第1章 第3話 レイヴンシティ
最初に聞こえたのは、サイレンだった。
遠くで低く響く警笛に重なるように、別の方向からタイヤの甲高い摩擦音が聞こえてくる。頭上ではヘリコプターのローター音が空気を震わせ、道路からは何台もの車のエンジン音が絶え間なく流れていた。
神谷悠斗は、ゆっくりと目を開けた。
「……え」
眩しさに思わず目を細める。
さっきまで周囲を満たしていた白い光は、もうどこにもなかった。
代わりに目の前へ広がっていたのは、巨大な街だった。
午後の日差しを受けた高層ビルのガラスが眩しく輝き、その間を何本もの大通りが走っている。乗用車や配送トラックが絶えず行き交い、その合間をバイクが器用に抜けていった。
歩道にも多くの人がいる。
スーツ姿で電話をしながら歩く男。買い物袋を抱えた女性。イヤホンをつけて信号を待つ若者。
誰も悠斗を見ていない。
誰も突然現れた自分を特別扱いしない。
それぞれが自分の用事を抱え、自分の目的地へ向かっている。
悠斗は、その場からしばらく動けなかった。
「……本当に」
喉が少し乾く。
「来たんだ……」
レイヴンシティ。
リーヴァが見せてくれた街。
生前、毎日のように配信で眺めていた犯罪都市を思わせる場所。
映像で見るのと、実際にその中へ立つのとでは何もかもが違った。
大型車が通れば低いエンジン音が腹の底まで響く。ビルの谷間を抜ける風が頬を撫で、近くの飲食店からは肉の焼ける香ばしい匂いが流れてきた。
遠くの話し声も、クラクションも、サイレンも、すべてが同じ空間から聞こえている。
画面越しではない。
イヤホン越しでもない。
自分が、その中に立っている。
「……すご」
自然と口元が緩んだ。
その時、交差点の向こうからひときわ大きなエンジン音が近づいてきた。
悠斗が振り向く。
真っ赤なスポーツカーが、信号の変わり際に交差点へ滑り込んだ。
その後ろから、二台のパトカーが赤と青の警光灯を点滅させながら追ってくる。
周囲の車が慌てて道を空けた。
「うわ……」
スポーツカーは後輪をわずかに滑らせながら横道へ曲がり、そのままビルの陰へ消える。
パトカーも続いた。
ほんの数秒だった。
それでも悠斗は、遠ざかっていくエンジン音をしばらく追っていた。
「あれ……逃走中だよな」
思わず見に行きたくなる。
生前なら間違いなく、逃走している側か警察側の配信を探していたはずだ。
けれど、今の自分にはその両方がない。
そもそも、この街で何が起きているのかを教えてくれる画面すらない。
そこでようやく、悠斗は現実へ引き戻された。
「……そうだ。俺、何もないんだ」
ここへ来た。
ギャングになりたいという気持ちも変わっていない。
しかし、今の自分には家も車も仕事もない。
知り合いも一人もいなければ、当然ギャングへ連絡する方法も知らなかった。
「ギャングになる前に……生活しないと駄目だよな」
リーヴァの声を思い出す。
『ギャングになる前に、路上生活にならないよう頑張って』
「ほんとにそうじゃん……」
悠斗は小さくため息をついた。
まずは自分が何を持っているのか確認する。
服装は、死ぬ直前に着ていた部屋着ではなかった。
黒いパーカーに白いTシャツ、濃い色のデニム。それに履き慣れた感触のスニーカー。
派手ではないが、この街を歩いていても浮かなさそうな格好だ。
右のポケットからスマートフォン。
左から薄い財布が出てきた。
「これか」
スマートフォンは見慣れない機種だったが、基本的な操作は直感的に分かる。
画面を開けば、通話、メッセージ、地図、銀行、ニュース、求人など、生活に必要そうなアプリが最初から並んでいた。
文字も問題なく読める。
リーヴァから与えられた言語能力のおかげなのだろう。
銀行アプリを開くと、自分名義の口座があり、残高も表示された。
安い宿と食事を選べば、一週間ほどは何とか暮らせそうな金額だ。
「最低限って、本当に最低限だな……」
財布には少額の現金と、写真付きの身分証が入っていた。
名前は神谷悠斗。
年齢は十七歳。
住所欄には《新規転入者仮登録》とあり、一定期間内に正式な居住地を登録する必要があるらしい。
銀行口座もスマートフォンもきちんと自分名義になっている。
どうやらリーヴァは、この街で生活を始められるところまでは用意してくれたようだ。
そこから先は自分で何とかしろ、ということなのだろう。
身分証を財布へ戻し、地図アプリを開く。
現在地の周囲には、ホテル、病院、警察署、飲食店、公共交通機関などがいくつも表示された。
地図を少し縮小すると、街の広さが一気に見えてくる。
「広……」
中央部だけでもかなり大きい。
西へ海岸線。
南には工業地帯。
北西には住宅地。
東へ進めば市街地が徐々に途切れ、その先には乾いた土地が広がっている。
さらに北には山岳地帯。
港も空港もある。
指で地図を動かしているだけで、行ってみたい場所が次々と増えていった。
だが、その前に宿だ。
悠斗は検索欄へ「安い宿」と入力した。
近場にいくつか候補が出る。
一番近い宿へ向かおうとして、足が止まった。
大通りの向こう側だった。
信号もある。
横断歩道もある。
何も難しいことではない。
けれど、人が多かった。
前からも後ろからも知らない人が歩いてくる。肩がぶつかりそうになるだけで、身体が少し強張った。
日本にいた頃なら、人混みそのものを避けていた。
「……行かないと」
小さく呟く。
ここには、自分の部屋がない。
閉じこもって時間が過ぎるのを待つ場所もない。
歩かなければ、何も始まらない。
悠斗はスマートフォンを握り、人の流れへゆっくりと入った。
肩はまだ強張っていた。
それでも、足は止めなかった。
◇ ◇ ◇
宿までは歩いて二十分ほどかかった。
その間、悠斗は何度も足を止めそうになった。
道に迷ったわけではない。
街のあちこちが気になったからだ。
交差点の脇では二人の警察官が若い男から事情を聞いている。
少し先では、故障した車を整備業者が積載車へ載せていた。
救急車がサイレンを鳴らしながら走り抜ければ、周囲の車がそれぞれ速度を落として道を空ける。
飲食店の前では店員が客を呼び込み、その隣では二人組が店頭のメニューを覗き込んでいた。
道路脇へ停められた高級車の周囲では、若者たちが楽しそうに写真を撮っている。
誰もが、自分の一日を生きていた。
それが妙に嬉しかった。
「あとで見られる……よな」
配信なら、見逃したら終わりだった。
一人の視点を追っている間に、別の場所では別の出来事が起きる。
だから何窓も開き、あとからまとめ動画まで追っていた。
けれど今は違う。
この街で生きていくのなら、明日もある。
その次の日もある。
全部を一度に見ようとしなくていい。
今度は、誰かの一日を追いかけるのではなく、自分自身の一日を過ごせる。
そのことが、悠斗には不思議なくらい嬉しかった。
安宿は、繁華街から少し外れた古い建物だった。
外壁の塗装はところどころ剥がれ、入口の看板も色褪せている。
料金が安い理由は、外から見ただけでも何となく察せた。
「……ここか」
悠斗は入口の前で数秒立ち止まる。
中へ入って部屋を借りる。
それだけだ。
それだけなのに緊張する。
知らない人へ、自分から話しかけなければならないからだ。
一度だけ別の宿を探そうかと思った。
けれど、どこへ行っても受付はいる。
問題は宿ではない。
「……よし」
小さく息を吐いて、ドアを開けた。
中は外観より少しだけましだった。
狭いロビー。
壁際に置かれた古いソファ。
奥の受付カウンターでは、四十代くらいの男性が端末を見ている。
悠斗が入ってきたことに気づき、男が顔を上げた。
「泊まり?」
「あ、はい」
思ったより声が小さくなった。
「何泊?」
「えっと……とりあえず、一泊で」
「身分証ある?」
「あります」
財布からカードを取り出して渡す。
男は身分証へ軽く目を通した。
「新規転入か。今日来たばっか?」
「……はい」
「そうか」
男は端末を操作しながら続けた。
「この辺、夜になると裏通りはちょっと荒れるからな。慣れるまでは大通り歩いた方がいいぞ」
「ありがとうございます」
「延泊するなら昼までに言ってくれ。金が足りないから後で払うってのは無理だから、その辺だけよろしく」
「はい」
料金を支払い、鍵代わりのカードを受け取る。
会話は、それで終わった。
変な顔をされることもなかった。
言葉に詰まって笑われることもなかった。
普通に質問されて、普通に返事をしただけだ。
階段を上がりながら、悠斗は少しだけ肩の力が抜けていることに気づいた。
「……ちゃんと返事できた」
ほんの数往復の会話だ。
それでも、今の悠斗には十分だった。
部屋は狭かった。
シングルベッド。
小さな机。
シャワー。
壁掛けのテレビ。
窓から見えるのは隣の建物の壁だけ。
豪華とはほど遠い。
それでも悠斗はベッドへ腰を下ろすと、長く息を吐いた。
「とりあえず、今日寝る場所はできた……」
口にした瞬間、ようやく現実味が増した。
自分は本当に、この街で生活を始めるのだ。
ベッドへそのまま倒れ込みたい気持ちはあった。
けれど、その前にやることがある。
「仕事……探さないと」
一週間ほどしか生活費がない。
のんびり観光している余裕はなかった。
悠斗は机へスマートフォンを置き、求人アプリを開いた。
飲食店。
倉庫。
清掃。
配送。
警備。
整備補助。
タクシー。
いろいろな仕事が並んでいる。
できれば、この街でいろんな人と会える仕事がいい。
ギャングになるにしても、まず誰かと知り合わなければ始まらない。
いきなり道端の誰かに、
『ギャングに入りたいんですけど』
などと話しかける勇気はない。
そもそも、誰がギャングなのかすら分からなかった。
生前の配信では、人と接する仕事をきっかけに交友関係を広げていく人間を何度も見てきた。
「人と会えて……街も覚えられる仕事」
画面をスクロールする指が止まった。
タクシー運転手。
街中を走る。
いろいろな客を乗せる。
道も覚えられる。
もしかしたら、犯罪者やギャングを乗せることだってあるかもしれない。
「これ……いいかも」
問題は一つある。
悠斗は車を運転したことがない。
「……そりゃそうだよな」
前世では高校二年生だった。
免許を取った経験もない。
募集条件を詳しく読む。
レイヴンシティでは十六歳から一般運転資格を取得できるらしい。
求人を出している《レイヴン交通》は市内でも規模の大きい会社で、未経験者向けの育成制度を設けていた。
採用後はまず座学と基本操作。
次に訓練用コース。
その後、教官同乗での市街地走行。
実技試験へ合格すれば営業運転資格を取得できる。
合格するまでは、当然一人で客を乗せることはできない。
「ちゃんと試験あるんだ……」
少し安心した。
いきなり車の鍵だけ渡されて、「走ってこい」と言われるわけではないらしい。
講習費は会社負担。
見習い期間中も最低限の給料が出る。
安宿で暮らしながらなら、何とか生活できそうだった。
「タクシー……」
応募ボタンがある。
悠斗の指が、その上で止まった。
押せば終わりではない。
会社から連絡が来る。
面接もある。
知らない人と話さなければならない。
急に現実味が増した。
画面を閉じたくなった。
前の人生なら、たぶん閉じていた。
『明日でいい』
そう言って先延ばしにして、翌日もやらない。
それを何度も繰り返してきた。
悠斗は窓へ目を向けた。
見えるのは隣の建物の壁だけだ。
それでも外から、車の音や人の話し声が聞こえてくる。
この街へ来たいと、自分で選んだ。
ギャングになりたいと、自分の口で言った。
「……仕事の応募くらいで止まってたら、無理だよな」
小さく息を吸い、応募ボタンを押した。
画面に表示が出る。
『応募を受け付けました。担当者より確認の連絡があります』
「……押した」
思ったより胸が速く鳴っている。
銀行強盗へ参加したわけでもないのに。
数分後、スマートフォンが短く震えた。
メッセージが届いている。
『レイヴン交通 採用担当です。ご応募ありがとうございます。これからお電話してもよろしいでしょうか?』
「……電話」
その二文字を見ただけで、身体が少し強張った。
前の人生で、特に苦手としていたものだった。
悠斗はしばらく画面を見つめる。
時間を置いてもらうこともできる。
断ることだってできる。
けれど、ここで逃げたら何も始まらない。
震える指で短く返信した。
『大丈夫です』
送信する。
十秒ほどして、スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
分かっていても緊張する。
着信音が狭い部屋に響く。
悠斗は一度だけ深く息を吸い、それから通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『神谷悠斗さんでお間違いないでしょうか。レイヴン交通の採用担当です』
「は、はい」
『今、少しお時間よろしいですか?』
喉が詰まりそうになる。
それでも悠斗は、逃げずに答えた。
「……大丈夫です」
声はまだ緊張で固かった。
それでも、電話を切らなかった。
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