第十話 漸進的な前進
剣が、重い。
夜明け前の冷えた空気の中で、木剣を振り上げる。遅い。振り下ろす腕が、頭の中の軌道より半拍遅れてついてくる。切っ先も、狙った場所に定まらない。
半拍。たった半拍だ。だが、戦場で生死を分かつには十分な時間だ。
もう一度振る。やはり、遅い。
額の汗を袖で拭った。柄を握った右の手は、ビリビリと痺れている。モーガンの奴は、この痺れは一生残ると言った。
――情けねえな。
怖くない、と言えば嘘になる。二十年余り、剣だけで食ってきた。剣を取り上げられたら、今の俺は、地図の上に駒を並べるのが少し得意なだけの片腕の男だ。
サイモンの顔を思い出す。泥まみれで、腰を抜かして目を見開いて、動けずにいた若造。後悔は無い。情だとか、損得だとか、そんな話じゃない。俺は勝算があって、あの坊主を守りに動いた。そして俺はその賭けに負けた。それだけのことだ。
腕が振れないから降りる、というわけじゃない。団長の仕事の半分は、剣を振ることじゃない。腕が使えなくたって務まらんことはない。
問題は、そこじゃねえ。
団は、俺が団長になったばかりの頃の倍以上のデカさになった。契約の数も、金の流れも、顔を合わせる相手の数も、とうに俺の器を越えている。剣一本で人を引っ張れた時代なら、俺でもこと足りた。だが、これからの団はそれじゃ回らない。字も、算盤も、人の腹の内を読む目も要る。どれも俺の苦手なものだ。団長になってからというもの、慣れない駆け引きや損得勘定、書面とにらめっこしたりして、どうにか続けてきたが、そろそろ潮時だろう。
近頃は、何かにつけてウィルの考えを聞くようにしている。聞くたびに返ってくる答えは、俺の考えと同じか、それ以上だ。いつの間にか、俺の方があいつの答えを待つようになっていた。
あいつになら、任せてもいいかもしれない。
腕が無事でも、いつか俺は同じ決断をしただろう。それを、一年か二年、早めただけだ。
行く当てがないわけじゃない。だてに長年この稼業をやっていない。各地に、顔の利く古い仲間が何人かはいる。腕が振れなくても口と目は動く。次の仕事は、歩きながら探せばいい。
ふと意識を戻すと、荷車の陰に、気配が一つ。
ウィルの小僧だ。毎朝息を殺して、こっちを見ている。気づいていないと思っているらしい。
気づかないふりをしてやる。あいつの顔をまともに見れば、決意も揺らぐ気がしてしまう。
俺はもう一度、木剣を振り上げた。
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あの戦いから、一月が過ぎた。
モーガンが最も恐れた膿みは、幸いにも起きなかった。熱は二日で引き、十日目には糸が抜かれた。腕を落とす話は、立ち消えになった。
村からは、約束の倍の額が届けられた。だが、ガレスはそれを受け取らなかった。約束通りの額だけを手元に残し、残りは、命を落とした自警団の五人の遺族に回すよう、俺に命じた。普段なら文句も出そうなものだが、今回ばかりは誰も文句を言う者はいなかった。
ガレスは一見いつも通りに見える。肩から先は動く。杯も、匙も、問題なく握れる。ただ、剣を振るうには、あまりに重く、あまりに遅い。本人は誰の前でも弱音を吐かなかったが、夜明け前、一人で黙々と腕を振る稽古を繰り返している姿を、俺は何度か見かけていた。
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一月ぶりの本格的な契約は、隣領との境にある小さな宿場町からの、盗賊まがいの野盗団の掃討だった。規模は小さく、これまでの戦いに比べればさほど難しい仕事ではない。
ガレスは、団長として現場に立った。指示も以前と変わらず的確だった。
「ウィル、お前ならどう動く」
最近、陣形を組む段になって、ガレスはやけに頻繁に俺に意見を求める。以前なら、彼自身の判断で決めていたような、些細なことまでだ。
「俺の考えを聞くより、団長の判断の方が速いのでは」
「いいから言ってみろ」
促されるままに俺は言う。規模的に、正面から戦っても負けることは無いだろう。ただし、人も物資も無駄な消耗はさせたくないし、賊を投降させて領主へ突き出せば懸賞金がある。
「野盗の根城は、街道沿いの廃れた水車小屋周辺です。出入り口は、街道側の正面と、裏の水路沿いの二つ。見張りが一番緩くなるのは、夜明け前です。団は一部の軽装備の歩兵とクロスボウ隊をあらかじめ水路側の対岸に潜ませます。そして明るくなり始めた頃に、正面側で主力隊が名乗りを上げます。奴らはそれを聞いて水路側に飛び出してくるかもしれませんが、あの足場ではクロスボウから逃げる術は無いでしょう。また、自警団には水路側に共に待機してもらいます。明朝の明るさに、咄嗟の状況では、傭兵と区別できないでしょうから、人数を誤認させて、逃げようがない、と思わせられるはずです。逃げられない上に圧倒的に不利とわかれば、戦うより投降を選ぶ者が増えると思います」
ガレスは、黙ってそれを聞いていた。やがて短く頷く。
「それで行こう」
ほとんどの場合、ガレスは俺の言ったことをそのまま採用した。指揮の半分近くを、いつの間にか俺が担うような形になっていた。
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夜明け前、薄闇の中で二手に分かれた団員たちは、音もなく配置についた。裏の水路に回ったバートンの班が、合図を待つ。
東の空が明るくなり始めた頃、角笛が鳴った。
「傭兵団だ!武器を捨てて出てこい!」
小屋の中がいっせいに騒がしくなる。数人が裏の水路へ飛び出したが、そこには、すでに多くの傭兵、クロスボウ隊、そして自警団が待ち構えていた。団の主力を配置した正面にはもちろん逃げる道は無い。
名乗りから一分も経たずに勝負はついた。
俺は、正面後方からその全体を見渡していた。隣では、ガレスが左手で右の肘を支えるようにして立っている。口を挟まず、ただ黙って戦場を見ていた。
ともかく、野盗団はさしたる抵抗もなく投降し、こちらは怪我人も一人も出なかった。
「上出来だ」
帰路、ガレスはそれだけ言って、満足そうに頷いていた。
野営地に戻ると、バートンがすっかり用意を整えていた。
「今日は飲むぞ! 団長の実戦復帰祝いだ!」
その一声で、野営地が一気に宴の様相に変わった。樽から注がれる安酒、焼いた肉の匂い、誰かの下手な歌。団員たちは、羽目を外して笑い合っていた。
ガレス自身も、その輪の中心で、珍しく機嫌よく杯を重ねていた。
先日の若い傭兵、サイモンが、緊張した顔でその前に立った。肋骨のひびはとうに癒えたが、ガレスの前に出ると、負い目を感じているのか、未だに固くなる。
「団長。……あの時は、ありがとうございました」
「まだ言ってたのか」
ガレスは、苦笑してサイモンの肩を叩いた。
「槍は、腕で突くな。腰で突け。それと力むな。お前は力みすぎる」
「…?は、はい!」
サイモンの背筋が、ぴんと伸びる。周りの団員たちが、それを見て笑っていた。
少し離れて見ていた俺と目が合うと、ガレスは杯を掲げてみせ、近づいてきた。
「お前の隣は、相変わらず酒が進まんな」
そう笑いながら杯を俺の杯に軽く合わせて、左手で背中を軽く小突いた。
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どれくらい時間が経った頃だろうか。酔い潰れた者たちのいびきが、あちこちから聞こえ始めていた。俺はもともと酒にはあまり強くない。大して飲んでいないため皆ほど酔ってはいなかった。ふと、ガレスの姿がないことに気づいた。
「――団長は?」
近くにいた誰かに尋ねても、まともな答えは返ってこない。忘れたとか、今そこにいるじゃねえか、とか。酔っぱらいどもめ。
俺は宴の輪を抜け、バートンを探した。彼は一人、少し離れた場所で、手酌で杯を傾けていた。その横顔は静かだった。
「バートン、団長を見なかったか」
俺の問いに、バートンはしばらく答えない。俺が聞き直そうとすると、
「……もう、いねえよ」
「は?」
「団長は、もう発った。今頃は、街道の向こうだろうな」
意味が、すぐには呑み込めなかった。
「発った、って……どういうことだよ」
バートンは小さく息を吐いた。
「ちょっと前、俺とロジャーだけが呼ばれて、話を聞いた」
少し離れた場所で、ロジャーがこちらに背を向けて座っていた。振り向きもしなければ、一言も発しない。
「団長は辞めるつもりだった。腕のせいだけじゃねえ。団がでかくなって、自分の器じゃ収まりきらなくなってきた、とさ。それに、後を任せられる奴が、やっと育ったとも言ってた。誰のことかは、言うまでもねえだろ。だから、退職金を取って、皆が酔い潰れてる隙に、黙って出ていった」
俺はその言葉をまったく飲み込めず反芻していた。なんだよ、それ。急すぎやしないか?ガレスが俺にそんな話を漏らしたことは一度も無かった。そんな俺の考えを読んだのかどうなのか、バートンがそっぽを向きながら答える。
「お前には、言うなと言われてた」
バートンは、杯を一息に空けた。
「別れの挨拶も、壮行会もいらん。去る団長が、いつまでも居座ってちゃ、示しがつかねえ、とさ。それに――」
「それに?」
「お前に、余計な未練を持たせたくなかったんだろうよ」
俺は、何も言えなかった。胸の奥に、怒りとも悲しみとも分からない感情が込み上げてくる。
バートンは、懐から小さな鉄の鍵を取り出して、俺の掌に押しつけた。
「金庫の鍵だ。帳面も、契約の控えも、全部お前の机の上に揃えてある。後任は、お前だ。団長がそう決めて、俺もロジャーも、頷いた。団員も、誰も文句は言わねえだろうさ」
金属製の鍵は冬の風も相まってやけに冷たい。
宴での言葉を思い出す。あれが別れの挨拶のつもりだったのか。
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翌朝、団員たちはバートンの口から、ガレスが去ったこと、そして、後任に俺が据えられたことを聞かされた。
驚きの声、戸惑いの声。それでも反対の声は、ほとんど上がらなかった。
「おい、新団長」
バートンが、わざとらしく、そう呼びかけてきた。
「……やめてくれ、慣れない」
「慣れろ。これからずっと、そう呼ばれるんだからな」
バートンはそう言って笑ってみせたが、その目の奥には、どこか寂しさも滲んでいるようだった。
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俺は一人で天幕の机に向かっていた。
机の上には、バートンの言った通り、帳面と契約の控えが、きちんと揃えて置かれていた。もらった鍵で、一番下の引き出しを開ける。帳面を取り出し、最後のページを開いた。
退職金、受領。金額。日付。その下に、署名。
ガレス。
太く、角ばった字だった。長さのバランスも変だし、少し右に傾いている。お世辞にも上手いとは言えない。それでも、俺が何度も見てきた筆跡だった。
受領した額は、規定きっかり。余計な言葉はひとつもない。別れの文句も、礼も、詫びもなかった。ある意味、あの人らしいのかもしれない。
俺はそっとその字をなぞり、帳簿を閉じた。




