第2章 第97話 今度こそ実行
翌日の夜。
ベッティング店の周辺は、これまで見てきた日とは明らかに雰囲気が違っていた。
大きな試合があった影響なのか、店の前には車が何台も並び、入口付近では結果について大声で言い合っている客までいる。通りの向かいには簡易屋台まで出ており、酒の入った男たちの笑い声が車道まで響いていた。
『人、多すぎない?』
アキラの声が通話から聞こえる。
「思ったより多いね」
悠斗は銀色のセダンを店から離れた通りへ流しながら答えた。
今は助手席にシオン。
ナナとアキラは黒いクーペで別の店を見ており、蓮は青いレイザーで周辺道路を回っている。
『これ、むしろ今日無理じゃね?』
「まだ分からない」
ナナが返した。
『客が多い分、入口に人増やしてる店もある。こっちは外に二人いる』
「そこは候補から外そう」
『了解』
今日は客が多い。
その分、人目も多い。
条件が悪ければ、やらない。
五人が決めているのは、それだけだった。
◇
午後九時四十分。
『来た』
ナナの声が少し変わった。
「白いバン?」
『違う。今日はグレーの商用バン』
「人数は?」
『二人』
回収に使われる車両が毎回同じではないことは、ここ数日の下見で分かっていた。
大事なのは車種ではない。
店へ入り、ケースを持って戻ってくるかどうかだ。
『今日の対象、それ?』
蓮が聞く。
「まだ決めない」
悠斗は速度を落とした。
「ナナ、動き見られる?」
『見る』
数分後。
グレーの商用バンから降りた二人が店の裏口から戻ってきた。
一人が小型のケースを持っている。
『ケース一個』
「回収っぽい?」
『うん。多分いつものと同じ』
「じゃあ今日はその車を見る」
『了解』
◇
そこから一時間ほど。
グレーの商用バンは複数の店舗を回った。
順番は、やはり以前とは違う。
大通りへ出たかと思えば住宅街へ入り、途中で一度来た方向へ戻ることもあった。
『今日、道混んでるな』
蓮が言う。
「試合終わり?」
『それもある。あと西側で事故。二車線潰れてる』
「そこは避けよう」
『同意』
その直後、アキラの笑い声が通話へ飛び込んできた。
『いや、ちょっと待って。何してんだこいつら』
「どうしたの?」
『店の前で客同士が喧嘩してる』
ナナも呆れた声を出す。
『道路まで出てきた。車止まってる』
「警察来そう?」
『店員が止めてる……あ、片方走って逃げた』
『めちゃくちゃ速いな』
蓮が笑う。
悠斗も思わず口元を緩めた。
「巻き込まれないでよ」
『俺ら何もしてないって』
「今のところはね」
一瞬だけ通話が静まり、すぐにアキラが吹き出した。
◇
午後十一時を過ぎる頃には、通りの混雑も少しずつ落ち着き始めていた。
グレーの商用バンはまだ動いている。
確認できる人数は二人。
周辺で大きな警察対応も起きていない。
人の数も少しずつ減ってきている。
『悠斗』
蓮が声を落とした。
『茶色、まだある』
昼のうちに遠くから確認していた、薄い茶色の四ドアセダン。
悠斗は一度息を吐く。
「シオンは?」
「今なら悪くないと思う」
「ナナ?」
『見てきた範囲では、決めた条件から外れてない』
「アキラ?」
『俺もやるなら今日かな』
最後に蓮。
『車は俺が見る』
悠斗は数秒だけ考えた。
「じゃあ、やろう」
◇
五人はいったん工業地帯の外れへ集まった。
薄茶色のセダンは、昼に確認した時と同じ場所に残っている。
少し離れた有料パーキングへ、蓮がレイザーを入れた。
その隣ではなく、何台か空けた場所へアキラの黒いクーペも止める。
「離して止めるんだ?」
アキラが聞く。
「わざわざ並べる意味ないだろ」
蓮が答えた。
「確かに」
黒いクーペから降りたナナは、そのまま悠斗の銀色のセダンへ向かった。
「じゃあ私、これ借りるね」
「うん」
悠斗はキーを渡す。
「ぶつけないでよ」
「蓮じゃないんだから」
「なんで俺?」
「一番言われそうだから」
「俺、人の車は大事にするぞ」
「自分の車も大事にして」
ナナの一言に、アキラが笑った。
ここからは役割を分ける。
悠斗、蓮、シオン、アキラの四人が薄茶色のセダンで動く。
ナナは悠斗の銀色のセダンで少し離れた場所に残り、周囲の道路や警察、不審な車の動きを見る。
本番へ入る前に、四人はそれぞれ用意していた上着を着た。
悠斗は暗い色のパーカーのフードを深くかぶり、顔の下半分をマスクで隠す。
シオンも帽子とマスク。
アキラは普段とは違う上着にフードを合わせる。
蓮も運転席へ乗る前に帽子をかぶった。
ナナも髪を帽子の中へまとめている。
「アキラは喋ったらすぐ分かりそう」
ナナが言う。
「じゃあ俺、今日は無言でいく?」
「無理だろ」
蓮が即答した。
「即答すんなよ」
少しだけ笑いが起きる。
悠斗はマスクの位置を直した。
それだけで、これから本当にやるのだという実感が急に増した。
「じゃあナナ、何かあったらすぐ教えて」
「了解。そっちも長居しないでね」
「うん」
◇
薄茶色のセダンは、少なくとも動いた。
エンジンはかかる。
ブレーキも効く。
目立つ異音もない。
ただし、四人を乗せて工業地帯を抜けたあたりで、別の問題が分かった。
運転席の蓮がアクセルを踏み込み、微妙な顔をする。
「……遅い」
助手席の悠斗がメーターを見る。
「やっぱり?」
「やっぱりって言うな」
後部座席からアキラが身を乗り出した。
「これ全開?」
「今それ聞くな」
「全開なんだ」
「黙れ」
シオンは窓の外を見たまま言った。
「走るならいい」
「お前だけ優しいな」
「別に優しくはない」
蓮は不満そうだったが、ハンドルから手を離さない。
「無理そうなら途中でもやめよう」
悠斗が言う。
「分かってる」
通話からナナの声が入った。
『こっちは今のところ問題なし。銀のセダンもちゃんと走ってます』
「それは知ってる」
『一応報告』
悠斗は少しだけ笑った。
◇
グレーの商用バンが、その夜に確認できた最後の店舗を出た。
車内の空気が変わる。
さっきまでの笑いは消えた。
画面越しなら気楽に見ていたはずなのに、悠斗の喉はひどく乾いていた。
フードの内側が少し暑い。
マスク越しの呼吸も浅く感じる。
『後ろ、今のところ何もついてない』
ナナの報告。
「警察は?」
『南側で一台見た。でもこっちには来てない』
「分かった」
悠斗は前を見る。
「予定通りでいこう。変だったらそこで終わり」
「了解」
蓮が短く返す。
アキラは一度息を吐き、シオンも無言で頷いた。
◇
四人が選んでいた場所へグレーの商用バンが入ってくる。
周囲の車は少ない。
それでも完全に無人ではない。
遠くの交差点を一般車が一台横切り、少し離れた店舗の明かりが道路へ伸びている。
薄茶色のセダンを止めると、蓮だけが運転席に残った。
「いつでも出せる」
「頼む」
悠斗が答える。
シオンが先に車を降りる。
続いてアキラ。
悠斗も外へ出た。
グレーの商用バンが止まる。
運転席と助手席から二人が降りた。
三人に気づいた瞬間、片方の表情が変わる。
「何だ、お前ら」
アキラが前へ出た。
「悪い。ケース置いて離れてくれれば、それで終わる」
「ふざけんな」
男の一人がケースを抱え直す。
もう一人は一歩後ろへ下がり、バンの方へ視線を向けた。
逃げるのか。
何かを取りに戻るのか。
悠斗には分からない。
シオンが半歩前へ出る。
「動かない方がいい」
声は低い。
怒鳴ってはいない。
それでも相手の足が止まった。
「こっちも余計なことしたくない」
アキラが続ける。
「ケース置いて、車から離れて。それで終わり」
男はしばらく三人を睨んでいた。
帽子。
フード。
マスク。
顔を確かめようとしているのか、視線だけが忙しく動く。
「……逃げられると思うなよ」
「それはあとで考える」
悠斗が低く言った。
「長引かせるな」
「ああ」
悠斗は周囲を見る。
「外、どう?」
『今のところ大丈夫』
その声が聞こえた直後。
ケースを持っていた男が舌打ちし、地面へ置いた。
「これでいいんだろ」
「離れて」
シオンが言う。
二人が数歩下がる。
シオンがケースへ近づく。
悠斗の心臓が強く打った。
ここまで来ても、成功したとは思えない。
相手が急に動くかもしれない。
誰かが通りかかるかもしれない。
警察が来るかもしれない。
「取った」
シオンがケースを持ち上げる。
「戻ろう」
悠斗が言った。
その直後。
『待って』
ナナの声が鋭くなる。
三人の動きが止まる。
「何?」
『黒いスポーツカー。そっち向かってる』
悠斗が通りを見る。
ヘッドライトが近づいてくる。
「こっちに?」
『真っ直ぐ』
シオンがケースを持ったまま振り返る。
黒いスポーツカーはさらに近づき――少し手前で派手にクラクションを鳴らした。
「道路塞ぐなよ!」
運転席の男が窓から怒鳴る。
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
「……一般車かよ」
アキラが呟く。
「戻ろう!」
悠斗が促した。
三人は薄茶色のセダンへ急ぐ。
後ろでは黒いスポーツカーがもう一度クラクションを鳴らしていた。
◇
蓮がアクセルを踏み込む。
エンジンが大きく唸った。
車は走り出す。
ただし、勢いは音ほどではない。
「……やっぱ遅い」
アキラが言う。
「今それ言うな!」
蓮が珍しく声を張った。
「追ってくる車は?」
悠斗が後ろを見る。
シオンもケースを足元へ置き、後方を確認している。
「今はない」
『こっちからも見える範囲にはいない』
ナナの声。
「警察は?」
『まだ動き分からない』
「了解」
悠斗は前へ向き直る。
「蓮、速さより事故らない方で」
「分かってる!」
蓮は無理に速度を稼ごうとはしなかった。
交通の流れを見ながら車を走らせる。
途中、大通りへ出る手前で救急車が交差点を横切った。
蓮がすぐに速度を落とす。
「危な」
「今ぶつかったら一番笑えないやつ」
アキラが言う。
「笑ってる場合じゃない」
悠斗が返した。
さらに数分走ったところで、遠くからサイレンが聞こえてくる。
車内の空気が再び張り詰める。
「来た?」
「分からない」
悠斗が答えた直後、通話からナナの声が入った。
『こっちにも聞こえる。でも方向は別っぽい』
「ナナ、そのまま待機してて」
『了解』
◇
十分ほど走ったところで、蓮が薄茶色のセダンを人気の少ない場所へ入れた。
周囲を一度確認する。
「ここでいい?」
「うん。もう捨てよう」
悠斗が答えた。
エンジンが止まる。
四人は車を降りた。
悠斗はフードを下ろし、マスクを外す。
アキラもフードを外し、シオンは帽子とマスクを取った。
蓮も帽子を脱ぐ。
上着まで着替えることはしない。
顔を隠す必要がなくなった以上、このまま覆面姿で固まっている方が目立つ。
「やっと息しやすい」
アキラが首元を軽く引っ張った。
「暑かったな」
悠斗も額の汗を手の甲で拭う。
蓮は最後に運転席のドアを閉め、薄茶色のセダンを振り返った。
「……二度と乗りたくねえ」
アキラが笑う。
「安心しろ。もう乗らないから」
「そういう意味じゃねえよ」
シオンは笑わず、持ってきたケースを見下ろしていた。
「先にこれ」
その一言で、三人の視線もケースへ向く。
「うん。ここで見よう」
悠斗も頷いた。
まだ中身の分からないものを、そのまま持ち帰る気にはなれなかった。
ケースを開く。
中には、束ねられた紙幣が何束も詰められていた。
「……金だ」
アキラが少し身を乗り出す。
「いくらあるんだろ」
「今は数えなくていい」
悠斗は現金以外のものが入っていないかを見る。
シオンも黙ってケースの内側へ目を走らせた。
「何か変なのある?」
蓮が聞く。
「今見える範囲にはない」
シオンが答える。
その時、紙幣の束の間から一枚の紙が落ちた。
「ん?」
アキラが拾う。
小さく折られたメモだった。
開いてみると、そこには数字や英字、短い記号のようなものが何行か並んでいる。
「何これ」
蓮が横から覗き込む。
「分からん」
アキラが紙を裏返した。
「店のメモ?」
「さあ」
悠斗も見たが、意味は分からない。
今の情報だけでは、何について書かれたものなのか判断できなかった。
「とりあえず金だけ移そう」
悠斗が言う。
持ってきていたバッグへ現金を移していく。
ケースそのものは持ち帰らない。
全部移し終えたところで、悠斗は周囲を見る。
「ここに長くいるのも嫌だな」
「ナナ呼ぶ?」
「うん」
悠斗は通話へ声を入れた。
「ナナ、こっちは終わった」
『もう降りた?』
「降りた。迎え来られる?」
『場所送って』
「送る」
『分かった。そっち行く』
「変だったら来ないで」
『了解』
◇
数分後。
銀色のセダンが静かな通りへ入ってきた。
悠斗たち四人の近くで止まり、運転席の窓が下がる。
「お待たせ」
ナナだった。
「助かった」
アキラが後部座席へ乗り込み、シオンと蓮も続く。
悠斗は助手席へ乗ろうとしてから、ナナを見る。
「運転代わるよ」
「いいの?」
「俺の車だし。ナナもずっと見張ってたでしょ」
「じゃあお願い」
二人は席を入れ替えた。
自分の銀色のセダンのハンドルを握ると、悠斗はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……やっぱ普通に走る車っていいな」
後ろから蓮が言う。
「お前のレイザーはもっと走るだろ」
「そういう意味じゃない」
「あの車のせいで基準おかしくなってない?」
ナナが笑う。
悠斗は車を静かに発進させた。
「とりあえず今日はみんな送るよ」
「レイザーは?」
蓮がすぐ聞く。
「今から取りに戻る?」
「……いや」
少し考えてから、蓮は首を振った。
「今日はやめとく」
「珍しい」
「俺だってそこまで馬鹿じゃねえよ」
アキラが笑う。
「明日雪降るかもな」
「降ろすぞ」
「悠斗の車だからお前に権限ないだろ」
さっきまで犯罪をしていたとは思えないやり取りに、車内の空気が少しずつ緩んでいく。
レイザーと黒いクーペは、薄茶色のセダンを確保した場所の近くにあるパーキングへ残してある。
今日は取りに戻らない。
時間を空け、落ち着いてから回収すればいい。
「あ、そうだ」
アキラがポケットへ手を入れた。
「これもあった」
さっきケースから出てきたメモだった。
アキラから受け取ったナナが、車内灯の下で目を細める。
「……何これ?」
「俺らも分かんない」
「数字とか英字ばっか」
蓮が言う。
ナナは表と裏を見比べた。
少し考えたあと、首を傾げる。
「私も分かんない」
「だよな」
「でも……これ、とりあえず預かってていい?」
悠斗がちらりと助手席を見る。
「いいよ」
「ありがと」
ナナはそれ以上何も言わず、メモを自分のバッグへ入れた。
アキラも蓮も、もう気にしていない。
悠斗も今は深く考えなかった。
「で、金はいくらあるんだ?」
蓮がすぐ別の話へ戻す。
「まだ数えてない」
「じゃあ悠斗ん家?」
「うん。そこで数えよう」
「賛成」
アキラが即答した。
銀色のセダンは夜の街を走っていく。
薄茶色のセダンは置いてきた。
レイザーと黒いクーペも今日はそのまま。
少なくとも、五人全員が無事に戻るところまではできた。
残るのは、持ち帰った金がいくらあるのか。
そして、今はまだ誰にも意味の分からない、小さなメモが一枚だけだった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




