第十一話 団長の椅子
目が覚めると、天幕の外はまだ暗かった。
いつもの寝床の、いつもの天井。変わったのは俺の肩書きだけで、それ以外は昨日までと何も違わない。
冬の野営地は息が白く染まる。ハーっと息を吐き出して、桶に張った水で顔を洗い、冷えた指先をこすりながら団長天幕へ向かった。
幕を上げて中に入る。机、椅子、金庫、書類棚。昨夜のままだ。余計な私物は何ひとつ置かれていない。
椅子を引いて腰を下ろす。背もたれが俺には少し高い。座り直してもやけに落ち着かない。
机の上には帳面と契約の控えが積まれている。新しい頁を一枚めくり、羽根ペンの先をインク壺に浸す。
ふと、帳面の山の下から、折りたたまれた紙が一枚はみ出しているのが目に入った。
広げると、不揃いな角ばった字が並んでいる。
帳面に載らん分
一 馬具屋 掛け 冬越しの分まで。払いは月末。待たせるな
一 鍛冶屋 矢尻の追加 半金残り。引き渡しの時に払う
一 酒屋 ツケ 給金から天引き。
宛名も、日付も、署名もない。思いついたままに書いたというふうに書き殴られている。
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「新団長殿、朝飯だ」
幕が持ち上がって、バートンが椀を二つ抱えて入ってきた。麦粥に、刻んだ干し肉が浮いている。
「声が大きい。早朝だぞ」
「へいへい」
バートンは机の端に椀を置き、勝手に隣の木箱へ腰を下ろした。そして俺の手元の紙に目を留める。
「何だそれ」
「ガレスさんの置き書き。帳面に載ってない分のメモだとよ」
「へえ。変なとこでマメというか……」
バートンは覗き込み、目を細めて、さっと身を引いた。
「……駄目だ。字も数字もさっぱりだ。俺に読ませるなよ」
「バートンは、帳面は」
「触らん」
悪びれもせずに言って、粥をかき込む。この男に実務を手伝わせるのは、最初から諦めた方がよさそうだ。
けれど、メモがあるなら話は早い。俺は紙と見比べながら、帳面を順に開いていった。
団員は現在百二十人余り。荷駄隊に転がり込んだ頃は三十人ほどだった団が、いつの間にかそこまで膨らんでいた。契約中の仕事は三件。兵糧は、麦が十八日分、塩漬け肉はそれより少し短い。馬は十六頭で、うち二頭が蹄を痛めている。
帳面に載っていない分は、メモの通りだった。馬具屋への掛けは冬越しの分まであり、鍛冶屋には矢尻の追加の代金が半分残っている。酒屋のツケは団員たちの分で、給金からの天引きにしろとある。
「天引きか。連中が文句を言いそうだな」
「文句が出たら、俺に回せ」
バートンが匙を振った。
「ツケの話は、適当に俺から回しておく。こういうのは任しとけ」
「頼む」
こうした口約束や貸し借りは、前から団の中を回っていたのだろう。顔の利く誰かが覚えていて、必要なときに口で調整する。人数が少ないうちは、それで足りていた。だが百人を越えれば、一人の頭にしまっておける量ではない。
書き出した数字を並べて、気づいたことがある。
団の財政状況が芳しくない。傭兵、非戦闘員の給金、兵糧、馬の飼い葉、武具の修繕。これからは選ぶ仕事の質も変えていかなければならないかもしれない。
「顔が暗いぞ」
「いや。数字のケタがな」
「そりゃそうだ。ずいぶんデカくなったしな」
バートンは粥をかき込みながら言う。考えてみると、俺がこれまでしてきたのはあくまで、決まった数字を擦り合わせる作業だった。これからは数字を決めることも仕事になる。大丈夫だろうか。気が重くなってきた。
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昼前に外へ出ると、すれ違う団員たちが次々に会釈をした。
「団長、おはようございます」
「おう、団長」
「……おう」
慣れない呼び名に、返す声がぎこちなくなる。誰も嫌な顔をしていない。野営地の空気は、昨日までと何も変わらなかった。
反対の声が上がらないのは、信頼されているからだろう。ありがたいことだと思う。だが裏を返せば、この百二十人が全員、俺の判断に自分の命を預けたということでもある。
大きく勝つ必要はない。損を小さくする。それだけを考えよう。胸の中でそう繰り返して、俺は午後の仕事に戻った。
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夜になっても、俺は机に向かっていた。
契約の控えを三つ並べ、納期と支払いの予定を表にしていた。ランプの油が減ってきた頃、幕の外に気配が立った。
「入るぞ」
低い声。返事を待たずに、ロジャーが入ってきた。
報告か何かだろうか?この時間に一体何の話だろう。ロジャーは腕を組み、机の上の表をちらりと見る。
「ロジャーさん、何か」
「歩くぞ」
「え?」
「見回りだ。外套を着ろ」
「帳面がまだ──」
「行くぞ」
それで話は終わりだった。ロジャーは幕を上げて、先に外へ出ていく。俺は少し迷ってから、外套をつかんで後を追った。
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夜の野営地は、昼とは別の様相だ。
焚き火がいくつも小さく燃え、そのまわりで男たちが三、四人ずつ固まっている。繕い物をする者、剣の手入れをする者、ただ火を見ている者。話し声は低く、笑い声は短い。
ロジャーは歩きながら、いくつもの火の前で足を止めた。
「おう、ダン。足の具合は」
「もう平気ですよ、ロジャーさん」
「そうか。無理して見張りを代わるなよ」
次の火では、わざとらしく顔をしかめて見せる。
「ヘンリー、昨日の賭けは懲りたか」
「……何でそれを」
「ハワードから聞いた」
火を囲む連中がどっと笑い、ヘンリーと呼ばれた男が頭をかく。俺に気づくと、何人かが軽く会釈する。
二つ三つ火を回ったところで、前を向いたまま言う。
「ダンは、村に病気の母親がいる。給金は残らず送ってる。ヘンリーは賭けで借りがある。この手の連中は、給金が遅れれば真っ先に危ない」
知らなかった。 この無愛想なヒゲ面の男が、ここまで団員のことを気にかけていたとは。
「全員の事情を把握してるんですか」
「全員じゃない。顔と名前が一致するのは、せいぜい八割だ。それでも、知っておけば違う」
足音が、凍りかけた土を踏む。
「金で動く奴、仲間で動く奴、意地で動く奴。それが分かれば、いざという時に、誰をどこに置くか迷わずに済む。」
俺は黙って頷いた。この男なりの気遣いなのだろうか?俺に足りないものを見せられた気がした。
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北の柵に近い、天幕の並びの外れまで来たとき、ロジャーが不意に足を止めた。
天幕の陰の向こうに、小さな焚き火があった。若い傭兵が三人、背を丸めて火にあたっている。全員、去年の秋頃に入った新入りたちだ。こちらに背を向けていて、俺たちにはまるで気づいていない。
「……なあ、本当に、来月も食えるのかな」
一人がぽつりと言った。
「何だよ、急に」
「いや、団長が替わっただろ。前の団長は、何ていうか、どっしりしてたじゃん。……今の団長が悪いって言ってるんじゃないけど。ただ、うちの村の連中が言うんだ。傭兵団は、頭が替わると一気に潰れるって」
「縁起でもないこと言うなよ」
「言いたくもなるだろ。冬を越す蓄えが、まだ全然ないんだ。給金が止まったら、俺は──」
隣で、ロジャーは腕を組んだまま何も言わなかった。いつの間にか俺の半歩後ろに下がっていて、顔は見えない。ただ、お前がどうにかしてみせろ、という雰囲気に見える。
引き返すこともできた。聞かなかったことにして、明日、全体の前で「心配ない」と言えばいい。
けれど、帳簿の数字を見たばかりの俺には、そんな器用な嘘はつけなかった。
俺は一歩、焚き火の光の中へ出た。
「その話、俺にも聞かせてくれ」
三人が弾かれたように振り向き、慌てて立ち上がる。
「だ、団長……!」
「座ってていい。盗み聞きして悪かった」
一人が顔を真っ青にして、頭を下げようとする。俺はそれを手で止めた。
「怒ってるんじゃない。知りたかったんだ。みんなが何を不安に思ってるのか」
誰も口を開かない。俺は火を見つめてから、言葉を選んだ。
「来月の分はある。契約も残ってる。ただ、ヘマをしたら赤字もありうる。……それでも、俺は為しうる全てをもってお前らを守る。ついてきてくれるか?」
三人は顔を見合わせた。不安が消えたわけではないだろう。けれど、張り詰めていた空気が少しだけ緩んで見えた。
「……分かりました。団長、すみませんでした」
「謝ることじゃない。夜は冷える。早めに休め」
火のそばを離れ、暗がりへ戻る。待っていたロジャーが、並んで歩き出しながら、ぽつりと言った。
「……及第点だ」
「え」
「その場しのぎで『心配ない』と言う奴は、その嘘がバレた時、誰からも信じられなくなる」
ロジャーは鼻を鳴らした。
「悪くなかったぞ、坊主」
言い終えてから、ほんの少し顔をしかめる。
「……いや、今は団長だな」
ロジャーは咳払いをして、先に歩き出した。
「明日から、夜の見回りは俺が付き合う。三日で顔と事情を叩き込め。四日目からは、一人で回れ」
「分かりました。……ありがとうございます。ロジャーさん」
返事の代わりに、ロジャーは軽く手を上げた。
天幕に戻ると、ランプはほとんど燃え尽きかけていた。一人一人の事情、か。
俺は芯を継ぎ足して、もう一度、羽根ペンを取った。
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翌日の昼、依頼人が来た。
野営地の入り口に馬を繋いで現れたのは、商家の番頭を名乗る四十絡みの男だった。名はハリス。上等な外套を着て、革の筆入れを提げている。
団長天幕に通すと、ハリスは椅子に座るなり俺の顔を眺めた。品定めするような視線だった。それから俺の背後に立つバートンとロジャーに目を移し、また俺に戻す。
「団長殿は……失礼ながら、おいくつで」
「年齢は関係ありません。ご用件を伺います」
ハリスは軽く咳払いをする。依頼の中身はこの辺りではありふれたもので、特に難しくはない。報酬も、相場を少し上回る額だ。
それでも番頭の目は、不安を隠せていなかった。当然だろう。金を預ける相手が、自分の息子ほどの歳なのだから。
「契約の条件を、書面で詰めさせてください」
俺は白紙を引き寄せ、ペンを取る。
「前金は三割。残りは仕事の完了から十日以内に支払い。依頼人側の事情で期日が延びた場合は、日割りで上乗せ。団の損害は、不可抗力を除いて団が持ちます。ただし、依頼人から受けた情報が事実と違っていたために生じた損害は、依頼人側の負担にしてください」
ハリスの眉がわずかに動いた。
「……ずいぶん、細かいですな」
「あとで揉めるより、先に決めた方がお互い得ですから」
番頭はしばらく書面を見つめ、一条ずつ指で追っていった。そして、ふっと息を吐く。
「失礼、少々見くびっていたようです。こちらとしても、安心してお任せできます」
「ありがとうございます」
ハリスが帰ったあと、バートンが肩を回しながら言った。
「あの番頭、最初は鼻で笑ってたのにな。帰るときは頭を下げてたぞ」
「そう笑うな。商人としては健全なことだ」
「ふーん……お前は相変わらず謙虚な奴だねえ」
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その日の夕方、ノーラが荷車を引いて現れた。
長い髪を後ろで束ね、動きやすい外套を羽織っている。矢羽の納入の相談、というのが名目だった。荷の確認を済ませたあとも、彼女は天幕を出ようとせず、机の端に腰を預けた。
「聞いたわよ、団長さん」
「その呼び方はやめてくれ」
「いいじゃない。似合ってるわよ」
「からかってるのか」
「半分は」
ノーラはそう言って笑い、すぐに笑みを消した。机に広げたままの表へ目を落とす。
「ずいぶん苦労してるみたいね」
「……別に」
「あ、そこ多分ズレてるわよ」
ノーラは表の数字を指先でなぞる。
「百二十人があんたの下にいるのよ。あんたのミスひとつで全員の一ヶ月の食費が飛ぶわ」
「……分かってる」
「分かってないわ」
痛いところを正確に突かれて、俺は何も言えなかった。ノーラは黙りこくった俺のおでこをつっついて、小さくため息をつくと、荷車の方へ歩き出す。幕を上げる直前、振り返った。
「先のことを考えるのが、団長の仕事よ。もう計算が多少できるだけじゃやってけないんだから」
そう言い残して、彼女は夕暮れの野営地へ出ていった。
ひとり残った天幕で、俺は表を見つめる。
そろそろ切り上げようと思っていたが、あそこまで言われては仕方ない。俺はもう一度ペンを取った。




