第2章 第53話 金の話が得意な人
翌日の夕方、悠斗はアキラに呼び出され、中央地区の外れにある小さなカフェへ向かっていた。
仕事の相談ではない。
送られてきたメッセージは、もっと地味な内容だった。
『アキラ:昨日の金どうにかしたい』
『アキラ:あと俺もう保管係やりたくない』
最後には、疲れ切った顔のスタンプまで添えられている。
店はオフィス街から一本外れた通りにあり、仕事帰りらしい客がぽつぽつと席を埋めていた。大きな窓の外では夕方の渋滞が始まり、赤いテールランプがゆっくりと列を作っている。
悠斗が店へ入ると、奥の席からナナが手を上げた。
「こっち」
向かいにはアキラ。
そしてテーブルの端には、見慣れた茶色の封筒が二つ置かれている。
「遅い」
「まだ時間ぴったりだけど」
「俺が十分前に来た」
「じゃあアキラが早いだけでしょ」
「そういう細かいこと言うようになったな」
「誰のせいだと思ってるの」
悠斗が座ると、ナナが笑いながら封筒を指した。
「こっちがプール金」
「二百ドル」
「で、こっちが?」
悠斗が尋ねる。
アキラは嫌そうにもう一つの封筒をつまんだ。
「二十ドル」
「未処理の?」
「その名前やめない?」
「アキラが書いたんじゃん」
「他に思いつかなかったんだよ」
アキラはポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
そこには、これまでの仕事で動いた金が雑に記録されていた。
誰が参加したか。
報酬はいくらだったか。
ナナへ渡した金。
プール金へ入れた額。
途中で書き直したらしい矢印と訂正線。
「これ見て」
アキラが紙を広げる。
「昨日帰ってから整理しようとしたんだけどさ」
「うん」
「俺、自分が何でこんなのやってんのか分かんなくなってきた」
「保管頼んだから」
「金を持ってるだけならまだいいんだよ」
アキラはメモの一行を指で叩いた。
「誰が何に使ったとか、誰にいくら払ったとか、立て替えどうしたとか。いつの間にか俺が全部覚えてる前提になってない?」
悠斗は返事に詰まった。
最初は本当に、封筒一つだった。
二百ドルを残す。
アキラが持つ。
使う前に相談する。
それだけだったはずなのに、数回仕事をしただけで記録することが増えている。
「スマホで管理すれば?」
ナナが言う。
「誰が?」
「……アキラ?」
「だから俺から離れろって」
悠斗も思わず笑った。
「俺がやろうか?」
二人の視線が同時に悠斗へ向く。
「悠斗が?」
「そんな意外?」
「前に自分で金の管理得意じゃないって言ってたじゃん」
「覚えてたんだ」
「そういうのは覚えてる」
「得意ではないけど、誰かがやらないと」
口にしてから、悠斗自身も自信がなくなった。
金の計算そのものはできる。
けれど、今でさえこの状態だ。
人数や仕事が増えたら、もっと複雑になる。
「その紙、ちょっと見せてもらっていいですか?」
不意に横から声がした。
三人が振り向く。
少し離れた二人掛けの席に、一人の女性が座っていた。
二十歳前後。
肩までの黒髪を後ろでまとめ、シンプルなシャツに薄手のカーディガンを羽織っている。
テーブルにはノートパソコンとコーヒー。
画面には数字の並んだ表が開かれていた。
女性は三人の視線を受け、少し気まずそうに会釈した。
「すみません。さっき店員さんに席を移ってもらった時から、どうしてもその紙が目に入って」
言われてみれば、悠斗たちの隣にいた客が帰ったあと、彼女が一つ近い席へ移っていた。
「聞き耳立ててたわけじゃないんですけど……それ、かなり直した跡がありますよね」
アキラがメモを見る。
「そこ?」
「職業柄、こういうの気になってしまって」
女性は苦笑した。
「余計なお世話なら、忘れてください」
アキラが悠斗とナナを見る。
「別にいいんじゃね?」
「私は聞いてみたい」
ナナ。
悠斗も頷いた。
「お願いします」
「じゃあ、少しだけ」
女性は席を立ち、悠斗たちのテーブルの端へ来た。
アキラが紙を差し出す。
彼女は数秒眺めただけで眉を寄せた。
「これ、収入と支出と共有のお金が全部同じところに書いてありますね」
「……はい」
「あと、ここ」
指されたのは二十ドルの部分だった。
「これ何ですか?」
「昨日の仕事で余った端数」
ナナが答える。
「プール金には入れないって決めたから、別で持ってます」
女性は少し考えた。
「余計なお世話なのは承知ですけど、それだと後で何のお金か分からなくなると思います」
アキラがすぐ頷く。
「俺もそんな気はしてた」
「気はしてたんだ」
「言葉にできなかっただけ」
「だったら、まず“何のためのお金か”だけ決めた方がいいですよ」
「何のため……」
「誰かの取り分なのか、共有のお金なのか、次に回すのか。決めないまま現金だけ分けるのが一番面倒です」
言われてみれば単純な話だった。
悠斗たちは、その単純なことを昨日から引きずっている。
「あと、これは絶対じゃないですけど」
女性はアキラのメモを指した。
「個人が一時的に払ったお金と、みんなで使うお金は分けた方がいいと思います」
「昨日まさにそれで揉めた」
アキラが言う。
「燃料代」
蓮が立て替えた六十ドルの話を簡単にすると、女性は「ああ」と納得したように頷いた。
「だったら、誰が払ったかだけ残しておけばいいですよ。返すかどうかはあとで決めても、記録さえ残ってれば話せますから」
「それだけ?」
悠斗が聞く。
「最初はそれくらいでいいと思います。人数も少ないんですよね?」
「……まあ」
悠斗は曖昧に答えた。
女性の視線が、封筒と三人の顔を一度だけ往復する。
若い三人。
現金。
誰かに渡した報酬。
立て替え。
普通のアルバイト仲間には見えないだろう。
それでも、彼女は仕事内容について聞かなかった。
「無理に詳しく説明しなくても大丈夫です」
そう言われ、悠斗は少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「いえ」
女性はメモを返す。
「私、白石玲奈です」
「神谷悠斗です」
「水城アキラ」
「雨宮ナナ」
名前を交換した。
「白石さん、こういうの得意なんですか?」
悠斗が尋ねる。
「得意というより、仕事で毎日見てるだけです」
「何の仕事?」
アキラが聞く。
「小さい会社で事務してます。経理、在庫、請求書、あと誰もやりたがらない雑用」
「強そう」
「何がですか」
「仕事できそう」
「それなら給料もっと上げてほしいですけど」
玲奈が真顔で返し、ナナが吹き出した。
◇
玲奈は、それ以上難しいことまでは教えなかった。
むしろ何度か、
「今の人数なら、最初から複雑にしない方がいいですよ」
と念を押した。
共有のお金がいくらあるのか。
誰が持っているのか。
仕事でいくら入ったのか。
そこから誰へいくら払ったのか。
個人で一時的に払ったなら、その記録だけ残す。
「これくらい?」
悠斗がスマートフォンの画面を見せる。
『プール金:200ドル』
『保管:アキラ』
『前回仕事』
『収入:1800ドル』
『ナナ:100ドル』
『悠斗:560ドル』
『蓮:560ドル』
『アキラ:560ドル』
『端数:20ドル』
玲奈は画面を見て頷く。
「少なくとも、さっきの紙より分かります」
「比較対象がひどい」
アキラがぼやいた。
「じゃあ、この二十どうする?」
ナナが尋ねた。
玲奈はすぐには答えなかった。
「それは私が決めることじゃないですよ」
三人とも黙る。
玲奈は少し笑った。
「皆さんのお金なんですよね?」
「……そうだね」
悠斗はアキラとナナを見る。
「昨日は、曖昧なままプール金に入れないって決めた」
「うん」
「今なら?」
アキラが考える。
「共同の金にするって全員で決めるなら、別にいいんじゃね?」
ナナも頷いた。
「私もそれでいい」
「じゃあ、入れようか」
二十ドルをプール金の封筒へ移す。
悠斗は数字を書き換えた。
『プール金:220ドル』
『保管:アキラ』
「終わった」
アキラが椅子へ深く座った。
「昨日あんなに悩んだの何だったんだ」
「決めてなかったからじゃないですか?」
玲奈が言う。
「正論が痛い」
「別に責めてないです」
「その顔で言われると余計痛いんだけど」
ナナがまた笑った。
金の問題が全部解決したわけではない。
誰が今後記録を続けるのか。
いつまでアキラが現金を持つのか。
金額が増えた時にどうするのか。
何も決まっていない。
それでも昨日よりは、少しだけ整理された。
◇
玲奈はノートパソコンを鞄へしまい、先に立ち上がった。
「じゃあ、私はそろそろ戻ります」
「仕事中だったんですか?」
「持ち帰った資料を整理してただけです。家だと集中できないので、ここよく使うんですよ」
「よく来るんですか?」
ナナが聞く。
「週に何回かは。会社もこの近くなので」
そう答え、玲奈はカップを返却口へ持っていった。
悠斗も立つ。
「今日はありがとうございました」
「いえ。余計なこと言ってたらすみません」
「助かりました」
「それならよかったです」
玲奈は三人へ軽く会釈し、そのまま店を出ていった。
窓越しに、駅の方へ歩いていく姿が見える。
「すごかったね」
ナナが言った。
「普通のこと言ってただけじゃない?」
アキラ。
「その普通で昨日二十分くらい悩んでた人が言う?」
「二十分以上だよ」
「余計駄目じゃん」
悠斗は二人の会話を聞きながら、スマートフォンのメモをもう一度見た。
二百二十ドル。
まだ小さな金額だ。
それなのに、自分たちだけでは随分面倒なことになっていた。
蓮には蓮の得意なことがある。
アキラやナナにも、自分にはできないことがある。
タクミやシオン、大河だって同じだ。
人によって、見えるものが違う。
玲奈は今日、悠斗たちが三人で悩んでいた紙を見ただけで、問題の形をすぐに見つけた。
それが少し印象に残った。
「連絡先聞けばよかったかな」
悠斗が呟く。
アキラがこちらを見る。
「何で?」
「また分からないことあったら聞けるかなって」
「初対面の人を無料会計相談に使おうとすんなよ」
「そういうつもりじゃないよ」
ナナが窓の外を見る。
「でも、この店よく来るって言ってたじゃん」
「あ」
「会社もこの辺なんでしょ?」
「そうだった」
アキラが笑った。
「まあ、また会ったらその時聞けばいいだろ」
悠斗は頷いた。
今日会ったばかりだ。
玲奈は自分たちの仲間ではない。
何をしているのか詳しく知っているわけでもない。
こちらが勝手に先の関係まで決めるのは違う。
それでも、この街へ来たばかりの頃なら、偶然会った人間へもう一度会いたいと思うこと自体、ほとんどなかった。
悠斗は窓の外へ目を向ける。
人の流れの中に、玲奈の姿はもう見えない。
けれど今度この店へ来る時は、少しだけ周りの席を気にしてしまいそうだった。
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