第2章 第51話 仕事じゃない夜
翌日の夕方、《仮》に蓮から短いメッセージが届いた。
『蓮:今日東で走る』
『蓮:暇なら来い』
悠斗は安宿のベッドに腰掛けたまま、画面を眺めた。
仕事の話ではない。
犯罪の相談でもない。
蓮がレースへ出るから、暇なら見に来い。それだけだった。
『アキラ:何時?』
『ナナ:場所は?』
二人がすぐに反応する。
少し遅れて、
『シオン:行かない』
とだけ届いた。
悠斗は小さく笑った。
全員が何にでも付き合う必要はない。
『悠斗:行く』
そう返し、上着を取った。
◇
東部へ着いた頃には、太陽はほとんど地平線の向こうへ沈んでいた。
乾いた土地を貫く道路の脇に、十数台の車が集まっている。古いクーペや派手なスポーツカーのボディへ簡易照明が反射し、ときおり吹く風が細かな砂を路面へ滑らせていく。
どこかでエンジンを煽る音が響いた。
焼けたゴムと排気の匂いが混ざっている。
車の脇では若者たちが笑いながら話し、少し離れた場所では簡素な屋台が肉を焼いていた。
悠斗が初めて違法レースを見た頃と、景色そのものは大きく変わっていない。
けれど、その中へ立っている自分は、もうあの頃と同じではなかった。
「遅いぞ」
青いクーペの横から蓮が手を上げる。
「まだ三十分くらいあるじゃん」
「応援する奴は早めに来るもんだろ」
「そんな決まりある?」
近づいたところで、車の反対側から大柄な男が顔を出した。
「お、悠斗」
「大河さん?」
「蓮に呼ばれた」
相馬大河だった。
悠斗は少し意外に思って蓮を見る。
「二人で連絡取ってたんだ」
「取るだろ。別に悠斗経由じゃなくても」
「……それはそうだけど」
言われてみれば当然だった。
大河は悠斗だけの知り合いではない。
蓮とも以前から多少の繋がりがあり、今ではこうして直接声をかける程度には仲良くなっているらしい。
「なんか不思議そうな顔してるぞ」
大河が笑った。
「してないです」
「してる」
そこへアキラとナナもやってきた。
「何、大河もいるの?」
「蓮に呼ばれた」
「へえ。人集めるの上手くなったじゃん」
アキラが蓮を見る。
蓮は得意そうに胸を張った。
「俺にも人脈くらいあるわ」
「車関係だけじゃなく?」
「喧嘩売ってんの?」
悠斗はそのやり取りを聞きながら、自然と口元が緩むのを感じた。
自分が声をかけなくても、人が集まっている。
それが少し嬉しかった。
◇
「悠斗、今日は走らねえの?」
声をかけてきたのは一ノ瀬ハルトだった。
薄手のジャケットを羽織り、片手には飲み物の缶を持っている。
「ハルトさん。久しぶりです」
「最近あんまり見なかったな。警察沙汰のあと、大人しくしてた?」
悠斗の表情がわずかに固まる。
ハルトはすぐに笑った。
「この辺、そういう噂回るの早いんだよ」
「……別に大人しくしてたわけじゃないですけど」
「それはそれで心配だな」
ハルトは楽しそうに笑う。
「で、今日は?」
「蓮を見るだけです」
「走ればいいのに」
「今、あんまり無駄遣いできないので」
今回のレースは参加するだけでも金がかかる。
タクシーの仕事を失ったばかりの悠斗には、遊びで出すには少し惜しい額だった。
「堅実だなあ」
ハルトが笑う。
「犯罪やってる奴の台詞じゃないけど」
「自分でも思います」
「まあ、金ない時に車壊すよりマシだ」
「縁起悪いこと言わないでくれます?」
後ろから蓮が抗議した。
◇
今夜のレースは五台だった。
蓮の青いクーペ。
赤いロードスター。
黒いセダン。
白いスポーツカー。
年季の入った黄色いハッチバック。
悠斗たちはスタート地点から少し離れた場所へ移動した。
「蓮って勝てそう?」
ナナが尋ねる。
「分かんない」
悠斗は正直に答えた。
蓮は上手い。
少なくとも自分より、ずっと上手い。
けれど、この街にはもっと速い人間がいくらでもいる。
五台が横一列に並ぶ。
エンジン音が重なり、空気そのものが震えた。
合図が出た瞬間、タイヤが路面を削る甲高い音が響き、先頭の二台がわずかに横へ振れながら加速する。
砂埃が巻き上がる。
蓮の青いクーペは三番手で飛び出し、すぐに黒いセダンの横へ並んだ。
数秒後には、五台とも暗い道路の先へ消えていく。
「頑張れー!」
大河が両手を口へ当てて叫んだ。
「もう聞こえないでしょ」
「気持ちだよ、気持ち!」
ナナが笑う。
悠斗も道路の先を見つめた。
以前なら、勝ってほしいという気持ちだけだったと思う。
今は、それより先に事故をしないでほしいと思う。
しばらくして、遠くに二つのヘッドライトが見えた。
「来た」
アキラが目を細める。
最初の一台が風を切るように通過する。
赤いロードスター。
数秒遅れて、青いクーペが滑り込んできた。
ブレーキとともにタイヤの匂いが強くなり、熱を持ったエンジンが低く唸っている。
蓮は二着だった。
◇
「惜しかったな」
車から降りてきた蓮へ大河が声をかける。
「最後の直線までは勝ってた」
「結果二位じゃん」
アキラが言う。
「分かってるよ」
蓮は悔しそうではあるが、機嫌を悪くしているわけではなかった。
車の前へ回り、しゃがみ込んで傷がないか確かめてから立ち上がる。
「まあ、壊してないだけいいか」
「ハルトさんと同じこと言ってる」
悠斗が言う。
「何?」
「何でもない」
賞金は一位だけだった。
蓮が払った参加費はそのまま消えたことになる。
アキラが蓮を見る。
「その参加費、まさか封筒から出してないよな?」
「出すわけねえだろ。俺の金だよ」
「ならいい」
「信用ねえなあ」
「保管してる側として一応な」
「管理人みたいになってんぞ」
「俺も好きで持ってるわけじゃねえよ」
アキラはそう返してポケットを叩いた。
「最近メモ増えてきて面倒なんだから」
「じゃあ誰か代われば?」
「そのうちな」
軽いやり取りだったが、悠斗は少しだけ引っかかった。
今は二百ドルしかない。
それでも、この先金額が増えたら、保管するだけでは済まなくなるのかもしれない。
今すぐ考えることではない。
けれど、どこかで決める必要はありそうだった。
◇
レースが一段落したあと、悠斗たちは近くの屋台へ移動した。
シオンはいない。
代わりに大河がいて、ハルトも途中まで一緒だった。
紙皿に盛られた肉と野菜を食べながら、大河が蓮を見る。
「しかし、急にどうしたんだ? 今日」
「何が?」
「悠斗たち呼んで」
「ああ」
蓮は少し考えてから、紙コップの飲み物を口にする。
「最近、集まると仕事とか金の話ばっかだったから」
悠斗は蓮を見る。
「だから?」
「別に用事なくても集まっていいだろ」
あまりにも簡単に言われた。
「……うん」
「何その間」
「いや」
悠斗は少しだけ俯いた。
前世の自分が欲しがっていたのは、きっとこういう時間だった。
誰かが「来る?」と聞き、誰かが「行く」と返す。
それだけで夜の予定ができる。
「次は悠斗も走れよ」
蓮が言う。
「金に余裕できたら」
「そこ現実的だなあ」
「タクシー辞めたばっかだから」
「じゃあ稼がないとな」
アキラが笑う。
「焦って変なのやるのは禁止だけど」
「昨日覚えたばっかだからね」
ナナも続ける。
「分かってるよ」
悠斗はそう返しながら笑った。
今夜、プール金は増えていない。
仕事もしていない。
それでも、何もなかった夜ではなかった。
帰り際、蓮と大河が次にどこで飯を食うか勝手に相談し始め、アキラとナナもそこへ混ざっていく。
悠斗は少し後ろを歩きながら、その声を聞いていた。
自分が呼ばなくても集まり、自分が話さなくても会話が続いている。
それでも、自分の居場所はちゃんとその中にあった。
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