第1章 第6話 初めての裏仕事
安宿のベッドに腰かけたまま、神谷悠斗はスマートフォンの画面を何度も見直していた。
『さっきの運転手だよな? ちょっと金になる仕事、興味ない?』
送り主は、昼間に乗せた客の一人だった。
妙に落ち着いた年上の男をグランドホテルまで送るより前、南部の雑居ビルから港近くまで乗せた二十代半ばほどの男だ。
乗車中はほとんど喋らなかったが、目的地へ着く直前、
『個人で送迎とか受けたりしねえの?』
と聞かれた。
悠斗が「会社の仕事以外は、まだ」と答えると、男は配車アプリのメッセージ機能から自分の連絡先を送ってきた。
『金欲しくなったら連絡しろ』
その時は、タクシー以外の送迎でも頼みたいのだろうと思っていた。
ところが、今届いている文章はどう見ても普通ではない。
『運ぶだけだ。中身は聞かなくていい』
「……絶対まともじゃないだろ」
独り言が狭い部屋に落ちる。
さらにメッセージが届いた。
『報酬二千ドル』
悠斗の指が止まった。
二千ドルあれば、この安宿に一週間以上泊まれる。食費まで考えてもかなり助かる金額だった。
荷物を一つ運ぶだけで、それだけ払う。
高い報酬に喜ぶより先に、その理由を考えてしまう。
普通の荷物なら、普通の配送業者へ頼めばいい。わざわざ新人タクシー運転手へ声をかけ、中身を聞くなと言う必要もない。
昼間、名前も知らない男から言われた言葉が思い浮かんだ。
『誰と付き合うかはよく考えろ』
「……タイミング良すぎるんだよな」
悠斗は画面を閉じた。
数秒後、また開く。
断った方がいい。
慎重に考えれば、それが正しい。
カイという友達もできた。タクシーの仕事にも少しずつ慣れている。危険なことをしなくても、この街で生活はできる。
けれど、それだけを望んでここへ来たわけではなかった。
ギャングになりたい。
そのためには、いつか裏社会へ足を踏み入れることになる。
とはいえ、いきなり誰かを殴れと言われたわけではない。銃を持てとも言われていない。
荷物を運ぶだけだ。
そう考えている自分が、危険な部分だけを都合よく小さく見ていることにも気づいていた。
悠斗はしばらく迷った末、返信を打った。
『詳しい話だけ聞いてもいいですか』
送信すると、すぐ返事が来た。
『明日21時。南部のガソリンスタンド裏』
位置情報が続く。
『話聞いて嫌なら帰っていい』
悠斗はその一文を見つめたあと、短く返した。
『分かりました』
◇ ◇ ◇
翌日の午後九時前。
タクシー勤務を終えた悠斗は宿で制服から私服へ着替え、指定された南部のガソリンスタンドへ向かった。
夜になると、この地区は昼間より雑然として見える。
古い店のネオンが路面を照らし、歩道では酒の入った若者たちが大声で笑っていた。離れた道路から改造車の低い排気音が聞こえ、そのさらに向こうでは一度だけサイレンが鳴った。
店の裏へ回る。
昼間の男が、古い灰色のセダンの横で煙草を吸っていた。
「ちゃんと来たな」
「……話だけでも聞こうと思って」
「それでいい」
男は煙を吐き、悠斗を軽く見た。
「名前、何だっけ」
「神谷悠斗です」
「十七だったよな?」
「はい」
「若いな」
悠斗は少し警戒した。
「あなたは?」
「ユウジでいい」
本名ではなさそうだったが、それ以上は聞かなかった。
ユウジはその反応を見て、口元をわずかに上げる。
「やっぱ余計なこと聞かねえんだな」
「……昨日のタクシーでも、ほとんど話してなかったので」
「それで声かけた」
悠斗は眉を寄せた。
「俺を?」
「新人で、犯罪歴もたぶんねえ。客のことを詮索しないし、運転も最低限はできる。そういう奴に頼みたい荷物もある」
褒められている気はしなかった。
「信用されてるってことですか?」
「逆だよ」
ユウジはあっさり答えた。
「大事な荷物なら、お前みたいな素人には任せねえ」
「……」
「今回のは失敗しても俺が死ぬような仕事じゃない。だから新人でも使える」
使い捨てても困らない。
はっきり言われていないのに、そう聞こえた。
裏社会に憧れていた悠斗でも、その冷たさには背中が少し寒くなる。
ユウジは灰色のセダンを顎で示した。
「荷物はトランク。目的地は港の外れ。向こうで車ごと渡せば終わり。報酬二千ドル」
「中身は?」
「聞かないのが条件」
「……警察に止められたら?」
ユウジの表情から笑みが消えた。
「逃げろ」
悠斗は息を止めた。
「そこまで危ない物なんですか?」
「それも聞かない」
「……」
「今なら帰っていいぞ」
脅しではなかった。
本当に選ばせている。
悠斗は車の鍵を見つめた。
これを受け取れば、一線を越える。
違法だと知らなかったでは済まない。
警察から逃げろとまで言われて、それでもやるなら自分の意思だ。
怖かった。
それでも、ここで初めて「犯罪者になる」という言葉が、配信の中の出来事ではなく自分自身の選択として目の前に現れた気がした。
「……やります」
悠斗は顔を上げた。
「本当にいいんだな?」
「はい」
声は少し震えていた。
ユウジは笑わず、鍵を差し出した。
「なら受け取れ」
◇ ◇ ◇
灰色のセダンは、普段乗っているタクシーより座席が低かった。
悠斗はミラーを調整し、シート位置を合わせてからエンジンをかける。
ナビには目的地が登録済みだった。
走り出して十分ほどは、何も起きなかった。
信号を待つ車。
横断歩道を渡る家族。
コンビニへ入っていく会社員。
街はいつも通りだった。
その中で、自分のトランクに何が入っているのかだけが分からない。
それが妙に不気味だった。
「運ぶだけ……」
自分に言い聞かせる。
人を傷つける仕事ではない。
少なくとも今は。
それでもハンドルを握る掌には汗が滲んでいた。
目的地まで残り十分ほどになった頃、スマートフォンが震えた。
『この先、警察出てる』
ユウジからだった。
『見張りから連絡来た。次の交差点を右』
「見張り……?」
初めて、自分以外にもこの仕事へ関わっている人間がいると知る。
前方を見ると、交差点の先に赤と青の灯りが見えた。
道路脇にパトカーが一台停まり、警察官が数台の車を順番に確認している。
事故処理なのか、検問なのかは分からない。
『そのまま行くな』
続けてメッセージが入る。
悠斗は指示された交差点で右へ曲がろうとした。
その瞬間、道路脇にいた警察官がこちらへ視線を向けた。
手を上げる。
「……俺?」
一瞬迷った。
直進すれば警察官のいる場所へ近づく。止まれば、トランクを調べられるかもしれない。
悠斗は右折レーンへ強引に車を寄せた。
後続車からクラクションが鳴る。
警察官が何か叫んだ。
それでも悠斗は右へ曲がった。
数秒後、背後でサイレンが鳴った。
「……嘘だろ」
バックミラーへ赤と青の光が映る。
パトカーが交差点を曲がり、追ってきた。
胸の奥が一気に冷える。
配信では何度も見た光景だ。
追う警察と、逃げる犯罪者。
そのたびに悠斗は画面の前で興奮していた。
今は笑えない。
アクセルを踏む足が震える。
「落ち着け……!」
速度が上がった。
最初のカーブでハンドルを切るのが遅れ、車体が外側へ膨らむ。
対向車がクラクションを鳴らした。
「やばっ!」
慌てて修正する。
次の信号は黄色。
行くか止まるか迷った一秒で判断が遅れ、交差点へ入る頃には赤へ変わっていた。
左から来た車のライトが視界へ飛び込む。
「っ!」
反射的にハンドルを切る。
ぎりぎりで接触を避けると、タイヤが激しく鳴り、車体が大きく揺れた。
背後のサイレンは消えない。
むしろ近づいている。
怖かった。
事故を起こしたら終わる。捕まるかもしれない。
それでも恐怖の奥には、今まで感じたことのない熱もあった。
自分は本当に、あの画面の向こうで見ていた世界へ入ってしまった。
「見るのと……全然違う……!」
声が震える。
バックミラーの赤と青の光は、少しずつ大きくなっていた。
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