第2章 第61話 名前で呼ばれる日
質屋の一件から、一週間ほどが経った。
午後の南部地区は薄い雲に覆われていた。雨が降りそうなほど暗くはないが、日差しは弱く、工業地帯を抜けていく大型トラックの低いエンジン音が建物の壁へ響いている。
悠斗は歩道の端でスマートフォンを開き、送られてきた住所をもう一度確認した。
「ここ……だよな」
「合ってる」
隣にいたアキラが、少し先の建物を顎で示した。
大きなシャッターの下りたガレージ。
道路側には目立つ看板もなく、外から見る限りでは、小さな修理工場か倉庫にしか見えない。
ここが、レオに紹介された裏の車仕事を請け負うメカニックの作業場だった。
「やっと戻ってくるな」
蓮は隠す気もなく楽しそうだった。
「お前、俺より楽しみにしてない?」
アキラが横目を向ける。
「だって共有車だろ。俺も乗るし」
「元々は俺の車なんだけどな」
「もう3,800ドル受け取ったじゃん」
「分かってるけど、言われるとなんか腹立つな」
二人のやり取りを聞きながら、悠斗は小さく笑った。
あの灰色のスポーツセダンは、もうアキラ個人の車ではない。
手を入れた後は、《Placeholder》の五人で使う共有車として扱うことになっている。
チームの名前を決めた夜、悠斗はレオにも短いメッセージを送っていた。
【チーム名、Placeholderに決まりました】
返ってきたのは、
【了解】
の一言だけだった。
それでも、自分たちの名前を初めて外の人間へ伝えた瞬間だったこともあり、送信ボタンを押す時には妙に緊張したのを覚えている。
「ナナは?」
アキラが周囲を見回した。
「もう着くって」
悠斗が答えた直後、スマートフォンが震えた。
【着いた】
顔を上げると、道路の反対側でナナがこちらへ手を振っている。
車が途切れるのを待ってから横断してきたナナを、シオンが無表情で迎えた。
「二分遅い」
「二分は誤差でしょ」
「遅れは遅れ」
「シオンってこういうところだけ細かいよね」
「こういうところ以外も細かい」
「自分で言うんだ」
蓮が笑う。
五人揃ったところで、ガレージへ向かった。
◇
「来たか」
シャッター脇の入口から中へ入ると、奥で作業していたメカニックが顔を上げた。
油と金属の匂いが混じった空気の中に、工具が触れ合う乾いた音が響いている。
「できてるぞ」
そう言って顎で示された先を見て、蓮が真っ先に足を止めた。
「おお……」
悠斗も、その横で思わず目を見開いた。
一台のスポーツセダンが置かれている。
元がアキラの灰色の車だと知っているから分かる。
だが、知らずに見れば同じ車だとはすぐには気づかなかったかもしれない。
以前の灰色は消え、車体は艶のある黒へ変わっていた。
前後の外装にも手が加えられ、横から見た時の印象も少し違う。派手すぎる改造ではないが、灰色だった頃よりも引き締まって見え、全体の雰囲気は明らかに変わっていた。
「すげえな」
アキラがゆっくり車の周りを歩く。
以前まで乗っていた本人だからこそ、変化がよく分かるのだろう。
「本当に別物っぽくなるんだな」
「見た目だけで中身まで別の車になったと思うなよ」
メカニックが言った。
「調子に乗って無茶すりゃ普通に壊れる」
「分かってますって」
アキラが笑う。
その横では、蓮がすでに運転席の窓から中を覗き込んでいた。
「内装はほとんどそのままだな」
「必要ねえところまで触ったら、その分金取るぞ」
「そのままで最高です」
蓮が即答した。
今の《Placeholder》に余計な出費を増やす余裕はない。
質屋から持ち出した金と品物の大半は、この車を残すために消えた。
それでも、こうして完成した姿を見ると、悠斗には損をしたという感覚はなかった。
「ほら」
メカニックが鍵を放る。
近くにいたアキラが反射的に受け取った。
だが、掌に落ちた鍵を見たあと、少し考えるように眉を寄せる。
「……これ、俺が持ってない方がいいよな」
蓮もすぐに意味を察した。
「まあ、その方がいいかもな」
車体の色も外装も変わった。
それでも、以前この車を日常的に使っていたのはアキラだ。
共有車になった以上、これまでと同じようにアキラが鍵を持ち、いつも運転する必要はない。
「じゃあ誰が持つ?」
ナナが尋ねた。
短い沈黙のあと、アキラが悠斗へ鍵を差し出した。
「悠斗でいいんじゃない?」
「俺?」
「管理するだけだし。お前なら勝手に持っていくこともなさそう」
蓮が笑う。
「それは俺も賛成」
「なんか俺、面白みがないって言われてる気がするんだけど」
「信用されてるんだよ」
ナナが言った。
シオンも頷く。
「問題ない」
四人の視線を受け、悠斗は差し出された鍵を手に取った。
小さな金属の重みが掌に乗る。
「じゃあ、俺が預かる」
「使う時はグループで一言?」
ナナが聞く。
「うん。誰が使ってるか分かった方がいいし」
悠斗は鍵を握りながら続ける。
「仕事で使った燃料とか必要な分はプール金。個人的に使うなら自分で払う。それでいい?」
「いいんじゃない?」
アキラが頷いた。
「壊したら?」
蓮が尋ねる。
「使ってた奴」
シオンが即答する。
「それは事故の内容にもよるだろ」
アキラが苦笑した。
「普通に故障することだってあるし」
「じゃあ、その時にみんなで決めればいいと思う」
悠斗が言った。
「今から全部決めても、多分想像してないこと起きるし」
「それでいいと思う」
ナナも同意した。
まだ五人しかいない。
何かあれば全員で集まり、話せばいい。
今の自分たちには、それくらいの決め方がちょうどよかった。
悠斗は鍵をポケットへしまった。
その何気ない動作なのに、胸の奥に静かな嬉しさが広がっていく。
生前、画面の向こうで見ていたギャングたちは、当たり前のように仲間の車へ乗り込んでいた。
誰かが運転し、誰かが助手席に座り、後ろでは別の誰かがくだらない話をしている。
悠斗にとっては、派手な強盗や高級車よりも、そんな光景の方がずっと眩しかった。
「で」
蓮が黒いスポーツセダンへ視線を戻す。
「鍵の管理が悠斗なのはいいとして、最初に運転するの誰?」
アキラが何か言うより早く、蓮が自分を指差した。
「俺だろ」
「聞いた意味ある?」
ナナが笑う。
「運転担当ですから」
蓮は妙に堂々としている。
悠斗はポケットから鍵を取り出し、蓮へ差し出した。
「じゃあお願い」
「はいはい。じゃあ、ここから俺の仕事な」
受け取った蓮が楽しそうに運転席へ向かう。
アキラはその後ろ姿を見て、少しだけ名残惜しそうに黒い車体へ目を向けたものの、すぐに笑った。
「俺、助手席」
「さっきまで自分の車だったから?」
ナナが聞く。
「最後くらいいいだろ」
「もう売って一週間くらい経ってるけど」
「細かいな」
結局、蓮が運転席、アキラが助手席へ座った。
悠斗、シオン、ナナの三人が後部座席へ乗り込む。
三人並ぶと、後ろはそれなりに狭かった。
「どこ行く?」
蓮がミラー越しに聞く。
「飯」
アキラが答える。
「店は?」
「今から決める」
「何も決まってないじゃん」
ナナが笑った。
蓮がエンジンをかける。
低い音とともに車体が小さく震え、ガレージの中へ排気音が響いた。
悠斗はシートへ身体を預けた。
横にはシオンとナナ。
前には蓮とアキラ。
五人が一台の車へ詰め込まれている。
少し狭い。
けれど、その窮屈ささえ悪くなかった。
◇
結局、五人が入ったのは南部のハンバーガーショップだった。
昼の混雑が落ち着いた時間で、窓際の大きなテーブルにも空きがある。
注文したハンバーガーやポテト、炭酸飲料を並べ、五人は特に目的もないまま話していた。
「なあ」
蓮がポテトを一本つまむ。
「車にも名前つける?」
「いらない」
シオンが即答した。
「早いって」
「どうせ変なの付ける」
「まだ候補すら出してないじゃん」
「出さなくていい」
ナナが吹き出した。
「チーム名決めたばっかりなのに、次は車の名前って、急にそういう集団っぽくなってきたね」
「もうそういう集団じゃない?」
アキラがハンバーガーの包み紙を折りながら言う。
「プール金あって、共有車あって、仕事も一緒にしてるんだぞ」
「言われると否定できない」
悠斗も笑った。
その時、テーブルに置いていたスマートフォンが短く震えた。
画面を見る。
知らない番号だった。
悠斗の指が、わずかに止まる。
「電話?」
アキラが気づいた。
「うん。知らない番号」
「出ないの?」
「出る」
口ではそう答えたものの、胸の奥にはいつもの小さな抵抗が残っていた。
知らない相手からの電話。
生前なら、画面を見つめたまま鳴り終わるのを待っていたかもしれない。
ただ、今朝レオから一通のメッセージが届いていた。
【お前らに仕事を頼みたい奴がいる。番号渡していいか】
悠斗は少し迷った末、
【大丈夫です】
と返している。
だから、おそらくその相手だ。
悠斗は席を少し離れ、店内の邪魔にならない場所まで移動すると通話ボタンを押した。
「はい」
『神谷悠斗か?』
男の声だった。
「そうです」
『レオから番号を聞いた』
予想していた通りだった。
「聞いてます」
『なら話は早い』
一度、短い間が空く。
『Placeholderで合ってるか?』
悠斗はすぐには答えなかった。
ほんの数日前まで、この世になかった名前だった。
ナナが思いつき、五人で決めた仮の名前。
まだ色もない。
縄張りもない。
拠点もない。
正式なギャングでもない。
それでも、自分たち以外の人間が初めてその名前を口にした。
妙な感覚だった。
嬉しいとも、照れくさいとも少し違う。
自分たちが本当に一つの集まりとして、外から認識されたような気がした。
「……はい」
悠斗は窓際の席へ目を向ける。
蓮がこちらを気にしながらポテトを食べている。
ナナとアキラも時々こちらを見ていた。
シオンは相変わらず静かにハンバーガーを食べている。
店の外には、黒く姿を変えたばかりの共有車が停まっていた。
悠斗はスマートフォンを持ち直した。
「俺たちがPlaceholderです」
『分かった』
男の声が少し低くなる。
『頼みたい仕事がある』
ついこの間まで、周囲からはただ「悠斗たち」と呼ばれていた。
それが今日、初めて名前で仕事を頼まれた。
「内容、聞かせてください」
悠斗はそう答えた。
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