第十三話 Melissa Mercier
失敗したな。そう思った。ノーラさんに連れられて着いた野営地。敬語で、へりくだった若い団長。年は二十にもなっていないだろう。傭兵団というものに詳しい訳では無いが、団長たるもの、もっと堂々としているべきだ。この職場も、もってせいぜい一年ほどだろうか。書記──メリッサ=メルシエは天幕の中でそんなことを考えていた。
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ウォルシュ卿の館は街道を外れた丘の上にあった。石造りの広間の隣にある小部屋に通されて、小一時間が過ぎている。窓の外には、霜の降りた麦畑が灰色に広がっていた。
隣に座る団長は、膝の上に契約書の下書きを広げて最後の確認をしている。青年と呼ぶにはまだあどけなさの残る顔。背もそれほど高くない。
私は膝の上の書類鞄に手を置いて待っていた。
扉が開いたのは間もなくのことだ。
「お待たせして申し訳ない。家令のハモンドです。主は所用で席を外しておりますので、私が代わりに承ります」
四十代半ばの、愛想のよい笑みを浮かべた男。こういう席に主が出てこないのはよくあることだ。そして、こういう席ほど後になって「主は聞いておりません」という言葉が出てくる。
ハモンドは椅子に座るなり、卓の上の地図を指した。
「依頼のあらましはこうです。森の北側に、魔物の巣が三か所。数は、十頭前後というところでしょうか」
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物心ついた私の最初の記憶は、帳場の匂いだ。
インクと、羊皮紙と、織りたての毛織物の油の匂い。母のアンナは、店の奥の帳場で掛けで売った相手ごとに頁を取り、日付と品と金額を一行ずつ書き留めていた。
私は、その膝の上で、数字が一行ずつ増えていくのを見るのが好きだった。
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「十頭前後、とありますが」
団長の声で、私は現実に引き戻される。
「幅を数字で決めさせてください。十五頭までは推定の内とします。それを超えた場合は、超えた分を別に計算する、と別紙に書きたいのですが」
ハモンドの笑みがわずかに固くなった。
「ずいぶん細かいことをおっしゃる。傭兵団の団長というより、事務方のようですな」
「そりゃどうも」
団長は穏やかに言った。私は鞄から別紙の写しを取り出し、卓に置いた。
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母が亡くなったのは、私が十五の冬だった。熱病だった。三日で逝ってしまった。
父のエドマンドは、織物を見る目と人柄で、この街の織物商の中でも指折りに信頼された人だった。取引相手の誰もが「エドマンドさんの言うことなら間違いない」と言った。
「商いはな、信用だ」
それが父の口癖だった。
この街の商業は、実際、それをベースに回っていた。支払いが遅れても多少であれば待つのが作法だ。今日待つ側の者が、明日は待ってもらう側になる。同じ町で毎日顔を合わせる者同士の貸し借りだ。
一方で、父は抜かりのない人だった。
同業との取引では、金額が大きければ必ず市庁舎で債務証書を交わした。仕入れ先には支払いの猶予を前もって約束させた。貴族の家には、支払いが遅れることを見込んで、値に上乗せをした。そして三月分の運転の金を、いつも金庫の底に残していた。
「貴族の奴らの支払いは遅れるものだ。それでも潰れないように組むのが、商人だ」
父はそう言っていた。
貴族の家に、市庁舎まで出向いて証書を交わせとは言えない。言えば、取引そのものを失う。だから、そこだけは先方の名と、家の名誉を担保にする。父はそう割り切っていた。割り切った上で、その分の備えを他のところに積んでいたのだ。
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四年前の秋、店は、ちょうどいい風に乗っていた。染め場は忙しく、見習いも二人増えたばかりだった。
そこへ、ロックフォード家の家令が店に来た。
当主の嫡子の婚礼と館の改装が重なるとのことだった。毛織物と染め布を大口で注文したいという。
「だいたい二十巻ほどになりましょう。納めは祝宴の十日前。お代は収穫が済んでからお支払いいたします」
家令は愛想のよい笑みを浮かべていた。店の一年の売り上げの三割に当たる注文だった。
父は少し考えてから言った。
「ありがたいお話です。念のため、数と期日を、書面にしていただけますか」
「書面でしたら、注文状をお書きしましょう」
家令はその場でペンを取った。当家の印を押した、一通の書状だった。「毛織物二十巻ほど。祝宴の十日前に納め。代金は、収穫ののちに」。
「市庁舎で証書を、というのは、当家の望むところではございません。そのような手続きの要らぬ間柄と、存じておりましたので」
家令は笑みを崩さずに言った。
「他の織物商にも、お声がけはしておりますが、書状を求められたのは、エドマンド殿が初めてです。さすがは慎重でいらっしゃる」
父は笑って書状を受け取った。
その夜、父は上機嫌だった。
「これで、来年は染め場を広げられるな」
父はそう言って、私の頭を軽く叩いた。
織元には、収穫の後に代金が入る段取りで、九十日の猶予も取り付けてあった。
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納品の日は、よく晴れていた。
荷車三台に染め上がったばかりの毛織物を積み上げる間、見習いたちは鼻歌まじりだった。父は荷の上に手を置いて、「いい布だ」と言った。
館の裏口へ回ると、家令は不在だった。応対に出たのは気のよさそうな年配の使用人だった。
「荷はこちらへ。家令殿が戻られたら、お伝えしておきます」
使用人は頷いて、荷を台所脇の倉に運び込ませた。
私は鞄から受領証を取り出した。納めた品と数量を書き、署名欄だけを空けた紙だ。
「恐れ入りますが、こちらに、ご署名を」
「私は字が書けません。家令殿が戻られたら、そちらに」
父が私の肩に手を置いた。
「字の書けない者に、無理に書かせなくてもよい。家令殿が戻られたときでいい」
翌日、私は一人で館を訪ねた。家令は所用で出ているとのことだった。三日後にも訪ねた。やはり、不在だった。五日目に、ようやく門番が言った。
「確かにお預かりしている、と伝えておく、とのことです」
署名欄の空いた受領証の写しは、その夜も、翌日も、鞄の底に入っていた。
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「討伐の数は、日ごとに記録します」
団長の声は、よく通った。
「回収した目玉か牙の数を、御家の立会人の方に確認していただき、その場で署名をお願いします。署名のない日の分は、後から争わないために、数に入れません」
ハモンドは今度は笑みを作らなかった。
「……ずいぶん、お手間をかけさせますな」
「お互いのための手間です。それと、お支払いの時期ですが」
「当家は例年、収穫が済んでから、まとめてお支払いしております」
私は顔に出さずにいられたと思う。
「完了のご確認から四十五日以内にお願いします。遅れた場合は日割りで加算を」
「四十五日、ですか」
「はい」
団長は譲らなかった。声は静かなまま、一歩も下がらなかった。
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収穫が終わって十日が過ぎた頃、父と私は、ロックフォード家の館を訪れた。
家令は笑顔で言った。
「祝宴の日取りが延びましてな。お代は、年明けにお支払いしましょう」
父はそれを受け入れた。婚礼の延期は事実だった。貴族は遅れるものだ。備えもまだある。
年が明けて、また訪ねた。
応接の間に通されたのは、小一時間も待たされた後だった。家令は以前と同じ笑みを浮かべていた。
「お代のお話ですね。実は、納められた品の中に、色味に難のあるものが五巻ございまして。ご注文は『二十巻ほど』でしたが、使えぬ分まで買い取る意は、当家にはございません。使用した十五巻の分で、よろしいか」
父の顔から血の気が引いた。
「倉に納めたのは、二十巻です。お宅の使用人が受け取り、荷車引きの三人も、見ております」
「お宅の荷車引きの証言は、お宅の側のもの。当家の使用人は、字を知らず、数も定かではございません。受領の署名はございますか?」
私は鞄に手を入れた。そこには署名欄の空いた受領証が入っていた。
出す前に、家令の方が言った。
「お嬢様の帳面には、さぞ書かれておりましょう。ですが、ここはロックフォード家でございます。当家の中では、お宅様のご都合でお書きになれるもの、以上には扱えません」
結局、その日はロックフォード卿には取り次いでもらえなかった。
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私は、その夜のうちに訴える道を調べた。
市の商人の法廷なら手続きは早い。原告は、証人か割符か、承認の証書で示せばよく、被告が誓いひとつで言い逃れることも許されない。荷車引きの三人の証言と注文状があれば、二十巻は立証できるはずだった。
けれど市の法廷が扱えるのは小さな額までだ。この注文の代金はそれを大きく超えている。その類の訴えは、王の法廷に回される。
翌朝、父にそう話した。父は首を振った。
「それ以前の話だ。市の法廷は、ロックフォードの家の者を呼べない。あの館は、卿ご自身の裁判権の下にある。訴えるなら、卿の法廷だ」
「卿の法廷、ですか」
「裁く者が、卿ご本人だ。卿の裁判場で卿を訴えて、勝つ。無茶な話だ」
父は市の参事にも相談した。それでも返事は芳しくない。「王の法廷まで行くなら、年を越すぞ。費用も馬鹿にならん。卿が相手では、勝っても、この街の貴族の客を、全部失う」。
「それにな、メリッサ」
父は静かに言った。
「訴えに勝ったところで、入る金は織元の期日のずっと後になる」
結局、父は訴えなかった。それは、この街で商いを続けるために、父が選んだことだった。この時初めて、私はどこか商いを美化していたことを自覚した。
春になって、ようやく代金の三割が支払われた。「祝儀の端数」という言い方だった。残りは、秋の収穫のあと、と。
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悪いことは、重なる。
その前の年、ある伯爵家に納めた毛織物の代金が一年近く遅れていた。最終的には全額が払われた。けれど、その間に父は金庫の底の金を取り崩して、仕入れの支払いに充てていた。三月分の備えは半分に減ったまま、まだ戻っていなかった。
噂は春のうちに街に回った。ロックフォード家に代金を踏み倒され、エドマンドの懐事情が芳しくない、と。
三割は払われたのだから、全くの嘘ではないが、全くの本当でもない。それでも噂は噂として足を持った。
最初に来たのは染め屋だった。「今後の染めは、現金払いで願います」。運送屋が、それに続いた。両替商が、貸付の返済を前倒しにしてくれと言ってきた。
誰かが悪意を持ったわけではない。皆、自分の職掌を果たしただけだ。今まで遅れても待ってくれていた人たちが、同じ週に、同じことを言い出した。狭い商人コミュニティにおいて、信用が瓦解するのは一瞬だった。
織元への支払いは、九十日の猶予の後、二度延ばしてもらっていた。織元の旦那は悪い人ではなかった。彼は三度目の延期を、苦しそうな顔で断った。
「すまない、エドマンドさん。私も別の大きなお家に払ってもらえずにいるんだ。私の方にも、払わなければならない相手がいる」
鎖のように、下へ、下へと、払えない者が増えていく。父はその鎖の最中にいた。
織元の旦那は、債務証書を持って市庁舎に向かった。父は同業とは必ず証書を交わす人だった。その証書が、今度は父を縛った。
商人同士の取引では、市庁舎で債務を承認し、書記が記録して、双方の封印を押した債務証書を交わすのが決まりになっている。市長と書記の前で債務と期日が確認された。期日は過ぎていた。市長は、動産を売却して債権に充てるよう命じた。
評価人が倉の織物に白墨で印をつけて回る。私はその後ろを黙ってついて歩いた。
その頃になってようやく、ロックフォードからの使者が来た。使者は、当家の事情やこれまでの経緯を丁重な言葉で述べ立て、満額は難しいが今日のうちに現金で受け取るなら相応の配慮をする、という趣旨を遠回しに繰り返した。つまり、今すぐ六割なら手を打つ、ということだった。私は腸が煮えくり返りそうだった。なぜこれほどの目に父が遭わなければならないのか。そして何より、「どうして父は、この無法者に笑顔で応対しているのか」。
考えてみれば、至極当たり前なのだ。父の切羽詰まった状況からして、この提案を飲まない選択肢は無い。六割だろうと何だろうと、現金が今すぐに必要だった。結局、父はその提案を飲んだ。家令が帰り、私は父の顔を見た。父は目を合わせてはくれなかった。
決裁が下りたのは、店の看板が下ろされた翌日だった。梯子にかけられた木の板は思ったより軽そうに見えた。届いた六割の金では、執行の費用と利息で膨らんだ債務に、甚だ足りなかった。
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足りない分は父の身柄で補うことになった。
役人が来た朝、父は静かに外套を着た。何も言わなかった。私に帳面を持っていくようにと、目で合図しただけだった。
私は毛布と乾いた果物を持って、牢を訪ねた。
父は何も喋らない。私も何も喋らない。
父は、翌年の春先に、熱を出して亡くなった。拘束から半年ほど経った頃だった。
葬儀は、教区の墓地の隅で簡素に行われた。母の隣に父を葬ることができた。それが、唯一の慰めだった。
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それからは、あちこちの商家で臨時の帳簿仕事をして食いつないだ。
その間にも多くの人に会った。食わせ者もいればいい人もいる。ノーラさんもその一人だ。去年の夏、ある商家の帳場で納品に来た彼女と顔を合わせたのが最初だった。
十日ほど前の夕方、ノーラさんは私の下宿を訪ねてきた。
「ねえ、メリッサ。面白い子がいるの」
彼女は、そう切り出した。
「傭兵団の団長。二十歳にもなってない子で、経験は少ないし、別にずば抜けて頭がいいわけでもないんだけど……そうね、視座が広いのかしら」
傭兵団。荒くれ者の集まりだ。ためらいがなかったと言えば、嘘になる。
けれどノーラが褒める青年というのは興味があった。母、父、店、寄りかかれる物を失って、やや自暴自棄になっていたのもあったかもしれない。結局、私はその場で依頼を了承した。
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署名欄にハモンドのペン先が触れる。
かすかな音がした。紙の上で、黒い線が、ゆっくりと文字になっていく。
「……これでよろしいですかな」
「ありがとうございます」
団長は頭を下げた。そして、私の方を見る。
「メリッサさん、写しをお願いします」
「承知いたしました」
私は署名の入った別紙を受け取り、一字一字を確かめる。
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館を出ると、日は西にかかっていた。
門の外には、凍った轍が固く続いている。吐く息が白く、鞄の革が冷たい。団長は馬を引いて、私の隣を歩いた。
畑は刈り株ばかりで、遠くの林から細い煙が一筋上がっている。団の炊ぎの煙だろう。私たちはどちらも口を利かず、霜を踏む靴の音だけが規則正しく続いている。
途中で、団長が足を止めて馬の脚を確かめた。かがんだ背中は思っていたより薄い。袖口から出た手は赤く荒れていて、年相応の青年の手だった。
立ち上がった団長が、こちらを見て、ほんの少し笑った。
「腹、減りましたね」
「……ええ」
「帰ったら、パンを分けてもらいましょう」
その気の抜けた言い方が何だか可笑しかった。団長としての器はまだ測りかねるが、この弟ほどの年の青年に、私は少しだけ親しみを感じ始めていた。




