第1章 第5話 普通じゃない客
レイヴンシティへ来てから、二週間ほどが過ぎた。
神谷悠斗の生活は、少しずつ形になり始めていた。
朝は安宿を出て《レイヴン交通》へ向かい、貸与されたタクシーで街へ出る。仕事が終われば安い店で夕食を済ませ、宿へ戻る。
朝倉カイとは時々メッセージを交わし、仕事終わりに整備工場へ顔を出すこともあった。
知り合いが一人いる。
それだけで、この広い街が以前より少しだけ近く感じられるようになっていた。
とはいえ、タクシーの仕事そのものにはまだ慣れていない。
「空港までお願いします。できれば急ぎで」
「はい。安全に行ける範囲で急ぎます」
後部座席の女性が小さく笑った。
「真面目ね、新人さん?」
「……分かります?」
「分かるわよ。ハンドル握る手に力入りすぎ」
「あ……」
言われて肩の力を抜く。
運転は初勤務の頃より確実に上達していた。急ブレーキも減り、駐車も一度で決まることが増えた。
それでも、ようやく安全に街を走れるようになった新人運転手にすぎない。
客との雑談になれば、今でも何を話せばいいのか迷う。
空港で女性を降ろしたあと、しばらくして新しい配車が入った。
指定場所は南部寄りの古い商業街だった。
中央地区の高層ビル群から離れるにつれて、街の景色が少しずつ変わっていく。
古い集合住宅。
小さな修理工場。
壁に落書きの残る倉庫。
軒先へ椅子を出して話し込む住民たち。
大通りから一本外れれば、舗装の傷んだ細い道も増えていた。
悠斗はナビを確認しながら、指定された飲食店の前へタクシーを寄せる。
一人の男が立っていた。
二十代後半くらいだろうか。
短く整えた黒髪に、黒いシャツと色の落ちたジーンズ。高そうな時計も目立つアクセサリーもない。
どこにでもいそうな服装だった。
それなのに、悠斗は男を見た瞬間、何となく背筋が伸びた。
理由はすぐに分からなかった。
男が店の前から歩き出す。
路地の入口で煙草を吸っていた若者たちが、その姿に気づくと自然に道を空けた。
誰かが頭を下げる。
男は軽く手を上げただけで、そのままタクシーへ乗り込んだ。
「北西のグランドホテルまで頼む」
「はい」
悠斗は目的地を入力し、ゆっくりと発進した。
車内に沈黙が落ちる。
男は後部座席から窓の外を眺めていた。
無理に話しかける必要はない。
そう判断して、悠斗も運転へ集中する。
数分ほど走ったところで、不意に後ろから声が飛んできた。
「兄ちゃん、この街来たばっかか?」
「え?」
悠斗はバックミラーへ一瞬だけ視線を向ける。
「……二週間くらいです」
「やっぱりな」
男が小さく笑った。
「そんなに分かります?」
「信号止まるたび、周り見てるからな。ビルも車も珍しそうに見てる」
「あ……」
カイにも似たようなことを言われた。
自分では普通にしているつもりでも、相当分かりやすいらしい。
「まだ街を覚えてなくて」
「それだけじゃねえだろ」
「……?」
「まあいいさ。最初くらい、何見ても面白い方が得だ」
男はそれ以上追及しなかった。
信号が青へ変わる。
悠斗が車を進めると、少し間を置いて男が再び口を開いた。
「で、この街で何がしたい?」
「……何が、ですか?」
「仕事以外にだよ。若いのに、わざわざここへ来たんだろ?」
悠斗の胸が一度大きく鳴った。
答えは決まっている。
ギャングになりたい。
それを叶えるために、自分はこの世界を選んだ。
けれど、言葉は喉の奥で止まった。
カイにすらまだ話していない。
ましてや、今日初めて会った男である。
「まだ……あんまり決めてないです」
「へえ」
男の声に、わずかな笑いが混じった。
「嘘つくの下手だな」
「……」
悠斗は返せなかった。
男はそれ以上問い詰めることもなく、窓の外へ視線を戻した。
「言いたくねえなら言わなくていい。夢くらい、胸ん中に隠してても減りゃしない」
その言葉が、妙に残った。
交差点へ差しかかったところで、前方にパトカーが停まっているのが見えた。
路肩では二人の警察官が車を止め、運転手から何か話を聞いている。
悠斗は速度を落として横を通り過ぎた。
何気なくバックミラーを見る。
男はパトカーへ一度視線を向けただけだった。
怯える様子もない。
妙に落ち着いている。
それだけでは何も分からないはずなのに、悠斗の中で最初から感じていた違和感が少し強くなる。
普通の会社員ではない。
少なくとも、そんな気がした。
「運転、始めたばっかにしちゃ悪くないな」
突然言われ、悠斗は意識を道路へ戻した。
「本当ですか?」
「丁寧すぎるけどな」
「……よく言われます」
「今はそれでいいだろ。下手なうちから飛ばす奴よりマシだ」
悠斗は思わず頷いた。
「速く走れる人って、すごいですよね」
「速いだけじゃ駄目だ」
男の返事はすぐだった。
「帰ってこれる奴が上手い」
「……帰ってこれる?」
「事故でも喧嘩でも何でもそうだ。派手にやって死んじまったら、そこで終わりだろ」
言い方が妙に重かった。
悠斗はバックミラーへ目を向けたが、男は何でもない話をしているように外を眺めている。
「生きて戻るまでが仕事だ。覚えとけ」
「……はい」
なぜ自分がそんなことを教えられているのか分からない。
けれど、悠斗はその言葉を素直に覚えておこうと思った。
やがて車は中央地区を抜け、北西地区へ入った。
道路脇の街路樹が増え、豪邸を囲む高い塀や高級車が目立つようになる。
目的地のグランドホテルは、その中でもひときわ大きな建物だった。
石造りを思わせる外壁。
広い車寄せ。
入口には制服姿の係員が立っている。
悠斗は指定された場所へタクシーを停めた。
「到着しました」
「おう。ありがとな」
男が端末で料金を支払う。
表示を確認した悠斗は、思わず振り返りかけた。
「あの」
「何だ?」
「チップ……これ、金額合ってます?」
通常の運賃に対して明らかに多い。
入力を間違えたのではないかと思った。
「合ってる」
「でも、こんなに……」
「新人祝いだ」
男は平然としている。
悠斗は迷ったが、それでも確認せずにはいられなかった。
「本当にいいんですか?」
「いいって言ってんだろ」
男が少しだけ笑う。
「金にがっつかねえ奴なんだな、お前」
「いや……間違いだったら困るので」
「そういうことにしとくか」
男はドアへ手をかけた。
降りる直前、ふと思い出したように悠斗を見る。
「あと一個だけ、忠告しといてやる」
「忠告?」
「この街で人と知り合うのは悪いことじゃねえ。むしろ知り合いは多い方がいい」
そこで男の声が少しだけ低くなった。
「でも、誰と付き合うかはよく考えろ」
悠斗は黙って聞いた。
「いい奴の顔して近づいてくる奴が、本当にいい奴とは限らねえ。逆もあるけどな」
「……分かりました」
「じゃあな、新人」
男はタクシーを降りた。
ホテルへ向かって歩いていく。
その直後、車寄せに停まっていた黒いSUVから二人の男が降りてきた。
どちらも彼の姿を見ると、ごく自然に頭を下げる。
ホテルの入口にいた別の男もすぐに近づき、何かを報告するように短く話しかけた。
先ほどまで悠斗の後部座席に座っていた男は、その中心で足を止めることなく建物の中へ消えていく。
「……何者なんだ、あの人」
名前は聞いていない。
職業も知らない。
ホテル関係者なのか、会社の経営者なのか、それとも別の何かなのか。
ただ、普通の客ではなかった。
それだけは分かる。
配車端末が電子音を鳴らした。
次の仕事が入ったらしい。
悠斗はしばらくホテルの入口を見つめていたが、やがて前へ向き直った。
「……仕事しないと」
車を発進させる。
ミラーの中で、高級ホテルが少しずつ遠ざかっていった。
その日の夜。
安宿のベッドへ横になっても、あの男のことを何度か思い出した。
『帰ってこれる奴が上手い』
『誰と付き合うかはよく考えろ』
どちらも、ただのタクシー客が新人運転手へかける言葉としては少し変わっている。
それでも不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、もう一度会ってみたいとすら思う。
悠斗は枕元に置いたスマートフォンへ目を向けた。
当然、あの男の連絡先はない。
名前すら知らない。
この数百万人が暮らす街で、もう二度と会わない可能性だってある。
そう考えた時だった。
スマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、タクシー会社からではない。
カイでもない。
今日乗せた別の客から届いた短いメッセージだった。
『さっきの運転手だよな? ちょっと金になる仕事、興味ない?』
悠斗はベッドの上で身体を起こした。
金になる仕事。
それだけなら普通の誘いにも見える。
けれど、その下には続きがあった。
『運ぶだけだ。中身は聞かなくていい』
悠斗の指が、画面の上で止まった。
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