第1章 第7話 初めての逃走
赤と青の光が、バックミラーの中で大きく揺れていた。
神谷悠斗はハンドルを握る手に力を込める。
逃げる。
そう決めてアクセルを踏んだはずなのに、頭も身体もまるで速度についてきてくれない。
前方の車、信号、歩道の人影、左右のミラー。普段なら余裕を持って確認できるものが、一度に押し寄せてくる。
「落ち着け……」
自分へ言い聞かせるが、背後から響くサイレンが容赦なく心臓を急かした。
夜の大通りはまだ交通量が多い。
前を走るワゴン車へ急速に追いつき、悠斗は慌ててブレーキを踏んだ。
「っ!」
シートベルトが胸へ食い込む。
右へ避けようとしてミラーを見るが、隣の車線にも車がいる。
前方。
ミラー。
速度。
信号。
パトカー。
一度に見なければならないものが多すぎる。
生前に見ていた配信では、逃走役が無線で冗談を飛ばしながら車の隙間を抜けていた。
自分にも少しくらいできるのではないか。
そんな考えが、どれほど甘かったのか嫌というほど分かる。
スマートフォンが震えた。
見る余裕はない。
数秒後、今度は着信音が鳴った。
ユウジだ。
悠斗は音声操作で通話を繋ぐ。
『まだ捕まってねえか?』
「見れば分かるなら聞かないでください!」
思わず強い声が出た。
普段なら初対面に近い相手へ、こんな返し方はできない。
自分でも少し驚いたが、取り繕う余裕などなかった。
『喋れるならまだ平気だな』
「全然平気じゃないです!」
『前見ろ。無茶して事故る方が終わりだ』
「逃げろって言ったの、そっちじゃないですか!」
『逃げろとは言った。死ねとは言ってねえ』
昼間に乗せた、名前も知らない男の言葉が頭をよぎる。
『帰ってこれる奴が上手い』
なぜか今になって、その意味が重く感じられた。
『港へ真っすぐ行くな。目的地はいったん忘れろ』
「じゃあ、どこへ?」
『そこまで俺に聞くな。運転してんのはお前だ』
「……!」
『見張りから追跡の位置だけは流す。あとは自分で考えろ』
通話が切れた。
「何なんだよ……」
愚痴を漏らしながら、悠斗は前方へ意識を戻した。
配信で得た知識ならいくらでもある。
大通りを走り続けない。
視界を切る。
逃走車を交換する。
追跡側へ進路を読ませない。
けれど、知っているだけだ。
今の悠斗には予備車もなければ、街を自在に走れる技術もない。
頼れるのは、この二週間タクシーで走って覚えた道くらいだった。
前方の信号が赤へ変わる。
無理に突っ込まず、交差点の手前で左折した。
古い倉庫と工場に挟まれた道へ入る。
幅は狭く、大型車の路上駐車も多い。
当然、パトカーも追ってきた。
「全然離れない……」
焦ってアクセルを踏み込みたくなる。
だが前方にはトラックが半分道路へはみ出して停まっていた。
対向車も来ている。
無理に抜けばぶつかる。
悠斗は歯を食いしばって速度を落とした。
対向車が抜けるのを待ってから、トラックの横を通る。
その間にもサイレンは近づいてくる。
「まずい……」
次の角を曲がると、高架道路の太い柱が見えた。
その向こうは港湾地区へ続く物流地帯だ。
大型倉庫が何棟も並び、道路も複雑に枝分かれしている。
タクシーで一度来た時、ナビがなければ迷いそうだと思った場所だった。
悠斗は高架下へ入る。
周囲の交通が一気に変わった。
コンテナを載せたトレーラー。
荷下ろし待ちの大型車。
倉庫へ出入りする配送トラック。
誘導灯を振る作業員。
速度は出せないが、大型車が頻繁に視界を遮る。
前方で一台のトレーラーがゆっくり右折を始めた。
「止まるしかない……!」
悠斗はブレーキを踏む。
長い車体が道路を横切り、後方の視界を完全に塞いだ。
狙ったわけではない。
ただの偶然だった。
数秒後、トレーラーが抜ける。
その先で道は三方向へ分かれていた。
悠斗は左の側道へ入る。
さらに別の大型車が高架の柱の間を横切り、もう一度後方が見えなくなる。
サイレンはまだ聞こえた。
だが、さっきまでより遠い。
似た倉庫が並ぶ道を二度曲がったところで、スマートフォンへメッセージが届いた。
『見張りの方じゃ、追ってたパトカーが一本向こう抜けた』
すぐ続く。
『撒けたとは限らねえ。目立つな』
悠斗は返信せず、バックミラーと脇道を何度も確認した。
赤と青の光はない。
サイレンも徐々に遠ざかっていく。
「……逃げた?」
まだ信じきれない。
悠斗は少し走ってから、人通りのない倉庫脇へ車を寄せた。
エンジンは切らない。
ハンドルから手を離した瞬間、指先が細かく震えていることに気づいた。
「……はぁ」
大きく息を吐く。
背中は汗で湿り、喉もからからだった。
配信なら、ここで逃走成功を喜んでいた。
仲間の声が無線から飛び、笑い声が響く。
今は一人だ。
もし、さっき対向車へぶつかっていたら。
もし、警察に囲まれていたら。
簡単に終わっていたかもしれない。
「……これが犯罪なんだ」
汗ばんだ掌をズボンで拭った。
怖かった。
それでも、恐怖だけでは説明できない熱が胸の奥に残っている。
スマートフォンが再び鳴った。
『ナンバー見られてる可能性ある』
悠斗の表情が固まる。
「やっぱり……」
続けてメッセージが届く。
『その車、盗難車だから心配すんな』
「……え?」
悠斗は画面を二度見した。
『盗難車?』
思わず返信する。
『そう。今日の仕事用に回してきた車』
背中に別の寒気が走った。
「荷物だけじゃなかったのかよ……」
自分が乗っていた車そのものが犯罪で用意されたものだった。
鍵を渡された時点で、そんな説明は一切なかった。
『警察に車両情報はもう回ってると思え。目的地で車ごと渡せ。こっちで処理する』
さらに、
『すぐ動くな。十分か十五分待て。警察戻ってきたら荷物ごと捨てて逃げろ』
と続いた。
悠斗は眉を寄せた。
少なくとも、荷物より自分の身を優先していいらしい。
ユウジが「失敗しても困らない仕事」と言っていたのは本当だった。
同時に、自分がかなり軽く扱われていることも分かる。
「……本当に使い捨てじゃん」
誰もいない車内で苦笑した。
◇ ◇ ◇
十五分ほど待っても、警察は現れなかった。
悠斗は再び車を走らせる。
今度は速度を出さず、信号も守った。
それでもパトカーに似た車を見るたびに肩が強張る。
このまま納品場所へ向かっていいのかも不安だった。
信号待ちでユウジへ送る。
『このまま目的地に行って大丈夫ですか』
『場所までバレてるわけじゃねえ。追跡切れてるなら行け』
『着いたら車ごと渡せ。そっから先はこっちでやる』
「……分かりました」
返事を打ってから、悠斗はスマートフォンを伏せた。
盗難車。
逃走車。
使い捨て。
生前なら何度も聞いた言葉だった。
それが今は、自分の座っているシートや握っているハンドルへ結びついている。
知識だった犯罪が、少しずつ現実へ変わっていく。
目的地は港湾地区の外れにある古い倉庫だった。
夜の港には巨大なクレーンの照明が浮かび、積み上げられたコンテナが黒い壁のように並んでいる。潮風には油と鉄の匂いが混じっていた。
倉庫前には一人の男が待っている。
悠斗が停車すると、男は周囲を確認してから近づいてきた。
「鍵」
「……はい」
エンジンを切り、鍵を渡す。
男はトランクを開けた。
悠斗は反射的に中を見そうになったが、寸前で顔を逸らした。
ここまで運んだ物だ。
気にならないと言えば嘘になる。
それでも、知らない方がいい。
「問題ない」
男はトランクを閉めた。
「帰っていい」
「報酬は?」
「これ」
手渡されたのは、小さなプリペイド決済カードだった。
「二千ドル入ってる。登録なしで使える」
悠斗はカードを受け取る。
薄くて軽い。
それなのに、そこにはタクシーで何日も働くより大きな金額が入っている。
男はもう悠斗に興味を失ったように盗難車へ乗り込むと、そのまま倉庫の奥へ消えていった。
悠斗は手の中のカードを見下ろす。
二千ドル。
初めて犯罪で稼いだ金だった。
◇ ◇ ◇
深夜。
別の配車サービスを使って宿へ戻った悠斗は、ベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
眠いはずなのに、目を閉じるとバックミラーに映った赤と青の光が蘇る。
クラクション。
対向車のライト。
タイヤの音。
サイレン。
生前なら興奮して見ていた光景が、今は恐怖の記憶として身体に残っていた。
「もうやらない方がいいよな……」
普通ならそうだ。
警察に追われた。
事故を起こしかけた。
知らないうちに盗難車まで運転していた。
捕まれば、タクシーの仕事も失うかもしれない。
それでも、今日のことを後悔しているかと聞かれれば、素直には頷けなかった。
自分で選び、自分で怖がり、自分で判断した。
失敗しかけながらも、最後までやった。
正しいことではない。
それでも今日は、誰かの配信を眺めていた一日ではなかった。
自分自身の一日だった。
枕元のスマートフォンが震える。
『初仕事にしちゃ上出来』
ユウジからだった。
『また欲しくなったら連絡しろ』
悠斗は返信画面を開く。
『またお願いします』
そこまで打って、指が止まった。
数秒考え、全部消す。
代わりに、
『また仕事があれば、連絡してください』
と打ち直した。
それでも送信するまで、少し時間がかかった。
怖かった記憶は消えていない。
それでも最後には、ボタンを押した。
レイヴンシティへ来た時、自分には知り合いが一人もいなかった。
今は、友人と呼べるカイがいる。
そしてもう一人、決して友人ではない相手との繋がりもできた。
その先に何があるのかは分からない。
ただ、街の表側だけを走っていた頃とは、もう少しだけ違う場所へ足を踏み入れていた。
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