第1章 第9話 警察官の客
レイヴンシティへ来てから、三週間ほどが過ぎた。
神谷悠斗の生活にも、少しずつ決まった流れができ始めている。
朝になれば安宿を出て、《レイヴン交通》の営業所へ向かう。制服に着替え、割り当てられた車の傷やタイヤを確認してから街へ出る。
客を乗せ、目的地まで送る。
空いた時間には、まだ覚えきれていない道を走った。
仕事が終われば、カイから連絡が来る日もある。整備工場へ顔を出したり、《SUNSET DINER》で夕食を食べたりすることも増えた。
前世では一日に家族以外の誰とも話さないことさえ珍しくなかった悠斗が、今では毎日何人もの知らない相手と会話している。
それだけでも、三週間前の自分とはかなり違う。
一方で、夜の生活も少しずつ変わっていた。
ユウジから小さな荷物の運搬を頼まれたり、事情を聞かない方がよさそうな客を送ったり、指定された車を別の場所まで移動させたりする。
最初の裏仕事ほど危険なことは起きていない。
報酬も数百ドル程度が多かった。
それでも、普通のアルバイトではないことくらい分かっている。
最初に稼いだ二千ドルも含めれば、所持金にはかなり余裕ができていた。
もっとまともな宿へ移ることも考えた。
ただ、まだこの街でどこを生活拠点にすればいいのか分からない。仕事場へ通いやすく、料金も安い今の宿を、焦って出る理由もなかった。
だから今のところは、狭い部屋へ帰る生活を続けている。
普通の市民として働きながら、夜には人へ言えない金を稼ぐ。
自分が少しずつどちら側へ向かっているのか、悠斗自身にもまだはっきりとは分からなかった。
◇ ◇ ◇
「レイヴン中央警察署までお願いします」
「……はい」
昼過ぎ。
後部座席へ乗り込んできた女性から行き先を聞いた瞬間、悠斗の背筋がわずかに固くなった。
二十代半ばくらいだろうか。
黒髪を肩の辺りでまとめ、紺色のジャケットに黒いパンツという格好をしている。一見しただけなら会社員にも見える。
警察署へ行くからといって、警察官とは限らない。
それでも、悠斗は業務端末へ目的地を入力する指に少しだけ力が入っていた。
車を発進させる。
「新人さん?」
十分ほど走ったところで、不意に後ろから声をかけられた。
「え?」
「運転。すごく丁寧だから」
「ああ……まだ始めて、そんなに経ってないです」
「やっぱり」
女性が窓の外を見ながら笑う。
「この街のタクシー、たまにすごい人いるからね。黄色信号を見たら加速しなきゃいけないと思ってる人とか」
「俺は、まだそんなことする余裕ないです」
「そのままでいてくれると助かるなあ」
話し方は柔らかい。
それだけで、少しだけ緊張がほどけた。
赤信号で車を停める。
ちょうどその時、女性のスマートフォンが鳴った。
「はい、桐生です」
声色が少しだけ仕事のものへ変わる。
「今戻ってます。資料は机に置いておいてください。……はい、交通課の分も一緒にお願いします」
短い通話だった。
追跡だの逃走車だのという言葉は出ていない。
それでも「警察署」「交通課」という単語だけで、悠斗の頭には数日前の赤と青の光が浮かんだ。
自分でも過剰だと思う。
女性――桐生は電話を切ると、小さく息を吐いた。
「ごめんね、仕事の電話」
「いえ」
「もしかして、警察って聞くと緊張する?」
心臓が一瞬跳ねた。
「……ちょっと」
嘘ではない。
桐生が笑う。
「普通はそんなもんか。別に何もしてなければ怖がらなくて大丈夫だよ」
「……そうですよね」
何もしていなければ。
その言葉だけが妙に重く残った。
「私、桐生アリサ。中央署の警察官」
「神谷悠斗です」
「悠斗君ね。何歳?」
「十七です」
「若っ」
アリサが少し驚いた声を出した。
「学生?」
悠斗は返事に一瞬迷った。
「今は……学校には通ってないです」
「そっか」
それだけだった。
どうして、と聞かれると思った。
いつから。
親は。
これからどうするのか。
前世では、学校へ行っていないと知られるたびに、その先まで説明を求められることが多かった。
相手に悪意がなくても、悠斗にとっては息苦しい質問だった。
だがアリサは、窓の外へ視線を戻しただけだった。
「十七で働いてるなら大変だね」
「……まあ」
「タクシーは好き?」
「まだ、よく分からないです。でも……いろんな人に会えるので」
「いい答えだね」
「そうですか?」
「うん。私なら知らない人と一日中喋る仕事、結構疲れそう」
「警察官の方が大変じゃないですか?」
「それは言えてる」
アリサが笑った。
悠斗もつられて少し笑う。
警察官。
数日前までなら、その肩書きだけで「追ってくる側」としか見ていなかったかもしれない。
けれど今、後部座席に座っているのは、普通に仕事の愚痴も言えば冗談も言う一人の人間だった。
◇ ◇ ◇
中央警察署は、灰色の石材と大きなガラス窓を組み合わせた建物だった。
正面には数台のパトカーが停まり、制服姿の警察官が忙しそうに出入りしている。
悠斗は乗降スペースへタクシーを寄せた。
「ありがとうございました」
「こっちこそ。安全運転で助かった」
アリサが料金を支払い、ドアを開ける。
そのまま降りるかと思ったが、途中で振り返った。
「神谷君」
「はい?」
「この街、慣れてくると危ないことへの感覚が鈍るからね。仕事柄いろんな人を乗せるだろうけど、変なのには気をつけて」
悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……気をつけます」
「うん。また乗ることあったらよろしく」
アリサは軽く手を上げ、警察署の中へ入っていった。
悠斗はしばらく入口を見つめた。
「気をつけます、か……」
自分で言っておいて、何とも言えない気分になる。
巻き込まれたのではない。
最初の裏仕事も、その後の仕事も、自分で選んで受けた。
だからこそ、他人のせいにはできない。
業務端末が鳴り、新しい配車依頼が表示された。
悠斗は警察署から視線を外し、車を発進させた。
◇ ◇ ◇
その日の勤務を終えた頃には、街のビル群が夕焼けに染まっていた。
営業所へタクシーを返し、制服から私服へ着替える。
ロッカーを閉めたところで、スマートフォンが震えた。
ユウジからだった。
『昨日乗せた奴、覚えてるか』
少し考える。
『久我蓮ですか』
『そう』
続けてメッセージが来た。
『お前に直接連絡したいらしい。番号渡していいか?』
悠斗の指が止まった。
蓮。
まだ一度送っただけの相手だ。
軽い。
よく喋る。
車が好き。
違法レースもしているらしい。
それ以上のことは、ほとんど知らない。
前世なら、知らない相手へ自分の連絡先が渡ることなど想像するだけで嫌だった。
今も緊張しないわけではない。
それでも少し考えたあと、
『大丈夫です』
と送った。
『了解』
十分もしないうちに、見覚えのない番号からメッセージが届いた。
『神谷悠斗?』
悠斗は一度深く息を吐いてから返信する。
『はい。久我蓮さんですか』
『そう。さんいらねえって言っただろ』
思わず少し笑った。
『何か用ですか』
『今度暇な日ある?』
『ありますけど』
『面白いもん見せてやる』
その下に、車の絵文字が一つだけ付いていた。
悠斗は画面を見つめる。
昼には、警察官から「変なのには気をつけて」と言われたばかりだった。
夜には、その「変な方」かもしれない相手から誘いが来ている。
「……タイミング悪すぎるだろ」
小さく呟きながらも、口元には少しだけ笑みが残っていた。
カイとは違う。
ユウジとも違う。
まだ友人ですらない相手から、自分へ直接連絡が来た。
前世の悠斗なら、それだけで返信を後回しにしていたかもしれない。
今回は違った。
『何を見るんですか』
少しして、答えが返ってくる。
『そのうち教える』
「それ一番怖いやつじゃん……」
悠斗は苦笑しながら、スマートフォンをポケットへしまった。
まだ人へ近づくことは怖い。
それでも、自分からすべての扉を閉じることは、もう少しずつ減っていた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




