第2章 第57話 条件を出す側
質店の外では、赤と青の光が夜の商店街を断続的に染めていた。
少し前まで聞こえていたのは、コインランドリーの乾燥機が回る低い音と、時折通りを抜けていく車のエンジン音くらいだった。
今は違う。
複数の警察車両が通りへ入り、離れた位置には制服姿の警官が見える。建物の壁や閉じたシャッターには警告灯の色が反射し、質店のガラスにも赤と青が交互に滲んでいた。
「……次、どうする?」
アキラが声を落として聞いた。
さっきまで外へ声を張っていたせいか、少し喉が掠れている。
普段なら初対面の相手とも平気で話せる男だ。それでも、警察に囲まれた強盗現場での交渉は初めてだった。
◇
その頃、蓮は一つ通りを隔てた場所に停めてある灰色のスポーツセダンをそのまま残し、徒歩で質店の近くまで戻っていた。
警察車両が集まり始めた以上、車ごと近づくつもりはない。
通りには、すでに騒ぎを聞きつけた人間が増えていた。
少し離れた場所からスマートフォンを向ける者。
何が起きたのかと近くの人間へ尋ねる者。
警察に近づきすぎて注意され、渋々後ろへ下がる者。
蓮はその中へ自然に紛れた。
「まだ犯人、中にいるらしいぞ」
「店の人も出てきてないって」
「じゃあ人質か?」
周囲からそんな声が聞こえる。
蓮も他の野次馬と同じように質店へ目を向けた。
店内の声までは聞こえない。
だが、拡声器を通した警察官の声なら、ここからでも十分に届く。
何を確認し、何を要求しているのか。
そこから交渉の流れを大まかに察することはできる。
それ以上に、蓮には外からしか見えないものがあった。
正面には警察車両。
制服姿の警官も何人か見える。
さらに視線を横へ移せば、店内からは死角になる通りにも警官の姿があった。
蓮はスマートフォンを取り出した。
【車はそのまま置いてる】
【野次馬に紛れて近くで見てる】
◇
店内で、アキラのスマートフォンが震えた。
蓮からだった。
画面を確認したアキラが悠斗たちへ見せる。
「外、見てくれてる」
そのまますぐに返信する。
【外はどんな状況?】
返事はすぐだった。
【そっちからは見えてないと思うけど】
【横の通りにも警察はいる】
アキラが画面を見せる。
「横にもいるって」
シオンが入口の方へ視線を向けた。
店内から見えるのは正面付近だけだ。
「やっぱり、見えてるところだけじゃないな」
悠斗が頷く。
「そのまま外を見てもらおう」
アキラが続けて送った。
【見える範囲で教えて】
【無理には近づくなよ】
【了解】
【動いたら送る】
返事はすぐに来た。
「これだけでもだいぶ違うな」
アキラが小さく息を吐く。
「うん」
自分たちだけなら、ガラス越しに見える範囲だけで判断するしかなかった。
外に一人いる。
それだけで、分かることが増える。
◇
「俺はどうなる」
低い声がして、三人が振り向いた。
カウンターの奥にいる店主が、険しい顔でこちらを見ていた。
「お前らが逃げる時、俺も連れていくのか?」
悠斗はすぐには答えられなかった。
最初から人質を取るつもりで入ったわけではない。
金を取って、すぐに出る。
そのはずだった。
だが警察に囲まれた今、この男が店内にいるからこそ、外も簡単には踏み込んでこない。
今すぐ解放すれば、それだけ自分たちが不利になる。
「……店を出るまでは、一緒に来てもらいます」
悠斗が答えた。
店主の表情がさらに険しくなる。
「人質ってことか」
否定できなかった。
「俺たちが逃げられるところまでは、一緒に来てもらいます」
「信用しろって?」
「できないと思います」
悠斗は目を逸らさなかった。
「でも、傷つけるつもりはありません」
「だったら今帰せよ!」
店主の怒鳴り声が店内に響いた。
悠斗の肩が僅かに跳ねる。
今の声は、外まで届いたかもしれない。
店主がさらに何か言おうと息を吸った瞬間、シオンが低い声で止めた。
「大声は出さないで」
怒鳴ってはいない。
それでも、その一言で店主の動きが止まる。
「外に何か伝えようとするのもやめて。こっちも余計なことはしたくない」
店主はシオンを睨み返した。
「……脅してんのか?」
「そう聞こえるなら、それでいい」
淡々とした声だった。
悠斗は何も言えなかった。
傷つけたいわけではない。
けれど、好きに叫ばせるわけにもいかない。
自分たちはもう、この男を自由に帰せない側にいる。
「……今は帰せません」
悠斗が改めて告げる。
口にすると、自分勝手さがよく分かった。
それでも、ここで解放すれば自分たちは一気に追い詰められる。
アキラが悠斗を見る。
「車の近くまで一緒に来てもらって、俺たちが乗る時に放す感じでいい?」
「うん」
シオンも静かに頷いた。
「それが一番ましだと思う」
店主は三人を睨んだまま言う。
「絶対に放せよ」
「はい」
悠斗は即答した。
そこだけは迷わなかった。
◇
外から拡声器を通した男の声が響いた。
『店内。話を続けたい』
アキラが大きく息を吸う。
「聞こえてる!」
『まず店主の状態を確認したい。無事か?』
「無事だ! 怪我もしてない!」
『本人を外へ出すことはできるか?』
アキラが悠斗を見る。
悠斗は首を横に振った。
「今は無理だ!」
『理由は?』
一瞬だけアキラの言葉が止まる。
「こっちもこのまま捕まりたくないからだよ!」
かなり直接的だった。
だが、取り繕っても仕方がない。
少し間を置いて、警察側から返事が来る。
『店主の安全は保証できるか?』
アキラはすぐには答えなかった。
「こっちから傷つけたいわけじゃない!」
一度息を吸う。
「ちゃんと話ができてる間は、この人に何かする理由もない!」
『分かった』
男の声は冷静だった。
『そちらの要求を聞く』
アキラが悠斗を見る。
悠斗が小さく頷いた。
アキラは再び外へ声を張る。
「店の前、もう少し下がってくれ!」
『逃走するためか?』
何か言い返しかけて、止まる。
アキラは短く息を整えた。
「このままじゃ店から出ること自体できない!」
『こちらも武装した人間を自由に帰すことはできない』
「全部いなくなれって言ってるんじゃない!」
声が少し上ずる。
本人も気づいたのか、そこで一度間を置いた。
「出た瞬間に囲まれる距離じゃ、こっちも動けないって言ってる」
警察側から返事が途切れる。
悠斗はガラスの向こうを見る。
正面にいる警官の一人が、少し離れた相手と何か話している。
その時、アキラのスマートフォンが震えた。
【正面まだそのまま】
【横も動いてない】
蓮からだ。
アキラはすぐに、
【了解】
と返した。
「まだ動いてないって」
悠斗は頷く。
少しして、外から再び声が響いた。
『店の正面にいる警官は、ある程度距離を取ることはできる』
アキラの目がわずかに見開かれる。
『ただし、包囲を解くことはできない』
「それでいい!」
『こちらにも条件がある』
アキラが黙る。
『店主に危害を加えないこと。こちらへ発砲しないこと。危険な行動を取らないこと』
シオンが低く言う。
「撃ち合う必要はない」
悠斗も頷いた。
目的は警察と戦うことではない。
ここから出ることだ。
「分かった!」
アキラが外へ返す。
『店主はいつ解放する?』
悠斗は少し考えた。
「俺たちが安全に逃げられるまでは放さない」
アキラが一瞬だけこちらを見る。
それから外へ向き直った。
「俺たちが安全に逃げられるまでは放さない!」
外が一瞬静かになる。
『店主を連れ去るつもりか?』
「そこまでは言ってない!」
アキラがすぐに返した。
「こっちが逃げられる状況になったら放す! それまでは無理だ!」
『具体的な場所や時間は言えない、ということか?』
「そうだ!」
警察側から少し間が空く。
『分かった。店主の安全を最優先に話を続ける』
悠斗は小さく息を吐いた。
いつ放すのか。
どこで放すのか。
そこまで自分たちから教える必要はない。
実際には、灰色のスポーツセダンまで辿り着き、自分たちが乗り込む時に解放するつもりだった。
それは警察には言わない。
◇
野次馬に混じる蓮にも、警察官の声が届いていた。
『具体的な場所や時間は言えない、ということか?』
その問いかけだけでも、店主をまだ解放するつもりがないことは分かる。
蓮は質店の正面へ視線を戻した。
警官たちが動き始めている。
店の近くにいた数人が、ゆっくり距離を取っていく。
一方で、横の通りにいる警官はほとんど動いていない。
蓮はスマートフォンを取り出した。
【正面は下がり始めた】
【横はほぼそのまま】
【まだかなりいる】
送る。
返事はすぐだった。
【了解】
【そのまま見てて】
蓮はスマートフォンを下ろし、再び周囲と同じように質店を眺めた。
店の中で何を話しているのかは分からない。
だから、外から見えるものだけを伝える。
それで十分だった。
◇
「正面は下がり始めたって」
アキラがスマートフォンを見せる。
「横は?」
「ほぼそのまま」
悠斗は眉を寄せた。
正面だけ空いても、横から囲まれれば終わる。
シオンも同じことを考えたらしい。
「そのまま出るのはまだ怖いな」
「うん」
悠斗は少し考える。
「もう一つ言ってみよう」
「何?」
「店を出たあと、すぐには追わないでほしい」
アキラが苦い顔をする。
「通るかな」
「分からない」
「かなり無茶だぞ」
「うん」
それでも、言わなければ何も変わらない。
外から警察の声が響く。
『店内。正面の警官は距離を取った』
蓮の報告とも一致している。
『次の要求を聞く』
アキラが息を吸った。
「俺たちが店を出たあと、すぐには追わないでくれ!」
返事は早かった。
『それは保証できない』
アキラが顔をしかめる。
「こっちが逃げられる状況になるまでは店主を放せない!」
『それは理解している』
「だったら――」
『こちらは警察だ。犯罪者を逃がすと約束することはできない』
アキラが言葉を止める。
当然だった。
悠斗にも分かる。
警察が自分たちを逃がすと約束するはずがない。
『ただし』
男の声が続く。
『店主の安全が確認できるまでは、こちらから状況を悪化させるつもりはない』
アキラが悠斗を見る。
「それ以上は言わないってことだよな」
「多分」
シオンが低く言った。
「完全には退かない」
「うん」
警察は警察の立場を崩さない。
こちらもこちらで捕まりたくない。
全部が思い通りになることはない。
再びスマートフォンが震える。
【横も少し下がった】
【でも完全には空いてない】
「横も少し動いたって」
悠斗はガラス越しに外を見る。
完全ではない。
けれど、何も変わっていなかった少し前よりはましだった。
「出る準備する?」
アキラが聞く。
悠斗はすぐには頷かなかった。
店主を見る。
男は不安そうに三人を見ている。
「本当に逃げられたら放すんだろうな」
「放します」
悠斗は迷わず答えた。
「外に出たら、俺たちの近くにいてください。安全なところまで行けたら、その時は放します」
「途中で逃げたら?」
悠斗は一瞬だけ黙る。
「……途中では逃げないでください」
「命令か?」
「お願いです」
「同じだろ」
言い返せなかった。
店主は深く息を吐く。
「分かったよ。生きて帰れるなら何でもいい」
その言葉が胸に重く残った。
自分たちは、この男にそんなことを言わせている。
悠斗はその事実から目を逸らさなかった。
「これから出るって伝えて」
アキラの表情が変わる。
「本当に行く?」
「ここにいても何も変わらない」
シオンが入口へ視線を向けた。
「出たら戻れない」
「分かってる」
悠斗は答える。
アキラが大きく息を吸った。
スマートフォンを持つ手は、まだ少し震えている。
それでも外へ声を張った。
「これから店を出る!」
通りが静かになる。
『分かった』
警察の声が返る。
『急な動きはしないでくれ』
「そっちもな!」
『話し合った内容は守る』
◇
その声を聞いた蓮は、スマートフォンを取り出した。
店内からの返事は聞こえない。
だが、警察の呼びかけと正面の動きを見れば、交渉が次の段階へ進んだことくらいは分かる。
蓮は短く送った。
【そろそろ出る?】
返事はすぐだった。
【これから出る】
【車戻って】
【まだ近づかないで】
【連絡待って】
【了解】
蓮はスマートフォンをポケットへ入れた。
野次馬の輪から離れる。
急に走れば目立つ。
だから最初は普通に歩いた。
一つ通りを隔てた場所まで戻ると、灰色のスポーツセダンは元の場所にそのまま残っていた。
蓮は運転席へ乗り込み、ハンドルに手を置く。
「頼むぞ」
エンジンをかける。
まだ店には近づかない。
あとは連絡を待つだけだった。
◇
質店の中で、悠斗は目出し帽の奥からゆっくり息を吐いた。
アキラは警察と話した。
シオンは危険を見ている。
蓮は野次馬に紛れ、店内から見えない外の様子を伝えてくれた。
今はもう、車へ戻っている。
自分は、その全部を聞いて決める。
一歩間違えれば全員捕まる。
もっと悪ければ、誰かが撃たれる。
それでも、もうただ慌てているだけではなかった。
「行こう」
悠斗が言った。
シオンが小さく頷く。
アキラは店主を見る。
「悪い。もう少しだけ付き合ってくれ」
店主は何か言い返しかけたが、シオンと目が合うと口を閉じた。
「……終わったら二度と顔見せんな」
「分かってる」
悠斗は入口を見る。
ドアの向こうには警察がいる。
そのさらに先、一つ通りを隔てた場所では、蓮が灰色のスポーツセダンで待っている。
店から車まで。
距離だけなら大したことはない。
今は、その短い道のりがひどく遠く感じた。
警察には、店主をいつ放すのかは伝えていない。
実際には車まで辿り着き、自分たちが乗り込む時に解放する。
そこまで行けるかどうかは、まだ分からない。
交渉で作れたのは、逃げられる保証ではない。
ほんの少しの余地だけだ。
悠斗はドアノブへ手をかける。
ベルの音とともに、質店のドアがゆっくり開き始めた。
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