第2章 第58話 店の外へ
ベルが鳴った。
普段なら客の出入りを知らせるだけの軽い音が、今の悠斗にはやけに大きく聞こえた。
ゆっくり開いた質店のドアの向こうには、赤と青の光に染まった夜の通りが広がっている。
道路には複数の警察車両。そのさらに向こうには制服姿の警官たちが立ち、閉店した店のシャッターや建物の壁にも警告灯の色が絶え間なく流れていた。
店内から眺めていた時とは違う。
一歩外へ出ただけで、自分たちへ向けられている視線の多さが分かる。
悠斗の足がわずかに重くなった。
怖くないわけがない。
ここにはゲーム画面も配信コメントもない。
自分が、この場に立っている。
目出し帽の奥で息を整え、悠斗は足を前へ出した。
先頭を歩くのはアキラ。
その後ろに店主が続き、悠斗とシオンが少し位置をずらして歩く。
誰も走らない。
店主も黙っている。
店内で一度怒鳴ったあと、シオンから大声を出さないよう釘を刺されていた。顔には怒りも恐怖も残っていたが、今は唇を固く結んでいる。
外から拡声器を通した男の声が響いた。
『そのままゆっくり動いてくれ! こちらから急に近づくつもりはない!』
「そっちも動くな!」
アキラが声を返す。
普段の軽い調子は消えていた。
強く言ってはいるが、声の奥に残る緊張までは隠せていない。
悠斗は正面を見る。
店の近くにいた警官たちは、先ほどまでより明らかに距離を取っていた。
しかし、消えたわけではない。
少し横へ視線を向ければ、別の通りにも警官の姿がある。さらに先にも人影が見えた。
警察は包囲を解いていない。
店主が自分たちのそばにいるから、無理に距離を詰めてこないだけだ。
外へ出たことで、その違いが嫌というほど分かった。
◇
一つ通りを隔てた場所。
灰色のスポーツセダンの運転席で、蓮は身体を低くしていた。
野次馬に紛れて警察の動きを見ていた時は素顔だった。
そのまま車へ戻ってきた以上、今ここで不用意に顔を晒すわけにはいかない。
蓮はシートへ深く沈み、上半身を少し前へ倒していた。
外から覗かれても顔が見えにくいよう、フロントガラスの下へ身体を隠すような姿勢を取っている。
エンジンもまだかけていない。
手元でスマートフォンが震えた。
【外出た】
アキラからだった。
蓮は画面を確認する。
【了解】
【こっちはそのまま】
送信すると、再び身体を低くした。
ここからでは質店そのものは見えない。
さっきまでなら外の状況を自分の目で確認できた。
今は、待つしかない。
「ちゃんと来いよ」
静かな車内で、小さく呟いた。
◇
悠斗たちはゆっくりと通りを進んでいた。
数十歩しかないはずなのに、一歩ごとがやけに長く感じる。
正面の警官。
横の通りにいる警官。
離れた場所に停まる警察車両。
誰もこちらへ駆け寄ってはこない。
だが、悠斗たちが進むたびに、警察側も一定の距離を保ちながら少しずつ位置を変えている。
完全に止まって待っているわけではなかった。
逃がすつもりなどない。
今は店主がいるから強引に来ない。
それだけだ。
悠斗は唾を飲み込んだ。
前世では、似た光景を何度も見た。
人質を連れて店から出る犯人。
距離を取る警察。
逃走車までの短い移動。
画面越しなら、誰の動きが上手いだとか、警察がどこで仕掛けるだとか、好き勝手に考えられた。
今は違う。
一つ判断を間違えれば、自分たちだけでは済まない。
すぐ隣を歩いている店主まで巻き込む。
「……おい」
店主が小さな声で言った。
悠斗が横目を向ける。
「本当に放すんだろうな」
「放します」
「さっきからそればっかりだな」
声には怒りがあった。
けれど、それ以上に恐怖が滲んでいる。
足取りも一定ではない。
警察の姿が目に入るたび、そちらへ走りたい気持ちを無理に抑えているのが分かった。
悠斗は胸の奥が重くなるのを感じた。
この男をここまで連れてきているのは自分たちだ。
「もう少しだけです」
店主は悠斗を睨んだ。
それでも大声は出さなかった。
◇
角が近づいてきた。
その先に、灰色のスポーツセダンを停めてある通りがある。
アキラが歩きながらスマートフォンを確認した。
【もうすぐそっち】
【準備して】
◇
車内で身体を伏せていた蓮のスマートフォンが震えた。
画面を確認する。
【もうすぐそっち】
【準備して】
「来たか」
短く呟き、蓮は助手席に置いていた目出し帽へ手を伸ばした。
身体はまだ起こさない。
外から顔を見られないよう低い姿勢のまま帽子を被り、目元だけを出す。
【了解】
返信する。
それからハンドルの陰に身体を隠したまま、通りの向こうへ視線を向けた。
◇
警察の拡声器が再び響いた。
『店主の安全を確認したい! 怪我はないな?』
「怪我はない!」
『そのまま話を続けてくれ! こちらも距離は保つ!』
「だったらそのまま来るな!」
アキラの声が夜の通りへ響く。
悠斗は周囲を見る。
正面側の警官は距離を取ったままだ。
横にもまだいる。
そのうち何人かは、悠斗たちが進むのに合わせて位置を変えていた。
近づいてはいない。
だが、離れてもいない。
「まだいるな」
シオンが小さく言う。
「うん」
悠斗も声を落とした。
このまま車へ辿り着けても、それだけで逃げ切れるわけではない。
それでも今は、そこまで進むしかなかった。
角を曲がる。
灰色のスポーツセダンが見えた。
悠斗の心臓が強く鳴った。
運転席には人影がある。
だが、蓮は身体を低くしているため、顔まではほとんど見えない。
周囲に警察車両はいない。
一方で、少し離れた場所にはこちらを見ている警官の姿が残っていた。
この車を警察に見られないまま逃げることは、もうできない。
悠斗の頭を嫌な考えがよぎる。
灰色のスポーツセダンは、アキラの車だ。
今夜を切り抜けても、あとで問題になるかもしれない。
しかし、それを考えるのは今ではない。
「もう少し」
アキラが小さく言った。
◇
車内から悠斗たちの姿を確認した蓮は、そこで初めて身体を起こした。
すでに目出し帽は被っている。
目元だけを出した状態で運転席へ座り直し、ハンドルへ両手を置いた。
悠斗。
アキラ。
シオン。
その間にいる店主。
全員がこちらへ近づいてくる。
蓮はキーへ手をかけた。
まだエンジンは始動させない。
◇
灰色のスポーツセダンまで、あと数歩。
店主の足が止まった。
「ここか?」
悠斗も足を止める。
警察の視線がこちらへ集まっている。
ここで余計な時間をかける方が危ない。
「ここまでです」
店主が目を見開いた。
「……本当に?」
「行ってください」
悠斗が警察のいる方向を示した。
「もう大丈夫です」
店主はすぐには動かなかった。
悠斗。
アキラ。
シオン。
三人を順番に見る。
解放されたことを信じ切れていないようだった。
「早く」
シオンが低く言う。
店主の肩が跳ねた。
次の瞬間、男は悠斗たちから離れた。
最初の数歩は恐る恐る。
それから一気に走り出す。
警察のいる方へ全力で駆けていく。
遠くから警官の声が上がった。
「人質が離れた!」
空気が変わった。
それまで悠斗たちと一定の距離を保っていた警官たちが、一斉に動き始める。
「乗れ!」
アキラが叫んだ。
同時に、蓮がエンジンをかける。
灰色のスポーツセダンが低く唸った。
後部ドアが開く。
悠斗が飛び込む。
続いてシオン。
アキラも反対側から滑り込んだ。
最後のドアが閉まる。
「全員いる?」
目出し帽姿の蓮が前を向いたまま聞いた。
「いる!」
「店主は?」
「放した!」
「了解!」
蓮が車を出した。
◇
悠斗はすぐに後ろを振り返った。
解放された店主のもとへ、何人もの警官が駆け寄っている。
その一方で、別の警官たちはすでにこちらへ動き始めていた。
警察車両の警告灯が点き、次々と道路へ出てくる。
店主が自分たちのそばにいる間は待った。
離れた瞬間、追う。
当たり前の動きだった。
「来るぞ」
シオンが後ろを見たまま言う。
アキラも振り返る。
「やっぱ追ってくるよな」
「そりゃ来るでしょ」
蓮が答えた。
声音は普段と変わらず軽い。
けれど、ハンドルを握る手にはしっかり力が入っている。
悠斗も後方を見る。
赤と青の光が動き始めていた。
一台。
さらに、その後ろからもう一台。
サイレンが鳴る。
今度は包囲のための音ではない。
はっきりと自分たちを追う音だった。
「撃ち合いにはしたくない」
シオンが言う。
「うん」
悠斗は頷いた。
店主は解放した。
警察へも撃っていない。
ここからは逃げるだけだ。
蓮がバックミラーを見る。
「で、どっち行く?」
悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
こういう時、前世で見ていた知識が頭をよぎる。
だが、今の道路状況も、警察の数も、追ってくる方向も、画面越しに見ていた時と同じではない。
「……任せる。運転は一番うまいだろ」
蓮が口元だけで笑った。
「はいはい。じゃあ、ここから俺の仕事な」
その返しに、悠斗の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
完全に安心したわけではない。
むしろ、別の問題は増えている。
警察には灰色のスポーツセダンを見られた。
この車が誰のものなのかまで調べられれば、あとで面倒なことになる可能性が高い。
それでも、今考えるべきなのは一つだった。
まず逃げ切る。
蓮が前を見据える。
後ろではサイレンが近づいていた。
赤と青の光が、灰色のスポーツセダンの後方を照らす。
店から出るための交渉は終わった。
ここからは、四人全員で逃げなければならなかった。
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