第2章 第56話 逃げられない店
《OLD JACK》での仕事を終えた翌日の夕方、《仮》では次にどうやって金を稼ぐかという話になっていた。
最近は、以前より向こうから仕事を持ち込まれる機会が増えている。
EMBERから人数として呼ばれたこともあったし、アキラには店と半グレの金銭トラブルへ第三者として立ち会ってほしいという依頼まで来た。
少し前まで仕事を探す側だった自分たちが、誰かから頼られるようになってきた。
それは間違いなく変化だった。
とはいえ、依頼だけで安定して暮らせるほどではない。
悠斗はタクシー会社を辞めさせられ、以前のような定期収入も失っている。共同で使える車を用意したいという話も、資金不足のまま止まっていた。
『蓮:で、俺らの車いつ買う?』
『アキラ:金がない』
『蓮:それは知ってる』
『ナナ:じゃあ聞かないでよ』
『蓮:だから稼ぐんだろ』
安宿のベッドに座っていた悠斗は、画面を見ながら少し笑った。
蓮の言い方は雑だったが、間違ってはいない。
『悠斗:依頼だけ待っててもすぐには貯まらないよね』
『アキラ:久しぶりに俺らで何かやる?』
そこからいくつか候補が出た。
その中に、以前にも一度話題に上がっていた南部の質店があった。
悠斗がタクシー運転手をしていた頃、客を乗せて何度か近くを通ったことがある店だ。半グレになってからも周辺へ行く機会があり、夜になると客足がかなり減ることは知っていた。
銀行ほど大きな相手ではない。
それでも現金や商品を扱っている。
以前にも、自分たちで店を選んで強盗した経験はある。
今回も無理に大きな犯罪へ進むのではなく、今の自分たちで扱える規模から考えることになった。
◇
その日の夜九時過ぎ。
悠斗、蓮、アキラ、シオンの四人は、南部の立体駐車場へ集まっていた。
最上階には湿った夜風が吹き込み、昼間の熱を残したコンクリートをゆっくり冷ましている。低い壁の向こうには古い住宅街の灯りが広がり、そのさらに先には中央地区の高層ビル群が白く浮かんでいた。
駐車場には、見覚えのある灰色のスポーツセダンが停まっている。
アキラが以前、車を一台だけ買うつもりで店へ行ったのに、値段が安かったからと黒いクーペと一緒に二台まとめて買ったうちの一台だ。
最近は黒いクーペを使っていることの方が多く、灰色のスポーツセダンを見かける機会はかなり減っていた。
「今日は灰色の方なんだ」
悠斗が言うと、アキラが鍵を指先で回した。
「最近こっち全然乗ってないし」
蓮が車体を眺める。
「飽きた?」
「ちょっと」
「二台買って片方飽きるの早すぎだろ」
「安かったから買っただけだし」
アキラは悪びれる様子もなく答えた。
「でも、こいつそこそこ走るだろ?」
蓮が運転席側へ回る。
「まあな」
「じゃあ今日使うにはちょうどいいじゃん」
悠斗の銀色のセダンは、以前の逃走で警察に車両情報を見られている可能性が高い。
蓮の青いクーペも、違法レース界隈ではかなり知られている。
アキラの灰色のスポーツセダンも、本人所有である以上、絶対に安全な車ではない。
それでも最近ほとんど使われておらず、普段の足として周囲に強く印象づいている車よりはましだった。
「運転は俺?」
蓮が聞く。
「お願い」
悠斗が答える。
「じゃあ傷増やすなよ」
アキラが言った。
「お前さっき飽きたって言ったよな?」
「飽きたのと雑に扱っていいのは別」
「めんどくさ」
蓮が笑う。
その軽いやり取りに、悠斗も少しだけ肩の力を抜いた。
「で、本当に行く?」
蓮が聞く。
「店を見てから」
悠斗は答えた。
「客が残ってたり、店員が何人もいたらやめる」
「最近ほんと、やめる条件増えたな」
「増えた方がいいだろ」
アキラが言う。
「分かんないこと多いまま突っ込んで、後で困るより」
シオンも小さく頷いた。
「賛成」
以前なら、ここまで来たのだからやるしかない、と考えていたかもしれない。
今は違う。
やめる判断も含めて、自分たちで決める。
「中は俺とアキラとシオン」
悠斗が続ける。
「店の人と話すのはアキラに任せたい」
「了解」
「危なくなったら金は諦める」
シオンが悠斗を見る。
「撃つのは?」
「最後」
「分かった」
それ以上、細かい確認はしなかった。
「じゃあ、見に行こう」
◇
質店のある通りは、夜になるとかなり静かだった。
古い商店が並び、半分以上はすでにシャッターを下ろしている。角のコインランドリーだけが明るく、大型乾燥機の回転する低い音が歩道まで漏れていた。
蓮は灰色のスポーツセダンとともに一本離れた通りへ移動した。
悠斗、アキラ、シオンの三人は店から距離を取り、様子を見る。
客はいない。
カウンターに五十代ほどの男が一人。
しばらく見ても、他の従業員が出てくる様子はなかった。
「一人だな」
アキラが小声で言う。
悠斗は周囲にも視線を向けた。
遠くを歩く会社員。
交差点を通り過ぎる車。
コインランドリーから出てくる男。
完全に人通りがないわけではない。
だが、今のところ不自然なものも見当たらなかった。
「行く?」
シオンが聞く。
悠斗は一度だけ息を吐いた。
「行こう」
三人は少し離れた場所で目出し帽を被った。
布越しの視界がわずかに狭くなる。
服装も、普段よく着ているものではない。
初めてではない。
それでも、この姿になるたびに胸の奥が強く脈打つ。
三人はそのまま質店へ向かった。
◇
ドアベルが鳴った。
店主が顔を上げる。
三人を見た瞬間、その表情が変わった。
アキラが一歩前へ出る。
「騒がないでください。怪我させるつもりはありません」
普段より低い声だった。
悠斗は横で黙っている。
店主が、目元しか見えない三人を順番に見た。
「……強盗か」
「そうです」
アキラが答える。
店主は小さく息を吐いた。
「金なら持ってけ」
予想していたより冷静だった。
怯えていないわけではない。顔は強張っている。
それでも、大声を上げたり無理に抵抗したりはしなかった。
「手だけ見えるところにお願いします」
アキラが続ける。
店主はゆっくり両手を上げる。
その途中、右手が一瞬だけカウンターの下へ落ちた。
悠斗は見逃さなかった。
「今、何しました?」
「何もしてねえ」
返事が早い。
シオンも同じ場所を見ていた。
「手、上げて」
短い声。
店主は無言で両手を見える位置へ戻した。
悠斗の胸に小さな引っかかりが残る。
何かした。
そう思う。
けれど、ここで店主へ詰め寄れば余計に状況を荒らしかねない。
「長くいない方がいい」
シオンが低く言った。
「うん」
悠斗も同意する。
アキラは店主から注意を逸らさず、その場で必要なやり取りを続けた。
その間に、悠斗とシオンは店内の現金や、鍵のかかったショーケースに並ぶ腕時計や装飾品など、金になりそうなものを集めていく。
壁掛け時計の秒針が、妙に大きく聞こえた。
店主はほとんど口を開かない。
時折、三人を睨む。
その目には恐怖だけでなく、はっきりと怒りもあった。
当然だった。
自分たちはこの男の店へ押し入り、目の前で金と商品を奪っている。
こちらに必要以上に傷つけるつもりがないとしても、店主にとってそんな事情は何の慰めにもならない。
◇
同じ頃。
質店から少し離れた交差点の裏手へ、一台の警察車両が静かに入っていた。
サイレンも鳴らしていない。
警告灯も使っていない。
店主からの通報を受けた時、偶然近くを巡回していた車両だった。
しかし、二人の警察官はそのまま質店の正面へ向かわなかった。
まだ店内に強盗犯がいる可能性が高い。
一台だけで存在を知らせれば、そのまま逃走されるかもしれない。
警察車両は建物に遮られる場所へ停まり、警官たちは応援を待ちながら状況を確認していた。
一本離れた通りで灰色のスポーツセダンに乗って待つ蓮からも、その位置は見えない。
警察が蓮の存在を把握していたわけではない。
店を刺激しないために選んだ場所が、結果として蓮の視界からも外れていた。
蓮は何も知らないまま、運転席でスマートフォンを確認している。
店内の悠斗たちも、すぐ近くまで警察が来ていることには気づいていなかった。
◇
悠斗は集めたものを確認すると、それ以上欲張るのをやめた。
「もういい。出よう」
アキラが頷く。
「外に連絡する」
ここに留まる理由はない。
あとは店を出て、待機している車と合流するだけだった。
アキラがスマートフォンへ手を伸ばした、その時。
すぐ近くで、突然サイレンが鳴った。
「――っ」
三人の身体が同時に固まる。
遠くから近づいてきた音ではない。
最初から近くにいたとしか思えない距離だった。
「近っ……」
アキラが入口を見る。
シオンがすぐにドア脇へ寄り、外を確認する。
ほぼ同時に、別方向からもサイレンが重なった。
「一台じゃない」
シオンが顔を戻す。
「もう来てる」
悠斗の背中に冷たい汗が流れた。
店主を見る。
少し前、カウンターの下へ落ちた右手。
「……あれか」
店主は答えなかった。
視線だけを逸らす。
それで十分だった。
通報されていた。
「外に」
悠斗が短く言う。
「送ってる」
アキラがスマートフォンを見る。
ほとんど同時に返信が入った。
『何これ』
『急に鳴った』
『警察いる』
『俺も今気づいた』
『一回離れる』
外にいた蓮ですら、警察の存在に気づいたのはサイレンが鳴ってからだった。
「離れるって」
「それでいい」
シオンが即答した。
今ここへ灰色のスポーツセダンを寄せてもらえば、警察の前へそのまま出ることになる。
店の外では、応援に来た警察車両が複数の方向から通りへ入っていた。
警官たちは店へ駆け込んでこない。
距離を保ち、店内の状況を確認している。
「今出たら?」
悠斗が聞く。
「危ない」
シオンが答える。
「正面はもう見られてる」
「裏は?」
「分からない」
悠斗は口を閉じた。
シオンは入口の方へ視線を向けたまま、低く言う。
「無理に出るな」
悠斗がシオンを見る。
「ここで焦って撃ち合いになったら終わる」
「……うん」
「まだ話せる」
短い言葉だった。
けれど、その通りだと思った。
予定していた逃走は崩れた。
店の外には警察がいる。
それでも、今のところ店主も自分たちも怪我をしていない。
ここで慌てて状況を悪化させる必要はなかった。
悠斗は一度、深く息を吸った。
店の外から、拡声器を通した男の声が響く。
『店内にいる者へ。警察だ』
店主の肩がわずかに動いた。
『こちらは状況を確認したい。店員が中にいるなら、まず無事かどうか知らせてくれ』
悠斗は店主を見る。
最初から人質を取るために入ったわけではない。
金を取って、すぐに出るつもりだった。
だが今、警察に囲まれ始めた店内には、武装した三人と店主一人がいる。
店主が自由に外へ出られない以上、警察から見れば人質がいるのと変わらない。
「……もう立てこもり扱いだよな」
アキラが小声で言う。
店主が三人を見る。
「俺を人質にするつもりか?」
悠斗はすぐに答えられなかった。
「……傷つけるつもりはありません」
「それはさっき聞いた」
店主の声には、怒りより恐怖が強くなっていた。
「俺は帰れるのか?」
悠斗は言葉に詰まる。
今ここで店主を外へ出せば、その後に警察がどう動くのか分からない。
その時点で、自分たちの都合でこの男を店内へ留めている。
その事実が重かった。
「どうする?」
アキラが聞く。
悠斗は彼を見る。
「警察と話せる?」
「俺が?」
「うん」
「……やったことないぞ」
「俺もない」
「お前、こういうの見てたんじゃないの?」
「見てた」
「じゃあ分かるだろ」
「見るのとやるのは全然違う」
アキラが小さく息を吐く。
「それは、もう知ってる」
そう言いながら掌をズボンへ擦りつけている。
普段なら知らない相手とも平気で話す男が、今は緊張している。
「でも、人と話すのは俺より上手い」
悠斗が言った。
「嫌なら俺がやる」
アキラは数秒黙った。
外から再び声が響く。
『店内、応答してくれ』
「……やる」
アキラが答えた。
悠斗は頷く。
「店主さんが無事だって伝えて」
「そのあと?」
悠斗は少し考えた。
「まず向こうの話を聞こう」
「要求は?」
「まだいい」
「何で?」
「俺たちも外がどうなってるか分かってないから」
アキラは頷いた。
大きく息を吸い、ゆっくり吐く。
「店主は無事です!」
声が店内へ響いた。
「怪我もしてません!」
数秒の沈黙。
外から男の声が返る。
『分かった。話ができるなら、そのまま続けよう』
『まず確認したい。店内にいる一般人は一人だけか?』
アキラが悠斗を見る。
悠斗は頷いた。
「一人です!」
『武器を持っている人間は何人いる?』
アキラは答えなかった。
「それは答えません!」
少し間が空く。
『分かった。今はそれでいい』
続いて男が尋ねる。
『こちらが一番確認したいのは店主の安全だ。危害を加えるつもりはあるか?』
アキラは即答しなかった。
一度だけ悠斗を見る。
「こっちも店主を傷つけたいわけじゃない!」
声を張る。
「でも、そっちが急に入ってきたり、勝手に動いたらどうなるかは分かりません!」
外は静かなままだ。
アキラは続ける。
「この人を無事に帰したいなら、まず話してください!」
店主を傷つけたいわけではない。
それは本音だ。
それでも、無条件に安全を約束したわけではない。
しばらくして外の男が答えた。
『分かった。こちらも店主の安全を最優先にする』
一拍置く。
『今すぐ突入するつもりはない。だから、そちらも落ち着いてくれ』
アキラが悠斗を見る。
悠斗は小さく頷いた。
少なくとも、話は続けられる。
「次、どうする?」
アキラが声を落とした。
悠斗は店主を見る。
シオンは入口と外の動きへ注意を向けている。
少し離れた場所では、蓮が灰色のスポーツセダンでこちらからの連絡を待っている。
店主をどうするのか。
自分たちはどうやって店を出るのか。
警察へ何を求めるのか。
そろそろ決めなければならない。
悠斗は目出し帽の内側で乾いた唇を舐めた。
「……次は、こっちが出る条件を話そう」
アキラの目が少しだけ変わる。
「逃げるための?」
「うん」
強盗そのものは初めてではない。
警察から逃げたこともある。
逮捕されたこともある。
それでも、人質の安全と自分たちの逃走を同時に考えながら、警察と真正面から条件を交わすのは初めてだった。
外では警察が次の言葉を待っている。
本当の交渉は、ここからだった。
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