みを握っている。


 声は、低かった。


 何かを面倒がっているような調子だったが、ヘルカイザーは、すぐには話しかけなかった。


 こちらを見て話しているわけでもない。


 自分についての言葉であったとしても、急いで返事をする用事はなかった。


「……おや?」


 自分への悪口だろうか。ヘルカイザーは、特に気に留めなかった。


 しかし、神が持っている包みを見た瞬間、足が止まった。


『ヘルカイザーさんへ』


 丁寧な文字。


 見覚えがあった。


 図面の脇へ、気になったことを書き添えてくれた文字だった。


 資料を読むときに、彼女が何を考えたのかを伝える言葉。次に確かめたい箇所へ、忘れないように残した短い問い。


 研究室で、何度も見ている。


 ヘルカイザーは、その宛名へ目を留めた。


 自分へ渡すためのものが、ここにある。


「……アテナさんの文字ですねぇ」


 小さく呟いた声は、神へ届かなかったらしい。


 相手は、まだ包みを見下ろしていた。


 神は苛立たしげに包みを振り、緩んだ紐を見て舌打ちした。


「……こんなもの、届ける価値などない」


 そして、床へ投げ捨てた。


 包みが落ちる音がした。


 紐の緩んだところから、白い紙が滑り出した。重なっていたものが崩れ、床へ広がる。


 ヘルカイザーは、その動きを見ていた。


 今の言葉は、資料を調べた上での評価ではなかった。


 中身に目を通す様子さえなかった。


 届ける前に、届ける価値がないと決めた。


 紙が散らばる。それを拾おうともしない。神はむしろ足先で乱暴に押しやり、その場を離れようとした。


 床を擦った紙の端が、折れた。


 神は、その方へ顔を向けなかった。


 ヘルカイザーは、相手が踏み出す先へ近づいた。


「……おやおや♪」


 穏やかな声が響く。


「…………っ!?」


 振り返った神の前に、小さな白いドラゴンが立っていた。


「こんにちは♪」


「……ヘルカイザー……!」


 神は、目を見開いた。


 先ほどまでいなかったはずの相手がいる。その視線が、手元ではなく床へ向いたことにも気づいた。


 散らばった紙は、まだそこにあった。


 取り繕うための言葉を探すように、神の口が動く。


 ヘルカイザーは、返事を待つ前に、床へ顔を向けた。


「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうかねぇ♪」


 ヘルカイザーは包みを丁寧に拾い上げ、散らばった紙を重ねた。


 まず、すぐ近くの一枚を拾う。


 床へ向いていた面を確かめ、ほかの紙と揃えた。


 押しやられたものにも前脚を伸ばす。折れた端を、無理に引っ張らないように戻した。


 アテナの書き込みが見えた。


 読むための順番も考えてあったのだろう。紙の重なり方を見て、彼は、それらを丁寧に持ち直した。


 神は、黙ってその様子を見ていた。


 ヘルカイザーが紙を集める間にも、謝る言葉は出てこなかった。


 最後の一枚を拾うと、彼は、相手へ顔を上げた。


「アテナさんは、こちらを自分へ届けてほしいと、あなたに託されたのでしょう?♪」


「……そ、それがどうした!」


 ヘルカイザーは、小さく頷いた。


 少なくとも、自分が勝手に取り違えていたわけではない。


 届けるために預かったものだと、相手自身が認めた。


 彼は、腕の中の紙へ一度目を落とす。


 アテナが選び、揃え、自分へ向けて託したものだった。


「それなのに、なぜ捨ててしまわれたのでしょうか?♪」


 神は、開き直ったように叫んだ。


「貴様のような偽物に、渡す価値などない!」


「……ふむふむ」


「作られた神の分際で! 神界に相応しくないと、何度言わせるつもりだ!」


 声が、回廊へ響いた。


 ヘルカイザーは、相手の顔を見ていた。


 人間だったことも、力を自分で作ったことも、事実だった。以前から、自分でも話している。


 それを口にされたからといって、恥じたり、傷ついたりはしなかった。


 神は、彼の表情に、期待した反応が現れないのを見た。


 また、いつものように図面へ戻ってしまうつもりなのか。


 そんな苛立ちが、声に重なっていた。


 ヘルカイザーは、何とも思わなかった。


 自分への侮辱なら、以前から何度も聞いている。まったく興味はない。


 しかし、今度は違う。


 彼は、自分へ向けた悪口の意味を聞き直したいのではなかった。


 アテナから預かったものを、なぜ捨てたのかと尋ねている。


 神が自分をどう呼ぼうと、その答えにはならない。


 彼女がこの相手へ包みを渡したとき、何を思ったかは想像できた。


 届けてもらえると思ったはずだ。


 引き受けたという返事を聞き、安心したのだろう。


 そのために、紙を託した。


 ヘルカイザーは、包みの宛名へ目を向けた。


 友人が自分を気にかけてくれた、その言葉がある。


「……アテナさんは、あなたを信頼していたのでしょう?♪」


「…………!」


 神の言葉が止まった。


 初めて、その問いに視線を逸らした。


 ヘルカイザーは、その反応を見た。


 託されたことを知らなかったのではない。別のものと間違えたのでもない。


 何を任されたかを知ったまま、床へ捨てた。


「その信頼を、あなたは踏みにじったわけですねぇ♪」


 ヘルカイザーは、にっこりと微笑んだ。


 彼は確かに怒っていた。


 自分のことを偽物と呼ばれたからではない。神界に相応しくないと言われたからでもない。


 大切な友人の善意が、目の前で捨てられた。


 それだけは、許せなかった。


 アテナの信頼を裏切ったことへ、怒りが向いていた。


 けれど、その怒りを理由に何をしてよいかという判断は、もう以前のままではなかった。


 ヘルカイザーは、拾った資料を、巻き込まれない位置へ置いた。


 床から遠ざけ、紙の端を揃える。


 その丁寧さを見て、神は、一瞬、まだ話が終わる余地があるように感じた。


 しかし、顔を上げたヘルカイザーの笑みは、そのままだった。


「……少々、お仕置きが必要かもしれませんねぇ♪」


「……何を……?」


 神が力を解き放つ。しかしヘルカイザーは小さく前脚を動かしただけだった。


 空間が固定され、神の身体は一歩も動けなくなった。


 踏み出そうとした足が、進まない。


 神は、自分の身体へ視線を落とした。


 もう一度力を込める。それでも、距離は変わらなかった。


 先ほどまで、立ち去ろうとしていた回廊が見える。


 そこへ、足を運ぶことができない。


「……は、離せ!」


「おやおや♪ そんなに慌てなくても大丈夫ですよ♪」


 声は、落ち着いていた。


 ヘルカイザーは、神が動けないことを確かめた。


 叫ばれても、口調を変えなかった。


 自分が何をしようとしているかは、決まっていた。


 相手に反省してもらう。


 そのために苦しめることを、彼は、必要な行為として選んでいた。


 怒りに任せて手が勝手に動いているのではない。


 相手を見て、次の行動を決めている。


 その選択の中に、ここで止まるべきだという判断がなかった。


 ヘルカイザーは、一つの薬を取り出した。


 人間だった頃に、既に完成させていた発明品。


『シナナクナール』。


 神は、見慣れない薬へ目を向けた。


 何をされるのか分からないまま、動けないという事実だけがある。


 ヘルカイザーは、いつものように、発明品について説明した。


「こちらを使えば、三時間ほど死なずに済むんですよ♪」


 神は、その言葉を、すぐには理解できなかった。


 死なずに済む。


 それを、なぜ、今、説明するのか。


 問いを口にするより先に、ヘルカイザーの穏やかな顔へ、恐怖が向いた。


「……ま、待て……!」


 神の声が震えた。


「謝る! 謝るから……!」


「ふむふむ。それは良かったですねぇ♪」


 ヘルカイザーは、なおも笑っていた。


「ですが、してしまったことは、なくなりませんからねぇ♪」


 謝罪の言葉を聞かなかったのではない。


 その返事をした上で、続けると決めていた。


 紙を拾い直したからといって、投げ捨てた行為が消えるわけではない。謝ると言ったからといって、友人を裏切ったことまでなくなるわけではない。


 その事実を、彼は、苦しめ続ける理由へ繋げていた。


 やめるための言葉は、相手から返ってきても、彼の判断を変えなかった。


 神は、もう一度声を上げた。


 しかし、拘束は解かれなかった。


 薬が投与された。


 その直後、回廊に悲鳴が響いた。


     ◇


 アテナが駆けつけたのは、悲鳴と、聞き覚えのある次元神の力を感じ取ったからだった。


 声のした方へ、足を速める。


 ヘルカイザーの力だと分かった。


 けれど、なぜ、その近くから苦しむ声が聞こえるのかが分からなかった。


 何かが起きている。


 そう思いながら、曲がり角へ向かった。


「……ヘルカイザーさん!?」


 曲がり角を抜けたアテナは、その場に立ち尽くした。


 拘束された神。逃げ場のない恐怖。


 その傍らで、笑顔を浮かべる友人。


 目の前の光景を、すぐには理解できなかった。


 彼を見つけた。


 それなのに、再会を喜ぶ言葉が、出てこない。


 苦しんでいる声が聞こえる。そのすぐそばに、よく知った白い姿がある。


 アテナは、神とヘルカイザーを交互に見た。


「おや、アテナさん♪ お久しぶりですねぇ♪」


 明るい挨拶だった。


 研究室で顔を上げたときにも、庭園で名前を呼んだときにも聞いた声だった。


 今、その声が、苦しむ相手の隣から返ってくる。


 アテナは、一歩近づいた。


「……何を……しているのですか……?」


「あなたの信頼を裏切った方に、反省していただいているところですよ♪」


 説明された言葉が、胸へ落ちた。


 自分の信頼を裏切った。


 反省してもらっている。


 その二つと、目の前で起きていることが、アテナには繋がらなかった。


 何があったのか、聞かなければならない。


 そう思う一方で、聞いてからでなければ止められないことではないとも分かった。


 相手は、今、苦しんでいる。


 アテナは床に置かれた包みに気づいた。


 自分が用意した、ヘルカイザー宛てのものだった。


 紙の端に、折れた跡がある。


 けれど、宛名は読めた。


 自分で書いた文字だった。資料を選び、順番を考え、丁寧に包んだ。


 彼に読んでもらえると思って、託したものだ。


 それが、なぜ、ここに置かれているのだろう。


「……それは……!」


「ありがとうございます、アテナさん♪ 自分のことを気にかけてくださっていたのですねぇ♪」


 ヘルカイザーは、本当に喜んでいた。


 拾った資料を見て、自分へ送ろうとしてくれたと分かった。そのことが嬉しかった。


 彼の礼にも、笑顔にも、偽りはなかった。


 アテナには、その喜びが分かるからこそ、何を言えばよいのか、一瞬、言葉が詰まった。


 本来なら嬉しい再会のはずだった。


 資料を受け取ってくれた。


 喜んでくれた。


 その先には、同じ紙を囲んで話す時間があるはずだった。


 今は、彼の後ろから、苦しみを訴える声が聞こえている。


 アテナは、包みから視線を戻した。


 届けられたものの話をするより先に、止めなければならなかった。


 アテナは必死に叫んだ。


「今すぐ、その方を解放してください!」


「おや? どうしてですか?♪」


 ヘルカイザーは、首を傾げた。


 反発して声を荒らげたのではない。


 なぜ解放する必要があるのかを、尋ねている。


 その穏やかさに、アテナは息を詰めた。


 自分が何を見て、何を伝えているかが、届いていないように感じた。


「苦しんでいるではありませんか!」


「ええ♪ ですが、ご安心ください。シナナクナールを投与しましたので、しばらく死ぬ心配はありませんよ♪」


 安心させようとする声だった。


 薬を使ったことを隠すのでも、行為そのものを誤魔化すのでもない。


 彼は、死なないことを、今の状況を続けてよい理由として説明している。


 アテナは、目の前の友人を見つめた。


 それを聞いて、安心できるはずがなかった。


「……違います!」


 アテナの声が震えた。


「死ななければ何をしても良いわけではありません!」


 言葉を終えると、短く息を吸った。


 苦しみを取り除くために、二人で研究した。


 魂の状態を見て、何が起きているかを確かめた。


 そのときには、苦しみが増すなら続けてはいけないと、同じ目的を持って話せた。


 今、目の前の相手は、苦しめるために死なない方法を使っている。


 アテナは、拘束された神へ顔を向けた。


 その神が自分に何をしたのかは、まだ全て分かっていない。


 けれど、解放してほしいという言葉を伝えるために、その全てを知る必要はなかった。


 彼女は言葉で止めようとした。拘束を解こうともした。しかし、次元神の力に阻まれ、どうすることもできなかった。


 近づこうとして、そこで動きを止める。


 力の繋がりを見ようとした。どこへ働きかければ解けるのか、目を向けた。


 けれど、知っているものと同じようには扱えない。


 初めて彼の力を感じたとき、神々のものと似ているのに違うと思った。その違いが、今、目の前にあった。


 説明を聞きたいと思った力へ、今は、拘束を解くために向き合っている。


 アテナは、一度、手を止めた。


 無理に働きかけて、苦しんでいる相手へ別の負担をかけたくはなかった。


 それでも、何もせずに見ているわけにはいかない。


 もう一度、ヘルカイザーへ向き直った。


「その方がしたことについては、確かめます。ですから、まず、やめてください」


 ヘルカイザーは、彼女の言葉を聞いていた。


「アテナさんが、こちらを託されたのでしょう?♪」


 視線が、包みへ向いた。


「それを、あの方は捨ててしまわれたのですよ♪」


 アテナは、唇を結んだ。


 紙の折れたところへ、目が向く。


 託したものが、捨てられた。


 その言葉の意味を、考える時間は必要だった。


 しかし、今、それを理由に、彼を肯定することはできなかった。


「だからといって、苦しめてよいことにはなりません」


 彼女は、はっきりと伝えた。


 ヘルカイザーは、困ったように小さく首を傾げた。


 理解できない言葉を聞いた顔ではなかった。


 聞いた上で、自分の判断を変えない顔だった。


 その間にも、神の声が響いた。


 アテナは、そちらを見た。


 また、拘束へ意識を向ける。どこか、手を届かせられる箇所はないだろうか。


 分からないままでも、諦めたくはなかった。


 けれど、彼が固定した空間は、彼女の願いによって緩むものではなかった。


「……お願いします。もうやめてください……!」


 ヘルカイザーは穏やかに首を振る。


「申し訳ありませんねぇ♪ 今回は、それはできません♪」


 謝る声と、断る内容が、同じ明るさで返ってきた。


 アテナの願いを聞かなかったわけではない。


 何を求められているか、分かっていた。


 それでも、続けることを選んだ。


 アテナは、彼の顔から目を離せなかった。


 以前、図面の問題を伝えたときには、耳を傾け、考え直してくれた。


 今も、話は聞いている。


 ただ、そこから選ぶ答えが、彼女の知っているものへ繋がらなかった。


 もう一度呼びかけた。


 彼女の声は、広い回廊へ響いた。


     ◇


 彼は、薬の効果が尽きるまで止まらなかった。


 およそ三時間。


 アテナは、その時間を、ただ同じ場所へ立ったまま過ごしたのではなかった。


 言葉を変えた。


 なぜ止めたいのかを、伝えようとした。


 友人の善意を守るためだと言うなら、自分の願いを聞いてほしかった。


 自分は、こんなことを望んでいない。


 その方がしたことが間違いでも、今、苦しめていることが正しくなるわけではない。


 何度も、同じところへ戻って伝えた。


 ヘルカイザーは、その声に返事をした。


 聞こえないふりをしたのではなかった。


 彼女の話を聞き、その上で、やめないと答えた。


 アテナは、拘束された相手へ目を戻す。


 声が弱まると、それが安らいだからではないことが分かった。


 助けを求める顔を見て、また、ヘルカイザーの名を呼んだ。


 時間は、長かった。


 ほんの少し前まで、会えたら何を話そうかと考えていた相手へ、同じ願いを繰り返している。


 研究の話を聞きたい。


 新しい図面を見せてほしい。


 そのために用意していた言葉が、今は、どれも使えなかった。


 やめてほしい。


 目の前の苦しみを、これ以上続けないでほしい。


 今、自分が彼へ求めていることは、それだった。


 アテナは、途中で、包みの方を見た。


 紙は、きちんと重ね直されていた。


 ヘルカイザーが拾い、大切に扱ったことは分かる。


 友人の善意を喜び、それを踏みにじった相手へ怒る。


 その気持ちが全て分からないのではなかった。


 けれど、そこから、なぜ、この行為が選ばれるのか。


 彼にとって、それが、どうして止められないほど正しいことなのか。


 アテナは、その答えを見つけられなかった。


 相手の声へ、意識を戻す。


 考えている間にも、助けなければならない相手がいる。


 彼女は、また働きかけられるところを探した。


 手が届かない。


 その事実が、言葉を尽くすたびに重くなっていった。


 ヘルカイザーは、アテナへ怒鳴ることも、彼女を同じように拘束することもしなかった。


 その場にいる者を見境なく襲っていたのではない。


 彼が苦しめているのは、自分で包みを捨てた神だった。


 何をした相手へ、何をするかを選んでいる。


 だから、相手を取り違えているのだと説明して終われる状況でもなかった。


 アテナは、自分が止めたいと望んでいることを、もう一度伝えた。


 彼は、その願いよりも、続けるべきだという自分の判断を選んだ。


 彼女の目の前で、何度も。


 長い時間の後、拘束が解かれた。神は生きていたが、まともに話すこともできないほど衰弱していた。


 空間の固定が解けたと分かった瞬間、アテナは動いた。


 今度は、近づくことができる。


 声をかけ、状態を確かめる。


 返事は、十分には返ってこなかった。


 アテナは駆け寄り、治療を手配した。


 まず、この相手を助けなければならない。


 ヘルカイザーに尋ねたいことも、包みについて確かめたいことも、頭の中にあった。


 けれど、その全てを、今ここで終わらせるわけにはいかない。


 アテナは、必要なことを伝え、衰弱した神へ目を向けた。


 生きている。


 その事実だけで、よかったと言える状況ではなかった。


 先ほど、ヘルカイザーへ叫んだ言葉が、胸へ戻ってきた。


 死ななければ、何をしてもよいわけではない。


 今の姿が、その言葉の意味を、目の前へ残していた。


 ヘルカイザーは、丁寧に包みを抱え直した。


 紙が落ちないように、持つ位置を直している。


 その仕草へ目が向き、アテナは、息を詰めた。


 研究資料を扱うときの、見慣れた丁寧さだった。


 この光景の後でも、その手つきは変わらない。


「……アテナさん。こちら、大切にさせていただきますよ♪」


 声には、感謝があった。


 その礼を、今、喜んで聞くことができなかった。


「……私は、こんなことを望んでいません……!」


 アテナの涙が落ちた。


 ヘルカイザーは、彼女へ顔を向けた。


 包みを大切にしたいという自分の気持ちと、彼女が悲しんでいることは、彼の中で、同じ答えになっていなかった。


 アテナは、涙を拭うより先に、彼を見た。


 何をしていたのかは、見た。


 何を理由にしたのかも、聞いた。


 それでも、どうしてこの友人が、その行為を正しいと信じていたのかが分からない。


「……あなたは、本当に以前と同じヘルカイザーさんなのですか……?」


「もちろんですよ♪ 自分は自分ですからねぇ♪」


 その答えに、迷いはなかった。


 だからこそ、アテナは恐ろしくなった。


 別の誰かだと言われたのなら、理由を探す場所も違ったかもしれない。


 何をしたか分かっていないのなら、目の前のことを説明する道もあったかもしれない。


 けれど、彼は、自分が何をしたかを知っている。


 止めてほしいという言葉も聞いた。


 その上で、自分は自分だと、穏やかに答えている。


 アテナは、彼の顔を見つめた。


 大切な友人へ向けられる笑顔が、そこにあった。


 それだけでは、もう、安心できなかった。


     ◇


 やがてヘルカイザーは研究室へ戻り、包みを開いた。


 机へ置く前に、紙を広げられる場所を空けた。


 拾ったときに曲がっていたところを直し、一枚ずつ重ねる。


 研究室には、いつもの資料が並んでいた。


 今日持ち帰ったものも、その隣へ置かれる。


 中にあったのは、懐かしいアテナの文字で書かれた研究資料だった。


 ヘルカイザーは、最初の一行から読んだ。


 どの箇所に関係する話なのか、少しずつ分かる。


 途中に、彼女が気になった点もある。


 同じ紙へ顔を寄せて説明を聞くときの声が、思い出された。


 ここを見てほしかったのだろう。


 そう考えながら、前の資料を隣へ引き寄せた。


「……いやはや、相変わらず素晴らしいですねぇ♪」


 その喜びにも、偽りはない。


 アテナが調べ、自分へ渡したいと思って選んだものだった。


 そのことが、読んでいて分かった。


 彼は、気になった箇所へ目を留めた。


 こちらは、次に話してみたい。


 自分の考えたことも示せば、彼女から、また問いが返ってくるかもしれない。


 そんなふうに、続きを考えた。


 回廊で彼女が涙を落としたことを、忘れていたわけではなかった。


 止めてほしいと言われたことも、覚えている。


 けれど、その記憶が、自分の行為を誤りとして考え直すところへは繋がらなかった。


 だが、神への拷問を間違っていたとは、今も思っていなかった。


 彼の中では、友人の資料を大切にすることと、その信頼を裏切った相手へ行ったことが、並んで成立していた。


 片方だけが本当で、もう片方は演じていたのではない。


 どちらも、自分で選んだ行為だった。


 ヘルカイザーは、紙の順番を整えた。


 研究の途中で読める位置へ、アテナの資料を残しておく。


 自分の計画も、そのそばにある。


 新しく書いた集約先の一文を見てから、彼女の問いへ視線を戻した。


 今日も、まだ考えたいことがあった。


 アテナは一人、回廊に残った。


 治療のために運ばれた神の姿は、もう、目の前にはなかった。


 ヘルカイザーも去った。


 広い回廊へ、静けさが戻っている。


 アテナは、先ほどまで拘束があった場所を見つめた。


 声をかけても、解くことができなかった。


 何度もやめてほしいと伝えた。


 その声へ返事をした友人は、止まらなかった。


 手元に、託した包みはない。


 ようやく彼の手へ届いたのだと、こんな形で知った。


 本当なら、そのことを嬉しく思いたかった。


 資料を見てもらい、どこが気になったかを聞きたかった。


 けれど、今、彼へ尋ねなければならないことは、それだけではなくなっていた。


 アテナは、ゆっくりと息をした。


 泣いたままで、何も分からないと立ち尽くしていたくはない。


 何が起きたのかを見た。


 それでも、友人の中で何が起きていたのかは、まだ分からない。


 知っている笑顔を見ただけで、大丈夫だと思っていた。


 話を聞いてくれたことに、安心していた。


 その相手が、今日、自分の言葉を聞きながら、苦しめることを選び続けた。


 アテナは、目を閉じた。


 その違いから、目を逸らすわけにはいかなかった。


「……調べなければ……」


 友人に、何が起きたのかを。


 小さく声にすると、ようやく、次にしなければならないことへ意識が向いた。


 まだ、原因を決めることはできない。


 彼が人間だった頃のことも、貯蔵庫を作った日のことも、自分は知っている一部を聞いただけだった。


 知らない時間も、ある。


 最近、会えずにいた間にも、研究は続いていた。


 その時間に、何があったのだろう。


 何を見て、どのように考えるようになったのだろう。


 アテナは、顔を上げた。


 以前と同じだという彼の返事を、そのまま、自分の答えにはできなかった。


 目の前で見たことを、忘れないようにしなければならない。


 そして、思い出だけで埋めずに、確かめなければならない。


 彼は、間違いなく大切な友人だった。


 だからこそ、今日の行為を、仕方のないこととして見過ごすことはできなかった。


 アテナは、静かな回廊を歩き始めた。

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