第2章 第52話 誰の金で走るのか
翌日の昼過ぎ、悠斗は安宿の一階にある自動販売機の前で、どの飲み物を買うか少し迷っていた。
数ドル程度、以前なら気にしなかった。
けれど今は、タクシーの給料がもう入ってこない。
財布の中身が急になくなるわけではない。それでも、減っていくだけだと思うと、こういう小さな出費まで少し気になる。
結局、一番安い水を選んだところでスマートフォンが震えた。
『蓮:昨日の続き』
『蓮:仕事っぽいの見つけた』
続けて、古い白いバンの写真が送られてくる。
『悠斗:何するの?』
『蓮:電話できる?』
その文字を見た瞬間、悠斗の指がわずかに止まった。
文字なら気楽だ。
電話は今でも少し構える。
それでも、以前のように何分も画面を睨むことはなかった。
悠斗はそのまま通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お、早いじゃん』
「何?」
『昨日のレースにいた奴から聞いた』
「ハルトさん?」
『違う。赤いロードスター乗ってた奴』
昨日、一位だった男らしい。
蓮によれば、その男の知り合いが南部で中古部品の取引をしていて、今夜だけ荷物を別の倉庫へ移したいという。
運ぶのは車の部品。
車両は依頼人側が用意する。
必要なのは運転役が二人。
報酬は千八百ドル。
「合法?」
『そこ聞いた』
「で?」
『濁された』
「じゃあ駄目じゃん」
『即答すんなよ』
「だって昨日、自分たちに分かることからって言ってたでしょ」
『だから車だって』
「車なら何でもいいわけじゃないよ」
一瞬、通話の向こうが静かになる。
『……まあ、それはそう』
「アキラとナナにも聞こう」
『はいはい』
通話を切ったあと、悠斗は小さく息を吐いた。
自分から電話をかけたわけではない。
それでも、終わったあとに手のひらが汗ばんでいないことへ気づく。
そんな小さな変化が、少しだけ嬉しかった。
◇
夕方、《仮》には蓮が聞いた内容がそのまま共有された。
最初に反応したのはアキラだった。
『アキラ:依頼人と直接話せる?』
『蓮:いける』
『ナナ:店名か会社名ある?』
『蓮:中古部品屋って聞いてる』
『ナナ:公開情報だけ見てみる』
少し遅れてシオンから、
『シオン:運ぶだけなら行かない』
と届いた。
悠斗は画面を見て少し笑った。
最近のシオンは、本当に必要な仕事にしか来ない。
それでいいと思う。
今夜は悠斗、蓮、アキラの三人で、まず依頼人に会うことになった。
◇
指定されたのは、南部にある古い自動車部品店だった。
日が落ちたあとの通りは人が少なく、シャッターを下ろした店が並んでいる。目的の店だけが裏口の照明を点け、その白い光がコンクリートの地面へ四角く落ちていた。
依頼人は三十代くらいの男だった。
油染みのついた作業着を着ており、倉庫の前には白いバンと木箱が数個置かれている。
「蓮から聞いてる」
男は三人を見回した。
「二人でいいって話だったけど?」
アキラが答える。
「まず条件聞きたかったんで。報酬は千八百のままで構いません」
「なら好きにしろ」
男は肩をすくめた。
「実際に運転するのは二人でいい。もう一人乗せるなら勝手にしてくれ」
これで人数については問題なかった。
「で、何を運ぶんです?」
アキラが聞く。
「車の部品だ」
「見せてもらえます?」
男は一瞬だけ眉を上げたものの、木箱の一つを開けた。
中には金属部品、配線、工具類が詰められている。
少なくとも見える範囲に、銃や薬物のようなものはない。
「店の物?」
「そうだ」
「移動先は?」
「北側の倉庫」
「受け取るのは?」
「俺の知り合い」
アキラがさらに聞く。
「何で今夜なんです?」
「最近、この辺で荷物を狙われることがある。閉店後にまとめて移したい」
「警察じゃなく?」
「違う」
「途中で何かあったら?」
「逃げていい。荷物捨てても構わない」
「報酬は成功時だけ?」
「そうだ」
少しずつ条件が見えてくる。
悠斗は以前より落ち着いて会話を聞けていた。
すべてを確認できるわけではない。
男が嘘をついている可能性だって残る。
それでも、何も聞かずに動いていた頃とは違った。
その時、蓮のスマートフォンが鳴った。
「ナナから」
公開情報上、この店は実在している。
店主として出ている名前も、目の前の男と一致。
ただし、木箱の所有権や移動理由までは分からない。
「どうする?」
蓮が尋ねる。
悠斗はすぐ答えず、アキラを見る。
「アキラは?」
「最初よりはだいぶマシ。荷物も見せたし、店も実在してる。ただし途中で話が変わったら止めたい」
「俺も」
蓮が言う。
悠斗は少し考えた。
「じゃあ、危ないと思ったら中止。それでいい?」
二人とも頷いた。
悠斗は依頼人へ向き直る。
「それなら受けます」
◇
荷物を積み終えた頃には、夜九時を回っていた。
蓮が白いバン。
アキラが依頼人側の古い黒いセダンを運転し、悠斗はその助手席へ乗る。
自分の銀色のセダンも、蓮の青いクーペも使わない。
出発準備をしている最中、蓮がバンの運転席から顔を出した。
「こっち燃料少ねえ」
依頼人が一度メーターを見て、面倒そうに言った。
「近くで少し入れといてくれ。あとで精算する」
「分かった」
蓮はそう答えた。
問題は、そのあとだった。
近くのスタンドで燃料を入れ、戻ってきた蓮が何気なく言う。
「六十くらい入れた」
「支払いどうした?」
アキラが聞く。
「俺」
「証拠ある?」
「現金で払った」
「レシートは?」
蓮の動きが止まる。
「……捨てた」
アキラが額へ手を当てた。
「何でだよ」
「後で精算するって言ってたから、金額言えばいいと思ったんだよ」
「そういう問題じゃないだろ」
蓮も少し顔をしかめる。
「必要だったんだからいいだろ」
そこで依頼人が口を挟んだ。
「領収書か、支払った証拠があるなら出すぞ」
蓮が黙る。
「ない」
「なら悪いが無理だ」
「マジかよ」
「俺も経費で落とすんだ。証拠なしじゃ困る」
その言い方なら筋は通っていた。
蓮が雑だったのは事実だが、完全に馬鹿なことをしたわけでもない。
出発前。
燃料不足。
依頼人から「入れておいて」と言われた。
だから先に払った。
ただ、それをどう扱うかまで誰も決めていなかった。
「……これ、どうする?」
蓮が悠斗を見る。
悠斗は少し困った。
「今回は蓮の負担?」
「マジ?」
「でも、プール金から出すって決めてないし」
「仕事のための金だぞ」
「それは分かる」
悠斗は言葉を探した。
「だから次から、仕事で立て替える時は先に言う。急ぎなら、せめてレシートか記録を残す」
「今回は?」
「……今回は、蓮のままでいい?」
蓮はまだ少し不満そうだったが、依頼人の方も確認できないと言っている。
「まあ……次からちゃんとするならいい」
「ごめん」
「悠斗が謝ることでもないけどな」
アキラが言う。
たった六十ドル。
それでも悠斗は、こういう細かい金の方が後で揉める原因になるのかもしれないと思った。
◇
移動そのものは静かだった。
白いバンを先頭に、黒いセダンが少し距離を空けて走る。
南部の古い通りを抜け、中央地区を避けるように北へ向かう。
途中、一台の車がしばらく後ろについてきた。
『蓮:後ろのやつ、さっきから同じ道来てる』
通話越しの声が少し低くなる。
アキラがミラーを見る。
「どうする?」
悠斗も振り返りたい衝動を抑えた。
「まだ何もされてない」
「少し様子見る?」
「うん」
数分。
後ろの車は同じ距離を保ったまま走ってくる。
以前の悠斗なら、それだけで悪い方向へ考えていたかもしれない。
けれど、今は決めつけなかった。
やがて交差点へ差しかかる。
後ろの車はそのまま右折し、別の道へ消えていった。
三人とも同時に息を吐く。
『蓮:ただの車じゃねえか』
「そういうのが一番怖いんだよ」
アキラが返す。
「勝手に敵だと思って変なことする方が危ない」
『それはそう』
その後は何も起きなかった。
指定された倉庫へ到着し、受取人が木箱の中身を確認する。
報酬の千八百ドルも、その場で問題なく支払われた。
◇
三人は少し離れた明るいガソリンスタンドへ移動した。
ナナと通話を繋ぐ。
「ナナの分どうする?」
アキラが聞いた。
『今回は百でいいよ』
ナナはすぐ答えた。
「いいの?」
悠斗が聞く。
『店名と公開情報確認しただけだから。現場にも出てないし、今回はそれ以上取るほどやってない』
「じゃあ百で」
『うん』
残りは千七百ドル。
そこで蓮が言う。
「プール金、いくら入れる?」
悠斗は少し考えた。
「その前に、今日みたいな立て替えの扱い決めない?」
アキラも頷く。
「経費とプール金と個人の金が、まだ全部曖昧だな」
「面倒くさ」
蓮が言う。
「でも今日もう揉めたでしょ」
「六十ドルだけどな」
「金額の問題じゃないと思う」
悠斗はそう言ってから、少し迷う。
「今日はプール金、増やさなくてもいい?」
「何で?」
「決め方が曖昧なまま増やしても、次また何か出た時に困りそうだから」
アキラが考え、
「俺は賛成」
と答えた。
ナナも通話の向こうで、
『私もそれでいいと思う』
と同意する。
蓮も最後には頷いた。
「じゃあ今回は分けるだけか」
「うん」
千七百ドルを三人で均等に分けると、一人五百六十ドルで二十ドル余る。
「じゃあ三人とも五百六十。残り二十は……」
アキラが紙幣をつまんだまま止まった。
「どうする?」
蓮が聞く。
「プール金に入れる?」
悠斗は一瞬考えたが、首を振った。
「今日は増やさないって決めたし」
「じゃあ誰の?」
「……誰のでもない」
「それが一番困るだろ」
三人とも黙る。
ナナが通話の向こうで笑いを堪えている気配がした。
『端数用に別で残す?』
「それってプール金と何が違うの?」
蓮が聞く。
『……確かに』
「もう駄目じゃん俺ら」
アキラが吹き出した。
悠斗もつられて笑った。
「じゃあ今回は、未処理でアキラに持っててもらう?」
「また俺?」
「ごめん」
「いや、いいけどさ」
アキラは財布とは別の小さな封筒へ二十ドルを入れた。
「これ、マジで誰か金得意な奴いないの?」
冗談めいた口調だった。
けれど、誰もすぐには答えなかった。
悠斗はスマートフォンでメモを開く。
『プール金:200ドル』
『保管:アキラ』
『未処理:20ドル』
金は増えていない。
なのに、項目だけが増えている。
悠斗はその画面を見つめた。
今はまだ数人。
扱っている金額も小さい。
それなのに、もう少しずつ面倒になってきている。
もしこの先、本当に人数が増えていったら。
仕事も、車も、金も、もっと大きくなったら。
自分たちだけで回せるのだろうか。
今の悠斗には、まだその答えがなかった。
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