第2章 第84話 集まる場所
モーテルの部屋を見回して、悠斗は小さく息を吐いた。
レイヴンシティへ来てから、ずっと使ってきた部屋だった。
ベッドと小さな机、それに簡素な冷蔵庫が置かれただけの狭い室内。街へ来たばかりの頃は、知り合いも車も仕事もなく、持ち物もほとんどなかったため、寝る場所さえあれば十分だった。
けれど、いつまでもモーテル暮らしを続けるのは不便だ。
今では自分の銀色のセダンもあるし、金銭的にも以前ほど毎日の宿代を気にし続ける必要はなくなっている。
そろそろ普通の部屋を借りてもいい頃だろう。
そう思ってから、悠斗は数日かけていくつかの物件を見て回った。
中央地区は家賃が高く、北西地区はさらに高い。西海岸も観光客向けの物件が多く、今の自分が住むには勿体なかった。
最終的に候補に残ったのは、今の生活圏からも近い南部だった。
治安が特別良い地域ではないが、その分家賃は手頃で、駐車スペース付きの物件も見つけやすい。
その中で選んだのが、住宅街と工業地帯の境目にある古いアパートだった。
二階の部屋で、キッチンにリビングダイニング、それとは別にベッドルームが一部屋。
駐車スペース付きで、家具や家電も一通り備え付けられている。
内見した時、悠斗はリビングダイニングを眺めながら、何となく考えていた。
ここなら、五人で集まっても窮屈ではなさそうだ。
そこまで考えてから、自分でも少し可笑しくなった。
「……なんで五人基準なんだよ」
自分が暮らす部屋を選んでいるはずなのに、自然と蓮たちが来ることを想像していた。
そのことを嫌だとは思わなかった。
◇
契約を終えて迎えた入居日。
悠斗は銀色のセダンを、新しく借りたアパートの駐車スペースへ止めた。
「ここ?」
助手席から降りた蓮が、三階建ての建物を見上げる。
悠斗の後ろには、アキラが運転してきた車も止まった。そこからアキラ、ナナ、シオンの三人が降りてくる。
外壁は少し色褪せ、外階段にも年季が入っているが、共用部分はきちんと清掃されている。古さは感じても、荒れた雰囲気はなかった。
「思ってたより普通だな」
アキラが言った。
「どういうの想像してたんだよ」
「もっと怪しい感じ」
「俺が住む部屋だぞ」
悠斗が呆れると、ナナが笑った。
「アキラ、秘密基地みたいなの期待してたんじゃない?」
「そこまでは言ってないって」
シオンは会話には入らず、悠斗の銀色のセダンの後部座席を覗き込んだ。
「これで全部?」
「うん」
後部座席にあるのは、大きめのバッグが一つと紙袋が二つだけだ。
バッグには服が入り、紙袋には洗面用品や書類、充電器などの細かな生活用品が入っている。
モーテル暮らしだった悠斗の荷物など、その程度だった。
「少なっ」
蓮が言う。
「モーテルだったんだから、こんなもんだろ」
「じゃあ俺たち、別に必要なかったじゃん」
アキラが笑う。
「だから呼んでないだろ。新しい部屋見たいって言って来たのそっちだからな」
「そうだった」
ナナがあっさり頷く。
「私は最初から見学のつもりだったし」
「俺も」
蓮まで続いた。
「せめて手伝うふりくらいしろよ」
悠斗が言うと、シオンが後部座席からバッグを持ち上げた。
「これ持つ」
「あ、ありがとう」
結局、悠斗が紙袋を持ち、シオンがバッグを持って階段を上がった。
ほかの三人はその後ろをついてくる。
二階の部屋へ着き、荷物を中へ置けば、それで引っ越しらしい作業は終わりだった。
「本当に一瞬だったな」
蓮が言う。
「荷物これだけだもんね」
ナナが答える。
「手伝うほどでもなかったな」
アキラはそう言いながら、すでにリビングダイニングの方を覗いていた。
「勝手に見て回るなよ」
「いいじゃん。今日から住むんだろ?」
悠斗も後を追った。
文句を言いながらも、本気で止めようとは思わなかった。
◇
部屋の中には、清掃に使われた洗剤の匂いがまだ少し残っていた。
玄関から入るとキッチンがあり、その先にリビングダイニングが広がっている。そこから扉を一枚隔てた先がベッドルームだった。
四人掛けのダイニングテーブルに布張りのソファ。テレビと小さな棚もあり、キッチンには冷蔵庫、電子レンジ、コンロ、オーブンが揃っている。
ベッドルームにはベッドとサイドテーブル。
どれも新しい物ではないが、きちんと手入れされていて、暮らすうえで困るようなものはなかった。
「普通にいいじゃん」
アキラが部屋を見回す。
「写真より広く感じるな」
「だろ?」
悠斗が答える。
振り返ると、蓮はもうソファへ座っていた。
「ここいいな」
「もうくつろいでるの?」
「座るためのソファだろ」
「今日から俺が住む部屋なんだけど」
ナナが笑う。
「もう蓮の定位置になりそう」
「それは困る」
「なんでだよ」
アキラはリモコンを見つけると、勝手にテレビをつけた。
「普通に映るな」
「内見の時に確認してるって」
「念のため」
「お前の部屋じゃないだろ」
悠斗が言うと、アキラは笑うだけだった。
ナナはキッチンへ移動し、冷蔵庫を開ける。
「中、何もないね」
「今日から住むんだから当たり前だろ」
「飲み物くらい買ってこようか」
「俺、炭酸」
蓮がすぐに反応した。
「誰が注文取ってるの?」
「行くならついでに」
「自分で行けば?」
「今くつろいでる」
「完全に自分の家みたいになってるじゃん」
アキラが笑った。
「じゃあ俺とナナで買ってくるか」
「いいね」
ナナが冷蔵庫を閉める。
「三人はゆっくりしてて」
「分かった」
悠斗が答えると、二人はそのまま部屋を出ていった。
玄関の扉が閉まると、室内は少し静かになった。
蓮はソファに座ったままテレビを眺め、シオンは壁際の床へ腰を下ろす。
悠斗もダイニングの椅子へ座った。
まだ住み始めて一時間も経っていないのに、二人とも妙に自然に部屋へ馴染んでいる。
「なんか変な感じだな」
悠斗が呟いた。
「何が?」
蓮が振り返る。
「もう普通にくつろいでるから」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
悠斗がそう答えると、シオンが部屋をゆっくり見回した。
「ここ、落ち着く」
いつもの短い言葉だった。
それだけなのに、悠斗は少し嬉しくなった。
◇
しばらくすると、アキラとナナが飲み物と菓子を抱えて戻ってきた。
冷蔵庫には何本か飲み物が入り、ダイニングテーブルには菓子が置かれる。
蓮は買ってきてもらった炭酸飲料を一本冷蔵庫へ戻すと、油性ペンで自分の名前を書いた。
「何してるの?」
悠斗が聞く。
「次来た時用」
「次来る前提なの?」
「来ないと思ってたの?」
逆に聞き返され、悠斗は言葉に詰まった。
たぶん来る。
仕事の相談をする時だけではなく、暇な時にも来るのだろう。何となく飯を食べたり、テレビを見たりするためだけに集まる日もあるかもしれない。
そう考えても、不思議と嫌ではなかった。
「ここなら普通に集まれるな」
アキラが言った。
「ダイナーとか駐車場より落ち着くし」
「仕事の時じゃなくても来れるしね」
ナナも頷く。
「ご飯食べたり、テレビ見たり」
「車の動画見たり」
蓮が続ける。
「それは蓮だけ」
「そのうち見るって」
「見ない」
ナナが即答し、アキラが笑った。
悠斗はそんな四人を眺めながら、少し迷ってから口を開く。
「……まあ、俺がいる時なら来てもいいよ」
言った途端、妙に照れくさくなった。
「当然だろ」
アキラが笑う。
「勝手に入るつもりはないって」
蓮が悠斗を見る。
「そのうち合鍵もらえる?」
「お前には絶対渡さない」
「なんでだよ」
「冷蔵庫見れば分かる」
ナナが答えた。
また笑いが起きる。
前世では、自分の部屋でこんなふうに何人もの声が重なることなど一度もなかった。
悠斗はそれを意識し、少しだけ口元を緩めた。
◇
夕方になると、仕事を終えたカイもやってきた。
インターホンが鳴り、悠斗が玄関を開ける。
「よ」
カイは両手に食料品の入った買い物袋を提げていた。
「引っ越し祝い」
「こんなに?」
「大したもんじゃねえよ。最初は何もねえだろ」
袋の中にはインスタント食品や飲み物、調味料、それに保存の利く食べ物が入っている。
「ありがとう」
「お前、こういうの絶対後回しにするだろ」
「……否定できない」
カイが室内を覗き込み、少し目を丸くした。
「もうみんないるじゃん」
「新しい部屋見たいって来た」
「なるほどな」
蓮がソファから顔を出す。
「カイ、飲み物あるぞ」
「なんでお前が案内してんだよ」
「もう馴染んだ」
「今日だろ?」
「時間じゃない」
「何の話だよ」
悠斗が突っ込むと、また笑いが広がった。
カイは靴を脱ぎながら、改めて室内を見回す。
「でも、モーテルより全然いいじゃん」
「さすがにね」
「最初の頃は、ずっとあそこに住むのかと思ってた」
「俺も最初はそんなこと考える余裕なかったし」
「そりゃそうか」
カイはそれ以上昔の話を続けず、買い物袋をキッチンへ運んだ。
そのくらいの距離感が、悠斗にはありがたかった。
そのまま近所の店で夕食を買い、六人で食べることになった。
ダイニングの椅子だけでは足りないので、何人かはソファへ移る。
少し狭く、皿を置く場所にも困る。
それでも悠斗は、その窮屈さを不便だとは思わなかった。
「椅子、もう少しあってもいいな」
カイが言う。
「一人暮らしで六人来る予定なかったから」
「増やせば?」
蓮が言う。
「なんでお前が決めるんだよ」
「どうせまた来るし、俺が持ってくる」
あまりにも当然のように言われて、悠斗は一瞬だけ返事に詰まった。
今度は誰も否定しなかった。
悠斗も、否定しようとは思わなかった。
◇
夜が深くなると、一人ずつ帰り始めた。
「じゃあな」
蓮が玄関で靴を履く。
「冷蔵庫の俺のやつ飲むなよ」
「捨てるかも」
「やめろって」
「またね」
ナナも手を振り、そのまま何かを思い出したようにリビングダイニングへ戻った。
少しして、充電器を手に戻ってくる。
「これ、ここ置いててもいい?」
「別にいいけど」
「ありがと」
ナナは充電器を元の場所へ戻して、そのまま帰っていった。
アキラも続き、シオンは玄関を出る前に一度だけ室内を振り返った。
「また来る」
「うん」
悠斗が答える。
最後にカイが帰ると、玄関の扉が閉まり、部屋は急に静かになった。
さっきまで笑い声が重なっていたせいで、その静けさが妙に際立つ。
悠斗はリビングダイニングへ戻った。
テーブルには空になったペットボトルが残り、冷蔵庫には蓮の名前が書かれた飲み物が一本入っている。壁際にはナナが置いていった充電器があり、ソファのクッションも蓮が座っていた時のまま少しずれていた。
前世の自室には誰かを招いたことも、自分以外の物が残ったこともない。そこはずっと、自分一人だけの場所だった。
悠斗はしばらく部屋を眺めてから、小さく笑った。
「……こういうの、欲しかったんだよな」
モーテルを出て、アパートへ引っ越した。
本来なら、それだけのことだった。
けれど今夜から、この部屋は悠斗が一人で帰るだけの場所ではなくなりそうだった。
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