第1章 第4話 初めての友達
『それでは、明日の午前九時に本社までお越しください。場所はこのあとメッセージで送ります』
「はい。分かりました」
『必要なのは身分証だけです。では、お待ちしています』
「よろしくお願いします。……失礼します」
通話が切れた。
神谷悠斗はスマートフォンを耳に当てたまま、しばらく動けなかった。
やがて暗くなった画面に気づき、ゆっくり手を下ろす。五分にも満たない電話だったのに、掌には汗が滲んでいた。
「……終わった」
前の人生なら、知らない番号からの電話には出なかった。
それが今日は、自分で求人へ応募し、かかってきた電話にも最後まで応じた。
他人に話せば笑われるほど小さなことかもしれない。
それでも悠斗にとっては、昨日までできなかったことだった。
ベッドへ腰を下ろし、届いた会社の所在地を地図へ登録する。
「明日、面接か……」
不安はある。
けれど、それ以上に、この街で初めて自分の生活が動き始めたような感覚があった。
◇ ◇ ◇
翌朝、悠斗は約束より二十五分も早く《レイヴン交通》へ着いた。
五階建ての事務棟の隣には広い車庫があり、白を基調としたタクシーが何十台も並んでいる。制服姿の運転手が次々に出庫し、奥では整備員がボンネットを開けて作業していた。
「……早すぎた」
入口の前まで来たものの、この時間に入っていいのか分からず、一度通り過ぎる。
近くを意味もなく歩き、十五分前になってから戻ってきた。
受付で名前を告げるだけでも緊張したが、面接は悠斗が想像していたより穏やかだった。
「運転経験は?」
「ありません」
「本当にゼロ?」
「はい。前は……免許を取れる環境じゃなかったので」
前世の事情をそのまま説明するわけにはいかず、曖昧に答える。
採用担当の男性は深く追及しなかった。
「うちは未経験から取る人も多いよ。運転できるふりをされる方が困る。最初から覚えてもらえばいい」
「……はい」
身分確認と簡単な適性検査を終え、悠斗は見習いとして採用された。
そこから一週間余り、交通法規や営業車のルールを学び、訓練場で初めて車のハンドルを握った。
感動したのは最初の数分だけだった。
「神谷、ブレーキ急すぎる!」
「す、すみません!」
「左空けすぎ! ミラー見ろ!」
「はい!」
車幅の感覚が掴めず、カーブでは必要以上に外へ膨らむ。駐車をさせれば見事に斜めになり、市街地講習では前方へ集中するあまり標識を見落とした。
生前、配信で見ていた人間たちは高速道路を飛ばし、細い路地を抜け、追ってくる警察を振り切っていた。
自分なら少しくらいできるのではないか。
どこかでそう思っていたらしい。
現実は違った。
「見るのとやるの、全然違うな……」
「当たり前だ。動画見て運転できるなら教官いらねえよ」
教官の返事に何も言い返せない。
一度目の実技試験では駐車で失敗した。
それでも翌日からまた練習し、二度目の試験でようやく営業運転資格を取得した。
失敗して、直して、もう一度やる。
そんな当たり前のことが、悠斗には少し新鮮だった。
◇ ◇ ◇
初勤務の日。
会社から貸与されたタクシーの運転席で、悠斗は何度もハンドルの位置を確かめていた。
客を乗せて走る。
講習とは違う。
今度は後ろに、本当に知らない人が座る。
配車端末が鳴った瞬間、肩が跳ねた。
最初の客は年配の女性だった。
二人目は無口な会社員。
三人目は買い物帰りらしい男性。
目的地を聞き、ナビを確認し、必要最低限の会話をする。それだけでも一人降ろすたびに緊張で身体が重くなった。
昼過ぎ、四件目の配車が入った。
指定場所は中央地区から少し外れた整備工場の前だった。
到着すると、油で汚れた作業着姿の若い男が手を上げる。
「中央駅までお願い」
「はい」
男が後部座席へ乗り込み、悠斗は慎重に発進した。
数分ほど走ったところで、後ろから声が飛ぶ。
「新人?」
「え?」
「運転。すげえ丁寧だから」
「あ……今日、初日です」
「マジ? 俺、今日何人目?」
「四人目です」
「四人目か。惜しいな、一人目がよかった」
何が惜しいのか分からない。
悠斗が返事に困っていると、男は勝手に笑った。
「この街来たのも最近?」
「……分かります?」
「交差点来るたびナビ見てるし。あと観光客みたいに周り見てる」
「そんなに出てます?」
「出てる出てる」
恥ずかしくなり、悠斗は前へ視線を戻した。
男は気にした様子もなく窓の外を眺めていたが、やがて少しだけ眉を寄せた。
「なあ。この車、前からこんな音してた?」
「音?」
「右前。低い速度だと分かりにくいけど、たまに振動してる」
言われて意識すると、確かにハンドルへ細かな震えが伝わっている。
「俺、さっきの工場で整備やってんだ。念のため会社戻ったら見てもらった方がいいぞ」
「ありがとうございます」
その直後、メーターに黄色い警告灯が点いた。
「えっ」
「ほら来た」
悠斗は教習で習った手順を思い出し、周囲を確認して路肩へ寄せる。ハザードを点けて停車すると、男が後部座席から身を乗り出した。
「ちょっと見ようか?」
「いいんですか?」
「このまま駅まで走る方が嫌だろ」
二人で車を降りる。
ボンネットを開けた男は、備え付けの工具を借りると迷いなく手を動かした。
「大した故障じゃない。固定が緩んでただけっぽい」
「そんなの分かるんですか?」
「仕事だからな」
数分後、警告灯は消えた。
「会社戻ったら正式に点検してもらえよ。今ので全部直ったって決めつけるな」
「はい。本当にありがとうございます」
「客に車直してもらう新人タクシー、なかなか面白いな」
「……すみません」
「なんでお前が謝るんだよ。壊したわけじゃねえだろ」
男が笑う。
悠斗もつられて、少しだけ笑った。
再び走り始めてから、男がふと思い出したように言った。
「そういや名前聞いてなかった。俺、朝倉カイ」
「あ……神谷悠斗です」
「悠斗な」
あまりにも自然に名前で呼ばれ、悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
「何?」
「いや……何でもないです」
名前を呼ばれただけだ。
それなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
◇ ◇ ◇
中央駅へ着くと、料金を支払ったカイがスマートフォンを取り出した。
「連絡先交換しようぜ」
「……俺と?」
「他に誰がいるんだよ」
「いや、その……」
「車で何かあったら連絡してこいよ。会社の車だから勝手に触れないだろうけど、見るくらいはできる」
「あ……はい」
言われるまま連絡先を交換する。
画面に《朝倉カイ》という名前が追加された。
「じゃあな、悠斗。仕事頑張れよ」
「今日はありがとうございました」
「次はぶつけんなよ」
「まだぶつけてません」
「ちゃんと返せるじゃん」
カイは笑いながら駅へ入っていった。
悠斗は運転席へ戻ってから、もう一度スマートフォンを見る。
家族以外では、ほとんど増えることのなかった連絡先。
そこへ、自分と直接知り合った相手の名前が一つ増えていた。
その日の夜、カイから短いメッセージが届いた。
『車、ちゃんと点検した?』
悠斗は何度か文章を打ち直してから、
『しました。緩んでいた部品を交換したそうです。今日はありがとうございました』
と返した。
すぐに返信が来る。
『よかった。暇な日あったら工場来れば?』
悠斗はその一文を何度も読み返した。
◇ ◇ ◇
三日後。
仕事終わりの悠斗は、教えられた整備工場の前で十分近く立ち尽くしていた。
来ればいいと言われた。
それでも、本当に行って迷惑ではないのかと考えてしまう。
一度帰りかけ、足を止めた。
「……ここまで来たのに」
意を決して中へ入る。
工具の音と、油と金属の匂いが迎えた。
リフトの上には低いスポーツカーが載り、その下で作業していたカイが悠斗に気づく。
「お、来たじゃん」
それだけだった。
理由を聞かれることも、迷惑そうな顔をされることもない。
「仕事終わり?」
「はい」
「腹減ってる?」
「……まあ」
「じゃあ、これ終わったら飯行こうぜ」
悠斗は返事が遅れた。
「俺も?」
「だから他に誰がいるんだよ」
同じことを二度言われ、思わず笑ってしまう。
「……行きたいです」
「決まり」
その夜、二人は工場近くの小さなダイナーへ入った。
カイはよく喋った。
珍しい車の話。
無茶な改造を注文してきた客の話。
山道にいる速いレーサーの話。
悠斗は聞く時間の方が長かったが、時々質問し、それにカイが嬉しそうに答える。
会話が途切れても、気まずくはなかった。
それが悠斗には不思議だった。
「悠斗、休みの日どっか行きたい場所ある?」
「え?」
「海でも山でも。俺の休みと合ったら連れてってやるよ」
フォークを持つ手が止まった。
また会うことを、カイは何でもないことのように話している。
「……お願いします」
「おう。じゃあ決まりな」
友達というものに、どこから明確な境目があるのか悠斗には分からなかった。
連絡先を交換したら友達なのか。
一緒に飯を食べたらそうなのか。
次に遊ぶ約束をしたらそうなのか。
前の人生には比較する経験がなかった。
それでも、今目の前にいる相手を友達と呼ばないのなら、誰をそう呼べばいいのだろう。
悠斗は口元を少し緩めた。
◇ ◇ ◇
店を出ると、夜の大通りを湿った風が抜けていた。
二人で歩いていると、低く重いエンジン音が近づいてくる。
カイが道路へ目を向けた。
「お」
悠斗も振り返る。
黒を基調に同じ色の意匠を入れた車が、六台続いて交差点へ入ってきた。
先頭の低いスポーツカーに大型SUV、改造されたセダン。
どの車もよく手入れされている。
信号待ちの車がわずかに距離を空け、歩道にいた人々の一部も自然と視線を逸らした。
車列が横を通り過ぎる。
画面越しでは分からなかった排気音が胸に響き、すぐ近くを走る大型SUVの車体が街灯を一瞬遮った。
悠斗は無意識に身体を固くした。
「……あれ」
「ギャング」
カイの声が、さっきまでより少しだけ低かった。
悠斗は車列が遠ざかるのを見つめる。
生前、何度も憧れた景色だった。
同じ色を身につけ、仲間と車を連ねて走る。
けれど、今は格好いいだけではない。
本物だ。
あの車の中に銃があるかもしれない。
敵対すれば撃たれるかもしれない。
この街では、死ねば終わりだ。
「興味あるの?」
カイに聞かれ、悠斗は少し迷った。
「……ちょっとだけ」
まだ、本当の夢までは言えなかった。
「この街じゃ、関わる相手は選べよ」
カイは遠ざかる車列を見ながら言った。
「車好きにも色々いるし、犯罪者にも色々いる。面白そうだからって近づいて、洒落にならない目に遭う奴もいるから」
「……うん」
悠斗は素直に頷いた。
怖さはある。
それでも気持ちは消えていなかった。
隣には、今日一緒に飯を食べた相手がいる。
スマートフォンには、その人の名前が入っている。
前の人生では一人も作れなかった友達が、たぶん今はいる。
六台のテールランプが夜の街へ溶けていくのを見ながら、悠斗は静かに思った。
それでもやっぱり、俺はギャングになりたい。
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