第2章 第50話 やらないと決める
午後九時を少し回ったレイヴンシティ南部は、昼間よりも街の輪郭がくっきりして見えた。
古い商店の看板は半分ほどが消え、営業を続けている店だけが強い光を歩道へ落としている。交差点を通り過ぎる車のヘッドライトが建物の壁を白く撫で、遠くでは救急車らしいサイレンが短く鳴っていた。
悠斗は歩道の端に立ち、道路の向こう側にある小さな商業施設を眺めた。
ランドリー、酒屋、テイクアウト専門の店。その壁際に一台のATMが設置されている。
スマートフォンには、ナナから届いたメッセージが表示されていた。
『公開情報で確認できた候補は三か所』
『設置場所と営業時間までは分かる』
『警備とか中身とか、そういうのは分からないからね』
最後には念押しするようなスタンプまで付いている。
悠斗は画面を閉じた。
「ここ、無理じゃね?」
隣で蓮が小声を漏らした。
普段より声量を落としているが、その視線は周囲を忙しく動いている。
理由はすぐに分かった。
ランドリーの自動ドアが開き、小さな子供を連れた母親が大きな洗濯袋を抱えて出てくる。そのすぐ後ろから若い男が紙袋を持って酒屋を出た。
ATMには作業着姿の男が立っている。
誰もこちらを気にしていない。
それでも、人は途切れなかった。
「俺もそう思う」
悠斗が答えると、少し離れた場所にいたシオンも短く言った。
「人が多い」
アキラは道路の向こうを見ながら肩をすくめる。
「却下でいいだろ。見れば分かる」
誰も反対しなかった。
悠斗たちはそのまま歩き出した。
配信で犯罪を見る時、画面の中に映るのは犯人と警察、逃走車、たまに人質くらいだった。
実際にその場所へ立つと違う。
洗濯を終えて帰る親子がいる。
仕事帰りに金を下ろす人がいる。
店を閉める準備をしている従業員がいる。
以前から何度も、配信と現実は違うと思い知らされてきた。それでも新しいことを考えるたび、画面越しでは気づかなかったものが少しずつ増えていく。
二か所目は幹線道路沿いだった。
ATMの周囲には人こそ少なかったが、ガソリンスタンドと二十四時間営業の店が並んでいる。絶えず車が出入りし、道路も明るい。
蓮は数秒眺めただけで顔をしかめた。
「ここも嫌だな」
「うん」
「今日は判断早いな、悠斗」
アキラに言われ、悠斗は苦笑した。
「俺だけじゃないでしょ」
「まあ、それもそうか」
誰か一人が決めているわけではない。
それでも、こうして意見がまとまった時、最後に悠斗を見る癖が皆についていることには気づいていた。
理由までは、まだよく分からなかった。
三か所目へ着いた頃には、時計の針は十時を越えていた。
そこは閉店した小さな店舗が並ぶ一角で、他の二か所より静かだった。
歩道を歩く人も少ない。
蓮が少し身を乗り出す。
「ここなら、まだ――」
「待って」
悠斗が止めた。
道路の反対側に、黒い車が一台停まっている。
ただ駐車しているだけかもしれない。
近くの建物にも明かりは残っている。
悠斗には、それ以上のことは分からなかった。
分からないからこそ、勝手に都合よく解釈したくなかった。
「一回、タクミに見てもらえないかな」
「呼ぶ?」
アキラが訊く。
悠斗は少し迷ってからスマートフォンを取り出した。
タクミは《仮》には入っていない。
仕事のたび当然のように呼ぶ相手でもない。
それでも今回、確認したいことがあった。
『今ちょっと時間ある?』
送信ボタンを押すまで、ほんの数秒。
以前なら、その数秒がもっと長かった。
返事は五分ほどで来た。
『場所送って』
◇
二十分ほど後、タクミは一人で現れた。
黒い上着のポケットへ片手を突っ込み、ATMと周辺の建物を順番に見る。
「で?」
「これ、俺たちでもどうにかできそうか、見た感じだけで分かる?」
悠斗が訊くと、タクミは眉を寄せた。
「分からん」
「分からない?」
「外から見ただけで分かったら逆に怖いだろ」
蓮が吹き出す。
「それはそう」
タクミはATMを遠目に見たまま続けた。
「俺が分かるのは電装とか通信機器とか、触って調べられる範囲だ。あれの中がどうなってるかなんて知らんし、無理に知ったふりする気もない」
「じゃあ、できるかどうかも?」
「判断できない」
きっぱりした答えだった。
悠斗はATMを見た。
タクミを呼べば何か方法が出てくるかもしれない、とどこかで期待していた。
だが、それ自体が少し違ったのだと思う。
詳しい人間へ聞けば何でも答えが出るわけではない。
「……そっか」
「悪いな」
「いや、むしろ助かった」
タクミが怪訝そうな顔をする。
「何が?」
「分からないって分かったから」
アキラが横から笑った。
「悠斗、それ便利な言葉にしようとしてない?」
「してないよ」
「ちょっとしてる顔だぞ」
蓮も笑ったが、シオンだけはATMを見たままだった。
「分からないならやらない方がいい」
その一言で、笑い声が少しだけ静かになった。
シオンは戦うことに慣れている。
だからこそ危険を軽く扱わない。
悠斗はそれを何度も見てきた。
「俺もそう思う」
悠斗が言う。
蓮が振り返った。
「え、もうやめる?」
「今は」
「二日見て回って終わり?」
蓮の声には不満が混じった。
アキラがすぐに言い返す。
「終わりっていうか、まだ始めてないだろ」
「でも金ゼロじゃん」
その言葉に、悠斗は少しだけ視線を落とした。
理由は分かっていた。
共有で使える車が欲しいという話をした。
プール金は、まだ二百ドルしかない。
あの金だけでは、まともな車には届かない。
蓮が車のことを考えているのも知っている。
「車、欲しいもんな」
悠斗が言うと、蓮は口を閉じた。
「……まあ」
「俺も欲しい」
「じゃあ」
「でも」
悠斗はそこで言葉に詰まった。
うまく説明できる言葉がすぐに出てこない。
少し考えてから、ゆっくり続ける。
「……始めるのを俺たちで決めるなら、やめるのも俺たちで決めていいと思う」
蓮が黙って聞いている。
「できそうならやる。分からないことが多いなら、今はやらない。それで……別のこと考える」
「最初に思いついたやつに絶対こだわる必要はない、ってこと?」
アキラが補足した。
悠斗は頷く。
「うん。多分、そういうこと」
「多分かよ」
「まだ分かんないから」
自分でも苦笑してしまう。
すると蓮も小さく息を吐いた。
「まあ、ATMでいきなり捕まって車どころじゃなくなるのも嫌だしな」
「それは本当に嫌」
アキラが笑う。
シオンも短く、
「別でいい」
とだけ言った。
タクミはそのやり取りを眺めていたが、やがてポケットからスマートフォンを出した。
「じゃあ俺、帰るぞ」
「あ、うん。ありがとう」
「必要になったら、また相談していい?」
悠斗が訊くと、タクミは少し考えてから頷いた。
「俺に分かることならな」
「分かった」
「分からない時は?」
「分からないって言う」
「それでいい」
それだけ言って、タクミは来た道を戻っていった。
やはり彼は固定の仲間ではない。
必要な時だけ関わる。
今は、その距離でいい。
◇
ホテルへ戻った悠斗はベッドの端に座り、《仮》のメモを開いた。
『プール金:200ドル』
『保管:アキラ』
『使用時は事前に相談』
金額は変わっていない。
今日一日動いたのに、増えた金は一ドルもなかった。
それでも、不思議と完全な無駄だったとは思わない。
自分たちで候補を出した。
自分たちで見に行った。
分からないことを詳しい人間へ聞いた。
それでも分からなかったから、やらないと決めた。
以前なら、仕事を持ってきた誰かの言葉に乗るか、断るかだった。
今は違う。
何をするかを選ぶところから、自分たちで考え始めている。
その時、グループチャットが鳴った。
『蓮:さっきの話なんだけど』
続けて、もう一件。
『蓮:ATMじゃなくてさ』
数秒後。
『蓮:俺たちが今できることから考えた方がよくね?』
悠斗は画面を見つめた。
すぐにアキラから返信が入る。
『アキラ:珍しくまとも』
『蓮:珍しくは余計』
そのやり取りを見て、悠斗は小さく笑った。
プール金はまだ二百ドル。
共有の車もない。
名前も、拠点も、正式なルールもない。
それでも今日、自分たちは一つだけ覚えた。
やると決めることだけが前進ではない。
やらないと決めることも、たぶん同じくらい大事なのだ。
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