第2章 第59話 逃げても残るもの
サイレンが、すぐ後ろまで迫っていた。
灰色のスポーツセダンの車内には、エンジン音とタイヤが路面を噛む音、それに遠くなったり近づいたりする警察車両のサイレンが入り混じっている。
蓮はバックミラーを一度だけ確認した。
「二台。まだ付いてきてる」
声は普段と変わらず軽い。
だが、ハンドルを握る手には力が入っていた。
後部座席の悠斗が振り返る。
夜の道路を染める赤と青の警告灯が、確かに二つ見えた。
店の前では距離を取っていた警察も、人質が解放された今は遠慮する理由がない。
逃げる自分たち。
追う警察。
関係が一気に単純になった。
「増えるかな」
アキラが後ろを見ながら言った。
「そりゃ増えるでしょ」
蓮が答える。
「嫌なこと普通に言うなよ」
「じゃあ減るって言えば減る?」
「減ってほしい」
「俺も」
そんな会話をしながらも、蓮の目はほとんど前から動かない。
南部の夜道には、まだ一般車両が多かった。
仕事帰りらしいセダン。
配送用のバン。
古びたピックアップトラック。
背後から迫るサイレンに気づいた車が次々と道路脇へ寄っていく。
灰色のスポーツセダンは、その流れの中を進んでいた。
悠斗の足元には、質店から持ち出したバッグがある。
現金と、いくつかの貴金属。
あれだけの騒ぎを起こして手に入れた物なのに、今は中身を確認する余裕すらなかった。
バッグがカーブのたびに足元でずれ、悠斗は靴で押さえる。
「右、詰まってる」
蓮が言った。
前方の交差点には、信号待ちの車列が伸びている。
蓮はすぐに空いている側へ車を向けた。
悠斗たちは何も指示しない。
もう、運転中の判断を誰に任せるべきかは分かっていた。
車体が大きく揺れ、悠斗の肩がドアへ当たる。
「っ……」
「悪い!」
「大丈夫!」
アキラも助手席側へ身体を振られながら、窓の外を見た。
「後ろ、まだいる」
「分かってる」
蓮が短く返す。
シオンは後部座席から後方を確認し続けている。
「二台。少し離れた」
「そのまま離れてくれればいいけどな」
アキラが呟く。
「多分そう簡単じゃない」
シオンの返事は淡々としていた。
その予想は、すぐに当たった。
◇
南部の古い商店街を抜ける頃には、遠くにもう一つ赤と青の光が見えるようになっていた。
「増えた」
シオンが言う。
アキラが振り返る。
「三台?」
「多分」
「ほら増えた」
蓮が言った。
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくないって」
蓮はそう返しながら、前方へ目を細めた。
交差点の先からもサイレンが聞こえる。
こちらへ向かっているのか、それとも別の事件なのかは分からない。
だが、わざわざ確かめに行く必要はない。
蓮は迷わず別の通りへ車を向けた。
悠斗はその横顔を見た。
自分だったら、一瞬考えていたかもしれない。
前へ行くか。
曲がるか。
戻るか。
迷っている間にも状況は変わる。
蓮は違った。
見て、決めて、動かす。
それが今の自分より上手い。
だから任せる。
以前なら、自分も何か言わなければと思っていたかもしれない。
今は、黙って任せられた。
それだけでも、少し前とは違う。
◇
車は南部から工業地帯へ入った。
街灯の間隔が少し広くなり、道路沿いには大きな倉庫や物流施設が並ぶ。
夜でも完全には眠らない地区だ。
大型トラックが行き交い、搬入口では作業灯が白く地面を照らしている。
交通量は市街地より少ない。
その代わり、遠くの警告灯がよく見えた。
「後ろ、三台」
シオンが報告する。
蓮が小さく息を吐いた。
「しつこいなあ」
「仕事だからな」
「それ言われると何も言えない」
アキラが苦笑する。
次の交差点へ近づいたところで、前方にも警察車両の明かりが見えた。
さっきより近い。
「前にもいる」
アキラの声から軽さが消える。
「見えてる」
蓮もすぐに答えた。
後ろから三台。
前にも一台。
完全な包囲ではない。
だが、走れる方向は少しずつ減らされている。
警察も、ただ後ろを追いかけているだけではなかった。
悠斗の背中に冷たい汗が滲む。
蓮がハンドルを切った。
灰色のスポーツセダンが大きく進路を変える。
身体が横へ持っていかれ、シートベルトが胸へ食い込んだ。
足元のバッグが滑る。
悠斗は慌てて押さえた。
「うわっ」
アキラがドアへ肩をぶつける。
「痛っ!」
「ごめん!」
「逃げ切ったら文句言う!」
「じゃあ逃げ切らないと聞かなくて済むな」
「それは困る!」
思わず悠斗の口元が緩む。
状況はまったく笑えない。
それでも、こんな時にいつもの軽口が聞こえるだけで、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
◇
工業地帯をさらに進む。
大型車両が多い道路へ入ると、追跡の距離が少しずつ変わり始めた。
警察車両も一般車を無理に押し退けることはできない。
一度離れたと思えば、広い道路へ出たところでまた警告灯が見える。
完全には切れない。
蓮も焦って無茶に速度を上げることはしなかった。
前方の車。
交差点。
横から入ってくる車両。
そのたびに細かく速度を変える。
悠斗には、何が正解なのか分からない。
ただ、蓮が闇雲に走っていないことだけは分かった。
「右から一台来る」
シオンが後ろを見ながら言う。
「警察?」
「多分」
「ほんと包んでくるな」
蓮の声に、初めて少し苛立ちが混じった。
警察側もこちらの進行方向を共有しているのだろう。
後ろだけ気にしていればいい状況ではなくなっていた。
「このままだと、そのうち囲まれる?」
アキラが尋ねる。
「可能性はある」
シオンが答える。
「じゃあ、もうちょい頑張るか」
蓮がハンドルを握り直した。
「その言い方で何とかなる気がしない」
「俺も何とかなるって保証してないし」
「怖いこと言うなよ」
車内の空気は軽くならない。
けれど、誰も取り乱してはいなかった。
少なくとも、店を囲まれた直後よりはずっとましだった。
◇
追跡が続くうちに、後方の警告灯が少し遠ざかった。
大型トラックが何台か連なる区間へ入り、警察側も距離を詰められなくなったらしい。
蓮はそこで一気に何かを仕掛けるようなことはせず、ただ前の流れに合わせて走り続けた。
しばらくして、シオンが後方へ目を凝らす。
「……一台しか見えない」
アキラがすぐ振り返る。
「さっき三台いたよな?」
「いるかもしれない。今は見えないだけ」
「だよな」
誰も喜ばなかった。
見えなくなったことと、諦めたことは同じではない。
さらに走る。
後ろの一台も、少しずつ小さくなっていった。
遠くで赤と青の光が揺れ、やがて倉庫の角に隠れる。
それでも蓮は速度を緩めない。
「まだ?」
アキラが聞く。
「まだ」
蓮の返事は短かった。
少しして、シオンがもう一度確認する。
「見えない」
「音は?」
悠斗が聞く。
「聞こえない」
全員が黙る。
窓の外から聞こえるのは、エンジン音と風の音だけ。
あれほど近かったサイレンが消えている。
蓮はさらにしばらく走ってから、ようやく肩の力を少し抜いた。
「……とりあえず、今は離れた」
アキラが大きく息を吐く。
「疲れた……」
「まだ終わってない」
シオンが言う。
「分かってるって」
そう答えたアキラだったが、声には明らかに安堵が混じっていた。
悠斗も背中をシートへ預ける。
身体のあちこちが妙に痛い。
緊張していたせいか、指先にも力が入りっぱなしだった。
足元を見る。
バッグはまだある。
中身も持ち出せた。
全員いる。
撃たれてもいない。
逮捕もされていない。
結果だけ見れば、強盗は成功したと言えるのかもしれない。
だが、悠斗にはそんな気分になれなかった。
◇
「……なあ」
アキラが不意に口を開いた。
誰も返事を急がない。
「これ、俺の車なんだよな」
車内が静かになった。
蓮が前を向いたまま答える。
「そうだな」
「ナンバーは隠したんだよな?」
「戻った時にやってる」
「なら、すぐ俺まで来るってことはないか」
アキラはそう言ったものの、声は晴れなかった。
悠斗も同じだった。
ナンバーを見られていないとしても、問題が消えたわけではない。
警察はこの車を見ている。
灰色のスポーツセダン。
質店から出てきた三人が乗り込み、そのまま逃げた車。
しかも追跡までされている。
今後この車を普段どおり使えるのか。
少なくとも、何もなかった顔で乗り続けるのは難しい。
「……これ、しばらく使わない方がいいよな」
アキラが言った。
蓮が少し考える。
「だろうな」
「俺、最近あんま乗ってなかったけどさ」
アキラは助手席の内装を見回した。
「別に捨ててもいい車ってわけじゃないんだけど」
冗談めかそうとした声が、途中で弱くなる。
悠斗は何も言えなかった。
この車を使うと決めた時、自分も賛成した。
自分の銀色のセダンはすでに警察に知られている。
蓮の青いクーペは目立つ。
だからこの車を使った。
理屈はあった。
それでも、作戦の結果としてアキラの私物が使いにくくなったのは事実だった。
「車の分……どうする?」
悠斗が言った。
アキラが振り返る。
「どうするって?」
「今回の金、まだ数えてないけど」
悠斗は足元のバッグを見る。
「アキラだけ損するのは違うと思う」
蓮も少しだけ横目を向けた。
シオンは黙って聞いている。
「いや、別に今すぐ金くれって話じゃないけど」
アキラが言う。
「でも、これからも誰かの車を使うなら決めといた方がいいよな」
その言葉に、悠斗は頷いた。
これまで何度も話してきた。
プール金。
共同の車。
誰が何に金を出すのか。
誰かが先に払った費用をどうするのか。
その時は、どこか数字の話だった。
今は違う。
実際に一台の車が、普段使いしにくくなった。
「共同の車、やっぱ必要だな」
蓮が言った。
「買えるならな」
アキラが苦笑する。
「今、プール金二百二十ドルだっけ」
「そう」
「全然足りねえ」
「それは前から」
蓮が即答すると、アキラがため息をついた。
「知ってるよ」
悠斗は足元のバッグを見た。
中にいくら入っているのか。
どれだけを四人で分けるのか。
車の損失をどう考えるのか。
プール金へ入れるのか。
まだ何も決まっていない。
強盗が終われば金を分けて終わり。
そんな単純な話ではなかった。
◇
灰色のスポーツセダンは、静かな道路を走り続ける。
もう後ろに警告灯は見えない。
サイレンも聞こえない。
それでも、さっきまで追われていた感覚が身体から抜けきらない。
アキラが窓の外を見ながら呟いた。
「逃げ切ったのに、全然すっきりしないな」
「俺も」
悠斗は答えた。
質店からは出られた。
警察からも離れた。
店主も解放した。
現金も貴金属も手元にある。
それでも問題は残った。
警察に見られた車。
その車を出したアキラの損失。
今回の利益をどう扱うのか。
次に同じことをするなら、何を変えるべきなのか。
半グレ仲間として集まっているだけなら、それぞれが自分の物を出して、その場でどうにかすればいい。
けれど、今の四人はもう、それだけでは済まなくなり始めていた。
悠斗は窓の外へ目を向ける。
夜の工業地帯の光が、一定の間隔で車内を照らしては消えていく。
逃げ切ったことで終わるはずだった夜は、いつの間にか次の問題を残していた。
そしてその問題は、警察よりも先に、自分たちで向き合わなければならないものだった。
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