第13話 黒に染まる白
マイナスエネルギー貯蔵庫の稼働は、長い時間続いていた。
神界の研究室に広がる漆黒の空間には、数え切れないほどの負のエネルギーが蓄えられている。
ヘルカイザーは、その流れを眺めてから、机へ向き直った。
読みかけの資料を戻す場所は、決まっている。確認を終えた記録は端へ置き、これから比べたいものを手前へ並べた。
新しい紙を置くために、前脚で少し場所を空ける。
紙が擦れる音がした。
以前、アテナと図面を囲んだときにも、こうして机を空けた。彼女が持ってきた資料と、自分が考えた案を並べるためだった。
今、広げているものは、その頃より増えていた。
貯蔵庫を動かした結果。改良を重ねた記録。扱う範囲を広げようと考えた、幾つもの案。
一枚だけを見ていては、前に考えたことを見落とす。彼は古い紙も手元へ戻し、書き込みを辿った。
「……ふむふむ」
ヘルカイザーは、膨大な記録を見つめていた。
『世界規模のマイナスエネルギー集約構想』
もはや彼の研究の中心となった理論だ。
表題の下には、まだ問いも残っている。
何をどこまで扱えるのか。今の仕組みを広げたとき、どこを変える必要があるのか。
分からないことがあるからといって、紙を閉じたいとは思わなかった。
それを調べることが、これからの研究になる。
ヘルカイザーは、前に書いた計算の脇へ、別の記録から数字を写した。
目を戻して比べる。
今までの成果はある。苦しみが和らいだ魂もいる。
それでも、一つの処置だけで、これから生まれる全ての苦しみまでなくなるわけではなかった。
一つひとつの魂から苦しみを取り除いても、新たな恨みや憎しみは生まれ続ける。ならば、それら全てを一つの場所へ集めれば良い。
その考えへ戻ると、今までばらばらに置いていた問いが、同じ方向を向くように思えた。
回収する範囲を広げたい理由も、扱える量を増やしたい理由も、そこへ繋がる。
ヘルカイザーは、紙の上へ前脚を置いた。
以前、処置を受けた魂が、再び苦しんで研究室を訪れたことを覚えている。
また楽になったと聞き、嬉しかった。
助けを求めて来たことを迷惑に思ったわけではない。再び必要になれば、同じように応じるつもりだった。
けれど、その繰り返しが続くのなら、もっと広く働く方法を考えたい。
今ある苦しみを和らげ、その先に生まれるものにも届く仕組みを。
彼の中では、その願いと、紙に大きく書いた集約という言葉が、無理なく結びついていた。
その結びつきを疑う代わりに、実現するための問いを増やしていく。
どこへ集めるか。
その場所が、構想全体を考えるときの、重要な箇所になっていた。
「……さてさて♪」
彼は、初期の研究資料を開いた。
『負の感情に苦しむ魂の救済』
その文字を見つめ、懐かしそうに微笑む。
初めは、まだ図面とも呼べない紙だった。
アテナが、苦しみ続ける魂について話してくれた。言葉をかけても、それだけでは和らがないものがあると聞いた。
その苦しみを生むものを、別の場所へ移せないだろうか。
そう尋ねたところから、二人で考え始めた。
ヘルカイザーは、古い資料を一枚めくった。
アテナの問いが残っている。
魂を傷つけないこと。記憶や、大切な思いまで失わせてはいけないこと。
彼は、その言葉を読み飛ばさなかった。
今も、否定するつもりはない。
装置を作るまでに、何度も話したことだった。試作を進め、結果を確かめるたび、その問いへ戻った。
初めて成功を確かめた日の記録へ目を向ける。
苦しくないという声が聞こえた。
アテナが顔を上げたことも、確認を終えた自分へ向けた、嬉しそうな表情も覚えていた。
「……アテナさんも、随分と喜んでくださいましたねぇ♪」
彼女は、見たことを丁寧に書き留めた。
自分の記録と並べ、何が起きたのかを話した。まだ確かめたいことが残っていても、その日の喜びまで小さくなるわけではなかった。
ヘルカイザーは、その一行へ、しばらく目を留めた。
そのときの声を、思い出せる。
新しい発明を見せると、アテナは、まず説明を聞いてくれた。気になったところがあれば、遠慮せずに尋ねた。
彼女の問いから、別の案が浮かぶこともあった。
そのやり取りを、楽しいと思っている。
今の構想も、見せれば、また何か尋ねるだろう。
ヘルカイザーは、古い資料を、手の届くところへ置き直した。
過去の研究を、もう要らないものとして追いやったのではなかった。
あの頃の気持ちが、消えたわけではない。
誰かを救いたい。役に立ちたい。発明を楽しみたい。
その願いは、今も確かに残っている。
しかし、その願いを叶える方法だけが、少しずつ変わっていた。
初期の記録を読み、新しい構想を見る。
その二つを並べても、彼には、別の目的へ移ったようには思えなかった。
ひとつの魂が安らげた。ならば、もっと多くの魂が安らげるようにしたい。
取り除けたものがある。ならば、残っているものにも届くようにしたい。
そこから全てを集めるという考えへ進むことに、ためらいがなくなっていた。
魂について残した言葉は、机の上にある。
けれど、次の案を選ぶときに最も強く彼を引くのは、どれほど集められるかという問いだった。
ヘルカイザーは、新しい紙へ顔を近づけた。
まだ方法が決まっていない部分がある。
だから、そこを考えたい。
記録に残した願いが、その選び方を立ち止まらせることはなかった。
彼は、救済という言葉を、今の構想へそのまま引き継いでいた。
◇
ヘルカイザーは、貯蔵庫と自分の次元神の力を結ぶ構造を見つめた。
この繋がりは、今日、初めて見つけたものではない。
貯蔵庫を動かすために利用してきた。そこを通って、自分へ負のエネルギーが流れ込んでいることも、以前から記録していた。
彼は、その記録を手元へ戻した。
流入に気づいた日にも、装置の様子を確認した。自身の力が、どのように扱えるかも見た。
その後も、研究は続けられた。
図面を描き、考え、結果を確かめることができる。
会えば、アテナと話すこともできた。
今も、自分の前脚は、思ったところへ動く。
そうした確認の中に、何を正しいと感じるようになったかを測るものはなかった。
ヘルカイザーは、数値と接続図を並べた。
既に流れているものを、もっと有効に使えないだろうか。
先日、そう思ったところから、また考え始める。
前に描いた案には、別の場所へ集めるための線があった。
その先を、大きく描き直してみる。
ヘルカイザーは、途中で手を止めた。
集める範囲を広げれば、蓄える先にも、それに見合うものが必要になる。
今の形を残して、ただ大きく考えるだけでよいのだろうか。
彼は、紙をずらした。
別の案を隣へ置き、見比べる。
「……貯蔵庫だけでは、全てを収めるには足りませんねぇ」
その言葉を残し、図面の端へ視線を向けた。
今までの働きを否定しているのではない。
貯蔵庫は、役に立った。苦しみを和らげることができた。その事実は、記録へ残っている。
けれど、彼が今、考えているのは、全てを集めるという構想だった。
そのためには、蓄える先についても、最初から考え直した方がよいのではないか。
ヘルカイザーは、接続図へ戻った。
自分の力がある。
今の装置は、それと繋がっている。
その途中を、前脚でゆっくり辿る。
紙へ描いた線と、記録へ残した流れ込みが、同じ問いの中へ入ってきた。
流入するマイナスエネルギーは、既に自分の内側へ届いている。
それならば。
「……おや?」
彼は、自分の小さな前脚を眺めた。
白い前脚だった。
それを動かし、紙を押さえる。
図面の中で、自分の力を示した箇所へ、もう一度目を向けた。
今まで、その力は、何かを移すために使うものとして考えていた。
運ぶ側の仕組みと、運んだものを蓄える先。
その二つを、別に置いてきた。
けれど、自分へは、既に届いている。
ヘルカイザーは、紙に描いた集約先を見た。
これを別に描くことを、最初から決めているのは、なぜだろう。
膨大なエネルギーを一つの場所へ集める。その場所を、別に用意する必要があるのだろうか。
次元神の力を持つ自分自身が、受け皿になればどうだろう。
彼は、すぐには言葉を足さなかった。
新しい紙を引き寄せ、最初の線を引く。
今の接続を示し、そこから、別に置いていた先を描こうとして、手を止めた。
その場所を、自分へ置き換えてみる。
先日、前脚を見ながら浮かんだ着想が、今は、図面の中で形になり始めていた。
考えただけで、全ての方法が完成するわけではない。
けれど、何を集約先として計画を立てるかは、選ぶことができる。
その選び方を変えると、今まで引いていた線も、違う意味を持った。
ヘルカイザーは、前の計算を手元へ戻した。
別々の紙で考えていた箇所を、同じところから読み直す。
ここで困っていたのは、集めた先を別に用意しようとしていたからではないか。
こちらの繋がりは、今ある力の中から考えられるのではないか。
問いを一つずつ置き直していった。
「……ふむふむ」
前脚が、紙の上を動いた。
一度書いたところを読み、隣の案を確かめる。
答えに近づいているとき、彼は、説明を急がなくなることがあった。
次に何を確かめるべきかが、頭の中で先へ進む。言葉にする前に、図へ残しておきたくなる。
今も、そのように感じていた。
数式が繋がる。長い間考えてきた問題に、突然一本の道が通った。
「……ああ。そういうことですかぁ♪」
彼は、顔を上げた。
誰かに呼ばれたわけではなかった。
考えていたことがまとまった喜びが、自然に声になった。
机の上を、もう一度眺める。
古い資料があり、流入の記録があり、集約についての構想がある。
今まで別々に読んでいたものが、ひとつの考えを支えているように見えた。
その声には、喜びがあった。
難しい研究の答えを見つけた、発明家の喜びだった。
ヘルカイザーは、新しく描いた図を、見やすい位置へ置き直した。
ここへ集める。
自分へ。
その考えを置くと、取り除いた後の世界まで、ひと続きに想像できた。
負のエネルギーが、そこに残らないようにする。
苦しみを生むものを、自分の方へ集めてしまう。
初めは、取り除いたものを、魂から離れた場所へ移そうと考えた。
その先に置くものが、自分自身へ変わる。
彼にとっては、それが、今までの研究を大きく前へ進める答えだった。
そして、彼は穏やかに告げた。
「この世のマイナスエネルギーを、自分に集中させれば……世界は平和になるのではありませんかねぇ♪」
しばらくの沈黙。
研究室には、彼の言葉へ問い返す声がなかった。
ヘルカイザーは、今、口にした考えを、もう一度頭の中で辿った。
魂を救いたい。
そのために、苦しみを生む負のエネルギーを取り除きたい。
取り除いたものは、一つへ集めればよい。
その集まる先に、自分がなればよい。
ひとつずつの考えが、彼の中で繋がっていく。
途中に、立ち止まる理由は見つからなかった。
自分で作った力を、自分の研究へ使う。その延長としても、ごく自然に思えた。
ヘルカイザーは、穏やかな笑みを浮かべた。
「……なるほど。実に良い考えですねぇ♪」
彼は新しい紙を取り出し、研究計画へ一文を書き加えた。
『集約先――自分自身』
書いた文字を、ゆっくり読んだ。
今までの構想の中で、空けたままだった場所へ、自分の名を置いたような感覚だった。
もう、何を集約先として考えるかで迷う必要はない。
そこから、どう実現するかを調べていけばよい。
その前提が、彼の中へ収まった。
ヘルカイザーは、書いたばかりの一文を、前の計画と比べた。
以前の紙には、集めたものを蓄える場所について、何通りかの案がある。
どれを選ぶかによって、その手前も変わる。彼は、それぞれの違いを調べようとしていた。
今は、その迷いがなくなったように感じた。
前の案を捨てるために、乱暴に紙を丸めることはしない。
何を考えたかは、後から読み直せるように残しておく。そこへ、自分自身を集約先とする案を、次に進める計画として重ねた。
丁寧に扱われる紙の中で、選ばれなかった考えが、過去の検討になっていく。
ヘルカイザーは、その順番を自然に受け入れた。
長く考えてきた問題に、ようやく答えが出たのだから。
世界から取り除いたものが、全て自分へ向かう。
その姿を思い浮かべても、不快さや、ためらいは生まれなかった。
既に流れてきていると知ったときには、何が起きているかを確かめた。
今は、そこへ集めることを、目指す結果にしている。
同じ流れを見ながら、彼が求めるものは変わっていた。
彼は、少し首を傾げ、計画の脇へ新しい問いを書いた。
どのように経路を考えるか。
今の記録から、どこまでを手がかりにできるか。
自分へ集めるべきなのかという問いは、その中へ戻らなかった。
決めたことをもとに、まだ決まっていないことを調べる。その進め方を、彼は、以前から行ってきた。
今も、それと同じだと思っていた。
ただ、その決めたことを選ぶ自分が、どのように変わったのかを、彼自身は知らなかった。
机の上には、古い記録がある。
初めて流入を見つけた日の文字も、その後に確認した結果も、消えていない。
辿れば、いつから流れていたのかは分かる。
けれど、同じ記録へ何を感じるようになったのかは、そこに数字としては並んでいなかった。
ヘルカイザーは、紙を一枚、近くへ寄せた。
その違いを探すためではなく、次の研究へ使うためだった。
前脚で押さえたところには、自分で書いた計画がある。
それを読む目に、満足そうな笑みが浮かんだ。
手順については、これから考えることがある。実際に扱うための仕組みも、さらに研究しなければならない。
けれど、自分へ集めること自体は、もう、彼が答えとして選んだものになっていた。
それは、もはや思いつきではなかった。
長い時間をかけ、何度も考え、研究を積み重ねた末に辿り着いた、彼自身の結論だった。
◇
その瞬間、マイナスエネルギー貯蔵庫の奥で、黒い流れが静かに揺らいだ。
長い時間をかけて染められてきた白い布。
残されていた、最後の白い部分。
それさえも、音もなく黒に染まっていく。
研究室の明るさは、変わらなかった。
机の上には、先ほどと同じ紙がある。ヘルカイザーの前脚は、その端を押さえている。
何かが割れる音も、警告を告げる声もなかった。
彼は、書き終えた一文の下へ、次に考えたいことを記し始めた。
彼の表情には、何の変化もなかった。
身体が変形したわけではない。怒りに叫んだわけでも、誰かへの恨みを募らせたわけでもない。
ただ、価値観が完全に定着した。
世界を平和にするために、自分へマイナスエネルギーを集める。
その考えこそ正しいと、疑いなく信じるようになった。
ヘルカイザーは、最初の研究資料へ目を戻した。
そこに書かれた願いも、今、自分が選んだ結論を支持するものに見えた。
苦しむ魂の救済。
そのために、さらに大きな方法へ進む。
古い言葉を消す必要はないと思った。
むしろ、ここから始まった研究が、ようやく、世界規模の形を持とうとしている。
彼は、そのように理解した。
初めて魂を救った日の記録を読んでも、立ち戻る場所としては見なくなっていた。
今の結論へ至るまでの、一つの成果として見る。
最初にできたことを、大きく広げようとしているのだから、そこには、彼が感じる矛盾はなかった。
彼は、自分が変化したとは思わない。
むしろ、新しい研究の正解を見つけたつもりだった。
何をするための研究かと尋ねられたなら、今も、救うためだと答えただろう。
穏やかな声で、図面を示しながら説明しただろう。
その説明の中へ、今日書いた一文も加わる。
自分自身を、集約先にする。
もはや、その箇所を、正しいかどうか考え直すためには開かない。
どうすれば、その計画へ近づけるのかを考えるために開く。
同じ紙へ目を向けても、問いの置き方が決まっていた。
ヘルカイザーは、次に読む記録を手元へ置いた。
残っている課題を嫌がる様子はない。
ここまで考えたのだから、その先を知りたい。
研究を楽しむ気持ちも、その結論を進める力になっていた。
彼は、一つの箇所へ印をつけた。
「……さてさて♪ これなら、もっと多くの魂を救えそうですねぇ♪」
その声に、自分を犠牲にする悲壮さはなかった。
不本意な役割を押しつけられ、耐えようとしているのでもない。
自分が考え、自分で選んだ、とてもよい方法だと思っていた。
誰かに認めさせるための計画でもなかった。
偽物と呼んだ神々を、見返したいわけではない。
人間だったことを、恥じているのでもない。
彼は、その来歴を以前から変わらず受け入れている。
今、紙へ向かう理由は、研究の続きを考えるためだった。
ヘルカイザーは、上手に繋がったと思う箇所を、もう一度読み返した。
その先が、楽しみだった。
しかし、もう元へ戻る方法は存在しなかった。
黒く染まりきった価値観は、彼の内側で完全に成立してしまったのだから。
流れ込みへ気づくことと、その影響を知ることは、違っていた。
彼は、前者を記録してきた。
何も知らずに数値を見落としていたのではない。
けれど、研究を続ける自分の判断そのものへ、その影響が入り込んでいたことを理解できなかった。
危ういと思っていたはずのものを、役立つ手段として選ぶ。
問い直すべき箇所を、先へ進むための前提にする。
その変化が、今は、彼の中で揺らがない形を持っていた。
元の願いを思い出せば戻れるというものでもない。
その願いさえ、今の結論を選ぶ理由として理解されていた。
ヘルカイザーは、机の端の資料を揃えた。
アテナに見せるなら、こちらも近くに置いておこうと思う。
彼女と話すことを、嫌になったわけではなかった。
意見を聞けば、新しく調べたい箇所が見つかるかもしれない。
次に会ったときには、どこから説明しよう。
そんなことを考えながら、彼は、集約先を記した紙へ目を戻した。
紙を広げるときの笑顔まで、変わってしまったわけではなかった。
◇
その頃、アテナは庭園で噴水を眺めていた。
水が持ち上がり、弧を描き、落ちていく。
その動きを見ていると、初めて会った日の会話が思い出された。
なぜ、水の高さが揃っているのか。
そう尋ねた小さな白いドラゴンへ、彼女は、仕組みを説明した。
すると、彼は、そこから違う動きを考え始めた。
地面へ引かれた線が、少しずつ増えていった。
アテナは、足元へ視線を落とした。
今、そこに、あの日の図はない。
けれど、どんなやり取りをしたのかは覚えている。
難しいところを伝えると、彼は嬉しそうに頷いた。
それなら、こちらを変えてみましょうかと、線を引き直した。
分からないことを尋ねるのも、自分の考えを伝えるのも、次第に楽しくなっていった。
「……また、お会いしたいですね」
呟いてから、少し微笑んだ。
最近、庭園で顔を合わせられたことを思い返す。
名前を呼ぶと、彼は顔を上げた。
再会を喜ぶ声が返ってきて、それだけでも嬉しかった。
見せたいものがあると、すぐに資料を揃え始めた。
その仕草も、よく知っているものだった。
アテナは、噴水の見える長椅子へ目を向けた。
あそこへ腰を下ろして、新しい計算を見せてもらった。
扱う範囲が広がり、回収量についての言葉が増えていた。
気になることがあったので、彼へ伝えた。
救おうとしているのは、魂そのものだということ。
彼は、真剣に話を聞いていた。
頷き、確かにそのとおりだと答えた。
その顔を、アテナは覚えている。
話してよかったと思った。
これからも、気になることは伝えられる。そうして、また一緒に考えていけばよいと思った。
友人がどんな研究をしているのか、どんな新しい発明を完成させたのか。
聞いてみたいことは、いくらでもあった。
以前、渡そうとして選んだ資料もある。
託したものを読めば、彼の方にも、何か話したいことができるかもしれない。
アテナは、その問いが返ってくるのを楽しみにしていた。
今度は、時間を気にせずに話せるだろうか。
お茶を飲もうと誘ったことも、また直接伝えたい。
研究の説明が始まれば、飲む前に話が長くなるかもしれない。
その様子を思い浮かべると、口元が少し緩んだ。
ヘルカイザーの「少々」は、少しで終わらないことが多かった。
一枚だけを見るつもりが、別の紙も必要になる。資料を開けば、新しい問いが増える。
考えている間に時間が過ぎ、二人で顔を上げて笑った。
また、そんな時間を持ちたかった。
アテナは、噴水のそばへ歩み寄った。
水しぶきが、光を受けて輝いている。
あの日と同じ場所でも、話す相手がいなければ、聞こえる声は水音だけだった。
しばらく、その音へ耳を澄ます。
彼と会うことを、やめたつもりはない。
忙しいなら、落ち着いた頃を待つ。時間が取れれば、また訪ねてみる。
相手の都合を大切にしながら、続きを話せる機会を探していた。
届かないものがあると知っていれば、違う問いを向けたかもしれない。
誰の言葉を聞いたのか。自分が渡した資料は、本当に彼の手元にあるのか。
けれど、彼女が知っている話の中では、それらは、届けられるはずのものだった。
親切な声で引き受けた相手のことを、まだ信じていた。
ヘルカイザーも、今は忙しく研究を続けているのだろうと思っていた。
また会えば、その続きを聞ける。
その期待が、今も彼女の中にあった。
アテナは、長椅子の方へ、もう一度目を向けた。
次に図面を広げてもらったときには、どこから考えたのかも聞いてみよう。
数字だけでなく、何を見て、その案を思いついたのかを。
自分の知らないところで、彼が調べたことは多いだろう。
それを教われば、こちらから尋ねたいことも、きっと増える。
友人の才能を尊敬している。
同時に、考えている途中のことを話してくれる時間が好きだった。
分からないと答えた場所も、そのまま残して、一緒に考えられる。
その関係を、これからも大切にしていたかった。
噴水の向こうで、葉が揺れた。
アテナは、その動きを見てから、小さく息をついた。
また会うために、自分の仕事も進めておこうと思った。
まだ伝えていないことがある。
彼の返事を聞きたい問いも、残っている。
その問いを持って研究室へ行けば、また、あの明るい声が返ってくるだろう。
彼女は、そう思っていた。
同じ頃、研究室の机では、新しい計画の下へ、さらに書き込みが増えていた。
ヘルカイザーは、自分で選んだ集約先を、もう一度読み返した。
そこをどう実現するか。
彼が次に向ける問いは、既に、その前提から始まっていた。
アテナの言葉も、思い出せる。
魂を救うことを大切にするなら、なおさら、この方法を進めたい。
そのように繋がる理解が、今は、彼自身の中で揺らがなくなっていた。
庭園で、アテナは、静かに顔を上げた。
見上げた先に、友人の姿はない。
それでも、いつかまた、ここで話せると思っている。
研究室では、小さな白いドラゴンが、楽しそうに次の紙を開いた。
姿も、声も、友人と話したいという気持ちも、そこに残っている。
だから、遠く離れたアテナには、何かが終わったと知らせるものはなかった。
彼が新しい答えを見つけたと思った、その時間。
彼女は、次に尋ねたい言葉を考えていた。
アテナは、まだ知らなかった。
友人を救える最後の時間が、既に終わってしまったことを。




