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グランヴェール王国記 ―農民から王への道―  作者: 厨


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第九話 森の王

 「化け物、ですか」


 天幕に通された村の代表が震える声でそう言った。壮年の男。見るからに困憊している。


「普通の狼とはわけが違います。ビーストベア以上の大きさがあって……三日前には、討伐に向かった自警団が、五人がかりで挑んで、一人も帰ってきませんでした」


 ガレスは腕を組んだまま黙って話を聞いていた。俺はその隣で代表が持参した羊皮紙の地図に目を通していた。襲われた地点を赤く示した印は、村の周囲に既に五箇所もある。


「自警団が全滅、か。並の魔物じゃなさそうだな」


「は、はい。村の古老は、あれは『森の王』だと……風の騒ぐ日にだけ現れる、と。ただの迷信だと思っていたんですが」


「迷信だろうがなんだろうが、五人死んでるなら本物だ」


 ガレスは淡々とそう言った。


「報酬は」


 代表が提示した額は、これまでの討伐依頼の優に倍以上だった。それだけこの村も追い詰められているということだろう。ガレスはしばらく黙って天幕の天井を見上げていたが、やがて俺の方へ視線を寄越した。


「どう見る」


「俺は受けるべきだと思います。ただし――」


 俺は地図の上の印を指でなぞった。


「五カ所の位置から考えると、大体このあたり、縄張りの奥に巣があるはずです。正確な脅威性がわからない以上、正面から挑むのは得策でないでしょう。やるならば誘導して討伐すべきかと」


「できるのか」


「これまで通りです。我々の形へ追い込みます」


 ガレスはふっと笑った。


「お前がそう言うなら、いいだろう」


 その一言に、代表の男は縋るような顔で何度も頭を下げた。


----


 代表が去った後、俺たちは改めて借りた地図を広げ、細部を詰めていた。


「クロスボウ隊は二班に分けます。一班は谷の両脇の高台、もう一班は正面の少し手前の窪みに伏せてください。オットーさんは正面の方でお願いします。狼が一本道に出てきたら、まず高台の班が撃って削る。高台の班が巻き上げている間に、正面の班が追撃。それを、交互に繰り返します」


「二重射撃だな。了解した」


「はい。タイミングは基本的にこちらで指示します」


「心得ている」


 オットーは静かに答える。あの谷の一件以来、彼とは何度も仕事を共にしていたが、相変わらず口数の少ない男だ。


「バートンさんには、正面の囮部隊を。狼を谷の中ほどまで引きずり出して、足を止めてください」


「囮か。お安い御用だ」


 バートンが胸を叩いて答える。こちらは相変わらず頼もしい奴だ。


「ここの配置は」


 ガレスが地図の上、谷の出口に近い二箇所を指でなぞった。


「下の両翼はどうする」


「古参を中心に。新入りは後方予備に回します」


「だいぶ慎重だな」


「今回の相手は、自警団を全滅させてる個体です。予備で様子を見させた方がいいかと」


「……お前がそう言うなら」


 ガレスはそう言って頷いたが、その目には、わずかな懸念の色が浮かんでいた。慎重過ぎただろうか?いや、ガレスは見た目に反して戦略上は案外慎重な人間だ。何かおかしなことでも言っただろうか。

 

 俺もガレスも、一抹の不安を抱えながら、結局その日の会議はそのまま終わった。


----


 翌日、俺たちは現地に入り斥候を放った。戻ってきた報告は俺の予想を裏付けるものだった。


「巣は、谷の奥の岩場の洞穴に発見しました。縄張りの入り口は一本道。ただ――」


「ただ?」


「でかいです。噂以上に。それと、動きが普通の狼とは違う。妙に冷静というか」


 斥候の男は、珍しく顔を強張らせていた。


「冷静、ね」


 ガレスが興味深そうに呟いた。


「賢い獲物の方が御しやすい時もある。暴れるだけの馬鹿よりよっぽどいい」


 ガレスはそう言うが、果たしてそうだろうか?知恵が回るということは、こちらの策略を読まれる可能性がある、ということでもある。


 もっとも、そんな魔物、遭遇したことも聞いたこともない。生前の異世界ファンタジーの知識で過大評価しているだけだろうか。いずれにしろ、俺たちに他に取れる策はなかった。


----


 決行の朝、俺たちは一本道の両脇に兵を伏せた。正面前方にはバートン率いる囮の少数部隊。クロスボウの二班は小さい崖の上と正面後方の窪みに伏せる。正面後方のクロスボウ隊の前には槍隊を配置した。


「狼が道に出てきたら、先に高台の班が撃つ。深追いはするな。射撃で怯んだところを両脇から挟む」


 ガレスの指示に、全員が無言で頷いた。この手順は、何度も繰り返してきた「型」だ。


 昼を過ぎた頃、囮部隊の放った合図が上がった。谷の奥から地響きのような唸り声と共に、黒々とした巨体が姿を現す。


 噂は誇張ではなかった。


 ビーストベア以上の体躯、爛々と光る眼光。牙は、人の腕ほどもありそうだった。全身を覆う漆黒の毛並みの下で、筋肉の塊のような肢体が地を踏みしめるたびにずしりとした重い音を立てる。


 それでも、作戦の滑り出しは上々だった。


「放て!」


 オットーの号令と共に高台のクロスボウが一斉に唸った。太矢が斜面から降り注ぐ。狙いの多くは外れたが、数本が巨狼の肩と後ろ脚に突き立った。獣が苦悶の咆哮を上げながらわずかにたたらを踏む。


「今だ、正面!」


 高台の班が巻き上げに入った隙を埋めるように、窪みに伏せていた二班目が間髪入れずに撃ち込んだ。至近からの一斉射撃に巨狼の動きが目に見えて鈍くなっていった。


「いける……!」


 誰かが安堵したような声を上げた。巨狼は幾筋もの傷を負い、顎から血を垂らしながらも、なおも唸り声を上げて踏みとどまっている。槍兵たちが少しずつ間合いを詰めていく。囲みは確実に狭まっていた。


 このまま押し切れる――戦場にいた誰もが、そう確信しかけていた。


 ――だが。


 完全に追い詰めた、その瞬間だった。


 巨狼の眼光がそれまでとは違う色を帯びた。淡い、青白い光。明らかに異常だった。


 唸り声が、悲鳴に似た、甲高い絶叫に変わる。


「退がれ、様子がおかしい……!」


 誰かが叫んだ時にはもう遅かった。


 痛みと恐怖に駆られたかのように、巨狼は突進した。常軌を逸した速さだった。地面が爆ぜ、土が舞う。獣の背を押すように風が吹き抜けていく。


 槍衾がまるで紙のように薙ぎ払われた。柄の折れる音があちこちで重なる。盾ごと跳ね飛ばされた男が宙で一回転して転がっていく。囮部隊は悲鳴を上げて散り、先頭にいたバートンが泥の中に倒れているのが見えた。囲みの一角が一息のうちに崩れた。


 止まらない。止めようがない。


 巨狼は崩れた囲みを突き抜けて、そのまま斜面を駆け上がってきた。後方、予備の位置へ向けて、一直線に。


 俺はガレスと並んでその少し後ろの小高い場所に立っていた。全体を見渡して、指示を飛ばすための場所だ。そこから獣が自分たちの方へ駆けてくるのがはっきりと見えた。


 足が動かない。


 予備の位置にいた男たちが散り散りに逃げ出す。ただ一人、サイモンという名前の若い傭兵だけが、槍を構えたまま、その場に残っていた。踏みとどまったのではない。逃げ遅れたのだ。


「サイモン、危ない!」


 誰かの叫びが、悲鳴に変わった。


 巨狼の血走った目がサイモンの体を捉えた。槍が小枝のように折れる。細い体が勢いのまま宙を舞い、叩きつけられた。


 息の詰まる音。サイモンは何かを吐いて、地面を掻いた。立てない。


 その目の前に巨狼が迫る。開かれた顎から、ヨダレと血の混ざったものが糸を引いて滴り落ちた。獣の臭いと、血の不快な生暖かい匂いが顔に吹きつける。


 時間がひどく間延びしていた。巨狼の爪が、サイモンの顔めがけて、ゆっくりと降りてくる。誰もが惨劇を覚悟した。


 その時、隣で、影が動いた。


 ガレスだ。


 迷いのない足運びで斜面を駆け下り、サイモンの前に立つ。抜き放った剣を左手を峰に添えて両手で横に構え、振り下ろされた爪を真正面から受け止めた。


 金属と爪の、耳を裂くような軋み。衝撃に地面が抉れる。ガレスの両足がずるずると土にめり込みながらも、その場に踏みとどまった。刃の腹に牙が食い込み、剣が悲鳴を上げるように火花をあげる。


「立て、サイモン!」


 ガレスの怒号が飛ぶ。


「這ってでも下がれ!邪魔だ!」


 腰を抜かしていたサイモンが慌てて立ち上がり、ふらつきながらも離れていく。


 ――凌いだ。


 巨狼は一度爪を引いた。一撃目は確かに防ぎきった。寸分の狂いもない対応だった。


「団長、今のうちに……!」


 誰かが叫んだ、その刹那。


 巨狼の喉の奥で、低い音が鳴った。唸り声ではない。空気が軋むような、嫌な音だった。


 次の瞬間、ガレスの足元で土埃が爆ぜた。


 風が吹いた。見えない拳に殴りつけられたような横殴りの突風が、ガレスの体を側面から叩いた。


 「なッ……!」


 何が起きたのか、誰にも分からなかった。ただの風ではない。明らかにおかしな吹き方だった。


 ガレスの体が傾く。すぐに構えを戻そうとするが、


 その隙を巨狼は見逃さなかった。腕を振りかぶり、前脚が振り抜かれ、



「っ……!」


 ガレスの口から、くぐもった呻き声が漏れる。


 鉤のように曲がった爪が、ガレスの右腕を肩口から根元まで深々と切り裂いていた。


 肉の裂ける鈍い音。鮮血が飛び散り、剣がガレスの手から力なく滑り落ちた。地面に突き立った刃が乾いた音を立てて倒れる。


 巨狼の目が、一瞬、ガレスを見下ろした。


 その瞳の奥で、青白い光がちらついていた。――手応えを確かめている、と、そう見えた。


「……」


 ガレスは声も上げなかった。ゆっくりと、片膝をつく。左手が右肩を押さえた。その指の間から赤いものが溢れて、腕を伝い、肘から滴り落ちる。足元の土がみるみるうちに黒く濡れていった。


「団長!!」


 悲鳴にも似た声があちこちから上がった。まずい。団の柱が折れたのを、全員が同時に悟ったのだ。


 巨狼の背が再び低く沈んだ。次の跳躍の構え。狙いは膝をついたガレスと、その後ろの俺たちだ。


 ここで足を止めたら、全員、死ぬ。


「――怯むな! 奴はもう、長くは保たない!畳み掛けろ!」


 俺は自分でも驚くほど大きな声で、そう叫んでいた。


 根拠はあってないようなものだ。矢の数と、地面に落ちた血の量。獣でも、血が足りなくなれば動きは鈍るはずだ。そう自分に言い聞かせるような賭けだった。それでも、そう言い切るしかなかった。


 恐怖で竦みかけていた団員たちが、その声に弾かれたように動き出す。


「撃て!巻き上げの済んだ者から、撃て!団長を死なせるな!」


 オットーの声が飛ぶ。慌てて弦を巻き直した者たちのクロスボウが、一つ、また一つと唸りを上げた。太矢が再び巨狼に突き立つ。泥まみれのバートンが散った囮部隊を怒鳴りつけて集め直し、槍の穂先を揃えて突き出した。崩れかけた巨狼に、槍が幾つも突き立てられた。


 巨狼はまだ立っていた。血を吐きながら、何度か首を振り、なお牙を剥こうとする。やがて前脚が折れ、巨体が傾ぎ、重い音を立てて地に沈んだ。


 最後に一度だけ痙攣して、動かなくなった。瞳の奥の青白い光が、すっと消えていった。


----


 戦いが終わった後の静けさは、いつもと違っていた。


 泥まみれのバートンが斜面を駆け上がってきて、真っ先にガレスの傍に膝をついた。自分の上着を引き裂いて丸め、傷口に押し込む。上から別の布を当て、肩ごと胴に縛りつけた。肩口の傷では腕を縛って血を止める手が使えない。


「おい、団長! 目を開けてろ!」


「……うるせえ、聞こえてる」


 掠れた声が返ってきて、周りの数人が、息を吐いた。


「団長、しっかりしてください……!」


 それでも、バートンの指の間から、温かい血が止めどなく溢れてくる。布は見る間に赤く重くなり、替えるたびに掌が滑る。


 血は止まらない。布を幾重にも巻いても、赤が滲み出してくる。傷は骨まで達しているのが、素人目にも分かった。


「どけ!」


 鋭い声と共に、男が薬箱を抱えて駆けてきた。団付きの医者、モーガンだった。


 半年前、団の人数が膨らんだ時にガレスが高い金を出して雇い入れた男だ。元は王都近くの修道院で施療院の務めをしていたという。


 モーガンはバートンの上着を傷口から剥がすと、一瞥して舌打ちした。


「布が汚い。土と糸くずが入る。……いや、今は止血が先だ」


 袋から取り出した清潔な亜麻布の塊を、傷口に押し当てる。脇の下に硬く丸めた布を挟み込んで腕を胴に固定し、その上から自分の体重をかけて押さえ込んだ。


「脈は」


 誰にともなく言って、自分でガレスの手首を取る。


「速い。だが弱くなってはいない。太い血の管は切れていないみたいだ」


 その一言で周りの空気がわずかに緩んだ。


「団長、聞こえるか。右手の指を動かしてみろ」


 ガレスの右手の指がひくりと動いた。ほんの少し、丸まっただけだった。


「……そうか」


 モーガンの顔が一瞬だけ曇った。


「ここでは縫えん。土が入りすぎている。村まで運べ。揺らすな。腕は心臓より高く」


「……サイモンは」


 ガレスが目を閉じたまま言った。


「無事です。負傷していますが」


「そうか」


 ガレスの口元がわずかに緩んだ。



 ガレスの負傷は、サイモンのものと比べものにならないほど重症だ。なのに、この人はまだこんなことを言っている。


 俺がただ何をすべきかわからず、黙って見ていると、


「見てる暇があるなら、担架を作れ!」


 バートンと目が合い、怒号が飛ぶ。俺は慌てて、外套と、予備の槍二本、震える手でそれを縛り合わせていく。何かをしている間だけは、少しだけ恐怖と不安を感じずにいれる気がした。


 負傷者はガレスとサイモンだけではなかった。突進に巻き込まれた囮部隊の三人が、腕や肋骨を折っていた。槍兵の一人は足を踏み砕かれて、歯を食いしばっている。モーガンは、ガレスの傍を離れる前に、数人の看護員と、その全員を手早く見て回り、手の空いている者に添え木と布を持たせて指示を飛ばした。命に関わる者はガレスの他にいない。それだけが救いだった。


----


 村の集会所が、臨時の治療所になった。


 長机が運び込まれ、その上にガレスが寝かされる。窓という窓が開け放たれ、午後の光が、土間まで差し込んでいた。


「湯を沸かせ」


 モーガンは低く言う。


「沸いたら、麻糸と針、鉗子、小刀、全部沈めろ。洗い布も煮て、日の当たる場所に干せ。蒸留酒の瓶を、ありったけ持ってこい。手の空いてる者は全員肘まで洗え」


 誰も異論を挟まなかった。


「ウィル、お前は湯を運べ。それが済んだら俺の横で糸と薬を渡せ」


「はい」


 俺は言われるままに動いた。この人の手順は、俺が前の世界で聞きかじった知識と大体同じだった。半端な知識で意見する気にならなかったし、そうするべきでないとも分かっていた。


 処置は洗うことから始まった。


 煎じ薬を飲ませ、革の切れ端を噛ませる。傷口に、沸かして冷ました湯と蒸留酒が何度も注がれた。ガレスの体が時折反る。バートンと団員が二人、その肩と脚を押さえつけた。


 モーガンは傷の奥まで鉗子で探っていった。獣の毛、土。一つずつ摘み出しては、皿に落としていく。


「縫うのは、洗い終えてからだ。汚れを閉じ込めれば傷は必ず腐る」


 モーガンは手も止めずに言った。


 洗い終えた傷口は、白い骨と、断たれた筋の断面をむき出しにしていた。見ているだけで胃の底が冷える。モーガンは煮た麻糸で、筋、肉、皮と、層ごとに縫い合わせていった。


 針が肉を貫く。糸が通る。


 一針、一針。ガレスの喉の奥から、くぐもった声が漏れるたび、俺はどうしようもない気持ちになる。


 途中で、ガレスの目が薄く開いた。


 視線が俺と合った。何か言いたげに、唇が動いて、それから、ふっと力が抜けた。意識が落ちてしまったようだ。


 最後に、蜂蜜を染み込ませた亜麻布を当て、清潔な布で巻いて肩ごと固定する。処置が終わる頃にはすっかり外は夕方になっていた。


「命は拾えた」


 モーガンは、血に濡れた手を洗いながら告げた。


「これから三日が山場だ。傷が熱を持って膿めば、腕を落とす話になる。熱が出ても、下がればどうにかなる」


「腕は」


 バートンが低く訊いた。


「残せるかどうかは、傷の治り次第だ。だが、これだけは言っておく」


 モーガンは一瞬、言葉を切った。


「右上腕の筋が、深く断たれている。骨にも傷が入った。仮に腕が残っても、以前のように剣を握ることは、できんだろう。……たしか団長の利き腕は…」


 ……その問いに答えられる者はいなかった。


----



 集会所の外で俺たちは焚き火を囲んでいた。団員たちは、誰も口を開かない。時折、集会所の中から、ガレスの呻きや、モーガンの低い声が漏れる。


 村の代表の男が、帽子を握りしめたまま、少し離れた場所に立っていた。


「あの……報酬のことは、いつでも。いえ、倍にしてでも――自警団の五人に続いて、団長様まで、うちの村のせいで……」


「あなたのせいじゃありません」


 自分でも意外なほど、静かな声が出た。


「報酬の話は、団長が起きてからにしましょう。今は、寝かせてやってください」


 男は何度も頭を下げて、闇の中へ消えていった。


 代表の男が去った後、焚き火の周りに、重い沈黙が落ちる。


「あの風、見たか」


「見た。ありゃ、ただの風じゃねえ」


 バートンの声に、オットーが低く答えた。


「団長だけを、狙い撃ちにしやがった」


「……魔術か?」


 誰かがその言葉を口にした途端、焚き火の周りの空気が変わった。


「魔物が魔術を使うなんて話は、聞いたことがねえぞ」


「……俺は、噂だけなら聞いたことがある」


 バートンがぽつりと言った。


「ごくたまに、風だの火だのを使う魔物が出るってな。出くわしたやつは、たいてい生きて帰れねえから、有名な話じゃなかったがな。ホラ話だと思ってた」


 炎に薪が投げ込まれた。


「森の王、か。迷信じゃなかったってわけだ」


 焚き火の傍で、サイモンが膝を抱えていた。モーガンに言われた通り、水を汲み、布を煮て、使いっぱしりのようにずっと動き回っていた。それが終わって、手の置き場を失ったのだろう。


「……ウィルさん」


 小さな声だった。


「俺が、逃げ遅れたから、団長が」


「違う」


 サイモンの言葉を、遮った。



「でも、団長は、俺を庇って――」


「庇う判断をしたのは団長自身だ。礼を言いたいなら、団長が起きた時に、自分の口で言え。怒鳴られるだろうがな。……それまでは、寝ておけ。お前も怪我人だろう」


 サイモンは何か言いかけて、結局唇を噛んだまま頷いた。俺でさえも、自分の言っていることが正しいのか釈然としなかった。


 一人になって、俺は焚き火の火を見つめた。


 あの風は、魔術だった。


 火を放つ、風を起こす。単純で直接的なものがほとんどだ、と神父は言っていた。しかし、ただ風を起こして、人の足を払う。それだけのことで、百戦錬磨のガレスの腕がああなった。



 思い返せば、手がかりはあったのだ。村の古老の言い伝え。風の騒ぐ日にだけ現れる、という話。斥候の男が言った、妙に冷静だ、という言葉。追い詰められてもなお、囲みが狭まるのを待つように踏みとどまっていた、あの不自然な間。あの時間は、力を溜めていたのかもしれない。魔術に溜めが要るのかどうか、俺は知らない。結局、この手がかりとやらが正しかったのかなんて誰にもわからない。俺が自分へ言い聞かせてるだけ、といえばそうなのかもしれない。


 ――策を立てる奴はな、勝った時にこそ、紙一重を数えておけ。今日はたまたま死人が出なかっただけだ。次は出る。出る前提で、考えろ。


 いつだったか、ガレスが言った言葉を思い出した。


 魔術を使う魔物は、いる。ごく一部の者はそれを知っていた。知らなかった、という言い訳は、死人が出てからでは何の意味も持たない。



 深夜、そっと集会所の戸を開けた。


 奥の寝台の傍で、モーガンが椅子に腰掛けたまま、ガレスの手首に指を当てていた。俺に気づくと、唇に指を当てて、小さく頷く。


 ガレスは眠っていた。額には、うっすらと汗が浮いている。右肩から胸にかけて、白い布が、きつく巻かれていた。


 寝台の縁から、右の手が、だらりと垂れていた。


 いつも剣を握ってい、俺の背中を叩き、地図を開き、杯を傾けていた手だ。


 指がわずかに丸まっている。握ろうとしても、握りきれずに止まったような、中途半端な形で。


 俺は静かに戸を閉めた。


 勝った。依頼は、確かに果たした。


 それでも、眠りにつく時まで、俺の頭にはこの日の出来事が重く残っていた。

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