↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グランヴェール王国記 ―農民から王への道―  作者: 厨


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/18

第四話 無題

 検査の日から、三月ほどが過ぎていた。


 季節は秋の終わりに差し掛かり、朝晩の空気は日に日に冷たさを増していく。畑はすでに収穫を終え、グレンフォードは冬支度の慌ただしさに包まれていた。薪を割る音、燻製小屋から漂う煙の匂い、干し草を運ぶ荷車の軋み――そういう、この時期特有の喧騒が、村のあちこちから聞こえてくる。


 俺の日常も、相変わらずだ。牛角の世話をし、エドガーの手伝いで薪を割り、時折オーウェン神父のもとへ通う。才能検査での落胆は、もうすっかり過去のものになっていた…はずだ。気にしてない。


「今年の冬は、少し長引きそうだな」


 朝食の席で、エドガーがそう零す。窓の外は、どんよりとした薄暗い色をしていた。長年の経験からそういうのってわかるのだろうか。


「そう言って、去年も外れてたじゃないか」


 アグネスが、椀によそったスープを俺の前に置きながら、からかうように言う。エドガーは、ばつが悪そうに黙り込んだ。俺はそのやり取りに、思わず笑ってしまった。そんな朝だった。


----


「ウィル、悪いけど水を汲んでおくれ。あの人、昼前には喉が渇いたって騒ぐんだから」


 アグネスがそう言って、俺の背を軽く押した。エドガーはといえば、朝早くから、森に近い畑の端――刈り入れ損ねた最後の麦を片付けるとかで、一人で出ていったばかりだ。アグネスも、後で追いかけると言っていた。


「はいはい」


 俺は木桶を担いで、井戸へ向かった。空は相変わらず薄暗い。数時間後には雨だろうか。

 井戸の縁に手をかけ、縄を手繰りながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。


 本当に、何でもない朝だった。


----


 縄を手繰り寄せる。簡単なように見えて、そこそこの重労働だ。しかし、それでも何年もやっている身だ、いつも通り引き上げようとすると、


 ――ブチン


 縄が千切れた。同時に、バシャン、という音と共に桶が落ちる。


 まあ、無いことではない。縄が傷んでいたのだろう。背中に冬の風が吹き付ける。寒いな。そろそろ振り出してきそうだ。俺は代わりの縄と桶を取りに行こうと振り向いた。その時、



 最初は、何の音か分からなかった。だが、それに続いて響いた地鳴りのような振動と、聞いたこともない獣の咆哮は、原始的な恐怖を呼び覚ますような、そんな感覚だった。


 嫌な予感がする。今の方向…


 視界の端に、村の男たちが数人同じ方向へ駆けていくのが見えた。誰かが、鐘を打ち鳴らしている。けたたましい音が、冷たい秋の空気を切り裂いていく。


 畑の入り口が見えた瞬間、俺は足を止めた。


 止まらざるを得なかった。


----


 それは、俺の知っている熊とは別物の何かだった。


 黒々とした毛皮に覆われた体軀は、村の家一軒分ほどもあろうかという大きさで、四肢は太い丸太のようだった。ヒグマが可愛く見えるような、その巨体が、刈り入れの終わった畑の中を、まるで玩具でも扱うかのように蹂躙している。


 エドガーの姿が見えた。アグネスの姿も見えた。二人とも、その化け物から、決して十分とは言えない距離しか取れていなかった。


「逃げ――!」


 俺は叫んだ。声が届いたのかどうかも、分からない。


 化け物が、前脚を一度、大きく振り上げた。


 それだけだった。


 その一撃が振り下ろされた瞬間、エドガーの体が、まるで軽い藁人形のように宙を舞った。何かが折れるような、鈍く、重たい音。それが最後だった。


 アグネスが、悲鳴を上げながらエドガーの方へ駆け寄ろうとした。俺は、声にならない声で何かを叫んでいたと思う。だが、俺の声も、母の足も、あの化け物の速さには到底及ばなかった。


 二度目の一撃は、あまりにも呆気なかった。


 俺はどこか他人事のような、目の前の出来事がまるで映画のワンシーンを観ているかのような感覚に襲われた。


 きっとそれは自己防衛であり逃避だったのだろう。


 そうでもしなければ、俺はどう目の前の両親の死体を受けとめればよかったのだろう。


----


 蹄の音が近づいてきたのは、それからいくらも経たない頃だった。


 街道の方角から、十数騎の一団が姿を現した。統率の取れた駆け足、使い込まれた武具と革鎧。誰かが「傭兵団だ」と叫んだ。


 後になって知ったことだが、彼らはこの一帯で頻度が増えていた魔物の被害を受け、アシュフォード家から討伐の依頼を受けていたのだという。その到着が、俺の家族には、ほんのわずかに間に合わなかった。


 傭兵団は、混乱する村人たちを怒鳴りつけて下がらせると、統制された動きで化け物を囲んだ。長い得物を手にした者たちが、決して深追いせず、じりじりと間合いを詰めていく。誰かが指笛を鳴らすと、両脇から二人が同時に踏み込んだ。


 数分と経たずに、あれほど村人たちを蹴散らしていた化け物は、地に伏していた。


 呆気ないほどだった。


 俺はその光景を、ただ黙って見つめていた。


----


 父と母の亡骸は、その日のうちに、教会の裏手へ運ばれた。


 俺は、二人の亡骸に付き添う間中、不思議なほど涙が出なかった。何も考えられなかった、というのが正しいのかもしれない。


 翌日、簡素な埋葬が行われた。オーウェン神父が、いつもより低く、静かな声で祈りの言葉を紡ぐ。集まった村人たちは、一様に神妙な顔をして、時折俺のほうをチラチラ見て、可哀想にねえとか、そんなことを囁きあっている。同時に村の雰囲気はどこか単調だった。


 ――ああ、またか。


 同情はあっても、驚きはない。この村では、魔物による死は、決して珍しいことではないのだ。明日には彼らはまた、畑に出て作業をしなくてはならない。


 その冷たさに―なんとなく疎外感を覚えた。


----


「行く当てはあるのか」


 埋葬を終えた夕刻、教会の戸口で、オーウェン神父が静かにそう尋ねた。


「ありません」


「そうか」


 神父は多くを語らなかった。ただ、皺だらけの手を俺の頭に乗せ、


「お前は、この村には収まりきらん子だ」


 と、短く言う。


 村には、後を継ぐべき遠縁の親戚もいない。土地を継ぐ者もいない身の上だった。牛角は、隣家が引き取ってくれることになった。最後に小屋を覗いた時、牛角はいつもと変わらぬ、興味なさそうな目でこちらを一瞥しただけだった。それが、なぜだか無性におかしくて、俺は少しだけ笑った。


----


 翌朝、村を発とうとしていた傭兵団の元を、俺は訪ねた。


「荷駄の手伝いでも、なんでもします。ここに置いてもらえるなら」


 団長――ガレスと名乗ったその男は、痩せた俺の体を一瞥し、少し呆れたような顔をした。


「拾ってくれと言うには、ずいぶん堂々としてるな、坊主」


「他に、行く当てがないので」


 正直に、そう答えた。ガレスは、しばらく黙って俺を見ていたが、やがて肩をすくめた。


「まあいい。飯を食わせてやる代わりに、こき使うぞ。文句は言うなよ」


「はい」


 俺の新しい生活の始まりは、それだけだった。


----


 馬車の荷台に揺られながら、俺は一度だけ、振り返った。


 小さくなっていくグレンフォードの家々。あの井戸、あの畑、あの教会。何もかもが、もう自分のものではない場所になっていく。


 悲しくない、と言えば嘘になる。それでも、それ以上に俺の中を占めていたのは、もっと冷たい感情だった。


 二度と、こんな理不尽に無力なまま、大切なものを奪われてたまるか。


 力が欲しい、というのとは、少し違う。自分が何もできないまますべてを持っていかれるのは、もうごめんだ。


 馬車は砂埃を立てながら、街道を進んでいく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。