第2章 第67話 MIRAGE対SHIFT
三日後の夜。
準備は、もう全部終わっていた。
七人。
二台の車。
全員分のインカム。
それでも、悠斗はまだ「行こう」と言わなかった。
Placeholder共有の黒いスポーツセダンと、大型のレンタルバンは、南部の同じ区画内で数百メートルほど離して停めてある。
共有車には悠斗、蓮、アキラ、大河、シオン。
大型バンにはナナとタクミ。
互いの姿は見えないが、何かあればすぐ合流できる距離だ。
時刻は午後九時を回っている。
エンジンを切った共有車の中は、妙に静かだった。
遠くで車が走る音。
ときどき聞こえるクラクション。
道路沿いの店から漏れる音楽。
普段なら気にも留めない音ばかりが、今夜はやけに耳についた。
インカムからナナの声が入る。
『SHIFTの関係者がよく使ってるって知られてる車、何台か港の方へ向かったみたい』
悠斗は助手席で身体を少し起こした。
「何台?」
『確認できたのは四台。でも、全部が抗争に向かってるとは限らないよ』
「分かった」
それだけ返す。
運転席の蓮が横目で悠斗を見た。
「まだ?」
「まだ」
「了解」
蓮はすぐ前へ視線を戻した。
後部座席では、アキラがスマートフォンを確認している。
大河は落ち着かないのか、さっきから膝を揺らしていた。
シオンだけは静かに窓の外を見続けている。
七人も、車も、インカムも揃っている。
プール金から準備費まで出した。
ここまで来れば、何かしなければ損をしたような気持ちになる。
だからこそ、悠斗は動きたくなかった。
準備したことと、やるべきことは別だ。
少しして、またナナ。
『MIRAGE側も動いてるっぽい』
「何があった?」
『関係者が出入りしてるって噂の場所から、何人かまとまって出たって話が回ってきた。あと、港の近くで見慣れない車が増えてるって』
「前に言ってた辺り?」
『近い。でも、まだ断定できない』
「了解」
悠斗は息を吐いた。
蓮がハンドルに指を乗せたまま言う。
「両方動いてるんだよな」
「うん」
「それでもまだ待つ?」
「待つ」
「分かった」
誰も急かさない。
それがありがたかった。
待っている時間の方が、動いている時より長く感じる。
もしナナの読みが外れていたら。
もし何も起きなかったら。
その時は帰る。
そう決めたはずなのに、頭のどこかでは別のことも考えていた。
ここまで準備したんだから、起きてほしい。
一瞬そう思って、悠斗は自分で嫌になった。
抗争が始まれば、誰かが撃たれる。
その隙を、自分たちは使おうとしている。
画面の向こうの出来事ではない。
ここでは、本当に人が傷つく。
「悠斗」
シオンの声。
「何?」
「後ろ」
悠斗がミラーを見る。
一台のセダンが近づいてきた。
全員の空気が少し固くなる。
だが、その車は速度を落とすこともなく、そのまま共有車の横を通り過ぎていった。
シオンが短く言う。
「普通」
「たぶんね」
まだ何も始まっていない。
それでも全員の神経は張っている。
大河が小声で、
『これ、俺普通に喋っていいんだよな?』
とインカムへ入れた。
同じ後部座席にいるアキラが振り返る。
「お前も普通に喋れよ」
『いや、せっかくだから使いたくなるだろ』
「今じゃなくていいだろ」
蓮が少し笑う。
悠斗も肩の力が抜けかけた。
その時だった。
遠くからサイレンが聞こえた。
一台。
この街では珍しくもない。
誰もまだ何も言わない。
だが、一分もしないうちに別のサイレンが重なった。
さらにもう一つ。
複数の音が、遠くの同じ方向へ流れていく。
「港側?」
アキラが窓の外を見る。
シオンが耳を澄ませる。
「方向はそう」
悠斗はすぐインカムを使った。
「ナナ、何か分かる?」
『今見てる』
数秒。
『まだ何とも言えない。事故かもしれない』
「了解」
悠斗は動かない。
サイレンが増えた。
それだけでは足りない。
さらに数分。
ナナの声が戻ってくる。
『港の倉庫街の近くにパトカーが何台も向かってるって投稿、増えてきた』
「銃声の話は?」
『まだはっきりしない』
蓮が悠斗を見る。
悠斗は首を横に振った。
「まだ」
◇
同じ頃。
港湾地区の倉庫街。
普段なら貨物車が並ぶ一角に、今夜は別の種類の車が増えていた。
改造されたスポーツカー。
高級セダン。
黒いSUV。
それぞれが距離を取りながら停まり、車内や建物の陰には複数の人影がある。
MIRAGE側の男が、向かいの車列を見ながら吐き捨てる。
「よくもまあ、あれだけ連れてきたな」
隣の男が笑う。
「向こうも同じこと思ってるだろ」
「先にうちの取引邪魔したのはあいつらだ」
「SHIFTに言わせりゃ、こっちが輸送に口出したって話だ」
「今さらどっちが先かなんて関係ねえよ」
少し離れた場所。
SHIFT側でも似たような会話が交わされていた。
「MIRAGE、数多くないか?」
「今さら帰る?」
「誰が言った」
「ならいい」
互いに譲るつもりはない。
どちらも、自分たちが引けば相手に舐められると思っている。
ここにPlaceholderの事情など一切関係ない。
MIRAGEにはMIRAGEの都合があり、SHIFTにはSHIFTの意地がある。
この夜に集まった理由も、悠斗たちとは無関係だった。
張り詰めた空気の中。
誰かが引き金を引いた。
乾いた銃声が倉庫街へ響く。
一発。
それを合図にしたように、複数の銃声が重なった。
車のタイヤが鳴く。
人が走る。
怒鳴り声が飛ぶ。
ガラスが砕け、エンジンが唸る。
それまで睨み合っていた二つの組織が、一気に動き始めた。
◇
『出た』
ナナの声が、インカムから鋭く入った。
悠斗の心臓が大きく跳ねる。
「何が?」
『港で銃声って投稿が一気に増えた。遠くから撮った動画も上がってる。パトカーが向かってる映像もある』
ナナの声も、いつもより少し速い。
『たぶん始まった』
車内から軽口が消えた。
遠くのサイレンがさらに増えていく。
窓の向こう。
交差点を一台のパトカーが通過した。
港湾地区の方向へ。
続いてもう一台。
だが、その直後には反対方向へ走る別のパトカーも見えた。
アキラが言う。
「やっぱ全部そっち行くわけじゃないな」
「うん」
悠斗は頷く。
当然だ。
街の警察が全員港へ消えるわけではない。
それでも、普段とは明らかに違う。
数分後。
遠くの空に小さな灯りが動いているのが見えた。
低い回転音が遅れて届く。
「ヘリ」
シオンが言う。
悠斗はナナへ聞いた。
「警察、どんな感じ?」
『かなり港側に寄ってる。救急も向かってるみたい』
少し間を置いて、ナナが続ける。
『でも、こっちにパトカーがいないわけじゃないよ』
「分かってる」
その方がいい。
都合よく警察が消えたわけではない。
ただ、大きな事件が起きたことで配置が変わった。
それだけだ。
ナナが集めていた断片は、少なくとも今夜の動きへ繋がっていた。
日時も、おおよその場所も、規模も大きく外れてはいない。
決行条件が、ほぼ揃い始めている。
それでも悠斗は、まだ動かなかった。
アキラが気づく。
「もう少し見る?」
「うん」
「慎重だな」
蓮が言う。
「怖いから」
悠斗は正直に答えた。
「向こう行ってから違ったじゃ遅いし」
「まあ、それはそう」
さらに数分。
ナナから断続的に情報が入る。
『救急車、何台か追加で港方面』
『警察ヘリまだいる』
『港近くの道路、警察車両増えてる』
一つだけでは判断しない。
複数の情報が同じ方向を示している。
悠斗は最後に確認した。
「ナナ」
『うん』
「まだ続いてる?」
『続いてる。銃声の報告も止まってない』
「警察は?」
『かなり港側。ただし、街の他の場所にも普通に残ってる』
「分かった」
悠斗は息を吸った。
手のひらに汗が滲んでいる。
怖い。
失敗した時のことを考えると、今からでも帰りたい気持ちはある。
でも、決めていた条件は揃った。
抗争は始まった。
場所も予想に近い。
規模も小さくない。
警察も動いた。
だからこそ、ここから先は自分たちで決める。
やる。
悠斗はインカムへ声を出した。
「みんな」
大型バンにいるナナとタクミ。
共有車にいる蓮、アキラ、大河、シオン。
全員へ同じ声が届く。
「行こう」
『了解』
最初に返したのはシオンだった。
続いて蓮。
『やっとか』
「文句ある?」
『ない』
アキラが笑う。
『こっからは予定通りで』
「うん」
大河。
『了解』
タクミの声は少し硬い。
『俺、現物見て無理だったら本当に帰るからな』
「分かってる」
最後にナナ。
『バン出すよ』
「お願い」
蓮がエンジンをかけた。
共有の黒いスポーツセダンが、ゆっくり道路へ出る。
数百メートル離れた場所からは、大型のレンタルバンも走り始めた。
二台が向かう先は、サイレンとヘリが集まる港ではない。
その反対側。
悠斗は流れていく街灯を見つめた。
次に確かめるのは噂ではない。
自分たちが準備した仕事が、本当に通用するかどうかだった。
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